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いま文科省などのページに都道府県別環境放射能水準調査が載っている。この測定値は各地で観測された「放射線量」だと思う。それが高いか低いかで、各地の危険度を表そうとしているが、問題は「放射性物質」がどの程度飛散して来ているかということだろう。
もちろん放射性物質が飛散して中空にあればそこから発生する放射線量がその地域では高くなることは当然だが、その物質が体内に入って被曝することによって甚大な被害となるということだ。
したがって、放射線量がマイクロなんとかというのは、じっさい一時的に通りすぎてゆけば短い時間での被害になるわけで、レントゲンを浴びたときの一時的なものと同次元で語ることができるのかもしれないけれど、放射性物質が一度体内に入ってしまえば、ずっと(半永久的に?)身体内部から放射線が出て被曝しつづけるわけだから途方もなく恐ろしいことになる。
原発事故で放射性物質が放出されると『放射性雲』が発生し、風に乗って雲が上空を通過する際に、放射線量が上昇する、らしい。
その『放射性雲』はドイツのシュピーゲル(Spiegel)で昨日、今日、明日あたりの数日間の動きをアニメーションで観ることができる。どうして同じようなものを日本では報道できないのだろう。
風向きによってこうも違ってくるものかとしみじみ思う。今日明日について知りたい人はぜひ観てほしい。
テレビ映像の広瀬隆氏のインタビュー番組(17日)をネットで観たが、広瀬隆氏によれば、水をかけるのはまさに「焼け石に水」らしい。肝心なのは電源の復旧・確保で、この事故のすべてはそもそも電源の喪失による冷却機能の不全によって引き起こされたものらしい。
したがって電源の復旧こそが喫緊の課題だということらしい。その電源もその設計は数十年前の日立や東芝の技術者によって造られたものらしく、しかも原子炉内部はおそろしく複雑な電気配線によって繋がっているものらしい。
その電源を復旧させて冷却させる、つまり外部から新しい電源を用意し、電気系統が壊れているのならそれを直して配線を繋ぎ、さらに冷却装置の内部が壊れているならそれも直して・・・というふうに考えていくと、これは素人が考えても容易なことではあるまいと思う。しかも現場は爆発でめちゃめちゃになっているから、こういう電源・電気系統などの具体的・技術的な復旧はメーカーではない電力会社の東電だけでできるのだろうか。いわんや保安院をやだ。事故が発生した当初必要だった対処は、政治家や机上の危機管理の専門家や役人や電力会社員による対処だけではなくて、むしろ現場の電源を造った設計者や技術者(現役がいないなら、それを知悉した関係者)による電源の復旧だったのではないか。いまさらだが。
しかもテレビで観るかぎり、かなり遠くからの放水だけでも、高い放射線量のためにずいぶん困難らしい。だとすれば、そもそも壊れた建屋付近に人が近づくのはさらに困難だろう。近づくことができなければ電源復旧(外部電源を敷設し、電気系統・冷却装置を直し繋げること)など不可能だろう。爆発が起こる前の、初期の段階で外部電源を導入していれば、というのを「後の祭り」という。
外国のネット記事では、外から水で冷却する行為を「絶望的な行為」(ドイツ・シュピーゲル)、「半狂乱の修理(Frantic Repairs)」(アメリカ・ニューヨーク・タイムズ)などと呼んでいる。
・Experten halten den Einsatz für eine Verzweiflungstat.(「専門家はこの出動[ヘリコプターからの海水の放水活動]を絶望的な行為とみなしている」『シュピーゲル』17日)
