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ウルビーノのヴィーナス


 上野の国立西洋美術館







 ウルビーノのヴィーナス














 グリーンサロン









 用事で東京へ出かける。

 新幹線の中でずっとiPodのビデオを観ていた。これはよくなかった。というのは、あとで美術館に入ったとき、絵画の脇にある表題の文字などが二重にぼけてしまったから。あんまり小さな動画を長く観つづけていると目が悪くなるのだろうと思う。

 ほんとうは麹町に用事があったのだけれど、ちょっと上野へ立ち寄る。

 国立西洋美術館へ。ウルビーノのヴィーナスを観る。てっきりフェレンツェのウフィツィ美術館の絵画の展覧会だと思っていたら、古代からルネサンスまでのヴィーナスを集めた展覧会だった。観るべきものはこのティツィアーノのヴィーナスくらい。しかしこれが圧巻。

 ウルビーノ公が所有していた絵画だという。娘のヴィットリアが14歳でメディチ家の血をひく第五代トスカーナ公であるフェルディナンド二世と結婚するとき、持参金(嫁入り道具)の一部になったらしい。

 ヴィーナスという名目だが、キューピッドも連れていないし、なんとなく視線に官能的な艶めかしさがあって、これは神話上の女神ではなくて、ストレートな人間の女性のヌードだろうとしか思えない。若い嫁さんのための、閨房への心構えを教える道具だったのかも。

 不死の世界よりも現世へのかぎりない愛着を感じる。

 美術館を出たあと、昼食をとりに上野公園をうろうろしていたら、目の前に大きく立派な建物があってレストランらしい。グリーンサロンという。入るとカレーとうどんしかなかった。でもトッピングを乗せても千円未満なのはいい。


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mojabieda * 芸術 * 22:39 * comments(0) * trackbacks(1)

連句・カラオケでの巻

「朋一の会」連句・カラオケでの巻
         (2008年3月25日/藤枝のカラオケ屋にて)

 連句の会は2回目。今回はカラオケを歌いながら。お酒と唄とのまぜご飯状態のなんでもあり?の連句でした。

 
   ◯ カラオケで連歌としゃれる皆の衆    河
   ◯ きょうもよき唄よきお酒なり      梅
   ◯ うらうらと桜三月春弥生        峰
   ◯ 紙ひもばかりがやたら減るなり     森
(月)◯ 望月やうさぎが餅をつくといふ     清
   ◯ 甘い餅よりやっぱりビール!      河

   ◯ あわあわと日は紅に暮れてゆき     峰
   ◯ 砂浜に消ゆ時計と涙          梅
   ◯ 引き出しの中に捨てない手紙      森
   ◯ 思いつつ舞う宇宙遊泳         清
   ◯ 人類は生き残れるかこの宇宙      河
   ◯ ほとぼり醒めれば部屋でカラオケ    峰
(月)◯ ペダルを照らす月あかりかな      森
   ◯ 明日もまた新しき夢巡り来む      梅
   ◯ 卒業証書そっと抱きて         清
   ◯ いつまでもあると思ふなオレと金    峰
(花)◯ こぶしサクラにこの世を忘れ      河
   ◯ 気の早い蛙の声を聴きながら      森

   ◯ わさび漬けで飲む大吟醸        清
   ◯ 岩蔭に寄ればの歌を聴きながら     梅
   ◯ 若き日の恋どっぷりつかる       河
   ◯ 瞬発力を秘めをりし梢仰ぎ       森
   ◯ 流れる水に心まかす我         梅
   ◯ 逝くものはかくのごときか黄水仙    峰
   ◯ 止まるな止まるな時計の針よ      清
   ◯ 回天の春今はただ空光る        梅
   ◯ 電話なりピクンと熱いちっちゃなハート 河
   ◯ シャーペンをくるくる回すテスト中   森
(月)◯ 天窓にへばりつくよな昼の月      清
   ◯ 浅茅が宿に逢へる児や誰        峰

   ◯ 花は花月は月なり人は人        梅
   ◯ あなたについた嘘もそのまま      森
   ◯ 定刻に窓を開けたり春彼岸       梅
   ◯ ふんわりふわり春風そろり       河
(花)◯ 僕らはきっと待ってる花と会える日を  峰
   ◯ 桜よ風に流されるなゆめ        梅


