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『白い春』の終わり方

 6月23日(火)はテレビドラマ『白い春』の最終回だった。楽しみにしていたのに・・・。今までDVDが出たらすぐに買ってでも観ようと思っていたが、もう観ることもないだろう。

 ドラマの終わり方は最悪のパターンの一つだった。主人公の阿部寛は、娘の育ての父のパン屋を救うためにみずから「犠牲」となって非業の最期を遂げる。

 この終わり方がなぜ最悪なのか。

 それは1度でも犯罪を犯した者は、どれほど罪をつぐない、改心して、まっとうな生き方をしても、最終的に非業の最期をとげるという結末で終わっているからだ。これでは救いようがない。

 さらに、最終回の阿部はまるで「聖人」のようだった。じぶんを裏切った友人を赦し、実の娘が会いに来ても、静かに涙を流しながら「ここへは来るな」と優しく諭す。そうして清貧にひっそりと、老人の世話をしながら暮らす。その「聖人」を「犠牲」に供して終わる。 

 そうして残ったものは何か?「小市民」的な生き方だ。娘とパン屋は、あたかも「やっかい者」がいなくなったかのように、手をつないで阿部の墓から笑顔で去って行く。犯罪者と小市民という二分法の世界。ドラマの制作者の「小市民性」がくっきりと浮かびあがってしまったかのようだった。  

 これはありえない。現実には残された者たちは不幸になるにちがいない。命を救われたパン屋は、心の傷と店(家でもある)の中で引き起こされた殺人の重荷とを一生背負うはず。店では2度と仕事ができそうもない。お客も来ないだろう。そうして女の子(娘)は、実の父親だと人から聞かされ、子どもながらに「もう1人の父親」という意識を阿部に対して持ちはじめた直後に彼の「非業の最期」によって永久の別れに直面する。しかも楽しい思い出のある家の中で。これでは幼な心に深い傷を負わないはずはない。  

 もちろんこのドラマは一種の大人のメルヘンだ。だったらメルヘンのまま終わってほしかった。  

 このドラマにはどこか明るい、無垢な、しっとりとした、心温まるトーンが流れていた。それは天真爛漫な女の子のつくりだすトーンだ。このトーンを際立たせたのが「やくざ」であった実の父親役の阿部だった。そうしてこの娘との出会いによって、阿部の歪んだ心が丁寧に洗いほぐされ、なぐさめられ、まっとうな生き方をさせていった。娘の存在によって父親はいわば「マイナス」の状態から「ゼロ」の状態へと引き上げられた。この「さいわい」(「しあわせ」ではない──「しあわせ」は「ゼロ」から「プラス」への移行だ)が、観るものの心を洗った。  

 このしっとりとしたトーンを最後まで崩してならなかった。最後はまったく異質なトーンに変わってしまった。とってつけたような主人公の非業の最期。主人公を一気に聖人かスーパーマンのように祭り上げ、その「聖人」を「犠牲」にさせて娘とその家族に「恩返し」させたかのようなドラマの安直で無理な、しかも「小市民的」な仕舞い方。いわば九仞の功を一簣に欠く仕舞い方だった。

  ではさいごはどうあるべきだったか。阿部はさいごまで生きているべきだった。たとえば20数年後、老人となって杖をついて歩いている。ふと、向こうからやってくる小さな女の子に目をとめる。なぜか分からないが気になる。女の子の手をひいている女性に目がいく。向こうもこちらを見る。お互いだれなのかよく分からないまま、ふしぎに目がとまる。そうして記憶の深い海の底から何かが意識の海岸へさざ波とともに打ち上げられてくる。はじめはよく分からないまま互いに軽く目であいさつする。そうしてだんだん記憶がよみがえり半信半疑で軽く会釈する。やがて深い確信となって、互いにぎごちなく深く会釈する。通り過ぎてしまう。なぜか話しかけることもなく。振り返ると、小さな女の子も振り返ってこちらを見てにっこりとほほえむ。エンディングの曲がながれ、カメラは一気に上空へとかけあがり、やがてその町と砂粒のような主人公を映す(このカメラワークは映画『オブローモフの生涯より』のよう)。こんなふうにしみじみと終わってほしかった。

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mojabieda * テレビ番組 * 05:48 * comments(0) * trackbacks(2)

