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ダグラス・ラミスの『影の学問、窓の学問』の冒頭にある話を頭に浮かべながら、5月の緑の間を抜けるバイパスをドライブしていたときのこと、たいへん奇妙な感覚におそわれた。なんと呼んでいいのか分からないので、「あれどもあらず」の感覚と呼んでおく。
じぶんを失いそうな感覚。いま・ここのじぶんは本当のじぶんではない、あるいは閉ざされた世界にじぶんが押し込められ、息苦しくなるような感覚。それを自覚すればするほど、ますます泥沼のような、蟻地獄のようなものにはまりそうな感覚。
これはたぶんラミスの本の影響だと思う。冒頭にあるのは宇宙船で宇宙へ移住する話。たしかこんな話だった、何世代もすでに宇宙空間をロケットで飛んでいる。ロケットのなかで生まれ、死ぬ世代・・・若者たちは「なんのために?」と反乱を起こす。それを鎮圧した為政者たちは宇宙船の窓という窓をふさぎ、宇宙船に関する知識を封印した。やがて時代が過ぎ、すべての知識、学問、政治、教育、宗教を動員して為政者は人々に宇宙船の中を全世界だと思わせることに成功した。ところがある一人の若者が秘密の部屋に入り、閉ざされていた窓の外を見てしまった。そこから暗黒の宇宙が垣間見えた・・・。そうしてじぶんが宇宙船の中にいる事実を知る。その若者はすぐに人々にそれを知らせる。しかし人々は信じない。その若者は邪教をひろめた者として処刑される。
もう一つは洞窟の話。一度も洞窟の外へ出たことがない人間たちは洞窟の中が全世界だと思っている。火に照らし出されて洞窟の壁に浮かぶ「モノの影」が、この世のすべての事象だと思う。ところがある一人の若者が洞窟の奥へと進んでゆき、遙かな先に一条の光をみとめ、ついに洞窟の入口へ辿り着き、その外へ一歩出た。まばゆい光にようやく慣れると、外の世界がはじめて見えてきた。そこには野原があり空があり太陽があり、ほんとうの「光」と「世界」とがあった。
車のなかで思ったことは、もし人が宇宙船の窓の外をはじめて見たら、あるいは洞窟の外の世界をはじめて見たら、たぶん発狂してしまうのではないか、ということ。影しか知らない者が、光や「真実」の姿に堪えられるだろうか。
そうして、いま、わたしが5月のバイパスを走っていると思っているこの世界は、ほんとうはただの「モノの影」かもしれない。わたしはいま緑あふれる「閉ざされた洞窟」にいるのかもしれない。そう思っているこの「わたし」の姿もたぶん「モノの影」かもしれない。そういう、何か無限の深淵でものぞき見るような感覚におそわれた。