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西川隆範氏講演会「教育とは何か」

 右の写真は南知多のとある小路

 1月22日(日)。10時まえに静岡市のあざれあに着く。はじまったのは10時30分。外気温3度。天気ははれてきた。

 今日の(ルドルフ)シュタイナー研究会は西川隆範氏の講演会。演題は「教育とは何か」。静岡シュタイナー研究会のほか、Ding Dong Bell幼児教育の会との共催。

 参加者は女性がほとんど。30〜40代が中心か。講演会は今回で3回目。西川隆範さんを静岡にお呼びしたのは今回で21回目。静岡シュタイナー研究会は発足から14年目となる。はやいものだ。

 西川氏は今朝、千葉から来たが、朝は雪が積もっていたという。家の門が凍り付いて開かなかったという。

 以下は西川氏の講演のリトールドである。
 
 このようなトラブルに遭ったとき、どのような反応をするのか、その仕方がそれぞれ人によって違うといい、4種類の対処の仕方があるという。

 一つは果敢に門を壊したり、乗り越えたりする対処の仕方。自分の力を信じてまっすぐにぶつかる点はよいが、人の力をみくびったり、自分の考えが正しいと思いこんでしまう傾向もあるし、暴力的にもなる。会社のワンマン経営者のようなもの。これを「胆汁質」と呼ぶ。

 一つは他の道を探して出ようとする対処の仕方で、いろいろな可能性を検討し、多数のことが頭に浮かぶタイプで、話題が多く、話も楽しく、人気も高く、明るい。しかし軽々しい面もある。これを「多血質」と呼ぶ。

 一つは門が開かなければもう出かけない、家に引き返すという対処の仕方。あきらめがよいというのか、障害があるともうだめだと思ってしまう。試みる前に物事を考えすぎて、ダメな方へと走ってしまう。隣の家に回って出ようと思いついても、隣の家に人に悪いと思ってしまう。これを「憂鬱質」と呼ぶ。

 一つは出もしないし、引き返しもしないで、ずっとその場で困りつづけるというもの。身動きができなくなる。これを「粘液質」と呼ぶ。

 人(子ども)にはこの四つの気質があり、その気質に合う教育が必要だ。

 「胆汁質」は自己流で正義感が強く活動的。乱暴なので大人は注意をするが、しかってもきかん気が強くてケンカになる。だからその場ではあえて注意しないで、元気でよいと見、次の日になってから、「壊されて困ったよ」と説明するとよく聞くという。一日置くと、自分の行為を反省するという余裕ができる。

 「多血質」は、一つのことに集中できない。勉強させることもむずかしい。しかし一つのテーマからいろんなヴァリエーションを示して、そのテーマに還るような工夫が必要だ。さらにわざと教える方も多血質的に気がよく変わる様子を演技して、相手にその非を知らせてあげる工夫も必要だろう。

 「憂鬱質」は頭がいい。子どもらしくなく年齢以上にじっくり考える。だから大人もそれに合わせて、子どもっぽい話などはせず、大人っぽい話をする。楽しませようとしても反応しない。かえって互いが憂鬱になるような、かわいそうな話をし、しんみりと慰め合うのがよい。大人もいわば苦労人として向き合う仕方で、共通点を示してあげる。

 「粘液質」は、反応がにぶい。刺激を与えようとしてもだめ。放っておく。自分のトーンを乱されると調子が悪くなるから、気がつかないふりをし、徐々に注意をひくようにする。その際は、直接向き合うのではなく、独り言のように話して注意を向けさせるとよい。

 教育(エデュケーション)とは「引き出す」という意味で、プラトンの作品にあるソクラテスの「産婆術」につながる。子どもはすでに知識を持っていて、それをこちらの質問で引き出すようにする。教え込むのではない。生徒という英語の「pupil」は「瞳」という意味がある。漢字のつくりと同じで、相手のひとみの中にじぶんの姿が子どものように映るかららしい。(子どもと向き合ったときのその瞳の中にじぶんの子ども時代を見るということなのか、こびとが棲むということなのか。それを引き出してあげることが教育なのだろう。)

 学校(スクール)も、もともと余暇であり、レジャーという意味。勉強はぜいたくなレジャーであって、もともとスクールとは遊びに行くところであった。その本来の語源にもどれば教育はよくなる。

