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小池昌代の「カフェの開店準備」を読む

 「カフェの開店準備」(『屋上への誘惑』岩波書店)を読みました。

 はじめにこの文章を読んで感じたことは、著者の小池さんの感覚の独特な鋭さでした。

 ある朝のカフェの開店準備の様子をガラス越しに見ていたときに気づいたことから、どんどん思考が深まっていくのですが、その契機となった場面が次のように描かれています。

 「窓を磨いて、窓の桟を吹く。額縁のほこりを払い、各テーブルに、砂糖壺を置いていく・・・むだがなく、やり慣れた事がらを次々こなしているといった印象です」。ここまでの描写はごくふつうの人の感覚で、そのまま見過ごしてしまうような情景だと思います。しかし、この先が非常に鋭いと思いました。続きはこうです。

 「でも、どこかこの繰り返しに、耐えがたいというような抵抗感と、かすかなあきらめも感じられます」。

 ここを読んで、若い女性の動作を細やかに観察しながら、その人の内面のどこか深い部分まで見通しているような感覚の鋭さを感じました。

 明るい朝の、なにか新鮮な情景、光が満ちあふれたような清潔な店内、そんな情景の中に、かすかな「陰」のようなものを感じる鋭さ。これは小池さんの持つ独特な鋭い感覚なのではないかと思います。

 さらに話がすすみ、カフェの開店準備の話からどんどん離れてしまい、人間の生のありようにまで話が拡大していきます。カフェの開店準備の動作の描写が非常に具体的なのに対して、対照的にこの部分はひどく抽象的で分かりにくいところでもあります。たとえば、

 「別の言い方をすれば、未来も過去もなく、あるのは現在だけ。その現在という一点に、生も死も、何もかもがある」。

 この部分だけを読むと、何か宗教書でも読むような、あるいは哲学書でも読むような難しさを感じました。カフェの開店準備の話とはまったく次元がかけ離れたような問題のような気がしたからです。小池さんの心のなかに、まずここに出てくるような哲学的、人生論的な問題意識がつねにあって、そこからカフェで働く若い女性の行為をながめていたのではないか、とも思いました。

 特にその中でも「現在という一点に、生も死も、何もかもがある」という記述。そこからいくつかのことを考えました。たとえば、一つ考えることは、生というのは「いま」という時間の中でのみ成り立つ現象である以上、「きのう」も「あした」も、じつは何もないのだ、という時間の捉え方です。何にたとえたらよいか分かりませんが、海の波のようなものを考えると、波は海面のある一部だけが盛り上がったものです。そうして移動していく。海面が時間の総体だとすれば、その中でいま波が起こっている、その状態が「いま」という現在の一点を表すものと考えられます。そして、そこにのみ、生という現象が起こっている。波が起きていない他の海面は過去または未来ですが、波が起きていない以上、そこに「生」もない。そして「わたし」はいない。

 そういう理解でよいのかどうかは分かりませんが、そんな意味に受け取りました。

 さらにもう一つ、「現在という一点に・・・死も・・・ある」というのはどういうことでしょうか。死も「いま」という一点で起こるということでしょうか。

 もしこのような捉え方だとしたら、なるほど、それは非常に新鮮な捉え方だ、と思いました。生に過去も未来もないように、死にもまた未来も過去もない、そう考えると、ふしぎな感覚に襲われます。つまり、死とは「いま」の消滅に外ならないのではないだろうか、という感覚です。そうして生とは「いま」そのもの。過去や未来は死と同じ。生を記憶する、残すとは「いま」を記憶し、残すこと。それは原理的に不可能。だからその痕跡のみを残すだけ。いわゆる「名残」というものでしょう。

 それはともかく、このように、人が生きているというのは「いま」だと考えれば、過去を思い悩んだり、未来を不安に思ったりすることはあまり意味がないのかな、と思えます。人が悩むのは、たいてい過去や未来にかかわっています。苦しむのは「いま」を耐えるということだけでなくて、耐えることがこれからも続くという「未来」の重さのために苦しみを感じたりするのではないでしょうか。あるいは、「過去」のことをいつまでもひきずっているために苦々しさを感じたりするのではないでしょうか。だから、過去も未来もない、と断言できうれば、それだけでも救われるような気がします。そして「いま」だけに集中して生きればいい、と思い切ることで、居直って?生きられればいいなと思います。そういえば明日のことを思い煩うな、というのは新約聖書にもありました。

 とはいえ、そう考える一方で、何か反論のようなものも浮かんできます。というのは「いま」だけに集中することによって、未来に対する広い視野も展望も持てなくなってしまうのではないか、という疑問が生じるからです。たしかに「いま」を充実させ、「常に喜びを発見する」というのはたいへんすばらしいことだし、それは「行為を習慣化」させないことになるかもしれません。しかし、それだけでいいのだろうか、という思いもします。人は未来に希望を感じたり、過去を振り返ったりして、そこから現在を生きる力を得たりすることもあるのではないでしょうか。未来のために現在を苦しむということも、ある程度必要なのではないでしょうか、と思うこともあります。

 小池さんが一番言いたいことは、たぶん平凡な日常、平凡な日々の細部をどう積み重ねていったらいいのか、という課題でしょう。なされるそばから消えていく日常を人は積み重ねています。そうして、それらほとんど日の当たらない「陰」だけで構成される日常のくりかえしを、どのように人は生きたらいいのでしょうか。「しぶとい挑戦」を受けているだと小池さんは記していますが、昔のテレビゲームのように、こなしてもこなしても「敵」がつねに襲いかかってくるのを、ひたすら撃ち落としてゆくくりかえし、のような日常。「光」「陰」の区別なく、人はひたすらそれらに挑みつづけなければならない、生とはそれ以外にはない、という覚悟を迫られるような文章でした。

   
JUGEMテーマ:読書
mojabieda * 読書 * 08:00 * comments(0) * trackbacks(0)

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