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『ユルスナールの靴』を読む

 霧のむこうに人は理想郷をもとめる。魂のアルカディアを──。

 須賀敦子の文章を読んでいると、そのことを思う。『ユルスナールの靴』を、暇なときどきに、しおりも挟まずに読む。だから気づかずに(あるいは気づいていても)同じところを何度も読んでいる。  

 『ユルスナールの靴』は10年前に買った文庫本。遠くへ出かけるたびにバッグに入れて持っていく。新幹線の中で読む。  

 何かに惹かれる。何に惹かれているのかよく分からないまま。  

 新幹線のなかで『ユルスナールの靴』を、前の座席にくっついている小さな棚の上に載せた。ふと、この本を人に見られることが恥ずかしいような気持ちになった。この感覚はどこから来るのだろう。あまりにこの世ばなれしているのを気恥ずかしく思ったのだろうか。貧困問題や、どうやったら人は飯(めし)が喰えるのか、という次元からは遠く離れている。  

 とくに惹かれるのは「皇帝のあとを追って」と「木立のなかの神殿」。須賀敦子というイタリア文学者を通したユルスナール(Marguerite Yourcenar)というフランスの作家を通したハドリアヌスという古代ローマ皇帝の姿が浮かびあがる。ハドリアヌスの人生とユルスナールの人生と須賀敦子の人生とが三重にかさなる。それぞれの人生の哀歓のひだに降り立つような感じ。共通するテーマは「ノマッド(放浪者)」か。  

 ノマッドということばは「砂漠を行くものたち」の中にでてくる。人のことばを借りて記されているが、ヴァガボンドには「ほんとうはひとつ処にとまっているはずの人間がふらふら居場所を変える」どこか否定的な語感があり、それにくらべると、「ギリシアに語源のあるノマッドは、もともと牧羊者をさすことば」だという。ノマッドには「血の騒ぎ」や「種族の掟」のような支えがあると。

 イタリア文学にもフランス文学にもなじみはないのに、『ミラノ 霧の風景』という須賀敦子の本の背表紙を見ただけで、いつか読もう、いつか読まなくてはならない、と思ってしまった。実際さいしょに読んだ須賀敦子の本は『トリエステの坂道』だった。それからは須賀敦子と著者の名前が冠される書物はかたっぱしから読み出してしまった。題名を見ただけで内容が想像されるが、どれもまさに思っていた通りの(心惹かれる)本だった。  

 夏に読書という「靴」をはく。しかしノマッドにもヴァガボンドにもなれないので霧のむこうにただ思いを馳せるしかない。

JUGEMテーマ:読書
mojabieda * 読書 * 06:15 * comments(0) * trackbacks(0)

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