<< December 2005 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
               Page: 1/1   

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

スポンサードリンク * - * * - * -

寒風の中の餅つき

 ある会合のあと、みんなでガレージに出る。

 橋本さんの道具と準備と音頭でみんなで餅つきをする。

 高校生も大人もまじっている。

 屋外というのか、ガレージの中だがシャッターを開けているから風が入って寒い。

 が、それがまた餅つきらしくていい。

 杵も臼も橋本さんのもので、アウトドア用のさまざまな機材もそろっている。

 臼は橋本さんの家に二つぐらいあるらしい。今日のは楠で比較的軽いという。高校生たちははじめて餅をついた。
 
 ついたお餅をすぐに食べる。
 
 それぞれちぎっては海苔を巻き、大根おろしとなめこを混ぜたものをのせ、その上にマヨネーズあえのシーチキンをのせた。それをそのまま口にほおばる。これがおいしい。温かく柔らかいお餅によく合う。
 
 そのあと、つきたてのお餅をちぎって雑煮用にイモやニンジンを入れた汁の中に入れて食べる。
 
 さらに、お餅をちぎって平らにし、アンコとバナナを入れてつつみ、その上に生クリームをのせて大福にして食べた。
 
 橋本さんは納豆が餅に合うという。しかしさすがに納豆とあんこは混ぜないという。

 お昼ご飯に腹一杯食べた。寒風の中だったが、つきたてのお餅を外で食べるのは風流だった。
mojabieda * 日記 * 15:45 * comments(0) * trackbacks(0)

国家は国民を守ってくれない──読書日記

 以前読んだ『経済成長がなくなれば私たちは豊かになれないのだろうか』(ダグラス・ラミス/平凡社)のP40−42には、たいへんおもしろい記述があります。

 このページには「国家は誰を殺しているか」という究極の問題が記されています。驚いたことに、殺されているのは外国人よりも自国民のほうが圧倒的に多いそうです。

 ハワイ大学のある学者の統計資料によれば、20世紀の100年間で国家によって殺された約2億人のうち、約1億3千万人が自国民だそうです。

 考えてみれば、ナチス・ドイツによるユダヤ人の虐殺しかり、スターリンによる粛清しかりです。

 近くはロシアのチェチェンもインドネシアの東ティモールも「自国民」だからこそ国家はその「国民」を殺してきたのでしょう。

 ラミスによれば、フィリピンの軍隊は第二次世界大戦以来、外国人とは戦ったことは一度もないけれども、フィリピン人をたくさん殺しているといいます。

 国民国家とはいえ、国家の原理は国民を守ることにあるのではないということでしょう。

 国家の武装組織である軍隊や警察は自国民を守るという建前はあるものの、守る対象には順番があり、その上位にあるものの不利益になるものならたとえ自国民でも(あるいは自国民だからこそ)「合法的」武力で排除・抹殺するものだと考えればよいのでしょうか。ちょっと悲観的ですが。

 たぶん守るものの順番は次のような順番だろうと思います。

 1 軍隊や警察という組織の中枢

 2 国家という組織の中枢(中央官界、政界、財界、マスメディア界の上層部およびそれらと結託した外国勢力)

 3 中央と結託する地方有力者

 4 一般国民、市民(いわゆる大衆です)

(5 老人・傷病者・幼児・子ども・移民労働者・在日・犯罪者・女性・反体制の人々・その他被差別者)

 5は4に吸収されるというか、4と5とは本質的に「同じ」階層なので( )をつけました。

 4と5とを峻別し分断して、5をやり玉に挙げることによって4を体制になびくようにさせてきたのは権力の常套手段です。4の不満のはけ口を5への攻撃にむけさせてもきました。

 国家の原理とは1、2、3の階層の利益を守るために、4、5は「合法的」に収奪・排除・抹殺するということでしょう。もちろん後者は「金のなる木」ですから、ブロイラーのようにある程度は肥えさせなければなりませんが。

 1、2、3の階層を「臣」、4、5の階層を「民」と表現しておきます。

 「臣」においては「私」が「公」を収奪し、「民」においては「公」が「私」を収奪するという構図になっています。

 さいきんの事件では次のような事件を思い浮かべます。

 「民」が他人の家の玄関先などでビラなどを配ったら、「私」有財産の不可侵を犯すものとして逮捕されました。

 その一方、「臣」が、不可侵であるべき「私」有財産を奪って強制的に不必要なエアポートなどをつくろうとしてきました(きています)。

 そうしてそのキックバックによってますます「臣」の「私」が肥えるのでしょう。

 しかしこういう構図はいたるところにみられるように思います。

 さらにその上、収奪される「民」が、収奪する「臣」の「味方」の役目を「盲目的に」し、その収奪を補完する役割を果たすとしたら、それは「臣」にとってはよだれが出るくらい理想的な構図でしょう。

