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ほんもののじぶんの手足と首の夢

 早朝に夢を見た。

 どういうわけか、手足と首とがほんとうのわたしのものではない。わたしのクローンのものをくっつけているようだ。ほんものの手足と首に付け替えたいな、と思う。そう思ったとき、クローンの手足がじぶんの体にぴったりとくっついているのに気づく。なんの支障もない。これでふつうに生活し、仕事をしているのだろう。いまさらほんものの手足を大手術をしてまで付け替える必要があるのだろうか、と思う。

 とはいえ、ほんものの手足を預けた組織の長のところへ行く。冷凍保存しておいてほしいと頼んであった。渡されたものは紙袋。中をのぞくと箱がいくつか入っている。記憶をたどると、わたしはじぶんの手足をその箱に入れて組織の長に冷凍を頼んでいた。それがそのまま紙袋の中に放置されてあったのだ。中に、じぶんの首を入れた箱もあった!

 怒りがふつふつと湧いてくる。なんてことだ。ほんものの手足が腐ってしまった。首も・・・。「なぜ、冷凍保存してくれなかったんだー!」とわたしは叫んで、組織の長のいる部屋にむかって廊下を走って行くところで目が覚めた。

JUGEMテーマ:日記・一般
mojabieda * 夢日記 * 06:53 * comments(0) * trackbacks(0)

心の玉手箱

 5月9日。早朝に夢を見た。

 校舎らしい廊下から教室の半分くらいの部屋に入る。準備室だろう。何もないガランとした白い光につつまれた部屋だ。向かいには大きな窓があって、そこから白い光が入ってくる。
 わたしはその窓辺に向かう。手すりがある。低い手すりで落ちそうだ。下を見ると大海原。右側をのぞいてみると、緑の草の生えた丘のようなところに男女の学生たちの群れがいて、昼食をとって談笑しているようだ。その青春が急にうらやましくなる。古い古い、じぶんの失われた青春がひしひしと感じられてくる。
 波が浜辺に寄せている。校舎のすぐ近くまで波が来た。「ほお」と思う。「波が校舎のすぐ近くまで寄せているよ」と誰かに告げたくなった。
 その相手のことを思い、とてつもない寂寞の思いがよみがえってくる。かの女も同じような思いをしているに違いないと感じる。乾いた河床のように荒涼とした思い。しかし過去にもどることはむなしいだけだろうと感じる。

 レクイエムのような夢だった。白い光に包まれた白い部屋の静謐さはなんだったのだろう。同時に感じられた寂寞の思いはなんだったのだろう。

 心の玉手箱を開けないままで暮らす毎日の生活のなかで、もしその玉手箱の中身を見たいと思っても、中身の見当はたいていつく。むしろ、玉手箱の中と、外側の現実の生活とのギャップがあればあるほど、その玉手箱をかかえて生きる現実の生活が「はればれとした」ものになるに違いないと思う。目覚めた朝は穏やかな朝だった。

 しかしその玉手箱の中身を見たいと思う気持ちがつのりにつのって、ある日衝動的に「開けてはならない」という玉手箱を開けてしまうことがあるのかもしれない。すると・・・。そこから先はおとぎ話のようになるのだろう。

 いや、「開けてはならないといわれている玉手箱」であって、「開けてはならない玉手箱」ではない。開けたいのなら開ければいい。しかし、開けたときには、尻が割れるだけだろう。

 これが現実なのだ。だから「わたし」の現実をむしろ架空の「おとぎ話」のように生きるべきなのだろう。ありえない、不可解な物語として。

 いつも疑問に思っていたのは、竜宮城の乙姫が浦島太郎へ決して開けてはならないという玉手箱などをどうして贈ったのかということ。そんな「危険な」物ははじめから贈らなければいい。浦島太郎が玉手箱を開いてはじめてそこは「現実」の世界になった。つまりそういうなりゆきこそが「現実」だということだろう。

 だからこの玉手箱の意味は、「現実」を回避して、現実を「おとぎ話」として生きろ、ということなのだろう。現実こそ、なんとも判じがたい世界だから。おとぎ話以上に「おとぎ話」として生きるときには。
mojabieda * 夢日記 * 06:53 * comments(0) * trackbacks(0)

