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上野千鶴子教育講演会
2005.10.21 Friday
○ 教育講演会(互助組合)・上野千鶴子(東京大学大学院・人文社会系研究科 教授)
「サヨナラ、学校化社会──東大生を通してみた教育の危機」
会場は沼津東高校。2時40分開始。参加者はざっと90名ほど。
最初の挨拶は吉原高校長、終わりの挨拶は高教組の沢村氏というおもしろい組み合わせでした。
参加者はすべて高校の教職員のようでしたが、中には退職者もいるようでした。わたしの目の前の夫婦はもうずいぶんお年をめしていましたが、小型のテープレコーダーと一眼レフのカメラを持参してきていました。やはり女性が多く、若い人からお年寄りまで。20代とみられる若い女性もかなりいて、前の方へ陣取っていました。男性は中年以上が多いようで白髪が目立ち、若い男性はほとんどいませんでした。
上野さんは小柄。やせぎす。茶髪。ショートカット。声が少し高いか。顔立ちは、きりっとしている方で、話し方は明瞭かつ論理的、簡にして要、ときどき知らないカタカナ語を使っていました。
講演の内容は(お客さんである)進学高校の教育者むけという感じで、上野氏本来の舌鋒の鋭さはあまり見られなかったようです。抑えていたような印象を受けました。上野氏の著書から想像すると、かの女は「怪物」か「化け物」か(すみません!)という印象ですが、世の中をひっくり返しそうな、革命的なフェミニストという片鱗はあまり見られませんでした。
(高等教育という)業界のプロ教師の一人という印象で、演題にあるような内容はあまり深くは入り込めなかったかもしれません。この講演が(東大へ学生を送る)「お客さん」へのマーケッティングでもあることを冒頭から氏は口にしていたし、大概に高等教育をマーケッティングの視点から切り込んだ講演でした。
以下は上野氏の講演の内容(のわたしのリトールド)です。
わたしは演台が嫌いなので前に立つだけにする。教育関係者を前に話す機会はあまりない。このように同業者として話すことができるのはありがたい。大学では教師になるための訓練は受けない。どろなわ式に教師のノウハウを大学では身につける。わたしは苦労した。私学の教員を長くしてきて、教師はサービス業者だと思っていた。
しかし今の東大に来ると同業者にはそう思った人がいないようだ。教育関係からは100%講演を引き受けてきた。それはかつての職場が弱小私学だったからだ。
高校生の進路決定に最大の一言は進路の先生の一言で、進路の先生がわたしの名前を持ち出して、「おまえはそこへ行け」と言われて進学してきた学生もいた。
弱小私学の学生たちは、大学に入学しても「どうせ」と「しょせん」に染まりきっている。そのマイナスから引き揚げるのにどれほど苦労するか。この子らをつぶしてわたしのところへ寄こした高校の教師の顔を見たかった(笑)。しかし高校の先生方に言わせると、同じようにこの子らをつぶして寄こした中学の先生の顔を見たいという。最終的には親の顔が見たいとなる(笑)。
東大に行ってからは状況は変わった。11年間、東大の教師をしている。学生たちには「やれば出来ると思っているのは才能のせいではない、環境のせいだ」とよく言っている。弱小私学の学生は「やれば出来ると思う」ことすらできない環境にいる。
東大に来て学生の変化を見てきた。社会学科の学生だけだから間口は狭いが変化は如実である。学生の幼児化と学力低下が進んでいる。「先生、英語の文献を読まなければならないの?」ときかれて大変なショックを受けたことがある。
「英語の文献なんて、よまれへんわ」とは弱小私学の関西の大学生。私学では「あっそう、ごめんね」で終わる。しかし東大で同じとは思わなかった。
これは少子化の影響である。学生は社会経験が少なくなり、生活経験の幅が狭くなった。親の過剰な管理の下で生活してきた。心理的な症状が出てくる。ひきこもりなどの割合が増えて今では(社会学科で?)2割、しかも留年率が高くなっている。いまは5割、昔は2割だった。
いつからそのような心理的な症状が出てくるかは手にとるようにわかる。3年の後半からである。3年の後半に就職活動がはじまり、会社訪問がはじまる。四年のGWには行き先が決まる。3年の後半の就活が(心理的症状の)トリガーになることがよく分かる。
