<< October 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
               Page: 1/1   

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

スポンサードリンク * - * * - * -

『アンティゴネー』を観劇する

 東京演劇アンサンブルの『アンティゴネー』を俳優座で観劇。おもしろかった。

 舞台には斜めの柱が平行に立つ。なんとなく不安定な感じだ。コロスたちは一人一人個性があって、動きかつ歌いかつ踊る。コロスたちは長老というより庶民的な感じがした。もともとはたぶん饗宴の灯りだろうが、提灯行列のように提灯をぶら下げて、ふしぎなディオニソスの祭?(戦勝祝いの祭)の雰囲気を出している。音楽もそんな雰囲気をかもしだしている。

 福岡現代劇場での台本のコピーをいただいてあったので前もって読んだけれど、よく分からなかった箇所が劇を観ると、ああ、そういう意味だったのかとよく分かった。ただし、台本を読んでも劇を観ても分からない部分はある。奥が深い。ソフォクレスのことばをヘルダーリンがラディカルに逐語訳?し、さらにブレヒトがそれを生かしながらつくっていると思うけれど、ことばの持つ喚起力のようなものを感じた。

 劇を観ながらいろいろなことを思った。まず、アンティゴネーはナチス国家反逆罪として処刑されたゾフィー・ショルを想起させる。とくにクレオンがアンティゴネーをさいしょに懐柔しようとするところは、映画の『白バラ ゾフィー・ショル、最期の日々』の、ゾフィーとナチス審問官モーアとの「対決」部分を想起させた。福岡の台本にはなかった「縄を解かせる」恩情の場面がアンティゴネーとの「対決」の最初にあった。この恩情を強調することによって「志を奪われなかった」アンティゴネーが強調されているように感じた。

 それにしても悲劇が悲劇を呼んで破滅の一途を辿るストーリーは救いようがないというか徹底的。観客ははじめからそのなりゆきを熟知していたであろうから、「対決する」当事者の頑固さ、周囲のものたちの優柔不断さを、もどかしく感じ、はらはらし、人生や社会や政治や、いろんなことを考えながら観劇していたことだろう。

 劇を観ながら今日の政治状況などさまざまなことを連想してしまったけれど、かならずしも教訓的、政治的なメッセージだけを読まなくてもいいだろうと思う。専制的な国家の主宰者クレオンに妙にリアリティを感じてしまった。演技がかれの苦悩をくっきり描き出している。最終的に破滅にいたるオイディプスのような運命の皮肉はアンティゴネーにふりかかっている(かの女はそれをみずから選んだ)というより、そのアンティゴネーを反射してクレオンと長老たちとテーバイという国家に襲いかかるからだ。

 以前の台本にあった「かたくなまでに誠をつらぬいたこの女性(アンティゴネー)が/結局は、奴隷のようにしいたげられた同胞がその犠牲となるのもかまわずに/この戦争を終わらせてしまうからです」というプロローグの台詞がカットされていたように思う(あるいは聞き落としたか)。ちょっと分かりにくいこの台詞が描き出すアンティゴネーの皮肉な役回りが後景にしりぞくことによって、相対的にクレオンの傍若無人なありようとそこから生じる悲劇がよりはっきりと浮き彫りになったように感じた。

 もう一つ。春闘をめざして東京へはデモに動員されて行ったが、日比谷野外音楽堂では全員が入りきれず、入れ替え制をとっていた。その大勢が銀座をデモしているときのこと(今ではデモとよばず、パレードと称しているが)──

 たくさんあるシュプレヒコールのことばの一つに、海外ハヘイをやめろというのがあった。それに通行人の若者が反応して大声をあげる。「カイゾクがいるんだ!集団的ジエイ権が必要なんだ!」とひとりで叫んで通り過ぎていく。おそらく万単位のデモ隊に一人で立ち向かうかのように・・・。その勇気はすごいと思うが、あとで恥ずかしく思うことだろう。デモ隊からは無視されていた。

 クレオンが言い訳するのも同じ論理だった。しかし遠洋のカイゾクがクニを滅ぼしにくるわけではない。むしろジエイをいい、カイゾクを言い訳にして海外へハヘイするようなクニの政治が、「アンティゴネー」のテーバイのように最終的にクニを自滅に導く歴史的事実(数0年前のような悪夢)を、この若者は知らないのだろう。「アンティゴネー」はみごとに現代の日本に通じていると思った。


JUGEMテーマ:日記・一般


mojabieda * 演劇 * 10:00 * comments(0) * trackbacks(0)

中高演の理念

 中部高校演劇協議会という組織はふしぎな組織だ。
 
 ここではコンクール制をとっていない。お客さんを合同で集めて公演をし、互いに批評しあうことを大事にしている。競争原理を演劇に適応させることは、演劇そのものの本質を失わせることになるのかもしれない。観客と一体となってつくりあげる演劇は「ナマモノ」であって飾りではない。審査員によって順位をつけられる演劇はその観客を排除した「ヒモノ」かもしれない。
 
 さて、数0年ほど続いたこの「非コンクール制」の理念はどこまで通用するだろう。
 
 中高演の理念はあまりよく分からないが、中高年の理念なら分かる。
 
 「立て!万国の中高年!いまこそ、中高年のエネルギーを結集し、ボケボケの頭と体を活性化させよう(手遅れかもですが)!」
mojabieda * 演劇 * 07:20 * comments(0) * trackbacks(0)
このページの先頭へ