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中高演の理念

 中部高校演劇協議会という組織はふしぎな組織だ。
 
 ここではコンクール制をとっていない。お客さんを合同で集めて公演をし、互いに批評しあうことを大事にしている。競争原理を演劇に適応させることは、演劇そのものの本質を失わせることになるのかもしれない。観客と一体となってつくりあげる演劇は「ナマモノ」であって飾りではない。審査員によって順位をつけられる演劇はその観客を排除した「ヒモノ」かもしれない。
 
 さて、数0年ほど続いたこの「非コンクール制」の理念はどこまで通用するだろう。
 
 中高演の理念はあまりよく分からないが、中高年の理念なら分かる。
 
 「立て!万国の中高年!いまこそ、中高年のエネルギーを結集し、ボケボケの頭と体を活性化させよう(手遅れかもですが)!」
mojabieda * 演劇 * 07:20 * comments(0) * trackbacks(0)

ゾフィーのどこにうたれるのか

 映画『白バラの祈り』はまだ観ていません。が、どうしてゾフィー・ショルが、このように何度もドイツで映画になるのでしょうか。
 
 かの女がユダヤ人やコミュニストではない、ごくふつうのドイツ女性だったからでしょうか。たしかにドイツで映画化されて評判になっている背景には、そういう面があるでしょう。
 
 しかし、わたしがゾフィーたちに心うたれるのは、つぎの点のみです。
 
 かの女がもしヒトラー体制に反逆しなければ、中流家庭に育った中流の知識人あるいは(芸術家?)として、ごくふつうの一市民として豊かに、かつ幸福に暮らしてゆけたかもしれません。「にもかかわらず」、あえて命がけで反体制運動に身を投じた、というこの一点です。
 
 もしかの女がもとから反体制側の活動家だったり、ホローコーストの対象だったり、ということなら、ヒトラー体制のもとでは抵抗し反逆しなければ生存権は得られなかったかもしれません。選択の余地はほとんどなかったでしょう。
 
 しかし、ゾフィーたちはそうではなかった、のではないかと思うのです。あえて、人が選ばない苦悩の道・悲惨な道を選んだ、と思います。直接に生命の危険にかかわる道を。なぜ?という永遠の課題を残したまま。
 
 真木悠介(見田宗介)氏の『人間解放の理論のために』(筑摩書房)につぎのような文章があります。長いですが、引用してしまいます。この中の「賢明な人間」とゾフィーとはあまりにも対照的です。
 
 真木悠介の『人間解放の理論のために』45ページから引用。
 
 賢明な人間がしばしばその賢明さのゆえに不幸であり無力であるということは、むかしからよく知られている、しかし同時に考えてみればまことに奇妙な真実である。「先のよく見える」人間が、まさしく先が見えてしまうがゆえに、有効な行動をとることができず、空疎なつまらぬ人生を生きてしまうということは、皮肉な矛盾といわねばならない。人はまさしくその行動の有効性を求め、あるいは意味深く充実した生を求めて、その知性──とりわけ未来を見とおす知性を用いているはずなのであるから。
 
 「賢明な男」が進路をえらぶ。彼は自分が、ほんとうに何をやりたいのかということからではなく、「これからの社会で有望な」分野をえらぶ。そこには「社会の要請」があり、具体的には雇用主たちの要請があり、つまり「人材の需要」があるので、「将来」が保証されている。彼はこの「要請」に応える人材として、いいかえれば、すでにある世界の延長としての未来にはまりこむ人間として、自己を成形することに没頭してゆく。(自己形成・対・自己成形!)
 
 「賢明な男」が社会の抑圧と不正に気づく。彼は現実の力関係を測定し、情況の中で抵抗が敗北を運命づけられていることを見てとってしまう。したがって何もやらない。「やっても無駄なことはやらない。」そしてまさしくそのような「賢明な」人びとの無行動と冷笑とによって、抵抗の敗北はまことに現実のものとなる。
 
 彼はいつでもスマートで破綻を知らず、恥をさらすということをしない。「賢明な男」が死んだとき、彼の日記には日付がついているだけで、何も書いてない。彼の人生には何ごともなかったのだから。
 
 彼はじっさい、人生などまるでなかったみたいなものだ。刻々にインプットされる「情報」の無数に連立する方程式や不等式から、その都度「最適」の解を算出して行動する情況の自動機械(オートマトン)が、宇宙の悠久の「時間」のさなかに束の間存在しただけのことだ。
 
 彼は客観情況のたんなる函数(機能)(ファンクション)にすぎない。すでにある事物によってすでに書きこまれた限りの「未来」を、みずからの行動によって実現する媒体であるにすぎない。