(優等生だから点数がよくても)面接で落とされるとなぜかわからなくなる。それを人格の全否定と思ってしまう。つまりストレス耐性がない。そのような学生の割合が目に見えて増えた。あるときわたしは危機だと思って親を呼んで入院させた。東大でわたしは生活指導までしている。
ストレス耐性のなさについて、斎藤環(青年期の精神病理学の専門家)の引きこもり研究ではこう言っている。人は成長の途上で「しょせんここまで」とか、「そこそこ感」とよばれる去勢経験を持つ。いわば「手が届く可能性のあるものにだけ欲望を持つ」ことができる。星まで手に掴みたいという欲望を持ったら人はボロボロになる。
人はさまざまな現実に叩かれて去勢経験を味わうのだ。それを経験してきていない者がひきこもりになるという。その気になってがんばればやれるんだ、と思ってしまう。いわば「理想的自我」と「現実自我」とのギャップの前でたちすくんでしまう。つまり去勢されていないのだ。去勢して来なかったのは親と教師である。
そのようなストレス耐性のなさにはジェンダー差がへってきた。昔は「しょせん女の子だから」などと、女子には「そこそこ感」があった。いまはない。これも少子化の影響である。女子でも尻をたたいて星まで手を届かせようとする。女子の浪人も増えた。女子の症状は男子と違い、食べ吐きとリストカットが多い。
最近のデフレスパイラル(悪性デフレ)だと東大卒でもブランドにならない。就活で傷ついて帰ってくる。東大生ではじめてフリーターが登場した。就活しない学生だ。そのようなフリーターは今年度50名中2割になった。
中には入院(大学院に入る)する者もいる。これはモラトリアム入院に過ぎない。執行猶予型の選択だ。わたしは入院(大学院に進学しようとする)希望の学生に言う、「大学業界は衰退産業部門だ。君たちは不利な選択をしている。競争が激しい。やめたほうがいい。マーケットはオーバーサプライ(供給過剰)だ」と。
就職課に相当するものが東大ではじめて出来た。オープンキャンパスをようやくはじめた。やっと東大も私学なみの経営努力をはじめたのだ。慶応は早稲田に水を開けたが、場合によっては東大をけってまで慶応へ行く学生も出ている。このままでは「東京大学」が「東京の大学」になると危機意識を東大も持ち始めた。
大学危機というが、ふつうの大学生よりももっと悪いストレス耐性のないひよわな東大生になりつつある。
さて大学危機の問題は構造的で、一つ目の要因は少子化だ。
現在、大学はホリゾンタルマーケット(高校新卒市場)だけでなく、バーティカルマーケット(異年齢市場)も考えている。つまり社会人を入学させている。だが(卒業後の)受け皿をつくらずに社会人は入学させられない。したがって助手公募が30歳までだったのを、アカデミックエイジ(大学院終了後)三年以内にと変えて受け皿をつくった。
しかし、なんのための教育か、学位なのか。ふつうに教育とはそこへ投資をしたら元をとる「生産財」(何かを生産するための資金)と見る。ひものつかない金はないわけだ。だから親は君たちの教育に投資したものをいつかは回収するつもりではないかと学生に聞くと、学生たちは暗い顔になる(笑)。
しかし50代や退職後に社会人として入学してくる人たちにとって、高等教育は「生産財」ではなく、「消費財」である。お稽古事や自己満足や旦那芸のようなもの。しかしそのような目の肥えた学生たち、豊かな生活経験と円熟した人生経験のある人たちのニーズに叶う大学教育ははたして可能かと案じている。
投資した時間と資金とエネルギーに比してベネフィット(利益)のコストパフォーマンス(費用に対する性能の比率)はどうかということだ。そのように社会人入学者に尋ねると、「若い人といっしょでいい。授業が楽しい」という答えが返ってくる。授業が楽しいねえ(笑)。しかし1年で100万だ。
教育を生産財ではなく消費財にシフトすれば、お客さんの目が当然きびしくなるはず。逆に、生産財としての教育を押し付けている学校教育は、たいくつでつまらなくても、やがて元を取る(学歴を得て就職する)ためにがまんしている。そういうダルな(なまくらな)お客にあぐらをかいてきたのが今までの大学だ。
大学の構造危機の二つ目の要因は、博士が増えてもマーケットが増えないオーバーサプライになっていること。博士がパブリーに増えて量産体制に入っているがマーケットは増えていない。
三つの要因が最大のもので一番こわい危機である。これは(高等教育の)グローバリゼーションだ。