JUGEMテーマ:芸能


mojabieda * 芸術 * 07:18 * comments(0) * trackbacks(0)

セチュアンの善人

 『セチュアンの善人』を観た。ブレヒトの芝居である。東京演劇アンサンブル。

 奥の深いシビアな劇。善であることと善であろうとすることとのズレ、善であることと善を維持することとの葛藤、善であることと生きることの剥離などの視点から考えさせられた。

 そうだ、ゴンチャロフの『オブローモフ』に出てくる主人公オブローモフと友人のドイツ系エリートのシュトルツ。シュトルム『みずうみ』に出てくる主人公ラインハルトと友人の実業家エーリッヒ。これが『セチュアンの善人』に出てくる主人公の善人シェン・テとリアリストのシュイ・タの関係か。

 演出がおもしろくてときどき人々の歩き方が変わる。奇妙な歩き方になる。善人の女性シェン・テが変身したシュイ・タというリアリストの白スーツ男は背筋をのばしながら極端に下へ傾いて歩く、とみれば、こんどは極端に上へ傾いて歩く。何か異様なふんいきを持っている。あとで劇団の人に訊くと、上を向くのは理想の姿、下を向くのは現実の姿。その二つの姿に引き裂かれる葛藤を描いているらしい。

 舞台のさいご。主人公の善人シェン・テが言う、
シェン・テ   でもわたしにはイトコ[リアリストのシュイ・タ]が要ります!
第一の神    あまり度々はいかんぞ!
シェン・テ   せめて週に一度!(ここでわたしは思わず笑ってしまった)
第一の神    月に一度で充分じゃ!
 
 観終えたあとの感想を言わせられたので、あえて言ったのは、舞台が中国(セチュアンとはスーチョワン(四川)のことだと加藤周一氏が書いていた)ということもあって、まるで「文化大革命」の理想と「改革・開放」の現実という葛藤を描いているかのように感じたと述べた。

 加藤周一氏がどこかで『セチュアンの善人』について述べていると思って探してみたら、一つあった。『現代世界を読む』(かもがわブックレット55)のはじめのほうで言及し「善人も善人であり続けるためにはある経済的条件を必要とする」と述べている。しかし一方「人生の目的というのは経済的条件の分析からは出てこない」とも述べる。

 別の本でも言及していたように思うが忘れてしまった。
mojabieda * 芸術 * 20:00 * comments(0) * trackbacks(0)

甃のうへ


 み寺の境内

 ある勉強会のおり、とつぜん三好達治の「甃のうへ」が出てきたので、懐かしく思って、以下はとつぜん詩の解釈に走りました。

 三好達治の詩に最初に出会ったのは中学のときの旺文社文庫。その本はどこへいったのか──


◆ 甃(いし)のうへ

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳(ひとみ)をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂々(ひさしひさし)に
風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ

<三好達治(みよしたつじ)/測量船(そくりょうせん)>



 題名の「甃」とは「しきがわら」だという。瓦を道に敷く小径か。寺の境内かその周辺。奈良か京都か。築地にも瓦が積み重ねられているような古都の風情をイメージする。

 「あはれ」からはじまる。
 古語では「ああ」と訳される感嘆の語。この語尾の「れ」と「ながれ」の「れ」とは韻を踏んでいるかのよう。詩情が「ながれ」る。ひらがななのもやわらかい。

 この「ながれ」の詩情は、ちょうど万葉集の東歌(あずまうた)の「多摩川に さらす手づくり さらさらに 何ぞこの子の ここだ愛(かな)しき」の「さらさらに」を連想させる。川にさらされる布のように爽やかで柔らかく繊細だ。

 そして「花びら」。これは桜の花だろう。桜の花が舞い散る風情。とすると、空は真っ青な透きとおる空か。

 なぜ「あはれ」なのか。「花びら」が「ながれ」る故に「あはれ」なのか。淡い情感だ。冒頭からの「あはれ」という情感が通奏低音となって詩の全体に「ながれ」ている。さいしょからそこはかとない無常観がただよっている。