ドラマ『白い春』の最終回を予想する

 第1回の途中からテレビドラマ『白い春』を観ている。阿部寛がやくざな役だったので、思わず観入ってしまった。

  阿部が実の父親だが、刑務所帰り。育ての父親が実直なパン屋。そうして小学校の一人娘。娘はほんとうの父親を知らないが、なぜか阿部と出会ってなついてしまう。阿部がひょんなことからパン屋に勤める。これがドラマの縦糸。阿部の周囲に若い男女がいて、三人がいっしょに住む。これがドラマの横糸。

  やくざな父親が、純真無垢な実の娘とぐうぜん出会い、まともな人生を歩もうとする。その変身を描こうとしている。ここからドラマの先を予想してみる。

 一 最悪なパターン  阿部はまたやくざな道へ引きずり込まれてしまい傷害事件か何かを起こすか、自らが娘か誰かを救うための犠牲と(再び)なる。そうして舞台から姿を消し、パン屋は何ごともなかったかのようにそのまま暮らす。

 二 最善のパターン  阿部は自らが父親だとは名のらないまま、まっとうな仕事を見つけ、パン屋からは離れて自立してみずからの人生を歩む。育ての父と娘はそのまま(パン屋の)生活を続ける。若い男女も自立して生きていく。

 三 なんだかなあ〜のパターン  パン屋の親父が何か事件に巻き込まれて(たぶん娘の)犠牲となる。そうして阿部がパン屋を受け継ぎ、実の娘と仲良く暮らす(パン屋がかわいそう)。

 四 予想外パターン  若い女性は実は相当な(表か裏の)有力者の娘。それでパン屋か阿部の窮地を救う。若い男女もパン屋を手伝い、阿部とパン屋はその後も仲良くパン屋を繁盛させて、みんな仲良く、かつあいまいに暮らす。

 五 真っ暗なパターン  娘は母親と同じ病気で亡くなってしまう。阿部もパン屋も生きる力を失い、娘のあとを追う。残された人々はそれぞれ自分の道を行くのがせめてもの救い。

  このドラマは原作がないという。二の最善のパターンで最終回を迎えたい(6月23日が最終回。あと3回)。テレビドラマの『七瀬ふたたび』は原作どおりの「真っ暗なパターン」で終わってしまい、がっかりしたことがある。一、三、五のパターンにならないように。


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mojabieda * テレビ番組 * 18:13 * comments(0) * trackbacks(1)

プリズナーNo.6

 名前からしてアイルランド系の英国俳優パトリック・マッグーハン(Patric McGoohan)が1月13日に亡くなっていることを今日知った。80歳。

 1967年に英国のTVで連続ドラマ『プリズナーNo.6(the Prisoner)』が放映された。今ではとても信じられないが、そのあと(69年というが)あのNHKが日曜日の夜だったかに放映した。わたしは夢中で観た。

 『プリズナーNo.6』はシェークスピアを生んだいかにもイギリスらしい「劇」的なテレビ番組だった。スパイドラマだがきわめて哲学的、思弁的だった。決して一般受けはしないだろう。このドラマの個性がそのままマッグーハンの個性に繋がっているように感じた。

 主人公のスパイ(マッグーハン)がつかまり、ある「村」へと拉致・「監禁」される(囚人となる)。主人公は何度も脱出しようと試みる。このあたり安部公房の『砂の女』を連想させる。

 アノニムな「村」の「村人」たちはすべて番号で呼ばれ、アノニムな存在にされる。住居の内もどこか機械的で寒々とした感じだ。こぎれいな「村」とこざっばりした「村人」たち。土と汗の匂いのない無機質な世界。逃亡と反抗を企てなければ、なに不自由のない囚人生活。この透明な空気の重苦しさ。

 その「村」では誰が敵なのか味方なのか、敵と味方の二分法が通用しない。一見開かれているように見える閉ざされた「村」。一見自由のように見える囚人(村人)たち。他者とわたしの対立、集団と個の対立が浮き彫りにされ、「村」のなかの政治と権力が錯綜し、管理する者と管理される者とが不分明だ。主人公「No,6」が直接対峙する最高権力者は「No.2」だが、その顔はすぐに別の顔にすげかえられる。権力の奥の奥にいるはずの最高権力者が見えない。不条理な世界。これらはまるで現代社会の本質をあぶり出しているようにも感じた。

 海から浮かび上がるロボットのような・生き物のようなふしぎなプヨプヨした白い球体が逃亡者を暴力的に引きもどす。あからさまな暴力装置はこれだけ。あとの得体のしれないモノはニンゲンだけ。主人公の「わたし」も含めて?