 国家による教育の目的やマスメディアの本質はそこに焦点が当てられているのではないでしょうか。
mojabieda * 読書 * 11:33 * comments(0) * trackbacks(0)

かかわりとつながり──世迷い言

 高生研という研究団体では、昔「かかわり」、今は「つながり」ということばが流行っている。

 「かかわり」とは、ある集団のリーダーが、その集団の中の問題をかかえた者に接近することを基本的に意味していたと思う。

 「かかわり」には集団の意志のようなものがあった。

 それに対して「つながり」にはそのような意図はない。「つながり」はいわばネットワークに似ている。

 ここまではとりあえず一般論である。この先はまったくの世迷い言である。

 「かかわり」にも「つながり」にも媒介となるものが必要なのではないか。それを目的と呼んだとき、「かかわり」の目的が集団の発展と個の自立だとすれば、「つながり」には何の目的があるのだろうか。

 「異質共存」あるいは「市民性の涵養」が目的なのだろうか。しかし「つながり」とはそもそも目的志向性を意識的に捨象したことばではないか。

 「かかわり」は集団の発展と個の自立という目的を持ち、集団の輪郭とともに個の輪郭も鋭く浮き彫りにされるのだが、それに対して「つながり」は集団の輪郭も個の輪郭もあいまいである。見えてこないのだ。

 同質な者の共同社会にも異質な者の公共社会にも、その前提に個と個とを結びつける媒介となるものがあったはずだ。精神的なバックボーンのようなものである。

 かつての「神」が個と個とを結びつける精神的なバックボーンだったとしたら、「かかわり」は「神」の死を前提にして生まれて来たものだろう。いわば世界の「夜」を捨てて、世界の「昼」に生きようとした。「組織」とその組織をつくる「単位」とを問題にした。

 しかし世界は「昼」(合理と論理)の世界ばかりではない。「夜」の世界がある。

 現在は「死んだ神」に代わりうるものを求めているような気がする。「民主主義」も「平和国家」も「市民社会」もそれに代わりうるものにはならないだろう。それらは世界の「表」にあるもので、「裏」にあるものではないからだ。個と個とを媒介するものは「裏」にあるものだろう。

 かつて宗教は愛や信義や徳を求めた。これらは「裏」をカバーするものであった。今、「裏」をカバーするものは「金」と「欲」のみなのだろうか。

 世の中の矛盾。たとえば唯物論を唱える運動家が魂清く生き、唯物論を否定する宗教家が物欲にまみれること。
mojabieda * 教育 * 23:29 * comments(0) * trackbacks(0)

『華氏911』を観る

 『華氏911』(マイケル・ムーア)を観た。この中に「抵抗勢力」の人質となった高遠菜穂子さんが出てきた。

 映画そのものは反ブッシュの民主党の宣伝のような映画だったが、反戦の意図は充分に伝わった。

 ブッシュ一族とビンラディン一族とが、それぞれ米国とサウジアラビア両国のそうとうな権力を持つ一族であり、つながりがあることがよく分かった。冒頭に、米国に住むビンラディン一族20数名を、ビンラディンに濃い嫌疑がかけられている9.11の直後に、専用機でサウジに政府が逃がしていることを伝えている。

 イラクの戦場へ兵士として息子を送り出している連邦議員は一人しかいないということを前に聞いたことがあるが、その出所はこの映画らしいと分かった。マイケル・ムーア監督が実際に映画の中に登場し、現実の議員たちに「息子を兵士としてイラクの戦場へ率先して送らないか。海兵隊のパンフをあげるよ」と勧めている場面がある。もちろん痛烈な皮肉なのだが。

 この映画はなかなかおもしろいけれど、はっきりと民主党びいきだ。民主党と共和党の違いなどペプシコーラとコカコーラの違いぐらいにすぎないとは聞いたことがあるが、そうかもしれない。とはいえ、米国大統領がブッシュではなく、あのときゴアが大統領になっていたら世界の歴史はもっと違ってきたかもしれない。

 長い映画で、終わったら日が傾いていた。

 それからまっすぐいつもの書店へ。高生研から送られた図書券(原稿料)を使う。

 7500円分あったので、加藤周一の『日本その心と形』(徳間書店)などを買ってしまった。あとは諸星大二郎の『諸怪志異(四)燕見鬼』。これは家に帰ってすぐに読んでしまう。

 わたしは翌朝の今日、二つの本をアマゾンに注文した。

◯ 『バグダッド・バーニング―イラク女性の占領下日記』(リバーベンド)
◯ 『ファルージャ 2004年4月』 (マハジャン,ラフール...