 二行目に「をみなご」が現れる。「をみなご」は「をとめご」にくらべてより詩的なイメージがあるし、そのひびきは幼さや無垢さをも感じさせる。「をみなご」の眼前に花びらが流れている情緒は劉廷芝(りゅう・ていし)の『代悲白頭翁』(白頭を悲しむ翁(おきな)に代わる)の「洛陽(らくよう)城東(じょうとう)桃李(とうり)の花」「洛陽の女児(じょじ)顔色(がんしょく)を惜(お)しむ」に通う。「甃」と「をみなご」という語によって時間を一気に超越してしまう。

 三行目は「花」を離れ、「をみなご」に視点が移る。「しめやかに語らひあゆみ」の情景は大伴家持(おおとものやかもち)の「もののふの 八十(やそ)をとめらが汲み乱(まが)ふ 寺井の上の かたかごの花」を連想させるが、家持の歌の情景よりもしっとりとして清楚だ。

 さらに「ながれ」は空間の移動だけでなく、時間の推移をも暗示する。それが「語らひあゆみ」につながり、六行目の「すぎゆくなり」につながる。

 この一行目から三行目まではまるで万葉集の冒頭の歌のような「をみなご」が立ち現れてくるリズムを持つ。「あはれ」(3)「花びらながれ」(7)、「をみなごに」(5)「花びらながれ」(7)、「をみなごしめやかに」(9)「語らひあゆみ」(7)という、前の語句が(3)(5)(9)と増えていくリズム。万葉集では「籠(こ)もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち (この岡に 菜摘ます児)」と、「籠もよ」(3)、「み籠持ち」(4)、「ふくしもよ」(5)、「みぶくし持ち」(6)と徐々に増えていくリズムだ。このリズムによって万葉集では「菜摘ます児」が舞い現れるように徐々に立ち現れてくるが、「甃のうへ」では映画のシーンのように「花びら」から「をみなご」へとカメラが「パン」する。あるいは「オーバーラップ」する。そうして「花びら」のイメージと「をみなご」のイメージが重なってゆく。

 四行目の「うららかの跫音」の「の」はその前の行の「をみなご」の「ご」に韻を合わせたものか。「花びら」に代わって「跫音」が「空にながれ」る。「跫音」は「きょうおん」とも読む。「空谷(くうこく)の跫音」など。陽の当たる堅い石畳の上を明るく軽やかな、しかし硬質で禁欲的ともいえるような足音が響く。

 五行目の「瞳」は「をみなご」たちの「瞳」だろうか。明るい青春の輝きを放っているそのすがすがしい「瞳」は春の空を「ながれ」る「花びら」を追っているかのようだ。「をみなご」たちは晴着を着ているような晴れやかなイメージ。

 その晴れやかさにつづく六行目の「翳りなき」によってかえってそのコントラストが映えてくるのがさいごの「わが身の影」。「翳りなき」といいながらも、逆にその「翳り」が背後から秘かににじみ出てくる。青春の「翳りなき」光の中をゆく「をみなご」たちだが、その背後にはしっかり「翳り」が暗示され刻印される。いわば青春の(人生の)光と影。ジュディ・コリンズの「Both sides now」(青春の光と影)という歌のメロディを思い浮かべてしまうのは年のせいか。

 「翳りなき」は「み寺」と「春」を修飾するようだ。さらにそこを「すぎゆく」「をみなご」たちをも修飾しているのだろう。「翳りなき」は「み寺」の「み」にも通う。一点の「翳り」もない明るく輝かしい美しい寺。「み寺の春」「をすぎゆく」というからには場所のみでなく時の「ながれ」をも意味する。

 七行目から視点は「み寺」へと移り「をみなご」たちを一端去る。春の寺の境内の静謐な風情。「みどりにうるほひ」は屋根の「緑青(ろくしょう)」の色だけでなく、境内に茂る樹木の葉の色でもあるのだろう。