 第一話の、だまし・だまされるスリリングなどんでん返しからはまってしまった。

 この『プリズナーNo.6』のDVDは日本語版も出ている。



mojabieda * テレビ番組 * 22:06 * comments(0) * trackbacks(0)

超エコ先進国

 この前たまたまテレビ番組を三つほど並行して観た。一つは徳川宗春、一つはサスケ、一つは『ビートたけしの独裁国家で何が悪い!?』。最終的にサスケを観てしまったけれど、『ビート・・・』はたいへん興味ぶかかった。(大)にっぽん(帝国)放送の番組で、あなどっていたため録画しなかったのがざんねん。

 わたしが観た場面はキューバ。15年で食料自給率が40%から70%に上がった国。米国からの海上経済封鎖、ソ連の崩壊などによって、自給自足せざるをえず、これによって逆にいまや世界がうらやましがる超エコ先進国になっている。

 まず輸入がとだえて化学肥料が使えないから有機農業。都会でも空き地があれば耕作している。もちろん田舎の農業は国家によってたいへん優遇され、都会よりも給料が高く、農村にはゆきとどいた設備があり、医療、学校、生活物資、エンターテインメント(映画館、ディスコ、インターネットなど)に困らない理想の土地になっているから若者がたくさんいる。都会へ行きたいとは思わないらしい。若者の表情が明るい。

 で、田舎でヒッチハイクをしている人がたくさん道の脇に並んでいる。それを整理しているお役人らしい人もいて、インタヴューすると、キューバのドライバーはみんなヒッチハイクの人を拾わなくてはならないらしい。で、もし無視したらどうなるの?(独裁国家だから厳罰か?と思って)と尋ねると、会社の社長に怒られる、という返答に苦笑。その牧歌的なヒッチハイクの風景から昭和30年代の日本のようだと言ったタレントがいた。車がみんなポンコツだなあとたけしが苦笑していた。

 毎朝(まいちょう)ではなく、大にっぽん帝国放送で、(社会主義礼讃みたいな)こんな内容を放送していいの?などとわたしも苦笑してしまった。

 貧しい生活なのかもしれないが、人々の表情は明るく、若者が生き生きしていた。未来がある、という感じだった。

 蛇足。対照的な国が脳裏にうかぶ。同じ島国だが年々田畑がなくなり、食料自給率が低下し、汚染食料が話題になっている偽装大国。


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mojabieda * テレビ番組 * 07:08 * comments(0) * trackbacks(0)

髪をかき上げる一瞬の表情

 この前(24日)テレビで女子バレーを観ていて、タイのセッターの13番に惹かれた。

 名前はTOMKOM NOOTSARA(ヌットサラ)。芳紀23歳。

 セッターとしてチームをひっぱり、ときどき見せる鋭い視線ときりっと引き締まった精悍な顔立ち。髪をかき上げる一瞬の表情。

 残念ながらタイは北京五輪には出られないが、次の五輪に期待している。




人がいふ
鬢のほつれのめでたさを
振り向く時の君に見たりし


君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ


しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ




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mojabieda * テレビ番組 * 18:20 * comments(0) * trackbacks(0)

忘れがたいシーン

 DVDに録画した『世界ふれあい街歩き』を観た。

 シチリア島のラグーサの街。

 カメラは街の中を徘徊する。

 真っ青な空とちょっとくすんだ白い壁の家。すてきな民家のベランダから見下ろす谷の斜面に寄り添う旧市街イブラ。全体が魚の形をしていて、頭の方がラグーサの街の発祥地だという。

 カメラは狭い坂道を時間を遡るように旧市街へ降りていく。

 街ができたのは5、6世紀のビザンチンの時代という。それからアラブの時代がつづく。

 とつぜん現れた犬を連れたきれいなお嬢さん。白い建物がつづく街路。3メートルほどの高さの重厚なドアの家の中にカメラも入る。通路をゆくとパティオが見える。広い庭にはオレンジが実る。祖先は千年前にスカンジナビア半島からやってきたのだという。ある貴族のホームシアターはまさに劇場。今は一般に「も」演劇などに開放されているという。ロイヤルボックスには一族しか入れないらしい。貴族という種族がまだ生き残っている街。