・"Die Wasserwerfer zeigen nur die Verzweiflung", sagt Wolfgang Renneberg, Ex-Chef der Abteilung Reaktorsicherheit im Bundesumweltministerium. (「海水を[ヘリコプターから]放水するのはただ絶望を示している」とヴォルフガング・レンネブルク前原子炉安全部長(連邦環境省)が述べている。『シュピーゲル』17日)。
・Radiation Spread Seen; Frantic Repairs Go On(「放射線の拡大が見られる/半狂乱の修理が続く」『ニューヨーク・タイムズ18日』)など。
外国ではなぜこのように「絶望的」などと報じられるのか、ということを考えなければならない。たとえば外からの海水などの放水による冷却は「いつまで」続けなければならないのか、という点を考えてさえ、じっさい絶望的にならざるをえないだろう。またもし、全面的に冷却不能になったらどんな事態に立ち至るのか、ということを考えても。
そうして「その時」が来たときには即刻非常体制が整えられるよう充分に手配し、放射性雲が大量に東京へたどりつく前に密かに遠方へ移送させるべき人は移送させ、一般国民が身動きできなくなってはじめて、つまり国民が真実を知って正しくパニクっても「対処」できるようにしてはじめて、非常事態発生の宣告を政府はする(それまで徹底して報道管制を敷く)のかもしれない。
これがただの杞憂であればよいが─
保育園の七夕の短冊に子どもたちが書いた願いは、上の子は「ベイブレードのペルセウスが買えますように」、下の子は「ベイが100コほしい」だと。ペルセウスはおもちゃ屋を回っても手に入らなかった。子どもたちを車でお迎えに行っての帰り道、明日は七夕だし、ベイブレードのペルセウスをネットで買ってあげるよ、と子どもたちに約束してしまった。
家に着いて、さっそくベイブレードのペルセウスをネットで検索すると1800円台。しかも送料別だ。きのう見たら送料込みで1600円台だったのに。なんなんだ、と思った。またあとでネットを見ると2300円台に跳ね上がっていた。マネーゲームだ。
ギリシャの国債にかかって一国を滅ぼすマネーゲームと基本的に変わりない。一国の浮沈と一コマの浮沈と。子どもの世界も大人の世界も変わりなく資本主義がグローバルに人の世を覆っている。とうぶん買えそうにない。こどもたちにとんだ資本主義のからくりを説明する。「世の中には金もうけのためにものを安く買い、高く売る『悪い』人たちがいる。その人たちがたくさん買い占めてしまったから、本当にほしい人たちの手に入らないんだよ」。
それにしても、テレビで見たのだが、どこかの国でこの資本主義に反対する人たちのなかに、赤と黒の2色の旗をかかげていたデモがあった。赤はコミュニズム、黒はアナーキズム、両者が一緒になった古い旗だ。それに緑がまじるといいかもしれないと思った。ちょうど加藤登紀子の『美しき五月のパリ』を聴く。世の中はあそこからどこまで遠く来てしまったか。
思うたびに暗くなるので、同じ加藤登紀子の『時には昔の話を』を聴く。この歌はジブリの『紅の豚』のエンディングの曲だ。
この前、テレビでアニメの『紅の豚』を観た。いままで何度も観ているが、すべて「途中」まで。今回もぜんぶは観ていないが、観終わったとき、心が癒されるようだった。
なぜか、ジブリのアニメの中でいちばん気に入ってしまった。中年男性が主人公で、アドリア海を舞台にし、加藤登紀子の歌がしゃれているからだろうか。大人のメルヘンという感じだった。あの街はドブロブニクらしい。蒼いアドリア海とオレンジ屋根の古い街並。それに加藤の歌う「さくらんぼの実る頃」はパリコミューンにかかわるフランスのシャンソンらしい。ホテル・アドリアーナの庭など、リルケの悲歌で有名な、同じアドリア海に面した、トリエステ近くのドゥイノ城を連想させる。映画に出てくる飛行艇などもプラモデルで現在も発売されている(おもちゃ屋で見たけれど、さすがに買わなかった)。