 これらは読まなくても、今までネットで読んだり調べたりしてきたので、おおよその内容は分かっている。しかしいろんな人に読んでもらいたいと思った。
mojabieda * 映画 * 09:49 * comments(0) * trackbacks(0)

さいきんの事件のこと

 さいきんの事件のことを考えた。
 
 同志社大学の学生がアルバイトで務める塾で教え子の小六の女の子を庖丁で刺して殺した事件。朝のニュースでは、窃盗事件を大学で起こして停学になったことがあると報じていた。
 
 しかもそれまでに何度も窃盗をしていたことがわかった。
 
 こんな殺人事件を起こす前に大学では停学ではなく退学させるべきだったと考えただろう。
 
 こういうことを結果論という。あらかじめ結果が分かっていれば、当然そうしただろうが、現実にはその結果は予期も予測もできない。
 
 そもそも、彼の窃盗事件と殺人事件とは連動するだろうか。どう関わるのだろうか。
 
 もちろん大学や警察ではその因果関係をきちんと洗い出して、前もって打てる手をもっと早く打つべきだったと反省しているかもしれないし、あるいはそうあるべきかもしれない。
 
 しかし科学のような因果関係を、人間の心理に当てはめることができるだろうか。
 
 天気予報にしても、たとえばさまざまな観測条件から降雨の確率を割り出すだけである。確率とはものごとの本質的な因果関係を表すものではない。状況を「外側」から数学的に割り出しているにすぎない。
 
 たとえ人間の行動の心理に科学的な手法を応用して、確率的に数字を割り出した答えを出しても、それは人間の心理を分析したことにはならない。
 
 しかし、そうは言ってもそれでは先が読めないし、なんの対応策も出てこないから、社会は実際的に合理や論理で人間の行動の心理を分析し、対策を立てるだろう。
 
 とはいえ合理や論理で分析して人の行動の因果関係を明らかにする無理から当然ほころびが生じる。いわば「嘘(理屈)」である。その「嘘」に納得しながら人は暮らしている。だから真実は見えてこない。
 
 たとえば「善い心から善い行動が生じる」というのは、そのような「嘘」の一つである。

 人はあとから「つじつま」を合わせようとする。「あんな事件を起こすような人はやっぱりその前にこんな事件を起こしていたのだ」と。

 二つの事件の接点としてその犯人の「悪い心」「ゆがんだ性格」をその発生源にすれば、みんな納得する。
 
 「善い行動」は社会がそう価値付ければよいことだが、いったい「善い心」とは何か?だれがどのようにそう判断するのか。そう判断するのはおのれだけなのだ。ここに個と他者(世界)との隔絶がある。
 
 科学的、合理的「嘘(理屈)」と「現実」とのはざまに、人間の真実がありそうだ。
 
 同志社大学の学生の心にあったものは何だったのだろう。窃盗癖という心の闇と、小六の女子を殺害する心の闇とは、どうつながるのだろうか。心の闇は見えない。
 
 親鸞が言ったという「わが心のよくて殺さぬにはあらず」とは、たとえ立派な良心を持っている人でも、人を殺すこともあるということだ。
 
 おのれの心の闇についてどれだけ人は知っているだろうか。
 
 明治の日本に永住してしまったラフカディオ・ハーンは、当時の日本の大衆について次のように述べている。
 
 「浮世のままならなさと人間の本性の弱さとは、骨の髄まで経験で知りぬいているから、肚のなかには一片の憤りもなく、ただ罪にたいする大きな歎きだけを持っている大衆がいた」
 
 古き良き日本人の良俗は昨今では「逝きし世の面影」となってしまったのかもしれない。いまあるのは、「合理的」という迷妄とルサンチマンと市場の蠅ばかりである。
mojabieda * 時事 * 18:47 * comments(0) * trackbacks(0)

