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映画『いのちの山河〜日本の青空II』

 映画『いのちの山河〜日本の青空II』を観た。

 たぶん観る人も少ないんじゃないかなあ、にぎやかしに行こうかな〜という軽い気持ちで会場へ行ったら、その途中の道から渋滞で、会場は超満員の立ち見。若い人は少なかったけれど観に来てよかったと思った。

 映画は敗戦後の日本の寒村で新憲法25条の生存権を実現すべく「いのちに格差はない」を信条に奮闘した一村長の生涯を描く。ドキュメンタリー風の映画で実話を元にしている。

 秋田との県境に位置する岩手の山の中の沢内村(現在西和賀町)。村長の名は深澤晟雄(まさお)。医者にかかることもできずに死亡する乳幼児や、家族に負担をかけることを憂いた老人の自殺など、さまざまな問題をかかえていた、豪雪によって孤立する山間部の貧しい村が、65歳以上の老人の医療費の無料化を実現させ、さらに乳児死亡率0を実現する。しかしその3年後に村長は病気で亡くなってしまう。たいへんな努力だったと思う。まさに「行脚と対話」によって新憲法による民主主義を実現させ、孤立と貧困とにあえいでいた村を経済的交流と精神的自立へとみちびき、村人の生命を守ることを何よりも村の最重要課題とした。そういう村をつくることに命をかけた人の半生を描いて感動的だった。日本にかつてそのような村があったことを広く世に伝える貴重な映画。

 「終末期」医療費を抑制するために後期高齢者医療制度をつくった役人や「『女性が生殖能力を失っても生きているっていうのは無駄な罪です』って」とか言ったという都の「地頭」など現代日本はどこで方向をまちがえたのか。

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mojabieda * 映画 * 22:45 * comments(0) * trackbacks(0)

映画『宇宙戦艦ヤマト』とプラモデル

 以前夜中に放送していた『宇宙戦艦ヤマト』の再放送の録画を子どもたちに観せて以来、子どもたちは『宇宙戦艦ヤマト』に魅せられてしまったらしい。

 地元の映画館で『宇宙戦艦ヤマト 復活編』が上映されるという情報を子どもたちがどこかから得てしまったので観せに行かないわけにはゆかなくなった。

 わたしの子どものころ、東映の映画館が家の近くにあったため、(子守りとして)小さなころから戦争映画ばかり観せられつづけてきた。まあ、いいかと思って初日の12日に観に行く。

 その日、子どもたちは朝から宇宙戦艦ヤマトの歌を唄ってわくわくしていた。子どもたちは映画館にはじめて入る。宇宙戦艦ヤマトでも、かつてのイスカンダルをめざした松本零士の宇宙戦艦ヤマトではない。

 じっさいに映画を観てまずびっくりしたことがいくつか。

 一つは映画の冒頭のロゴ、一つは映画の最後のロゴ。

 冒頭のは「原案  石原◯太郎」とあった。うわさには聞いていたが、ほんとうだったのか。観なきゃよかったと思った。

 最後のは「・・・復活編  第1部」とあった。第2部があるのか!?小僧らがまた観に行きたがるぢゃないか、と思った。

 さらにいろいろ思ったこと。星間国家連合をたばね、力で抑えている敵の専制国家(星)をSUSと称しているけれど、なんとなく現在の「国際社会」をたばねているUSAを連想させる。敵の連合のなかで、その星だけがなぜかSUSとアルファベットになっている。

 さらにヤマトに積むミサイルのようなものの腹に「乾坤一擲(けんこんいってき)」などと記してある。なんだかなあと思った。

 内容は、ちょっとストーリーのつくりが雑なように感じたが・・・。敵はデスラーのような(同じニンゲンという古いタイプの)敵ではなかった。妖怪みたいなキッカイな敵。

 そのあと、あろうことか、わたしはプラモデルの宇宙戦艦ヤマトを買ってしまった。後日、接着剤などを購入して家で数時間かけて造った。プラモデルを作るのは小学校以来だった。子どもたちはその後、完全に「ヤマト症候群」に襲われて、(テレビで宣伝している)エンディングの曲を口ずさんだりしている。以前テレビで放映したのを録画した映画『男たちの大和』(DVDにしてある)をなんどもなんども観ている。戦争映画ばかり観せていいのだろうかと思う。

