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9、10、11月と、秋には運動会など、保育園・学校・学童保育・子ども会・地域の行事が集中する。それらが土日に行われる。
授業参観・文化祭・体育祭・オープンスクール・音楽会・遠足・ハロウィンパーティー・その他。
土日に行事が行われれば、親が参加できると、それぞれの団体は「良心的に」考える。そうして学校などでは週休日の「代休」があって月曜日などか休みになる。
そうした場合、親はたいてい、休みのはずの土日に出かけて疲れて帰ってくるが、親には「代休」はないし、むしろ、学童保育に預けている親は月曜日の学校の「代休」には困ってしまう。
しかも、そうした行事が秋にはたてつづけに、雪崩をうつように続く。すると親はどうなるか。
それぞれの団体はその時のたった一回の行事ですむ。が、子どもは一人だけ、という家庭ばかりではない。保育園・小学校・中学校・高校に通わせている子どもたちがいれば、それぞれの団体で、てんでに行事を五月雨式に土日に行うわけだから、秋の土日は行事の目白押しで休みがなくなるのだ。とくにシングルマザーやシングルファーザーの場合は、過酷な状況になる。ただでさえウィークデーは馬車馬のように・コマネズミのように職場でも家庭でも働いて疲れ切っているのに、さらに土日も・・・その上そこへ地域の祭りや運動会や文化祭が加わる。休みの日ぐらいはせいせいと休ませてよ、と全国の親たちは嘆いているかもしれない。
休みの日に休めない。何かへんなのだ。ほんとうなら、ウィークデーに親が参加できるような、そんな社会の常識と体制とが必要なはず。ウィークデーに仕事を休んで学校行事に参加などとんでもない、というのが社会の「常識」であるかぎり、親の負担はますます重くなってゆく。なにか歪んだ世の中。
さいきんは、下の子もあまりへんな言い方をしなくなったのは少しさびしい。
◯へぼった 下手をした、失敗した
◯ひなんばが 彼岸花
◯ポカリス ポカリスエットなどの飲料水
◯ポッチキス ホッチキス
◯スパゲキー スパゲティ
さいきんの下の子の口癖は「くそじじい」。しかしこのことばを二つ上の小2の兄に対しても使う。それを聞いているとなんだかへん。
このごろ毎晩のように子どもたちと絵あわせカルタをする。96組もあることわざなどのカルタ。「亀の甲より」と「年の功」が二つの色違いの札になっている。「春はあけぼの」「夏はよる」とか。それをぜんぶ裏返して並べて神経衰弱をする。下が年長、上が小2、そしてわたしの3人で対戦。一度だけ奇跡的にわたしが勝ったが、ほとんど小2の勝利。この前かれは50組で優勝。わたしは12組しか取れなかった。年長児にさえ負ける。小2にはまったく相手にならない。「ことわざ」を知っているだけではだめだ。直前の札のことばと場所とを覚える記憶力の、圧倒的な差に愕然とする。小2の記憶力はすごい。というか、大人になってからは、もう記憶力に年の功はないのだ、ということをしみじみ感じた。
6歳になった下の子のことばはヒットするものが少なくなった。以下ぐらいしかない。
◯ マノネーズ(マヨネーズのこと)
◯ マーボーボーフ(マーボー豆腐のこと。しかし「とうふ」ということばが頭にあるらしく、すぐに訂正して)
◯ マードードーフ
たべものついでに、7月26日(月曜日)は土用の丑の日で、前の日にスーパーのうなぎを買ってあった。
夕飯の食卓へ子どもたちを呼ぶときに「今日は年に一度のうなぎだよ。土用のうなぎの日だよ」と叫ぶ。あとでへんだなあと思う。「うなぎの日」ではなく「丑(うし)の日」だった。おとなも間違う。
もちろん子どもたちには「うなぎの日」で間に合う。「土用」が「月曜」でもいっこう構わない。地元浜名湖産ではないが、いちおう国産うなぎ、らしい。黙々と、あっという間に、丼をたいらげてしまった──美味しくてやがて哀しきうなぎかな。
とうとうベイブレードが13個になってしまった。今のベイブレードは五つのパーツから成り立つ独楽だが、軸の底辺となるパーツの一つの「ボトム」が「きも」になるようだ。あとは「トラック」と呼ばれる軸の部分で独楽の高さが決まる。「ボトム」の形状と「トラック」の高さと金属ウィールの形状とによって、ほとんどの勝負の趨勢が決定されるように思う。
