午後から志榛地区の組合の独特な学習会があった。「味な平和ゼミナール」というもの。島田市役所前に30名ほどが三々五々集まった。講師は島田学園高校の土居和江、小林大治郎、小屋正文先生。
まず歩いて近くの曹洞宗「普門院」という扇町のお寺の門前に行く。その門柱の「普門院」とあるところに穴があって、そこは唯一島田市(当時は人口3万人くらいの東海道の宿場町)に落とされた爆弾の破片が突き刺さっていたという。その隣の扇町公園に行く。このあたりが被爆地付近らしい。そこには立派な「平和之礎」と銘のある碑があり、大きな銀杏の樹があった。あとで話を聞くと、この銀杏だけが被爆後に残ったらしい。
この辺りはわたしの子ども時代の遊び場の「縄張り」の内で、幼稚園(島田中央幼稚園・快林寺?)に通っていたときには毎日この寺の近くを通っていた。それで、この辺りに爆弾が落ちたことはよく聞かされていた。しかし亡くなった人は一人だったとどうしたわけか勝手に思っていた。
また、幼稚園へ通う途中の小路の突き当たりにお寺があり、ここが爆弾の落ちた「普門院」だと思っていたが、まったく別のお寺で、名前も今は分からないが、近所に住んでいながら、小さなころからいろいろと勘違いをしていた。
近所のお寺は法憧寺というのだろうか、後に記す志村氏の戸地図にある。東隣に稲荷神社がある。その間の小路を通ったような記憶がある。寺の境内を入ってから、小暗い杜を抜けて小川にかかる橋を渡ったこともあったように記憶する。今は寺も神社も影も形もない。
碑にはこうある。
「昭和20年7月26日午前8時40分頃本土来襲の米軍機から投下された爆弾一発は我が扇町町内に落下炸裂したこれにより即死者33名重傷死者14名、重軽傷者約200名、壊滅家屋数百戸に及ぶ大惨事を惹起した。仍(よっ)て茲(ここ)に碑を建立して犠牲者の冥福を祈り併せて平和の貴さを後世に伝えたい」
そのあと扇町公民館(瓦に「学」の字が使われている、もと校舎のような建物)に行き、当時の被爆者の人たちの話をうかがう。
最初は志村貞夫さんの証言。島田第二小学校(扇町の西隣りの小学校)で被爆。白岩寺(島田の東にある山、島田理化工業の北)上空からB29が一機飛来したのが見えたという。扇町公園の銀杏の樹から東南40メートルあたりが爆心地で、空中爆発したという。志村さんが作成した当時の戸地図を見ると、この辺りは狭い小路が縦横に交じり、田や畑もあったが、人家もところどころ密集していた。銀杏の樹以外はすべて壊滅したらしい。この銀杏の樹も上半分はふっとんだらしい。
続いて、横山由起子さんの証言。島田駅の貨物室に勤務していた。人々が飛来機を見て騒いでいたが、自分は真上に来たときに飛来機を認めた。チカっと大井神社の杜の東辺りで光った。爆弾が落下し爆発したあと、煙突状の煙を認めた。瓦礫が落ちてきた。自分の家の近くに落ちたらしいので、急いで見に行くと、大井神社の脇に布団の切れ端などが飛んできていた。家々は壊滅し、上の兄は爆風で即死していた。見かけは怪我もしていないように見えたが、服を脱がせると腹に穴が空いていた。息のある人は近くの加藤病院へ運び、亡くなった人は空き地に運ぶ。隣りのおばさんには首がなかった。その首は大井町の路上に落ちていたという。
その後、大塚キヨさんの証言。日本光学(現場の近く)の医務室に勤務。休みなので8時ころ家に行く。北側の納屋にいた。「ビー(B29)が来た!」という叫びを聞く。爆弾の爆発の音は聞かなかった。気がつくとワーと喚く音がし、家の下敷きになっていた。家族を捜したが、自分は鬼のような格好をしていたらしい。そのうち気を失う。30数箇所を怪我していた。気づいたら(すぐ近くの)加藤病院の熱い砂利の上にいた。隣は予科練の若い兵隊さん。すでに亡くなっていた。たまたま現場を通りかかって巻き込まれたらしい。大塚さんは横井町の「きょうせい病院」に運ばれたが、医療関係者は夜は天徳寺に避難していて、治療らしい治療もなかった。被爆の日のことを服を着替えては思い出す。一日として忘れることはないという。
そのあと、島田学園高校の小林大治郎先生から話を聞く。