 といいながら、子どものころによく行ったプラモデル屋まで子どもたちと行って、戦艦大和のプラモデルまで買ってしまった。小学生のころ戦車のプラモデルばかり造っていたわたしは、思わずいっしょに1/48スケールのドイツ戦車のタイガー鵯初期生産型を買ってしまった。プラモデル屋に行くと、うちの保育園の小僧が、(外国の戦闘機なのに)「あっ、ゼロ戦がある!」とか、別の軍艦なのに「大和だ!」とか、「(日露戦争のときの旗艦だった)三笠はないの?」とか言う。「三笠」のプラモデルなどあろうはずがない(とはいえ、さいきんの司馬遼太郎原作のNHK番組の影響でまた有名になるかも)。こいつら数十年前のわたしのころの子どもみたいだ、と思った。いまはこういうプラモデルははやらないだろうな、と思った。

 それにしても、子どものころにあった戦車や戦艦のプラモデルなどいつでもどこでもあるものだと思っていた。しかし世の中はすっかり変わってしまったらしい。わたしが子どものころよく造ったドイツ戦車のプラモデルなどもうとっくに生産中止になってもいいような時代なのだろう。いまの子どもたちには売れそうもない。あのころの戦車は電池で動いた。壊れるまで遊んだ。いまは飾るだけみたい。

 いつでも変わらずにあるものだ、という思いが、年をとると、どんどん覆されていくのに気づかされる。ひどく大げさにいうと桑田変じて蒼海となる、というような思い。

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mojabieda * 映画 * 06:53 * comments(0) * trackbacks(0)

『スカイ・クロラ』を観る

 子どもが『トムとジェリー』のDVDをレンタルしたついでに、わたしも1枚レンタルした。『スカイ・クロラ』。監督は押井守。こういうアニメはあんまり観たことがない。子ども向けではなかった・・・。下の子などは『クレヨンしんちゃん』だと思い込んでいて、ひとりで腹を立てていた。

 で、スカイ・クロラってなんだろう。空を「はう」者?戦闘機乗りのことだろうか。

 近未来なのか、戦争が完璧にビジネスになった世界。そのビジネスは大衆に支持され、ビジネスとして戦闘機による戦争が行われる。そのおかげで大衆は「平和」を享受することができるらしい。この両者の「頽廃」(これは現実世界も同じか)。

 企業にやとわれたパイロットたちはみな若い。年齢が止まっているのだという。永遠の「こども」。しかも「死なない」らしい。この「死なない」ことは、全編を通してどこか腐臭を漂わすようなふんいきを与える。

 映像はきれいだ。戦闘場面などドリアル。さらに人物の細かな心理やしぐさを丁寧にかつ暗示的に描く。楽しい映画ではない。テーマは重い。

 閉塞する若者たちの「いま」を描いているように思う。生活の匂いはまったくしないが、生と死の意味や人生の意味を問うようにみえた。

 成長が止まってしまった若者、大人になれない者たちの永遠の生?その悪夢のような、耐えられない日常の繰り返し。じぶんとは何者かが分からなくなる不気味さ。無意味な戦闘のなかで、この世の意味を問い、みずからの人生の意味を問う。空は自由、青空はうつくしい。しかしそこはまた虚無的な戦場だった。

 なんとなく『ブレードランナー』と『ブリキの太鼓』と『AKIRA』を連想した。

 それにしても絶対に倒せない敵が大人の男「ティーチャ」というのは皮肉だろうか。新聞名がそのまま出ていたのはスポンサーのArroganzというもの。

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mojabieda * 映画 * 20:40 * comments(0) * trackbacks(0)

『ポー川のひかり』を観る

 

 久し振りに書庫の整理をした。床に山積みされていた本を、とりあえず本棚へ縦にも横にも詰め込む。もう物理的に無理、というぐらいに。現れ出た床を数年ぶりにぞうきんがけをした。せっかくきれいに整理・整頓しても大地震が来たらすべてお仕舞いだ。日常のそういうあやうさというか、脆さを、地震などの非常時ほど感じさせるものはない。  

 このまえ災害訓練に参加したときも、それを感じた。  

 たまたまエルマンノ・オルミの『ポー川のひかり』を岩波ホールで観ることができた。イタリアのポー川のほとりにたどりついた、一人の世の中を「降りた」男のドキュメンタリー風、かつ、キリスト寓話風な映画だった。主人公は大学(中世からつづくボローニャ大学らしい)の先生なのに、大学図書館の貴重な書物を床に散乱させ、一冊一冊釘を打ち込んで逃走する。中世から伝わるような羊皮紙の書籍の磔刑?原題は百本の釘だそうな。  