お正月の堅い夢

 2日、7時15分起床。早朝に夢を見た。半分意識があったかもしれない。

 知識・技能の客観的な抽出という夢。夢の中では知識・技能ではなく、もっと幅広い「ことば」であったような気がする。

 まったく正月そうそう「仕事」関係の夢を見るなんて。

 知識・技能は人格に結びついている以上、個性(個人)に属するものかもしれない。しかし、それを個人に死蔵させるのではなく、「取り出」して、定量的な客観的なものにすることによって蓄積させることができる。そうして、そのストックされたものはオープン・ソースとして万人に共有されてゆく。それによって学問・科学(技術)は発展してきたはず。

 しかし、いわゆる「評価制度」というものは、その評価の結果が個人に帰着するものではあっても、万人にオープン・ソース化されることはない。その人の持つ知識・技能(技倆というべきか)の客観的な「抽出」による評価とその技倆のストックとオープン・ソース化こそ組織の「活性化」と個人の「資質の向上」に役立つものだろう。

 いや、オープン・ソース化されたものを万人が評価することによってはじめて評価が成り立ち、それによってストックされてゆくのだ。

 夢の内容はこのあたりまで。あとは目覚めて考えたこと。

 密室による上役の評価などただの評定にすぎない。しかもそれが査定昇給などにむすびつけば組織の「活性化」ではなく上意下達の組織をつくるだけ。「資質の向上」どころか面従腹背、その場しのぎの創造性・共同性のない劣等「資質」の個人をつくるのみ。百害あって一利なしだろう。

 さらに、すべての技倆が客観化されるとは思えない。個人にのみ帰着するものがあり、人格に深くかかわるものがあるはず。ほんものの「資質」とは客観的に「抽出」できるとは限らない。いや、「できない」と断言してしまってもいいだろう。もし、そんなことができれば、科学(技術)にのっとった教育によってすべての人類は「善人」に改造できるはずだ。

 個人の人格の完成がたとえ教育の目的の一つではあっても、ひどく間接的にのみ、その営為に他者がかかわることができるだけなのではないだろうか。そこのところの「禁欲性」に気づかない高慢な者たちによって結局組織や社会が滅んでいったのではなかったか。

 オープン・ソース化できるものとできないものとがあり、その区別こそ人類の叡智だろう。そしてオープン・ソース化できるものを媒介にしてしか「できないもの」(=人格)にはかかわることはできない。

 などということを正月そうそう考えてしまった。正月だからもう少し雑煮のように柔らかいことを考えるべきか。
mojabieda * 夢日記 * 08:22 * comments(0) * trackbacks(0)

早朝の三つの夢

 写真は名古屋港で見た大型客船



 10月5日の早朝、夢を三つ見た。

 一つめは天空(飛翔)委員会。内容は忘れてしまった。ふしぎな委員会だったことは確かだ。

 二つめはロマンチックな逢い引き。夜、ある若い女性の家の近くまで行くが、その場所が分からなくなる。昔なじみなのか、なにかしっとりした慕情を覚えている。生け垣で囲まれた狭い小路からその女性が顔を出すだろうと思っていた。が、来なかった。仕方なくきびすを返して帰ろうとすると、どこかから父親らしい人が背後からやってきて、かの女に貸してあった本を返してくれた。また別の男性もやってきて本を返す。なんだかへんに気恥ずかしくなる。やがてわたしは近くの旧家の広い座敷に座っていた。欄間が大きくて立派で古い。どうやら妻の実家らしい。妻の親父さんがやってきた。近所だから、たった今のわたしの不行跡を聞きとがめにきたのかなと思う。恐縮する。親父さんが「根っこの会に入ってもらう」と言う。なんだろう?と思っていると、「まあ、職業訓練みたいなものだ」と言う。なんのことかさっぱり分からなかった。