前の車が止まらないと思った

 先日、警察署で免許証の更新をした。DVDで講習を受けたとき、衝突事故の原因について学んだのだが、事故を起こした者の証言として「前の車が止まらないと思った」とあった。

 この表現に「?」とわたしはひっかかった。

 意味が分からなかったのだ。そこでこう言い直した方がよいと思った。「前の車が止まるとは思わなかった」と。

 たしかに後者の言い方の方が「分かりやすい」と思った。

 しかし、よく考えると、「思わなかった」という「思い」とは何だろう。

 「なぜ事故を起こしたのか?何を思っていたのか?」を究明しようとしたら、「思わなかった」ことなど答えにはならない。事故を起こした者の「〜とは考えなかった」「〜とは思わなかった」という意識のブラックホールをいくら探っても、それは積極的な原因にはならないだろうからだ。

 また、止まるとは思わなかったという「消極的な原因のようなもの」は「言い訳」のようでもある。そこには「止まるなどということはだれも考えられない以上、わたしだけの罪ではない(止まった方も悪い)」という言い訳めいた意味合いが多少でも含まれるのかもしれない。

 しかし、「前の車が止まらないと思った」という表現は、文法的にもやはりなんとなくおかしい感じがする。「(前の車がその時)止まるなど(ということは)絶対にない、とわたしは勝手に思い込んでいた」というぐらいの意味なのだろうか。

 だとすれば、問題は「が」の用法かもしれない。「が」を「は」にして、「前の車は止まらない(車なのだ)と(勝手に)思っていた」にすれば、それでも落ち着くように思うがどうだろう。

 だとすれば「が」の用法と「は」の用法とはどう違うのだろうか。これを考えようとも思ったけれど、今日はもう湯冷めするので寝ます。

mojabieda * 日記 * 22:03 * comments(0) * trackbacks(0)

原点である戦争体験に立ち戻る

 ──読書日記『裂かれた大地』を読む
 
 本書は京都新聞出版センター発行の「京都満州開拓民」の「記録なき歴史」をたどったものである。
 
 京都新聞に連載された記事をもとに書かれたもの。執筆者は二松啓紀記者。
 
 写真の右の女性は(まぼろしの?)京都満州開拓民であった佐野さん。
 
 1、333円+税とある。1、400円だが、わざわざこのような表記をしているのだろう。本来の値段をきちんと表記している。しばらく忘れていた感覚だ。わたしを含めて多くの人が、たとえば消費税が10%になっても、最初は腹を立てるが、そのうちすぐに忘れてしまうだろう。
 
 そうして1、333円などと、どうしてそんな煩わしい表記をするのか、と腹を立てたりするのだ。
 
 人は常に原点を忘れてしまうものらしい。
 
 戦争もまた同じか。
 
 本書の44ページにかわいい幼子ふたりの写真がある。
 
 満州開拓団の子どもたちである。
 
 母親は着のみ着のまま二人の息子を連れて開拓村から避難し、命からがらようやく船に乗ることができた。
 
 これで助かると思った船の上で、こんどは爆撃に遭う。終戦後の話である。
 
 機銃掃射のあと、息子たちを抱きかかえていた母親の背中にぽっかりと穴が開いていた。
 
 船が沈没する混乱の中で、母親は板を見つけた。
 
 その板に、こわがる子どもたちをなだめすかしてようやく乗せることに成功する。「チャーちゃんと一緒やさかい大丈夫や」。
 
 こうして沈みかけた船から脱出して、必死に二人の子どもたちを両脇にかかえて板にしがみついた。
 
 気丈な母親である。この爆沈によって亡くなった開拓民は40名以上という。
 
 幼い息子たちを両脇にかかえ、板につかまった母親は、ようやく落ち着く。あとは救助を待つだけだ。
 
 ところが、どこからか姿を表した大人の男性があっという間にその板を奪ってしまう。
 
 板を奪われた三人は水中へ放り出される。
 
 「突然、息子にさわれなくなった。張りつめていた心の糸がプツッと切れた。戦地に行った夫とは、二度と会えない。ここで二人の息子と死ねたら本望だ。もう何も怖くない」
 
 川底深く沈んでいったが、九死に一生を得て母親は助かる。だが、子どもたちは二度と戻らなかった。
 
 戦争の犠牲者はまず赤ん坊であり、幼児であった。
 
 自国の軍隊は、敗戦の色が濃くなると、開拓民を置き去りにして逃げている。
 
 開拓民のうち、赤ん坊や病弱な女性などは足手まといとされ置き去りにされる。
 
 京都市が強力に押し進めた開拓団の事業は、市の担当者が戦後その資料をすべて焼却して闇に葬った。尋ねてきた生存者に開拓団の存在そのものを否定した。戦後、その人は役人として昇進している。
 