主人公には孤独になれるアジトがあり、蒼い海と空があり、自由があり、生き甲斐の飛行艇があり、古い恋人があり、若い女性にももてる。「ありえない」世界だが、中年男の理想の世界。
安部公房の小説の「赤い繭」では主人公の「おれ」は赤い繭になってしまう。同じように人間ではなくなったとしても、「赤い繭」と「紅の豚」とは真逆のような気がする。が、宮崎の脳裏にはこの「赤い繭」があったかもしれない。「赤い繭」にはふしぎな乾いた抒情があり、「紅の豚」にはウェットな抒情がある。ふたつともに共通するのはノスタルジーか。
今日は行きつけのラーメン屋でワンタンメンを食べる。580円。
左右はスポーツ新聞やマンガを読んでいる。わたしもちらちら横からのぞくが、みずから手に取って読もうとまで思わない。
しんぶんもテレビも見なくなった。
さいきん思うのは「テレビを見る」のではなく、「ある私企業の、あるいはレギールングのテレビ局が特定の意図にもとづいて編集し発信した番組を見せられている」のだということ。たとえばわたしが何かじぶんが作りたい番組をつくって全国津々浦々の茶の間に届けたいと思っても、それはできない。それができる、ということがどれほど異常なことなのかということ、どうして限られたいくつかの系列テレビ局にそんな権利があるのかということ、をふとワンタンを食べながら思ってしまう。
ものすごい特権。じんだいな影響力だ。たいがいは1回ぽっきりの放送で終わってしまうから脳みそからかき消えてしまうが、ニュースなどは毎日あって、毎日毎日繰り返されると怖ろしいことになるはず。あるテレビ局のニュースでは毎日毎日アレにかかわることはどんな小さなことでも針小棒大に報道する方針だ、とする。そのアレは必ず万人の脳みその奥へ(本人は自覚しなくても)刻まれていくだろう。そうしてアレ問題が個々人の無意識の領域で力を発揮し「コクボー」の必要性を説く「ハーメルンの笛」にウマウマと追随してしまう。ということになる。
さて、このワンタンメンにはチャーシューも海苔も、なるとまでも入っている。値段も安くてなかなかいい。しかし毎日毎日同じメニューを食べていれば必ず飽きてしまうにちがいない。ニュースだって同じことを(ウソでもホントでも)毎日毎日繰り返したら飽きてしまうはずなのに、じっさいはそうでもないみたい。それほど主体的に「味わおう」としているわけではなく、ただ受動的に「眺めている」だけだからだろうか。
◯神社の駐車場
前の晩までは天候不順だったが、その日は天気のいい秋晴れになったので七五三まいりに出かける。車で静岡市の神社へ。たぶん七五三まいりで混雑するだろうから、近くの有料駐車場へ停め、門前町を歩いてお参りに。境内に入るとお店が出ているのはいいけれど、なんと参道を車が出入りしている。参道の回りが駐車場になっていた。七五三だから小さな子どもがいっぱい来ることが分かっていて、車は危険だなと思う。しかしそういう参拝客が増えているということなのだろうか。500円の「千歳飴」を7歳と5歳の子どもに買ってあげる。家で中身を見ると、縁起ものだから(文句などつけては罰があたる)とは思うが、その紅白の長い飴が、昔とくらべてなんだかずいぶん短くなったような気がした。袋もボール紙みたいだし。
◯古本屋の閉店
門前町を歩いた。ここには昔からの古本屋さんがあって、よく参詣帰りに立ち寄ったものだった。で、見ると閉店になるということですべて半額だという。昔かたぎ風の、この辺りで唯一残っている古本屋さん。岩波の本などもたくさん並んでいる。時間もなくてちらっと店内をのぞいただけだった。子どもたちは外で写真集などを立ち読みしている。よく本屋や図書館にいっしょに連れていくので子どもたちは飽きることはなかったようだが、ゆっくり見ていく余裕もなく、後ろ髪をひかれる思いで去る。
◯桜並木消える