金属のウィールが新品だとピカピカだが、使っていくうちにすぐに色が鈍くなる。そうしてボトムも使っていくうちにすり減ってしまう。すり減ってしまうと、バランスが悪くなる。バランスが悪くなると結局負ける。つまり強いベイとはボトムがまだすり減っていない「真新しいボトムのベイ」ということになる。だとすれば、いちばん新しい買ったばかりのベイが、ボトムがまだすり減っていない分、比較的強いということになる。
そういうことをだんだんと知ってしまった子どもたちが求めるのは、常にピカピカの「真新しいベイ」だ。こうして購買意欲が常に更新され、つぎつぎと新しいベイを求めてゆくことになる。メーカーはちょっとずつ形状の違う「新しいベイ」を生産してゆけばいい。
とはいえ、ボトムの形状など新しいアイデアはもうほとんど出し尽くしてしまったのではないか、と思われるのだが。
街の図書館へ行った。駐車場で上の子が「そらしゃだよ」という。はじめ何のことか分からなかった。「空車だよ」の意味だった。学校で「空」を「そら」と読むのをならったのだろう。雨の日はずいぶん込んでいて、電光掲示が「満」ばかりだったので、「空」を見つけて叫んだのだ。
「そらしゃ(正確にはくうしゃ)」が「駐車スペースあり」という意味だということを上の子は知っていた。今まで読み方を知らなくても駐車場の「空(車)」という字があらかじめ頭の中にインプットされていたのだろう。そうして学校で漢字の読み方を学んだ。ここで常日ごろの生活体験と学校の勉強とが合体した。読み方がちょっとちがったけれど。
保育園の子どもの遠足に付いていく。毎年秋に行われていた遠足を春に行うことになった。
下の子も今年は年長なので、もうこの遠足に参加するのも最後となる。上の子のときにも、最後の遠足だけ付いて行った。親子遠足なので親が行くのはいいけれど、父親が付いていくのはあまり見かけない。
こういう行事を通して親も保育園を「体験」するような気がする。そうでもないかぎり、なかなか子どもの保育園を「体験」する機会がない。体験といっても、じぶんの幼稚園のころの追体験ではなく、親としての体験、あるいは現在のじぶんの体験だ。
まず子どもの体験がある。それを親として見守る体験がある。いわば子どもの体験を豊かなものにしようとリードしたり助言したりする体験。これをA1とする。A1は目的意識的、意図的な行為の体験。
それからもう一つ体験がある。子どもとともにじぶんも遠足を楽しむという体験。これをB1とする。B1は無意識的な行動の体験。
さらに今回はグループをつくって行動したので、子どもが年下の子たちのリーダーとなった。すると、しぜんにその家族のリーダーもわたしが務めなければならない。子どもたちは知り合い同士だが、家族ははじめて。さいしょに自己紹介すればよかったなあと後で思った。子どもたちが中心だから、親は後からくっついて行くだけだが、親同士の意図的な交流も体験すべきだった。こういう体験をA2とする。とはいえ、知らない親同士でも、子ども中心に、つかず離れずの関係でお互い楽しんだ。こういう体験をB2とする。
保育園ではB2を通しながらA2も図ったのだと思う。というより、A1を図る親としてはA2もとうぜん図るべきだったのだ。「A」よりも「B」を重んじ、「B」のなかでも「2」よりも「1」に走った。まあ、じぶんが楽しむことに終始してしまった。
それはそれとして、子どもがどんどん大きくなり、保育園のアットホームな「ぬくもり」から出て、小学校という「大人社会(ゲゼルシャフト)」の入口へむかってしまうのは、なんともさびしい思いがする。子どもは母親よりも保母さんの方が好きだと言っては母親を怒らせている。1番目は◯◯せんせい、2番目は◯◯せんせい、3番目におかあちゃんとなる。子どもは「お別れ遠足」を無意識にもそういう形で表現しているのかもしれない。
GWは遠出はさけて、近くの小公園めぐりをしました。
池の筏に乗り、タイムトンネルみたいなトンネルを抜け、四つ葉のクローバーを集めました。
家では五月人形を飾り、屋根より低い鯉のぼりを出しました。
子どもたちがベイブレードという独楽をほしがる。
おもちゃ屋に行ってもほとんど手に入らない。いま流行っているのだろうか。
わたしがネットで買い物をしている情報をどこからか仕入れた子どもたちが、「アマゾン」で買って、とねだるようになった。
