ひきつづいて『「里」という思想』のなかで目を引いた箇所がある。
「出会い系サイトなどの勧誘メールが飛び交っていた頃、私の携帯電話のメール機能を利用していたのは、私ではなく、いかがわしい業者たちであった。自分の道具としてもっているのに、いつの間にか、顔も名前も知らない業者たちに携帯メールは乗っ取られてしまっていた。自分のものであったはずのものが、気が付いてみると、何者かに乗っ取られている。それが現代社会の姿なのかもしれない。
自分が学ぶために学校に行ったのに、その教育は社会システムを再生産するための装置になっていて、この社会システムに使われていく人間として、自分が教育されている。それをとおして、自分自身が何者かに乗っ取られていく。自分の目的があって働いていたはずなのに、企業と市場経済のなかに身を置くうちに、いつの間にかその目的さえ、企業と市場経済のメカニズムに乗っ取られ、いまではそこからも使い捨てられている自分がいる」。(p194)
「自分の精神が何者かに乗っ取られ」ているという感覚はわたしにもある。人間の手によってつくられた仕組みにアクセスしているだけで、精神の深みに降りられないもどかしさ。この世との接点が直接的ではなく、人工的にシールドされた自閉的空間のなかで、その向こうの世界を逆にヴァーチャルなものだと思いこんでいるみたいな錯覚。さらに尾崎豊ではないがいつのまにか「仕組まれた自由」に自発的に服従しているようなじぶん。社会のさまざまなシステムの関数にくみこまれて、その変数の一つになっているだけにすぎないような。真木悠介のことばなら──
「彼はじっさい、人生などまるでなかったみたいなものだ。刻々にインプットされる「情報」の無数に連立する方程式や不等式から、その都度「最適」の解を算出して行動する情況の自動機械(オートマトン)が、宇宙の悠久の「時間」のさなかに束の間存在しただけのことだ。/彼は客観情況のたんなる函数(機能)(ファンクション)にすぎない。すでにある事物によってすでに書きこまれた限りの「未来」を、みずからの行動によって実現する媒体であるにすぎない」。(真木悠介『人間解放の理論のために』p45)
内山の文章には「企業と市場経済のメカニズム」とあるが、学校教育はさらに「国家」のメカニズムを組み込んでいる。そうしてそれらのシステムを再生産するための完璧な装置となっているのではないか。