 地位も将来も高級車もケータイも捨てて(パソコンと現金とクレジット・カードは捨てない)、この世とあの世の端境のような川のほとりの廃屋に住みつく。風貌はキリストそっくり。しかもマグダラのマリア風女性(パン屋の田舎娘)や、使徒を思わせる、おなじように川のほとりに住みついた老人たちとの晩餐?風景もある。さらにキリストみたいに、その人たちにしんみりと寓話を語る。実際まわりから「キリストさん」と呼ばれる。しかもキリストのように「復活」?してレジェンドになる。ポー川のひかりとして・・・。あるいはポー川のひかりとは隣人たちが「復活」した?教授を招くために街道に灯したひかりだったのかもしれない。だれがどんな思いをこめて訳したのだろう。  

 それにしても貴重な本を数え切れないほど釘で磔のようにするとは。わたしなどぜったい出来ない。生きたことば、生きた記憶、生きた人との交流をこそ大事にすべきだ──ということなのだろうか。それにしても書物にそれほど重罰を科すほどの罪があるのかとも思う。これは象徴的な意味なのだろうか。

 あのキリストさん(『ポー川のひかり』の主人公)は、クレジット・カードも使ったが、それは隣人を救うためであった。パソコンを使うのも同じ。人を救うため以外のすべての「知識」(書物の知識)も道具も捨てる。  

 ポー川に巣くうのは外からやってきた大鯰(なまず)。エサにひっかかって暴れる姿を夜中にキリストさんが見る。何か忌まわしいもののようだ。昼は河川開発の測量技師たちがやってきて、隣人たち「不法占拠者」を追い払おうとする。外から平和をおびやかす力がやってくる。  

 夕闇。川面をゆく船上のダンスと歌。うたかたの夢のように美しい。岸辺で同じようにダンスをしていた教授と隣人たちは立ちつくす。曲はわすれな草。「私を忘れずにいておくれ/私の人生は君のもの/私の心の中には/君との愛の巣がある/忘れずにいておくれ/私のことを」。  

 あやうい日常を生きる。それはうたかたの夢のようだ。その中ではかないものを慈しみ、人と人とがむすびつき愛しあう。そこには書籍の知識も、虚構も虚栄もいらない。言い訳もいらない。それぞれがおのがままで、自然のなすがままに生きる。あるのは名も無き愛と信仰──そういう淡い詩のような映画だった。キリスト教にうといわたしには意味不明が多かったし、ちょっと非現実的だったけれど。  

 エルマンノ・オルミ自身がもう長編映画はつくらないといっている。だからこれが最後の長編映画となるらしい。ドキュメント風の『木靴の樹』から角張ったものをそぎ落としたような現代の寓話風なメルヘンだった。


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mojabieda * 映画 * 18:12 * comments(0) * trackbacks(0)

『コレリ大尉のマンドリン』

 第二次大戦中、ドイツとイタリアは同盟国だった。しかしドイツ軍とイタリア軍とが戦ったことを知った。

 テレビで放映した映画『コレリ大尉のマンドリン』をDVDに録画してあったのを観た。というのはギリシャのイオニア海に浮かぶ「ケファロニア島」を舞台とした映画だったから。ギリシャ関係はなんでも観てしまう。

 この映画じたいは戦争を背景にした恋愛ドラマで、ハッピーエンドで終わる。しかし戦争の実像をわたしは知らなかった。

 第二次大戦当時、ドイツとイタリアは同盟国だった。ところが、ギリシャのこの島ではイタリア降伏後、イタリア軍がドイツ軍によって千人ちかく殺されたという。なぜ?と思う。イタリア軍はギリシャのパルチザン軍に与したらしいが、ドイツ軍によるイタリア軍虐殺はその原因なのか結果なのか。

 ともかく、イオニア海の平和な島・ギリシャ正教の島・過去に外国による複雑な占領史の積み重なる島の様子がドラマの背景に描かれる。恋愛ドラマは情熱的できれい(きちんと片づく)?という感じ。コレリ大尉はイタリア軍の司令官。マンドリンを背負う、軍人らしからぬ仲間思いのイタリア青年。対するは島の医者の娘で才気煥発。島の娘の父親の、時代と恋愛とを観る温かく冷静な視点が映画を貫いている。それとギリシャの海。



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mojabieda * 映画 * 17:31 * comments(0) * trackbacks(0)

『タカダワタル的ゼロ プラス』を観る


 左が『タカダワタル的』、右が今度出た『タカダワタル的ゼロ』

 『タカダワタル的ゼロ プラス』をDVDで観た。2枚とも続けて観てしまった。感慨深い。よかった。まわりの人々の温かさ、和やかさが伝わる。これは本人の人徳?のいたすところか。