 開拓民で亡くなった人は、その多くは終戦後に殺されたり、病死したり衰弱死したりした人である。軍隊も国も市もだれも助けてはくれなかったのだ。

mojabieda * 読書 * 00:36 * comments(0) * trackbacks(0)

毎朝晩の呪詛

 毎日通っている通勤道路は、昔は知らないが今では重要な幹線道路になっている。

 道路の両側は田んぼ、仕舞た屋、農家、工場から郵便局、商店、パチンコ屋、スーパー、歯医者、美容院、コンビニ、料理屋など、さまざまだ。

 北へは駅にも通じるし、1号線とも交わり、さらに北上すればバイパスにも行くことができる。南へは大井川を渡る橋にも150号線にも通じる、いわば交通の要路になっている。

 この道を毎朝・毎晩、通勤の車やトラックや空港建設のためかダンプ、さらにその脇をバイクや自転車や歩行者、通学の高校生の自転車、歩く中学生、集団登校の小学生、ゴミを出す地元の人、などがあたふたと行き来している。信号の手前や踏切の手前ではかならず渋滞する。

 しかも、道の両側にはところどころ改築・新築中の建築現場になっている。

 道幅は狭く、ブロック塀や狭く古い石の橋もあり、ダンプが通るときは対向車が道路脇へ避難しなければならない所もある。道幅が広くなって両側に歩道がある箇所は限られた一部だけだ。しかし西北と東南を結ぶ道はこの道しかない。左右の小道から人や車や自転車がどんどん割り込んでくる。毎朝大混乱である。

 この道を通る通勤・通学する者は「空港なんか作るより、よっぽとこの道を広くしろと言いたい! いったいこんな狭い道、いつまで続くんだ!」と心の中で呪詛のことばを吐きながら、毎日通っているのだ。

mojabieda * 日記 * 22:08 * comments(0) * trackbacks(0)

G3はジーサンになった

 12月8日のジョン・レノンの命日(あるいは日米開戦の日)のときから、PowerBookG3の液晶画面がピンクににじむようになった。G3はもう「じーさん」になったのだろうか。

 もう5年も使っているからそろそろ寿命かもしれないが、外付けハードディスク(USBでもファイヤー・ワイヤーでも)を付けると直ったり、画面を倒したら直ったりする。蝶番部分の接触の関係だろうか。よく分からない。

 このパワーブックはキーボードが本当に打ちやすい。反応もよい。さまざまな文字情報をエディタでテキスト化している。

 今のパワーブックはどうも打ちづらい。しかもOSXだ。さらにCPUがインテルになるという。昔のマックはよかったなあと思っているのはわたしだけだろうか。

 最初にマックを買ったのはPowerBook170だった。92年の3月3日。最初にして最高のものを手に入れた。しかもまだ動く。たいしたものだ。

 このPowerBook元年から、極端にいえば、わたしの人生の「歴史」がはじまった。それまでは「歴史」がなかったのだ。

 さまざまな文章、日記がこのPowerBookの中につまっている。というか、デジタル・データ化している。一箇所で集中管理し、いっしゅんで検索可能になっている。

 来年はアフターPowerBook、すなわちAP18年となる。その前はビフォアーPowerBook、すなわちBPとでもいおうか。

 しかし、毎日かかさず日記を書くようになったのはたったの6年前からだ。その前の日記は、肝心なこと・大事なことはまったく書かないで、どうでもいいことばかり書いていた。さらに、日々の事実を丹念に書くようになったのは、つい2年くらい前からである。

 ついで、家計簿をつけ続けるようになったのは1年前からだ。これも大切なことだろう。

mojabieda * PowerBookG4 * 21:56 * comments(0) * trackbacks(0)

味な平和ゼミナール

 午後から志榛地区の組合の独特な学習会があった。「味な平和ゼミナール」というもの。島田市役所前に30名ほどが三々五々集まった。講師は島田学園高校の土居和江、小林大治郎、小屋正文先生。
 