いったん家にもどり、着替えてから遅い昼食へ出かける。隣の市のラーメン屋さん。道を隔てたその向かいには長くつづく川沿いの歩道があって、きれいな桜並木と菜の花がずっと続き、みごとだった。春になるとラーメンを食べたあと家族で桜を鑑賞したものだった。で、来てみてびっくり。その桜並木がない。根もとからことごとく切られているようす。河岸工事のためだろうか、この市の「名所」が一つなくなってしまったように感じた。春になると食後にこの川沿いの歩道の桜ふぶきを子どもたちと楽しんだものだったが。
下の写真は昔、ラーメン屋さんの窓から見えた桜並木。東京へ行ってきた。駅で見かけたのは就活の黒いスーツ(襟は白)の若い女性たちの群れ。この黒ってどうよ、と思う。さいきんの車の色もワンボックスや軽だけでなく普通車にも黒が多くなったように思う。車を運転していて前後を黒い車に挟まれると、なんだか不吉な感じがしてくる。車も人も、もっと彩りがあってもいいと思うのだが。
雨の四ッ谷でびっくりしたことがある。交差点あたりから市民らしきヒトビトのデモと拡声器のがなりたてる声が聞こえてきた。大都会でよく見かける光景。デモといえばふつう政権与党の自民党政治に対するプロテストのデモだった。ところが今日見たのはいつもの労働団体などの赤い旗(最近はさまざまな色になったが)ではなく、すべて白地に赤いマルのある旗ばかりで、政権与党の民主党政治にプロテストするデモだった。時代は変わるものだ。
新幹線の中で読んでいた本は『ヨーロッパ中世美術』(浅野和生/中公新書)。ビザンティン美術の専門家によるヨーロッパ中世美術の案内書。ヨーロッパの中世美術というと、キリスト教美術といってもカトリック教会・修道院のそれしか思い浮かばなかったが、それだと古代ギリシャ・ローマの美術とのつながりが見えなくなってしまう。この書はビザンティン美術によってその未知の隙間を埋めてくれるように思った。さらにラヴェンナのテオドリクスなど歴史の書物に出てくる人物たちが、聖堂やモザイク壁画の制作とかかわって記されると人間味というか彩りをもってくるのがおもしろい。
「しっくいに埋め込まれたモザイクの画面は平坦ではありません。またテッセラはガラスや鉱物ですから、光を反射します。そのため、アプシス全体が見る角度によってきらきらと表情を変え、またドームシアターに映写された映画のように、こちらに向かって浮かびだしてくるような効果を持ちます(p55)。」というところなどを読んで、大聖堂のアプシスとよばれる半円形の天井に描かれる金色のモザイクの典雅さというか優美さが、なんとなく分かるような気がした。
生活に彩りは必要だろう。中世のモザイクのような微妙な色合いでいい。茶色の朝や黒シャツ隊はごめんこうむりたい。
政治体制が変わってしまうと、それまで合法的なものが非合法になったり、非合法的なものが合法になったりするようだ。
善悪の基準もこの社会では政治体制が決めるみたい。そういう政治体制が人に「道徳」を説くのだから困る。盗人の説教。
井上ひさしの新作音楽劇『組曲虐殺』は小林多喜二を描く。そのパンフには小林多喜二を虐殺した当時の特高がその後どうなったかが記されているという。
特高部長は警視総監に出世し、敗戦時には内務大臣にまでのぼりつめる。
特高課長は敗戦時には県警察部長になる。
取調主任は署長を経て敗戦時には区長、戦後は教育委員になる。
警察署内での虐殺80人、拷問による獄死114人にのぼるという。
200人近い殺人を、犯罪を取り締まる者たちが犯す。その者たちは殺人が「勲章」となって出世する。戦後社会へ変わっても、教育委員などをしていたという。
町内の婦人会は、何かが決まったあとでほんとうの話し合いがはじまるらしい。これを名づけて「婦人会の論理」と呼んでおく(中井正一の「委員会の論理」のもじり)。
まず「婦人」という呼び名がそもそも時代にそぐわない。