 わたしは昔の「高田渡」のほんのわずかな一部しか知らなかった。いまは「タカダワタル」として「世界遺産」!(泉谷しげるのことば)になっている。

 二枚目の特典DVDの息子さんとの共演は、どこか狭い部屋でのライブ。ここでの歌はあまり聞いたことのない歌が多かった。「おなじみの短い手紙」の歌詞はどこかで聞いたことがある。そうだ、ラングストン・ヒューズの詩を木島始が訳したものだ。さらにわたしには昔懐かしい「鉱夫(こうふ──いまは漢字変換もできない死語となった)の祈り」を歌う。わたしには懐かしいが、会場はたぶんしらけている(かもしれない)。そこでタカダは歌と楽器を変える。息子・漣との明るい曲。このデュエットもみごと。さらにツィターのようなオートハープを取り出す。はじめて見る楽器。その楽器のみの演奏もあった。「埴生の宿」。タカダはふざけて「ビルマの竪琴」みたいでしょ?という。「水島〜!帰ろう」とか言って。

 亡くなったあと、その死を悼んでライブを含めた映像が2回も映画化され、そのDVDが発売されるミュージシャンなど金輪際いないだろう。

 今回のDVDやポスターの写真など、ほとんど「教祖」のような風貌。亡くなったあとも、じわじわと人々の心に影響を与え続けている。

 タカダワタルには何かオーラのようなものを感じる。ひどく懐かしく、かつ心温まる。これは往年のフォークシンガー高田渡を知っている中高年ばかりでないだろう。そのライブも泉谷とは対照的だ。ギターを打楽器のように使って吠えるあの暴れん坊の泉谷しげるが、タカダの歌と演奏の横で、仏様のような穏やかな顔でだまって眼を閉じて座っていたが、やがてなんとなく涙目になっていたような──



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mojabieda * 映画 * 08:58 * comments(0) * trackbacks(0)

映画『サラマンダー』



 この前の夜、テレビで映画の『サラマンダー』の後半だけ観てしまった。第一印象は、これは聖書でいう大天使ミカエルと龍との戦い。このような意味が、この映画の底に流れているのだろうか。

 一人の少年が青年になり、そうしてとうとう龍を退治する。そのようなビルドゥングス・ロマーンにもなっている。かれは一度龍との戦いを避けて皆とともに隠れる。かれには「隠れること」と「闘うこと」との選択の自由があった。そうしてやがて一人の人間として「闘うこと」を選び出して立ち上がる。まさに個人の自由を人の意識の中心に据えた大天使ミカエルに後押しされているかのようだった。静かな英雄は現代を切りひらく人間像を予感させた。

 しかし黙示録的な終末世界を描く映画がなんとたくさんあることか。映画は「病んでいる」現代を問わず語りに語っているのだろうか。

 また、なぜ映画の龍はドラゴンではなく「サラマンダー」という名前なのか。ここにもなにか意味があるのだろう。

 サラマンダーというのは神秘学でいうと火の精。火は現代文明の象徴。火と機械に対するものは水と生命。核攻撃でも滅びなかった不死身の龍が、弓矢で滅ぶというのはアイロニカルだが、火と機械の文明に対するアンチなのだろう。老子でいえば「故に堅強なる者は死の徒にして、柔弱なる者は生の徒なり。是を以て兵強ければ則ち勝たず、木強ければ則ち折る」「上善は水の如し」を想起させる。映画の中では「米軍」の生き残りの機甲師団みたいな最強軍団も龍によっていっしゅんにして滅ぶ。しかし静かな一人の男が立ち上がり、龍を斃す。

 シュタイナーの神秘学によれば、動物の群全体を管理する魂というものがあって、その個体が死ぬとそのアストラル体が「集合的な一つの魂」にもどる。しかし中には臨終のさいに一瞬個体が自我を持つことがあり、死後も自我を持ちつづけると、それがサラマンダーという火の精となるという。

 (呪われた)未熟な自我ばかりの突出──これが龍を「サラマンダー」と呼ぶ意味か。ただ火を噴いて破壊するだけの自我の暴力の横溢。きわめて現代的な話。

 あの火を噴く姿で連想したのは第二次大戦での、洞窟(ガマ)に隠れた者たちを焼き殺す一方的な火炎放射器。それにナパーム弾による大都会への一方的な皆殺しの空襲。あの龍(サラマンダー)は架空の話ではない。

 朝、明け方の水田を眺めるとなぜか心が鎮まる。




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mojabieda * 映画 * 08:40 * comments(0) * trackbacks(0)

映画『パッション』

 聖山アトスに関する紀行文を読んで、なんとなく映画『パッション』(受難)をDVDで借りて観た。十字架が立つ丘の向こうの風景は、なんと南イタリアのマテーラではないか。凄惨な感じがよく似合う・・・。