 八、九行目の「廂々」に見える「風鐸」の姿にの「しづけさ」に「わたし」を感じているようだ。

 十行目の「ひとりなる」が独立している。ここもまた万葉集の家持の歌「うらうらに 照れる春日(はるひ)に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば」の「ひとり」を連想してしまう。

 「をみなごたち」の去った空間に「わたし」はひとり残されている。静謐な世界のなかを「わたし」のたてる「跫音」に思わず振り返って足もとをみれば、「わが身の影」を「甃のうへ」に「あゆま」せている。「ながれ」ていた時間と空間はさいごに「甃のうへ」で体言止めになり、あたかも時間が止まったかのように、舞台の上にのみピンスポが当てられて幕が降りる。

 どうして題名が「甃のうへ」なのだろう。冒頭は「あはれ花びらながれ」から始まるから、題名とつなげれば「甃のうへ」に花びらが散るイメージがある。とすれば、最後が最初につながっていく。あるいは最初に最後が立ち現れる。ちょうどアンゲロプロス監督の『旅芸人の記録』のように。先ほどの劉廷芝の詩なら「年々歳々(ねんねんさいさい)花相(あい)似たり」「歳々年々人同じからず」というような円還するイメージか。

 「甃のうへ」とは永遠のなかの一瞬ということだろうか。「甃のうへ」とは地上のことを意味し、この甃の上に「わが身の影をあゆまする」とは永遠のなかの一瞬、この地上に生きるということなのだろうか。

 影はプラトンの洞窟の神話を思い起こさせる。人は一生洞窟の中にいて、壁に映った影しか見られないという。この世を生きるとは「わが身の影をあゆま」せるにすぎないのかもしれない。











 
mojabieda * 芸術 * 17:52 * comments(2) * trackbacks(0)

街の神秘と憂愁

 キリコの絵。『街の神秘と憂愁』。この絵を見たのは中学時代か。美術の教科書だと思う。この絵について、秋の夜長なのでつれづれなるままに書きつらねてみる。

 ヨーロッパの街は石の街である。石の街では生と死のコントラストが強くなる。石は人の棲み家となると同時に人の奥津城(おくつき)にもなる。石は生を謳歌するとともにやがて生を蝕む。あの、無機質な石の中に暮らす人たちを見よ。饗庭(あえば)孝男の「石の思想」だったか、石の建物の窓に老婆が顔を出していた。その老婆の目が窪んでいてドクロのようだったそうだが、その窓そのものがドクロの目のように見えたという。

 無機質と有機質との、不死なるものと死すべきものとのあくなき戦い。

 ふしぎな絵だ。明と暗のコントラストが強い。しかも画面の右半分は暗いカーテンのような前景の建物の陰に隠れている。そうして左側の建物との遠近法から、とうぜん視線は絵の中央の奥へと向けられる。そこには何があるのだろう。

 幾何学的な街のようす。人気がないなかをただ一人、画面の手前のすみを、輪をころがして少女が走る。この少女も画面の中央へと向かっている。

 どうやらこの少女が「主人公」らしい。

 それにしても中央の人影はなんだろう。あまりに唐突で、不自然で、ぶきみな影だ。見えないむこう側の世界からやってくる。

 空はいちおう晴天なのだろう。太陽は見えないがまぶしい日差し。中央に向かってへんに奥行きの深い建物の壁は虚しいほど白い。

 風が吹いている。マンスフィールドの「風が吹く」のような、妙な倦怠感がある。すでに人生の虚無が予感されるような手触りがある。

 音楽が流れているとすれば、デイビスの「ブルー・イン・グリーン」か、透明でけだるい乾いた抒情を感じる。

 時間が止まっているようにも見える。少女は止まった時間の世界をただ一人走っているように見える。あたかも輪はじぶんの「運命」のようだ。少女はおのれの運命の輪をころがしながら走り、やがてその向こうの人影と出逢うのだろうか。

 一番てまえには荷車が見える。左下の二本の黒い線はレールのようだ。石の建物や車やレールの物質的な存在感に対して、走る・歩くものたちのシルエットは影。

 地平線のはるか向こうに、ほんのわずかに見える緑はまぼろしか。
mojabieda * 芸術 * 06:05 * comments(0) * trackbacks(0)
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