 
 ゾフィーのような大胆で大きな一歩はとても歩めません。まだ見ぬおのれの豊かな未来を「弊履のように」(林竹二『田中正造の生涯』)投げ捨てることができる勇気はどこから湧いてくるのでしょう。

 
mojabieda * 白バラ * 22:41 * comments(0) * trackbacks(0)

『ウェブ進化論』を読む

 16日に『ウェブ進化論』(梅田望夫・ちくま新書)を読了、19日は電車の中で二回めをななめ読みしました。
 政治の話以外は、全般的におもしろかったのですが、とくにその中の四つをとりあげてみます。
 一つめはこの前の「青空文庫の本」ブログに書いた「ブッククロッシング」という「青空図書館」システム。
 二つめに示唆的だったのは、「こちら側」と「あちら側」という発想。
 三つめは「恐竜の首」と「ロングテール」という話。
 それから四つめは「不特定多数無限大への信頼」という世界観。

 一つめの「ブッククロッシング」という運動からある話を思い出しました。霧や雨が多いというイギリスのロンドンなどでは常に傘を持ち歩いているそうで、よく置き忘れることもある由。そこで、傘に住所と名前を記すだけでなく、拾った人がこの傘を返却するのも面倒だから、この傘をもしそのまま所有したかったら、先の住所にわずかなお金を送ってほしい、と記しておく。すると(イギリス人は几帳面なのか真面目なのか)拾った人がお金を送ると、その人もまた置き忘れて、さらに別の拾った人がお金を送る・・・ということが繰り返され、それで、それなりのお金が元の所有者に送られるとか(うそかほんとか)。
 
 さて、「ブッククロッシング」とは、公共の場所に読んだ本をわざと置いておき、それを拾った人がその本を読み、また公共の場所に置く。こうして順繰りに書物が利用されるというシステムの運動です。ID番号などつけて、この運動のサイトに登録しておくと、それを拾った人たちがチェックしてゆく・・・そうして本の旅が記録される・・・。さらにその本についてコメントがされてゆき、ネット上でヴァーチャル読書会のようなものができるのかもしれません。
 
 ただし、このようなシステムが大規模に拡がるとは思えません。このブッククロッシングの発想の原点の一つには、書物を自分の書庫で死蔵させたくないということのほかに、書庫に入りきれない書物をどうするかという現実の問題があるのでしょう。さらに、不特定多数の人間や周囲の社会に書籍を「還元」してしまおうという「不特定多数無限大への信頼」という四つめの世界観が根底にあり、社会を豊かにするというより、放出するその人の精神生活を豊かにするのかもしれません。
 
 二つめの「こちら側」と「あちら側」という捉え方を、わたしなりの卑近な例で理解すると、WEBメールが「あちら側」、ふつうのメールが「こちら側」になると思います。じぶんの得た情報を「あちら側」に置いておくだけでなく、さらにそれをある程度共有化してしまおうというのが「あちら側」の世界。したがって先ほどの「ブッククロッシング」にも通じます。自分の書庫が「こちら側」の世界に存在するのに対して、ネットの青空文庫などは「あちら側」にあるものです。ブッククロッシングは「あちら側」に近いものでしょう。
 
 三つめの「ロングテール」はアマゾンの例が本書に出てきます。書籍の販売をグラフ化し、縦を売り上げ部数、横を各種の出版物とし、売り上げの高い順に並べます。ふつう出版社はベストセラーという「恐竜の首」(いちばん売り上げのある左側のわずかな一部)で儲けますが、アマゾンではなかなか売れない「ロングテール」(長いしっぽで、左側のトップセールス以外のわずかな売り上げだが厖大な種類の出版物が右側につづいている)でも儲けているようです。つまり売れない無数の書籍でも、ネットを通じてそれなりに需要があるために、裾野がひろいぶん、それらを合計するとかなり厖大な利益になるというわけです。なるほど、世界中にひろがる厖大なホームページやブログを通してアマゾン販売の書籍を宣伝しているわけで、網の目のようなネットのサイトは、それぞれに良質な宣伝媒体となって働くのでしょう。
 
 さて、四つめの「不特定多数無限大への信頼」というのは、一つめから三つめまでの話とも関係しますし、オープンソースということとも関係します。みんなでフリーに情報を共有し、よりよいものをみんなで創り出し、発展させていこうという、オープンソースの発想の根底には、この不特定多数無限大への信頼が横たわっているのでしょう。
 