国内だけではないマーケットが大学である。現在、国外のマーケットからお客(学生)を呼ぼうとしている。アジアを射程にいれて学生を集めているのだ。いままでの大学は護送船団方式で(国内で保護されて)きた。いまは全世界の大学の格付けのどの位置に東大が入るかは国家的な使命になってきている。
韓国のソウル大学は世界のトップ30に入ろうとして海外からの教員を増やしている。教育をバイリンガルにもしている。韓国の大学では英語で授業ができるようにという条件があるそうだ。韓国から日本に留学した学生は(日本の大学のレベルの低さのために)母国に帰ってしまう。学位の国籍別ランキングも問題になってきた。
留学生たちは高等教育のグローバルな動向に敏感だ。留学生は日本ではなくあっというまに英語圏に行ってしまう。留学生の流れが変わりつつある。いま日本ではベストの学生を引き留めることが出来なくなっている。
高等教育で衰退している部門もある。ドイツ語・ドイツ文学や中国・インド思想は超衰退部門である。それに比して(自画自賛だが)社会学は成長しつつある(笑)。情報と福祉と国際という部門は拡大している。
ともかく才能ある人をひきつけなければ高等教育の業界は伸びない。ベストアンドブライテスト(最良で最高)の学生を得たい。だから学生は国内にとどまらなくなっているが、海外からの学生にとって日本語は超むずかしい言語で関税となっている。教員も国内で学んだ者は「国産品」と呼ばれて、ソウル大学では英語圏の大学を出た「国際品」が優位に立つようになった。
いま日本の大学教育のクオリティー(質)が問われている。それについてはわたしは危機意識が深い。高等教育は産業である。米国ではグローバルなビックビジネスだし、それだけの価値を持っている。
だから、米国の大学では受け取った学生に「付加価値」をつけて送り出している。在籍中にどれだけ伸ばすことが出来たかということだ。東大は偏差値のいい生徒を集めているが、東大の教育がトップというわけではない。付加価値をつけてはいないのだ。
昔の企業では「大学では勉強させなくてもいい」と就職担当者が言ったという。「へたな智恵をつけてくれるな」と。しかしその時代は終わった。企業はそのような学生を求めてはいない。大学も素材を四年間遊ばせておくわけにはいかない。付加価値をつけて送り出すということが大学の競争力になってきた。
たとえば、地方の大学で小さくてもきちんと付加価値をつけて送り出している大学も出てきた。金沢工業大学、小樽みらい大学など、受け取った素材をきちんと磨いている。製造物に対する責任だ(笑)。
「四年間レジャーセンターでした」ではすまなくなってきている。米国の私立大学の学費の高いところで300万の大学など、教員の休講を許さない風潮がある。ユーザー意識があるわけだ。日本ではどうだろうか。
とうとう東大も企業努力を始めたが、そこで、付加価値とはどのような付加価値なのかが問題だ。人的資本、人材、人的資本率など取りざたされているが、人的資本率とは「高等教育にかかる教育費(一人当たり)」かける「在籍中の学生数」割る「GNP」のことである。日本は高い。親の負担が高い。教育立国である。しかし質は数値化できない。その人材は果たして次世代型の人材なのか、と考えるとうそさむくなる。
ゼミに来る学生に「自由に討論してごらん」というと「何してよいか分かりません」という。「口頭でプレゼンしてごらん」と言われても何してよいか分からない学生がいる。思わず「きみたち今までなにしてたの?」と聞いてしまう。
「受験生の時がいちばん能力が高かった」なんていうあきれた学生もいる。「学問は学んで問うもの。問いを立てなさい。調査研究・リサーチをやってみなさい。答えははじめからない。問いは自分からつくるものだ。正解のない問いを立てること」とわたしは言う。
その「問いを立てる」スキルを教えることはできるが、「あんたの問いはあんたの問いだ」とわたしは言う。だれかが似たような問いをすでに立てただろう。それを「先行研究」という。先行研究ではなく、だれも立てたことのない「オリジナルな問い」でなければ付加価値はない。
モノづくりの生産性と情報の生産性とは違う。情報生産性の高い人材をつくる必要がある。ユニークな問いを考えつく学生がほしい。東大生という、ある意味で「いちばん困った素材」でも種と仕掛けで訓練すればなんとかなる。手遅れではない。(高校までに身につけてきたスキルを)ゼロに戻してやって、いま本人が切実に思っていることを振り返らせる。一番切実な問いを立てることからはじめさせている。