 まず歩いて近くの曹洞宗「普門院」という扇町のお寺の門前に行く。その門柱の「普門院」とあるところに穴があって、そこは唯一島田市(当時は人口3万人くらいの東海道の宿場町)に落とされた爆弾の破片が突き刺さっていたという。その隣の扇町公園に行く。このあたりが被爆地付近らしい。そこには立派な「平和之礎」と銘のある碑があり、大きな銀杏の樹があった。あとで話を聞くと、この銀杏だけが被爆後に残ったらしい。
 
 この辺りはわたしの子ども時代の遊び場の「縄張り」の内で、幼稚園(島田中央幼稚園・快林寺?)に通っていたときには毎日この寺の近くを通っていた。それで、この辺りに爆弾が落ちたことはよく聞かされていた。しかし亡くなった人は一人だったとどうしたわけか勝手に思っていた。
 
 また、幼稚園へ通う途中の小路の突き当たりにお寺があり、ここが爆弾の落ちた「普門院」だと思っていたが、まったく別のお寺で、名前も今は分からないが、近所に住んでいながら、小さなころからいろいろと勘違いをしていた。

 近所のお寺は法憧寺というのだろうか、後に記す志村氏の戸地図にある。東隣に稲荷神社がある。その間の小路を通ったような記憶がある。寺の境内を入ってから、小暗い杜を抜けて小川にかかる橋を渡ったこともあったように記憶する。今は寺も神社も影も形もない。
 
  碑にはこうある。
  
 「昭和20年7月26日午前8時40分頃本土来襲の米軍機から投下された爆弾一発は我が扇町町内に落下炸裂したこれにより即死者33名重傷死者14名、重軽傷者約200名、壊滅家屋数百戸に及ぶ大惨事を惹起した。仍(よっ)て茲(ここ)に碑を建立して犠牲者の冥福を祈り併せて平和の貴さを後世に伝えたい」
 
 そのあと扇町公民館(瓦に「学」の字が使われている、もと校舎のような建物)に行き、当時の被爆者の人たちの話をうかがう。
 
 最初は志村貞夫さんの証言。島田第二小学校(扇町の西隣りの小学校)で被爆。白岩寺(島田の東にある山、島田理化工業の北)上空からB29が一機飛来したのが見えたという。扇町公園の銀杏の樹から東南40メートルあたりが爆心地で、空中爆発したという。志村さんが作成した当時の戸地図を見ると、この辺りは狭い小路が縦横に交じり、田や畑もあったが、人家もところどころ密集していた。銀杏の樹以外はすべて壊滅したらしい。この銀杏の樹も上半分はふっとんだらしい。
 
 続いて、横山由起子さんの証言。島田駅の貨物室に勤務していた。人々が飛来機を見て騒いでいたが、自分は真上に来たときに飛来機を認めた。チカっと大井神社の杜の東辺りで光った。爆弾が落下し爆発したあと、煙突状の煙を認めた。瓦礫が落ちてきた。自分の家の近くに落ちたらしいので、急いで見に行くと、大井神社の脇に布団の切れ端などが飛んできていた。家々は壊滅し、上の兄は爆風で即死していた。見かけは怪我もしていないように見えたが、服を脱がせると腹に穴が空いていた。息のある人は近くの加藤病院へ運び、亡くなった人は空き地に運ぶ。隣りのおばさんには首がなかった。その首は大井町の路上に落ちていたという。
 
 その後、大塚キヨさんの証言。日本光学(現場の近く)の医務室に勤務。休みなので8時ころ家に行く。北側の納屋にいた。「ビー(B29)が来た!」という叫びを聞く。爆弾の爆発の音は聞かなかった。気がつくとワーと喚く音がし、家の下敷きになっていた。家族を捜したが、自分は鬼のような格好をしていたらしい。そのうち気を失う。30数箇所を怪我していた。気づいたら(すぐ近くの)加藤病院の熱い砂利の上にいた。隣は予科練の若い兵隊さん。すでに亡くなっていた。たまたま現場を通りかかって巻き込まれたらしい。大塚さんは横井町の「きょうせい病院」に運ばれたが、医療関係者は夜は天徳寺に避難していて、治療らしい治療もなかった。被爆の日のことを服を着替えては思い出す。一日として忘れることはないという。
 