 まなぶも「まねぶ」から、ならうも「倣う」からきて、結局大人(親・教師)のマネをすることだ。教えるということばも、「愛(お)し」という形容詞から来たもの。「いと愛し」は「たいへん」愛しいという意味。教えることとは愛することだ。

 シュタイナー教育では年齢を大事にしている。

 1歳から立ち上がり、歩くようになるが、転ばなくなるのは3歳になってから。

 2歳から片言で話をするようになるが、まだ長い話はだめで、日常の会話ができるようになるのは5歳。

 3歳から子どもながらに何かを考えるようになるが、しっかり考えられるようになるのは7歳。さらに相手と違う自分を自覚し、先生や親に対してきちんと自分の立場を主張するようになるのは9歳の終わり。

 一歳のときにうまく立たなくても、むりに立たせようとしない。立つのを待つ方がよい。どんなことでも無理をさせたことは、ずっと後まで尾をひき、年をとってから足を悪くすることがある。幼児期の無理が晩年に出る。

 大人は子どものレベルにまで降りて話をする必要はない。子どもが使うことばを使わなくてもよい。大人の話し方をすべきだ。子どもはレベルの高いものへと自然に自分を伸ばそうとするから。

 3歳から7歳までの時代に、大人は子どもに暗記を強要しない。いちばん知識を吸収しやすいのは小学校に入ってから。このときは(知識を)教えてあげて、理解するのは中学高校でよい。

 シュタイナーは7歳を重視した。子どもによるが、一般に7歳で歯が全部はえかわる。身体全体が入れ替わるのだ。親からもらった身体に子どもの心がやどる。子どもは自分が使いやすいように7年間をかけて作り直す。心に違和感のない身体づくりをする。子どものエネルギーはこれに使われる。だから勉強にエネルギーを使えば、身体づくりは半分になってしまう。

 1歳から9歳まで、子どもは親のマネをする。親の態度、身のこなし、話し方が心の元になる。身のこなしや動作などの元の気持ちもマネる。親の言動の模倣が心に根付く。これが道徳教育だ。道徳教育は学校でなされるものではない。

 親はきびしすぎもせず、甘やかしすぎもせず、ほどよいところがよい。ほどよいところとは親の直感によるものだ。本などによるものではない。

 子どもは受け身をしつづけると、反動が起きる。我慢できなくなり、必要以上に激しく動きたくなる。だからテレビを観つづけていくと、ひどく乱暴に動くようになる。

 子どもの感覚は繊細だ。身の回りに原色が使われているのはよくない。子どもは粗雑なものも、そっくり受け入れてしまう。視覚と聴覚とに柔らかい、品のよいものをあげるべきだ。聴覚への配慮が怠りがち。しずかな自然の(音の)中で人はのんびりできる。触覚は赤ん坊のときに最初に影響を受けるものだ。天然の素材にふれさせるべきだ。最初のオモチャは何か。プラスチックか、それとも天然の素朴なものか。このことは後々の健康にまで影響を与える。

 味覚も大事である。いまはグルメというが、有害か無害かを区別できることが基本。安全なものをおいしいと感じ取ることができるように。スーパーで買ってきたものと、家でつくった料理とを区別できなくなるとすれば問題。子どもは刺激の強いものを求めてしまうから、放っておけば、有害なものを食べてもそれをおいしいと感じ、その有害さが分からなくなる。(ジャンクフードを腹一杯食べて餓死すると言った竹内常一氏のことばを思い出した)。

 9歳になると自我の意識がはっきりしてくる。自分と他者とを距離をおいて区別するようになる。対象についての勉強がはじまる。「〜について」というように、対象を、距離を置いて捉えるようになる。原因と結果の関係についても把握するようになる。

 小学校入学以前に、社会の人々は善い人々であって、自分は愛されていると感じることが必要。もしそうでないと、人間不信や、社会や他人に対する過度な警戒心に陥る。だから、安心できるにふさわしい社会環境づくりが大切だが、現代社会は、その逆の方向に走っているようだ。

 中学校高校の思春期に、もしほんとうにおもしろい授業を先生がすれば、子どもは非行に走らない。非行は勉強ほどおもしろくはない。

 テレビはないほうがいい。壊してもいいがテレビ室を設けたい。なければないなりに子どもは遊ぶ。子どもは回復力があるから(テレビなどの影響から回復するために)水彩画などをかかせるとよい。数時間はよい雰囲気をつくる。のどかな絵を親がいっしょに描くとよい。