学生はそのようにして一年間で変わっていく。しかしそれまでの18年間どこで何をしてきたのか。学生が育ってこないと日本の次世代はない。
いまは労働市場が変わってきている。労働市場のフレックス化が趨勢となっている。9時から5時までの正規雇用は減少しパイは増えない。万年高失業率のヨーロッパではフレックス化が先行している。フリーターなどの問題は子どもの意志の問題ではなく労働市場の構造的な問題だ。
「いずれ行く末は正社員」というゴールは一過性だったといえる。マルクスは「すべての労働者はいずれ賃労働者だ」と言ったが、イマニュエル・ウォーラーステインはそれは間違っていて「正規労働者は頭打ち。フリーランス(自営業も含む)が増える」と言う。フリーターとはフリーランスのこと。
1950年代からはじまった「学校を出たらみんなで正社員」は一過性の夢なのだ。家族もまた同じである。近代家族論では、結婚が大衆化したのは近代化以降である。婚姻率がトップなのは高度成長期で60年代半ば。この時期が「最大瞬間風速」だった(笑)。一過性のものだったのだ。当時一度でも結婚したことのある男は97%、女は98%。終身結婚制で皆婚制だった。これは終身雇用制とマッチしていた。(二つとも)それからどんどん下降してきた。
男のフリーター、ニートにとって正社員がゴールになるだろうか。女にとって結婚がゴールになるだろうか。いまは企業自体が激動にさらされている。正社員や永久就職(結婚)がゴールではなくなっている。「いずれ正社員」「いずれ結婚」はもはやない。
フリーターは「雇われないライフスタイル」となっている。ウォーラーステインは「持ち寄り家庭」と言う。つまり「マルチ・インカム・ソース」である。
「シングル・インカム(収入)・家庭」とは昔の大黒柱家庭。「ダブル・インカム・家庭」とは共稼ぎ世帯。共稼ぎが一般的になってきた現在は大黒柱家庭は「片稼ぎ家庭」ともいわれている。
さらに、それぞれが低所得でも家族の多数が働く「マルチ・インカム・ソース」でなんとか生きられる。これが「持ち寄り家庭」だ。家族のきずなはかえって高まる。小銭をかきあつめて生活するようになるから家族が助け合うのだ。凝集力をたかめるという。家庭内の分業もできなくなる。
こういう(フレックス)社会にふさわしい人材とは情報付加価値の生産性の高い人材である。そのような情報付加価値の生産性の高さでしか日本は生きられない。
いまグローバルマーケットを制覇しているのはIT産業だが、、そのITのハードでは日本はダメになった。というのはOSを外国から買っている国はハードもだめになるからだ。OSを制覇するものがハードも制覇する。
クリントンの改革の十年間に日本は出遅れた。あと残るのは日本では「トロン」と「ユビキタス」だけ(笑)。
日本の生きる道はコンテンツしかない。日本のコンテンツを外国に聞くと、「コミック」と「アニメ」のみだ(笑)。
宮崎駿のアニメをいま日本製とは世界では思わないほど知られている。好きなことだけやってきた(劣等生だ)からこそ、そのようなアニメができた。東大生ではできない。つまりコンテンツは作れない。
日本の教育はまったく正反対のことをやって大学に学生を送り込んできた。「同調」と「適応能力」のみだ(会場から失笑)。
そういうことを求めている会社はつぶれてきた。「人と違うことをやったときに足をひっぱられる環境」と「人と違うおもしろいことをやってきた環境」とでは同じ18年間でも根本的にちがう。日本の教育の環境では競争に負ける。人的資本率は高いがその質は次世代型とはいえない。間違っている。
グローバルな学生の国際移動がはじまっている。日本の大学の地盤沈下もはじまっている。もはや猶予はない。
だれが一番の犠牲者・被害者か。それは子どもたちだ。ツケを払うのは子どもたちだ。(いま東大にいる)頭が固いひ弱でストレス耐性のないぶきような子どもたちがかわいそうでならない。子どもたちに大きなツケを払わせてはならない。
(東大という)トップ大学の内部に見えるのは実は大きな問題なのである。
ここまでで講演は終わりでした。この先からおもしろくなると思いましたが、肝心なところはあとは(現場の)各自で考えてくれということでしょうか。
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mojabieda
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