 この映画、気味が悪いが印象深い。気味が悪いのは一つには徹底的に酷い受難劇を描く点、もう一つはむきだしの悪魔(あれは悪魔ですよね?)が出てくる点。というのはリアリズムに徹しているような映画だったから、そういう映画になんで悪魔がそのまんま出てくるの?という思い。ちょうど「デス・ノート」を観たときのような違和感があったけれど・・・。はじめイエスが「父よ・・・」と祈っていたから、わたしはてっきりカミサマか?と思ってしまった。しかしその容貌の不気味さ(人の心を見透かすような)から、やっぱりこれはカミサマではないけれど、どこか超感覚的な世界からやってきたものか?と思った。紙一重で天国と地獄が別れるが、隣り合っているという印象を受けた。ゲッセマネでの祈りのシーン。

 しかし、その身にすべての人類の罪悪を十字架として背負うという意味合いを、これほどしつこく徹底的に描いた映画もないだろう。

 全体にイエス・キリストに対するユダヤ教大司祭やローマ兵や民衆の仕打ちがなんとも酷い。ローマ兵のむち打ちはほとんど屠殺に近い。今日らの高校生が観たら不謹慎にも「ドS」とか言うかもしれない。

 それにしても、あの当時のあの地方のふんいきはヨーロッパ的ではない。ローマ帝国の辺境のアジアの一地方。そんな辺境の一事件が世界を変えてしまうほどの力を持っていた。

 シュタイナーはこの受難をキリスト事件と呼んでいる。地球界を変容させたと研究者の西川隆範氏はどこかで述べていたような気がする。キリスト事件は(ゴルゴダの)秘跡あるいは秘儀とも呼ばれる。それぐらいしか知らないが、映画『パッション』から、そのようなキリスト事件を思い浮かべた。

 タルコフスキーがシュタイナーの『第五福音書』を映画化しようとしたという話を聞いたことがある。「パッション」を描いたらどういう映画になっただろうと思った。



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mojabieda * 映画 * 22:06 * comments(0) * trackbacks(0)

映画『アンティゴネー』

 この前、ストローブ=ユイレの映画のDVDを観た。ソフォクレスの「アンティゴネー」。場所はシチリアのセジェスタという古代ギリシアの遺跡。

 円形劇場はさながら裁判所のよう。叔父の暴君クレオンとは裁判長のよう。ことばはドイツ語。古代ギリシア語をラディカルに翻訳したヘルダーリン訳をさらに劇場用にブレヒトが改作したもの。とはいえ、ラディカルなヘルダーリン訳を元にしているから、へんてこりんな台詞になっているらしいが、字幕はずいぶん分かりやすかった(それがいいかどうかは別)。

 この強弱アクセントのドイツ語が、古代ギリシア悲劇を、古代ギリシアの遺跡の上で話されていることじたいがふしぎ。いわば土地も時代も文化も遠く離れた最果ての地のゲルマンのことばが、地中海の陽光あたたかな古典古代の故地で、古典古代の悲劇を語ることのふしぎ。時代は2000年以上のへだたりがあるけれど、それが上演できるというのは西洋文化が広く太く連綿と続いてきたことのあかし?

 杜甫の唐詩に「静夜思」というのがあり、日本で古来教えられている詩のなかのことばと現在の中国本国の学校で教えられている詩のなかのことばとが違うという。果たしてどちらが正しいのかというと、日本らしい。遠い最果ての極東の小さな国に残っているものの方が正確に残されているという・・・。


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mojabieda * 映画 * 06:58 * comments(0) * trackbacks(0)

ポール・ニューマン

 9月26日にポール・ニューマンが亡くなった。83歳という。「ハスラー」「暴力脱獄」「明日に向かって撃て」「スティング」が好きだった。懐かしい。

 「暴力脱獄」は衝撃的だった。囚人たちがボクシングをするのだが、殴られても殴られても立ち上がるクール・ハンド・ルーク(ニューマン)の姿に相手も周りの者たちも皆あきれてしまう。あのシーンを漫画の「あしたのジョー」がまねたんじゃなかったか。あの矢吹ジョーの原型がここにある。もう40年も前の話だ。

 権力や暴力にたった一人で抵抗するクールでニヒルな生き方。孤独。にもかかわらず優しげに微笑む内面的な青年。内の毅さが外への柔らかさとしてにじみ出ていた。

 あれはポール・ニューマンそのものだったのかもしれない。




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mojabieda * 映画 * 21:56 * comments(0) * trackbacks(0)
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