 反動の法則がある。こわすと作り上げたくなるし、作り上げるとこわしたくなる。だから、算数を教えるときも、10=5+5、10=1+9、10=1+5+4、というように、答えがいくつもあるような教え方をし、いわば分解(破壊)することを教える。すると総合したくなるものだ。逆に5+5=10と教えると、壊したくなる。

 年齢に応じた教え方がある。三歳くらいの小さな子どもにはお話風に教える。扇風機がなぜ回るの?ときかれたら、こびとがいるから、というようなイメージを豊かにするような教え方をする。よいメルヘンを繰り返すことは「栄養」になり、「意志」をつくる。夢が広がるように話をする。
 
 ここまでが午前中。お昼はこの前の「せいしょうなごん」というお弁当。静岡は美和の、自然食のお弁当。

 午後は自己紹介から入り、質疑応答で西川氏が語る。

 35歳から人間は中年に入る。前半は自分の完成にむけているが、後半は社会に役に立つことを考えるようになる。

 0歳から7歳までは身体をつくり、7歳から14歳までは心をつくり、14歳から21歳までは頭をつくる。

 20代はこの世の生活を楽しむ。30代からは楽しみだけではなく、賢明に生きようとする。35歳からは内面に向かい、内面を高めようとする。

 7歳までに喜びと愛とを与えないと、のちに自由に世界と交流できなくなる。家庭の幸福、幸福な幼年期を過ごさないと、この力を持って人は生きていくという生きる根源の力が生まれない。幸福の体験、つまり生きるとは幸福であるという体験を持つことで、人生を決してあきらめない心ができる。

 27歳までは身体と心は年齢が一致するが、27歳からは身体は年をとっても、心は年を取らずにいつまでも27歳のままなので、一つの人生の曲がり角がくる。自己教育しないと魂はのびない。

 33歳は挫折や問題にぶつかることが多い。ぶつかった方がよい。そこを乗り越えてゆくべきだ。

 37歳は今までとは違った生活をしてみたいと思うようになる。

 40歳を過ぎてから、人はやるべき仕事に打ち込めるようになる。20歳までの学習と、40歳までの人生経験との集大成をつくろうとする。しかし40代は目的決定で、実行はまだ先でよい。

 55歳くらいで第二の人生だ。本来の仕事に打ち込む。50歳で天命を知る。60歳で耳従う。これは他人の言うことを素直に聞くことができるようになるということではなく、天の声に耳が従うということだ。70で従心というのは、思うとおり、自由自在になるということ。

 読み聞かせをするとよい。読むというより、顔を見て語る。絵本でなくてもいい。絵本は一人で読むものだ。3週間から4週間、同じ話をしてあげる。子どもは同じ話に安心する。憶えて身につく。親はできれば人形劇を。お話も劇も演劇的にはしないで淡々と小さな声で話す。童話を親がつくるといい。自ら作る方が語る力があるから。自作のレパートリーを持つべき。

 勉強は頭の知識を増やすためにあるのではない。勉強を通して悟りに近づくため、魂を清めるため、人間として高まるためにする。これが勉強の本義である。純粋な思考世界には物欲はない。教師も、万遍なくさまざまな教科を教えてゆくことで、一段階上の人間に変化する。中世ヨーロッパでは、たとえば学問は女神であった。学問は神であり、学問をするとは神に近づくことであった。

 3時に終了。わたし以外の参加者はそのまま残り、わたしは一人で冬日がまぶしく反射する道を帰る。
mojabieda * 講演 * 23:24 * comments(1) * trackbacks(0)

クオリアについて

東京本郷 右の写真は東京の本郷のとある小路

 茂木健一郎という人の『脳内現象』という本を読んでいる。さいきん、この人の本がたくさん出ているので一冊読んでみようと思ったのだ。クオリアを問題にしている脳科学者である。
 
 ほとんどまえがきしか読んでいないが、考えたことを記しておく。
 
 クオリアとは「意識の中で〈あるもの〉として把握されるもの」と著者は述べている。さらにわかりやすく「質感」と呼んでいる。わたしはルドルフ・シュタイナーの本に出てくる「表象」がこれにあたるのではないかと思っている。具体的には「音」や「色」などである。
 