 三つめは我が家。夜、女性客を何人も引き連れて家に帰ってくる。なぜか古い家だ。土間を通って中庭に出るが、とちゅう風呂場などを通っていく。土間の戸の下に埃が山のようにたまっている。中庭に出ると、大きな井戸には板を敷き、上には何か物を載せてきれいに飾ってある。子どもたちが間違って井戸に落ちないように気をつけているらしい。
 妻に問う「どうして埃が山のようにたまってるの?」
 妻曰く「一日でどのくらいたまるのか、試してる」
 そんなにたくさん埃がたまるもんかなあと思う。見上げると夜空の星がきれいだった。

mojabieda * 夢日記 * 22:07 * comments(0) * trackbacks(0)

早朝の夢

 早朝に夢を見る。一つは狭いT字路を車で行くのだが、右に行けばすぐに大通りに出て近いはずなのに、なぜか左に曲がってしまう。狭い道だ。しかもなかなか進まない。どこかおかしいのだ。ようやく大通りに出て左折する。そのあたりから、車はオモチャになり、わたしは右手でそれを上から抑え、道路を走りながら動かしている。そのうち、そのオモチャの車はなめくじになっている。なめくじの腹は道路にすりへって、口内炎のような穴がポツリと空いている。ちょっとかわいそうになる。なめくじは動作がのろい。わたしはそれをつかんでいるが、急に体を弓のように曲げて跳ねあがって、道路の向こうの家の敷地に飛んでいってしまった。びっくりして目が覚めた。そのとき、道路になめくじが飛び出さなくてよかったなと思った。
 なめくじはさいきん調子の悪いわたしの胃だろうか。

 それからギターを持って得意な歌を歌おうとする。それで、ギターの調音をするのだが、弦を弾こうとしても、その弦が弾けなくてなかなか調音できない。それで、あきらめて、だいたいのところを合わせて、さあ歌を歌おうとするのだが、そのギターではなくて別のギター(アコースティックギター)でなければならなかった。ようやく別のギターを弾こうとするのだが、そのとき、ハタと困ってしまった。歌を忘れてしまったからだ。どうしても有名な別のフォークソングしか思い浮かばない。じれったくて悔しい。そうして目が覚めた。
 これはじぶんの理想とすることをやりたいのだが、まったくうまく展開しない現状を表しているのだろうか。

mojabieda * 夢日記 * 20:37 * comments(0) * trackbacks(0)

夢日記051119

 朝、夢を見た。

 島田駅の駅南にあるまっすぐに南下する道を歩いているようだ。昔と比べると寂れている。

 田んぼがあり、メキシコの街の建物のような色合いのベニヤ板の店があり、昔からよく知っているようで懐かしい。振り返るとそのベージュ色のベニヤは看板のように道路をまたいでいた。

 だれかと連れ立っている。男だがだれだか分からない。田んぼにおおきな窪みがある。水がたまっている。なんだろうと思って南への道をまっすぐ歩いていく。

 すると、高速道路のような高架が交わっているのが見えのでその下まで行く。しかし高架の途中はまだ建設中で、間が途切れている。

 そこへどんどんパズルをはめるように上手に高架ができつつある。すごいなあと思って見ている。

 すると、そこへ新幹線のようなものが走ってくる。なんとその途切れたところを飛び越していく。その列車は細長い弾丸のようで、高架はチューブのようになっていた。

 続いて列車が通るのが見える。わたしたちはその列車の発着所まで二人で歩いて行く。

 そこからわたしたちは列車に乗ろうとするのだが、連れの男はさっき隙間から見えた列車の乗客は仮死状態か死んでいるのではないかという。

 というのは、チューブの途切れた間から見えた乗客はみな目をつぶっていたからだという。そういえばそうだなとわたしも思う。乗客には途切れた間からしか外の景色が見えないはずなのに、目をつぶっているとはおかしな話だと思ったからだ。

 で、その駅では食べ物が用意されているのだが、それを食べると仮死状態になるようだ。そしてその先はたぶんあの世で、この列車はどうでもよい人間をあの世へ送るための列車のようであった。

 食事には豆腐があり、これを食べると死ななくてもすむという。わたしだけこの豆腐を食べる。連れの男はそれを知らない。そして列車に乗るようなのだが、ここでおしまい。

mojabieda * 夢日記 * 07:41 * comments(0) * trackbacks(0)
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