それでたちまち5つのベイブレードを子どもたちに買うはめになった。その上さらにほしいという。ネットでみるとさまざまな種類があるようだ。困ったことに。
昔の独楽のことを思う。わたしのころは鉄の独楽だった。それを薬の瓶の金属蓋などの上に上手に乗せて回し、回っている間、鬼ごっこをした。うまく乗らないと鬼に追いつかれた。鬼もまたうまく乗せないと追いかけられない。したがって嫌が応にも独楽をうまく回せなければ子ども世界では生きてゆけなかった。しかも、いきがって、われこそは、と小さな蓋の上に乗せることを競った。
昔の独楽の遊びでは回す人間の技量のみが競われた。技量を鍛えることを楽しんだのだ。独楽そのものの違いはほとんどない。
それに対して今のベイブレードでは回す技量はランチャーという道具によってほとんど競われることなく違いはいらないようだ。その代わり、一つの独楽が5種類のさまざまな部品に分かれ、それぞれにさまざまな種類があって、その組み合わせで多様な独楽ができ、違いが生まれる。つまり独楽そのものの差異が競われる。
したがって、さまざまな独楽を手に入れ、部品を入れ替えることが競われる。子どもたちは夢中になって、強さを競いあうから、そのためにはたくさんの独楽を手に入れなければならなくなる。
昔の鉄の独楽は安価で一つあればよかったが、いまの独楽(ベイブレード)は一つでさえも高い。近所の子どもたちもみんなベイブレードを持っているので、互いに競い合うように手に入れようとする。この相乗効果。しかもテレビでアニメも放送され、ベイブレードの戦いそのものがストーリーとなり番組になっている。つまり番組そのものが宣伝になり、その番組に子どもたちが釘付けになっている。こんなぼろい商売はないだろうな、と思った。メディアが需要を生み出す時代とはよく聞くが、これもその典型かと思った。
◯てんねんあけましておめでとう 元日の朝、お雑煮の食卓で開口一番「てんねんあけましておめでとう」と言う。根っからの「てんねん」かもしれない。ひさびさのヒットをかました。
◯まるみえこぞう 2日に初詣に行く。静岡市の浅間さん。安倍川を渡る手前で富士山がまるまる見える。それで「富士山が見えるよ」とわたしが言うと、「ほんとうだ、(富士山が)まるみえこぞうだ」と言う。「こぞうって何?」とたずねても、本人にもよく判らないみたい。おかしな語尾をくっつけているが、保育園児の強調語尾だろうか。
今年も初詣は浅間さん(浅間神社)。いつもの年より道は込んでいなかった。天気もよく賤機山に登る。山頂から静岡市街が「まるみえこぞう」だった。
山頂に静岡空襲のときの被害者を追悼する観音像が建つ。その横にその空襲を行ったB29爆撃機で墜落した搭乗員を追悼する碑が建っている。これらは地元の有志の方々が建立したもの。その手前には米国の関係者が2008年に寄贈した23名の搭乗員名を記銘した英語の銘板もある。
それにしても思うのは、B29はどうして墜落したのだろうか。B29搭乗員数は1機で11名らしいから、墜落したのは2機だったようだ。英語の銘板には「killed」と記されていたが、敗戦濃い時期に迎撃する戦闘機もほとんどなかっただろうし(あったとしても高度がB29には届かないから迎撃できない)、高射砲による地上からの対空射撃などはるか上空を飛ぶB29にはまったく届かなかったはず。『静岡県の戦争遺跡を歩く』(静岡新聞社)を見ると「空中衝突した」とある。「killed(殺された)」と「空中衝突」(事故)とではまったく性格が違うように思うが、味方同士で空中衝突した事実をも関係者が「killed」と表現したのだとすれば、それは(敵・味方の別なく)戦争そのものによって「殺された」という意味なのだろうか。「軍功」とか「ぐんしん」とか「犠牲」などという美名で覆い隠そうとせず、(まっとうできたはずの人生を)「国家によるein sinnloser Kriegに駆り出されて、悔しくも中途で絶たれた」という思いをはっきりと伝えようとしたのだろうか。
さてお正月はテレビにも読書にも縁がなくプラモデルづくりに終わりそう。上の子にはリモコンのロボットをつくった。プラモデルは指先が器用でないとつくれない。ボケ防止にはいいかもしれない。この平和な時代をいつまでも、と思う。
今年もよろしくお願いします。