 「それを聞く者が誰もいなかったとしても、森の中で倒れた木は、音を立てるだろうか?」
 
 という問題に対して、わたしなら次のように答える。
 
 たしかに空気の振動が波として伝わるという現象は起きる。しかし、それは音ではない。音とはそれを聞く者にとってのクオリアである。だから、その木が倒れるそばに人がだれもいなかったら(というより、わたしがいなかったら)、空気の振動はあっても、音はないと。
 
 人間の感覚器官に与えられる外界の刺激(光、空気の振動など)について人間は観察できる。しかし、わたしが感覚器官を通して感じ取った色、音、臭い、味、肌触りなどというクオリアは他者には観察できない。定量化できない。
 
 音と空気の振動とは次元の異なる現象である。空気の振動は音の発生の原因(きっかけ)にはなるが、理由にはならない。音と空気の振動との間には、無限の深淵が横たわっている。それはどのような橋渡しも不可能である。
 
 茂木氏は「〈私〉の見ている赤と、あなたの見ている赤が同じであるということを、確認する手続きは存在しない」と述べる。これがクオリアの問題である。
 
 この「手続きは存在しない」ということを理解できない人もいる。しかし、ここがすべての原点になる。
 
 わたしは世界には二つの次元があると考えている。一つは内面世界という次元、一つは「外界」(たぶん存在していると推定する)という次元である。精神と肉体という二元論を考えてもいい。
 
 しかし通常の科学者にとって、そのような二元論は認められない。精神は肉体(物質)にすべて還元されるだろう。クオリアなど、そんなものはなんの役にも立たない。
 
 だが、人は内面世界を通してしか「外界」を認識できないのだとすれば、その内面世界を「外界」に還元してしまうことは本末転倒ではないだろうか。そうなると、精神も心も自我も「外界」の一部となってしまう。「自我?そんなものは存在しない。あるのは君という一個の肉体だけだ」「心?そんなものは存在しない。脳がコンピュータのように複雑に計算しているだけだ」ということになってしまう。精神とか心とか呼ばれるものはすべて幽霊なのか(ドイツ語の精神には幽霊という意味もあるが)?では、自我は?それも幻想か幽霊か?
 
 だが、生きているのは、実はこの幽霊の方なのではないか。いま、見えていると思っているこの「外界」こそ、わけの分からない不分明な世界にすぎないのではないか。
 
 肉体としての個体発生が系統発生を繰り返すのと同様に、精神(自我)としての個体発生も系統発生を繰り返すのではないだろうか。
 
 途方もない昔の精神(自我)の誕生から現在の〈わたし〉に至るまでの歴史を、一個体がその誕生から繰り返したどることによって現在の〈わたし〉があるのではないだろうか。
 
 生命の長い歴史のなかで、その進化を一個体の肉体が背負っているように、途方もない昔に誕生した精神(自我)の、途方もなく長い年月の進化を、一個体の精神(自我)が背負っているのではないか。
 
 そんなことをつらつらと考えた。

mojabieda * 読書 * 19:32 * comments(0) * trackbacks(0)

『未来を生きる君たちへ』──20060104読書日記

 『未来を生きる君たちへ』(南原実/新思索社)読了。

 以前、著者の『聖なる森への旅──ルーマニア』(白水社)を読んだ時の衝撃が忘れられなくてこの本を読んだ。この本を読んで、「ああ、『聖なる森への旅』と同じだ」と思った。

 ふしぎな文章である。ふしぎな文章に現れたふしぎな思想、ふしぎな人格。読んだときにふしぎな思いにとらわれた。

 この人は少なくとも普通の人ではない、ということはすぐに分かった。はっきりといえば神秘主義者である。たんなる哲学者でも思想家でも学者でも物書きでもない。ラディカルな人である。孤高というと高尚な意味合いがあるが、この人は単独行の思索者であろう。ひらたく言えば「仙人」である。

 『聖なる森への旅』は絶版である。かつて所有していたが、度重なる引っ越しの途中で失われた。先日、古本をネットでようやく探して、再び所有することができた。もっとも、所有などということは南原氏が否定することの一つだろう。