婦人会の寄合で1度話し合われて結論を出した。しかし、そこではほんとうに言いたいことを言えなかったのか、1度決まったあとで、やがて地からわき出るように、巷でさまざまな議論がわき出る。しかも結論をひっくり返すような議論が。
それならどうして最初の寄合でみんなが意見を言わなかったの?ときくと、だれも「悪者」になりたくないから、という答え。なんだかな〜という感じ。「決意なき決定」の典型(「決意なき決定」と「目的なき行事」とは常にペアとなる)。
決まった結論に対して、まったく正反対の提案がそのあとにわき起こるのだからびっくりする。結論は継続、しかし本音は廃止。だれかがこれまで通り継続を唱えた。しかし大方は廃止を考えていた。それなら、だれかが「やめよう」と言わなければならない。そうしてそれに賛同の意を表さなければならない。そうしてそれぞれが意をつくして話し合わなければならない。それで決定をみないなら、継続審議か、多数決か。しかし1度決定した結論には成員すべてが従うのでなければ決定とはいえないだろう。だから話し合いの仕方や決定の仕方に充分な注意を払わなければならない。
討議事項(決議する)と討論事項(意見交換する)とを混ぜご飯にしない。話し合いの性格によって議長と司会とを区別する。議長は「討議」の決定を導く。司会は決定をみちびかない「討論(意見交換)」の交通整理をする。議長も司会もともかく全員が意見を言うように図る。とくに声の大きい人ではなく小さな人、声なき声を議長・司会はできるだけ応援し引きだす(そのために根回しもする)。
さらに議長はどのような決議にみちびくかに細心の注意を払う。部分的賛成・部分的反対がある、修正案がある。さらに全員参加という決定にも、さまざまな参加の形態がある。その参加の形態を一人一人確認する。そうして成員の同意を得る。議長はこのように神経を使ってようやく全員の総意をみちびく。
こういうのを民主主義というはず。戦後64年、民主主義はまだ日本の町内の婦人会には根づいていないのだろうか。話し合いの論理やノウハウを教えてくれるところは学校のはずなのだが、学校はその機能(つまり教育)を果たしているのだろうか。
現代日本社会を表すことばとして「貧困」というキーワードが浮かびあがっている。ジャーナリスト本多勝一は、ずいぶん以前から日本の『貧困なる精神』を著しつづけてきた。いったい『貧困なる精神』はいま何巻めになるのだろう。
「現代日本の貧困」にかかわるじぶんの身近な問題としてすぐに頭に浮かぶことがいくつかある。
1 (とくに)若年層の失業率の高さと非正規雇用の増加という問題
2 公立保育園、市民病院、市民会館などの公立の医療・教育・福祉・文化施設などの切り捨て・民営化という問題
3 自殺者が近年ずっと三万人以上という問題
4 教育費が膨大化してきた問題
5 (自分のころに)果たして年金はあるのかという問題
以下、とめどなくあるため省略。
そもそも「年金」や「福祉」という概念Aと「受益者負担」や「自己責任」という概念Bとは両立するのか?それを行政はいっしょくたにやっている。とんでもない二枚舌ではないか。市民はこの法外な矛盾の前に目を白黒させている。
そもそも行政が「受益者負担」や「自己責任」などをいうべきではなかろう。それをいうなら、福祉や医療や年金制度など成立するわけがない。ほっとけば社会は弱肉強食になる。行政はそれに目を光らせてきちんと福祉をうちたて、社会にセーフティネットはりをめぐらさなければならないはず。それをやめて民間に右へならえして、独立採算?受益者負担?自己責任?そんなバカな。だったら行政など必要なかろう。税金返せ!といいたい。「貧困なる」行政。
いったい市民の税金はどこへ消えてゆくのか?ペンペン草を生やすための某「新空港」や「箱物」の維持費?そうして政官財の上層部や外国(U◯A)へ吸い上げられつづけるのか?
本多勝一が『貧困なる精神』を著し続けてからすでに35年ぐらい経つが、いまだに材料には事欠かない。いや、ありすぎて書けないかもしれない。