この爆弾は原爆模擬爆弾で、長崎に落ちた原爆と同型のもの。原爆は計りしれないほど高価だったため、米軍は訓練用爆弾でシュミレートしたらしい。色だけ黄色く塗ったので「パンプキン」と呼ばれた。広島に落とされた原爆が「ファットマン」。長崎に落とされた原爆が「リトルボーイ」。そしてこれは「パンプキン」。
「原子を殺した」訓練用爆弾だが、TNT火薬を詰めた恐るべき爆弾で、B29の搭乗員たちに「破壊用爆弾を投下した経験を与えるほうが望ましい」つまり「臨場感を持ってほしい」という戦術的な意図があったため火薬を詰めたらしい。
当時の新聞には住民が「油断していた」などと記されているが、一機でやってきて空襲警報もなかった。被災の責任は住民にはない。
しかしどうして爆撃されたのが島田市街だったのか?という点については不明なところが多い。第一目標は富山の軍需工場だったらしいが、天候が悪く第二目標として途上にあったのか、島田に落としたらしい。しかし島田には軍需工場もない。なぜ市街に落とさなければならなかったのか。「市街地」へ落として、その先にある「広島」「長崎」への市街地殺戮を比較・想定・覚悟するための実験だったのか。米軍は戦争終結後、島田の被爆効果まですぐに調査をしたらしいことが米軍の資料で分かった。
参考文献『原爆投下訓練と島田空襲』(土居和江・小屋正文・小林大治郎/静岡新聞社/1995年/絶版)、『明日までつづく物語』(小屋正文・小林大治郎・土居和江/平和文化/1992年/絶版)。
次は土居和江先生の「満蒙開拓団」の話。島田は「満蒙開拓団」については大きなかかわりがあるという。静岡県民の開拓団は満州全土に及んでいた。静岡村、西静岡村や大井郷など、地元の地名を付けているところもあった。
佐野さんという京都出身で、いま島田在住の女性の「満蒙開拓団」の話が続いてあった。
佐野さんは平安郷開拓団の生存者である。終戦後子どもたち・女性たちだけで満州から日本へ渡ろうとするが、たいへんな苦労をしている。終戦の後でも逃げていく途中の船が爆撃され半数が亡くなったという。
関東軍や兵士たち大人が子どもや女性を見捨てて逃げるのを二度も体験する。途中、後で考えると731部隊の関係者らしい者たちもどんどん逃げて南下していったが、とつぜん死んでいったらしい。
佐野さんはまだ8歳だったが、満人にだまされて売られた。そこで5年間働かされて、また人身売買されようとする前に、ようやく逃げることができたという。その後もいろいろとあったらしいが、満州にいて、自分は日本人にはなりたくないと思ったともいう。
しかし自分も加害者の日本人の一人として甘んじて中国人たちの侮蔑を受けようと思ったともいう。女子が一人で生きていくことは並大抵のことではなかったとボロッと話す。
参考文献『裂かれた大地―京都満州開拓民』(二松啓紀/京都新聞社)
そのあとは小屋正文先生の島田「技研」のマグネトロン開発の話。「技研」の正式名称は「第二海軍技術廠電波一科島田実験所」で、「でんぱ いっか」とも呼ばれていた。
電子レンジの原理となっているマグネトロンの研究をし、兵器として開発していた。終戦直後に資料は破棄され闇に葬られた。
しかしこの研究にかかわった人脈がすごい。仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎など。実験所所長の渡辺寧はのちに静大の学長になる。また初期の「島田分室」と呼ばれたころの分室長であった水間正一郎はのちに島田理化工業を設立した。もともとは「日本無線」の工場内に「技研」が開設されたらしい。
島田理化工業の近くに島田工業高校が創設されたのも何か縁があるのだろうか。
このような軍事研究が民間に活用されて、高柳健次郎のブラウン管の発明にもつながっていったのだろうか。また、この研究が戦後の民間の科学研究あるいは兵器研究や開発とどのようにつながっていったのか、疑問はたくさんある。
さまざまに感銘を受けた勉強会だった。
左の写真は小林先生から話を聞く参加者
左の写真は平和之礎
左の写真は、講師のみなさんが話をしてくれた扇町公民館