 さて、こんどは下町へゆく。庶民が暮らす新市街らしい。洗濯物を二階の窓辺に干すおばあさん。

 カメラはとある靴屋に入る。夕方近く。年季の入った道具を使う親父さん。1935年生まれ。「『老人』じゃない。年を取っているだけさ」という。いかにも叩き上げの職人。人生の風雪に耐え、ようやく和やかな日だまりの中でゆったり時間を送っている風だが、まだ現役バリバリ。

 「出来たかしら?」そこへ女性が入ってくる。逆光の玄関に立つシルエット。きちんとした身なりのご婦人。親父さんはだまって店の奥から刺繍入りの上履きを取ってきてテーブルに置く。「底のゴムがとれてしまったので直してもらったのよ」という。いかにも上品なおばあさん。よくいらっしゃるんですか?「ええ、とても腕がいいから、彼がいなかったらどうしましょう」。勘定をすませて「グラーチェ」ということばに親父さんは穏やかな似顔で答える。おばあさんはカメラにもあいさつして、ちょっとはずかしそうにそそくさと出口へ去る。玄関を出るとゆっくり歩いてわずかに振り返る。

 カメラはまた親父さんにパンする。エレガントな方ですね?「そうだね。エレガントというよりも良家の方なんだ」と親父さんはいう。靴屋の親父さんはじぶんに言い聞かせるような真面目な顔をする。カメラはゆっくり靴屋を後にする。親父さんはちょっと照れていたのかもしれない。やがて夕暮れが迫る店のなかで、仲の良い近所の親父さんたちとまた話し込むのだろう。

 カメラはある一瞬の場面に立ち会った。忘れがたいシーン。




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mojabieda * テレビ番組 * 18:00 * comments(0) * trackbacks(0)

宇宙戦艦ヤマト

 宇宙戦艦ヤマトを最終回まで観た。

 デスラー砲が最後に炸裂する。だったら、さいしょからデスラー砲でヤマトを葬っておけばよかったんじゃないかっていうのは、ストーリーを後からひっくり返す邪道の読みか。

 古代進の兄、古代守の人物像がつかめない。あいつは軍命にそむき地球の裏切り者としての汚名を着てでも、豊かな星できれいな女性と2人きりで暮らすことを選んだのだ。まあいい、そういう生き方もあるだろう。地球ではいっしょに暮らせないだろうから。ちょうど人魚姫と地上ではいっしょに暮らせないのと同じに。この(性悪な)地上ではスターシャは見せ物になるばかりだから。結局イスカンダル星のスターシャは地球を救うために妹を死なせ、その代わりに恋人を手にいたことになる。そうして「エデンの園」のようなイスカンダルのアダムとイブが誕生した。それはそれでめでたい物語だが、じつは2人きりで暮らすことで果たして幸福に暮らせるかどうかは神さましか知らないことだ。古代守は、ギリシアのオデュセウスの話や日本の浦島太郎の話を知っているのだろうか。

 それにしても解せないのは「死んだはずだよお富さん〜」ではないが、最後に死人が生き返るというストーリーの展開。なんともオカルトチックな話だ。死人が生き返る「説明」がなんにもない。説明すればするほどオカルトになってしまうからだろう。たぶん沖田艦長の命と引き換えってことなんだろうが、たとえ奇跡的に生き返るとしても、心肺停止からすでに数時間経っているとみられるのに普通に意識をとりもどしている。とはいえ、これは復活、あるいは再生の物語だ。地球の復活と再生の意味を込めているのだろう。それからもし第二部を製作するときには、彼女が生きていてもらわないと困るからだろうか。

 宇宙戦艦ヤマト。懐かしい。テレビで放映していたのはわたしの青春のころ。すでにアニメを観る年齢ではなかったから観たことはほとんどなかったが、人から物語を聞いて「うらやましかった」。何がうらやましかったのだろう。それを語る青春がうらやましかったのだろうか。

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mojabieda * テレビ番組 * 10:55 * comments(0) * trackbacks(0)
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