 南原氏は「科学」(サイエンス)と「技術」とを区別している。問題なのは法外な科学であって、技術は人間の世界には必要なのだと説く。その区別が大事だとわたしも思う。えてして、高度な科学技術などといって、両者を十把ひとからげにして否定してしまう傾向があるが、問題なのは無定形な「科学」の思想であって、真の人間理解に裏打ちされた技術の向上は必要なのだろう。

 げんざい、巷に「人にやさしい医療」「原子力の平和利用」などということばが生まれているほど、「医療」は「やさしくない」ものであり、「原子力」は「平和利用」されないものなのであった。

 技術とはことさらに唱えなくても、元来「人にやさしい」ものであり「平和利用」のものであったはず。

 さて、南原氏は「人間の尊厳とは、ワタシの尊厳である」と述べる。この深い思想にわたしは共鳴する。

 さらに氏は述べる。「ワタシはワタシでナイものすべてではナイ──この二重の否定は、すべてのワタシの同一性を示すとともに、すべてのワタシのあいだのちがいを示す。それぞれが、かけがえのないワタシである独自の個性と、すべてのそれぞれの個に妥当するワタシの普遍性との両者の一致を保証する」という。

 この箇所の「ワタシ」の説明は、まだまだ不十分だと思う。というよりそもそも「ワタシ」はことばでは表象できそうもない。しかし、絶対的な「個」としての「ワタシ」だけではなく、「ワタシ」の「普遍性」を述べているところは示唆に富んでいる。

 「個」と「普遍」とは対立するものではないということ。両者は含み合うものであること。さらに絶対的「個」の向こうに「普遍」がかいま見えること、など、さまざまなことを思った。
mojabieda * 読書 * 11:43 * comments(0) * trackbacks(0)

バロックの森に迷う

 NHKFMに毎朝6時から約1時間ほど「バロックの森」という音楽番組があり、一昨年の11月あたりからMDに録音しはじめました。それで毎日録音予約をして通勤の車の中で聴いていましたが、その「バロックの森」のMDの数が400枚を越えてしまいました。

 目録をホームページからダウンロードしてマックの中に管理してあるので、たとえば「ホルディ・サバール」で検索するとヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴィオール、指揮で22箇所がヒットします。MDにも番号をふってあるので、すぐに探して聴くことができます。
 
 1年の間に同じ演奏を放送するのかどうか調べてみました。もちろん重複しないように充分に気をつけて放送していると思います。
 
 たとえば、マラン・マレーの「ヴィオール曲集 第4巻」から「トルコ行進曲」を調べると、同じ有田栄さんの放送で、1月11日(火)と11月16日(水)と、二つありました。
 
 ともにヴィオールはホルディ・サバール、クラヴサンはトン・コープマン、ギターおよびテオルボはホプキンソン・スミスとなっていて、聴くとやはり同じ演奏です。
 
 しかしCDが違うようです。一つは<ミュージック東京 NSC 354>、もう一つは<ポリグラム IDC 6034>となっています。音の大きさや質が少し違っていました。
 
 放送する人が違うとどうしても重なってしまう曲もあるようです。たとえば1月28日(金)の松村洋一郎さんの放送のセイシャシュの「チェンバロ協奏曲 イ長調」は、6月8日(水)の加藤拓未さんの放送とまったく同じ演奏、同じCDからのものでした。
 
 できれば、リクエスト以外は、半年間ぐらい同じ演奏を避けた方がよいのではないかと思います。しかし世の中に、一年間まいにち録音し、目録もつくってパソコンで検索しているようなわたしのような変人(閑人)はあまりいないかもしれませんので、そんなに目くじら立てるほどのことではありませんが。
 
 とはいえ、一年間の曲数を考えると、重ならないほうがおかしいのではないかと思えます。正月の三日間しか休みがない放送だから一年間に362回あって、1日に数曲の放送ですから、1万曲、いや2万曲ぐらいは放送するのでしょう。
 
 担当者は松田輝雄、大愛崇晴(05年10月以降は赤塚健太郎)、有田栄、加藤拓未、松村洋一郎氏が代わる代わる担当しています。
 
 ほとんどバッハしか聴いたことがないわたしは、「バロックの森」の奥の深さにほんとうに迷子になってしまいました。
mojabieda * 音楽 * 18:57 * comments(2) * trackbacks(0)
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