 そのあと、島田学園高校の小林大治郎先生から話を聞く。
 
 この爆弾は原爆模擬爆弾で、長崎に落ちた原爆と同型のもの。原爆は計りしれないほど高価だったため、米軍は訓練用爆弾でシュミレートしたらしい。色だけ黄色く塗ったので「パンプキン」と呼ばれた。広島に落とされた原爆が「ファットマン」。長崎に落とされた原爆が「リトルボーイ」。そしてこれは「パンプキン」。
 
 「原子を殺した」訓練用爆弾だが、TNT火薬を詰めた恐るべき爆弾で、B29の搭乗員たちに「破壊用爆弾を投下した経験を与えるほうが望ましい」つまり「臨場感を持ってほしい」という戦術的な意図があったため火薬を詰めたらしい。
 
 当時の新聞には住民が「油断していた」などと記されているが、一機でやってきて空襲警報もなかった。被災の責任は住民にはない。
 
 しかしどうして爆撃されたのが島田市街だったのか?という点については不明なところが多い。第一目標は富山の軍需工場だったらしいが、天候が悪く第二目標として途上にあったのか、島田に落としたらしい。しかし島田には軍需工場もない。なぜ市街に落とさなければならなかったのか。「市街地」へ落として、その先にある「広島」「長崎」への市街地殺戮を比較・想定・覚悟するための実験だったのか。米軍は戦争終結後、島田の被爆効果まですぐに調査をしたらしいことが米軍の資料で分かった。
 
 参考文献『原爆投下訓練と島田空襲』(土居和江・小屋正文・小林大治郎/静岡新聞社/1995年/絶版)、『明日までつづく物語』(小屋正文・小林大治郎・土居和江/平和文化/1992年/絶版)。
 
 次は土居和江先生の「満蒙開拓団」の話。島田は「満蒙開拓団」については大きなかかわりがあるという。静岡県民の開拓団は満州全土に及んでいた。静岡村、西静岡村や大井郷など、地元の地名を付けているところもあった。
 
 佐野さんという京都出身で、いま島田在住の女性の「満蒙開拓団」の話が続いてあった。
 
  佐野さんは平安郷開拓団の生存者である。終戦後子どもたち・女性たちだけで満州から日本へ渡ろうとするが、たいへんな苦労をしている。終戦の後でも逃げていく途中の船が爆撃され半数が亡くなったという。
 
  関東軍や兵士たち大人が子どもや女性を見捨てて逃げるのを二度も体験する。途中、後で考えると731部隊の関係者らしい者たちもどんどん逃げて南下していったが、とつぜん死んでいったらしい。

  佐野さんはまだ8歳だったが、満人にだまされて売られた。そこで5年間働かされて、また人身売買されようとする前に、ようやく逃げることができたという。その後もいろいろとあったらしいが、満州にいて、自分は日本人にはなりたくないと思ったともいう。
 
  しかし自分も加害者の日本人の一人として甘んじて中国人たちの侮蔑を受けようと思ったともいう。女子が一人で生きていくことは並大抵のことではなかったとボロッと話す。
 
 参考文献『裂かれた大地―京都満州開拓民』(二松啓紀/京都新聞社)
 
 そのあとは小屋正文先生の島田「技研」のマグネトロン開発の話。「技研」の正式名称は「第二海軍技術廠電波一科島田実験所」で、「でんぱ いっか」とも呼ばれていた。
 
 電子レンジの原理となっているマグネトロンの研究をし、兵器として開発していた。終戦直後に資料は破棄され闇に葬られた。
 
 しかしこの研究にかかわった人脈がすごい。仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎など。実験所所長の渡辺寧はのちに静大の学長になる。また初期の「島田分室」と呼ばれたころの分室長であった水間正一郎はのちに島田理化工業を設立した。もともとは「日本無線」の工場内に「技研」が開設されたらしい。
 
 島田理化工業の近くに島田工業高校が創設されたのも何か縁があるのだろうか。
 
 このような軍事研究が民間に活用されて、高柳健次郎のブラウン管の発明にもつながっていったのだろうか。また、この研究が戦後の民間の科学研究あるいは兵器研究や開発とどのようにつながっていったのか、疑問はたくさんある。
 
 さまざまに感銘を受けた勉強会だった。


 左の写真は小林先生から話を聞く参加者

 左の写真は平和之礎

 左の写真は、講師のみなさんが話をしてくれた扇町公民館
mojabieda * 講演 * 13:38 * comments(0) * trackbacks(0)
このページの先頭へ