 「不特定多数無限大への信頼」は、しかし、あまりにユートピア的・「予定調和」的な感じがします。先の総選挙で与党が大勝利をおさめたわけですが、筆者の心の中でこの「不特定多数無限大への信頼」観と、この「大勝利」現象とはつながっているようです。筆者の考えにちらちらと見え隠れするのは、「勝ち馬」に乗ること、「どうしたいか」ではなく「どうなるか」に通暁すること、というエリートらしい発想です。政治さえもそのように考える発想には、どこかに予定調和が潜んでいるように思います。
 
 学問や芸術の発展には、オープンソースという考え方が大事だと思いますが、人間社会の発展にとっては、情報のやりとりとともに、最後には面と向かい合った人と人とのかかわり・つながりが決定的な力となるだろうという予感があります。
 
 ついでにわたしのアマゾン・コムのアフィリエートはあまりにもわずかすぎて次回の集計に回されるようです。
mojabieda * 読書 * 21:43 * comments(0) * trackbacks(0)

青空文庫の本

 なにげなく「青空文庫」を久しぶりに見たら、青空文庫の本が発売されていた。さっそく注文してしまった。ああ、すべてのデータは共有すべきだ、というのがわたしのラジカルな発想の原点。中世のイスラムのある国では、すべての財産と女性は共有すべきだと唱えられていたというが・・・。

 それはともかく、個人情報保護などといいながら、じつは権力は合法的に電話もケータイも盗聴できるし、Nシステムとやらで、どこのだれがどんな車でどこへ移動しているのか瞬時に分かるというとんでもないものをつくりだし、監視カメラはいたるところにあるという「監視社会」になっているのだが。

 データのつんぼさじきに置かれているのが民衆で、データを集中管理できる者が権力をにぎるのは世の習いだ。パソコンの発想とインターネットの普及は、ある意味では革命的なことだった。

 学問も芸術も個人の所有物ではない。文化は名も無き人々の営みの積み重ね(伝承)があってこそ発展する。だから「すべての(学問・芸術)データは共有すべき」なのだ。ちょうど「ことば」がすべての人々の共有物であるように。

 ということで、かなりの極論(ラジカルな論)だったが、青空文庫の文学テキストの作成とオープンソース化は画期的なものだったと思う。ドイツのグーテンベルクの日本版。

 これには多数のボランティアの善意と努力が積み重ねられている。まさに文化の積み重ね(伝承)だ。

 その文化を青空文庫という「むこう側」(『ウェブ進化論』)に置いた。それを今度はDVDにして「こちら側」に置くこともできるようになった。

 これはこれでよいのだろうか。あるいは「こちら側」に有償でテキストを置くことは、そもそもの青空文庫の趣旨の変質を意味しているのだろうか。ボランティアの人たちは、これによって有償のボランティアになるのだろうか。ああ、ない頭がこんがらがってくる。

 人間の所有欲が悪いのか。『ウェブ進化論』には「ブッククロッシング」というおもしろい運動が記されている。読み終えた個人持ちの書物を、公共の場に「わざと置き忘れる」運動らしい。それで他人が拾って読む。さらにそれを「わざと置き忘れる」ことで、別の他人が・・・という書物のリサイクルのシステムをつくる運動。IDがつけられて、ネットのサイトには登録されている。そうしてその本がどんな旅をしてきたのか記録を追跡することも可能なシステム。いわば「青空図書館」。この発想はいい。個人の書庫に死蔵されている書物というデータの共有化をはかろうとしている。

 世の中には市場に出ればあまり価値のない本でも、人によっては宝物の本がある(逆もまた真なり)。「じぶんが死んだらこの書物はどうなるのだろう」と、宝物のように大事にしている人たちは多いだろう。古本屋に売っても二束三文だが、知る人ぞ知るものすごい本(アダルトではない)など。文化はそもそも市場価値では測れないのだ。公共の図書館に寄付しても、その価値を知る人はいないかもしれない。その価値を知る人にこそ代々所有してもらいたい。それが「文化の伝承」である。

 わたしも煩悩を背負った所有欲人間なので、青空文庫のDVDをぜひ手に入れたい。しかしまたこの厖大な貴重な文学テキストデータを私有する(「こちら側におく」)ことで死蔵させてしまうのだろうか。


 
mojabieda * 読書 * 08:19 * comments(0) * trackbacks(0)

豆殻で豆を煮る

 A「国民の、国民による、国民のための」憲法
 B「国家の、国家による、国家のための」憲法

 A「国民の、国民による、国民のための」教育基本法
 B「国家の、国家による、国家のための」教育基本法
 
 Bでは、不公平税制、税金の値上げ、税金の無駄使い、天下り天国、大資本優遇、官民癒着、弱者切り捨て、不平等な医療・福祉・教育政策、徴兵制度、国家による戦争の遂行などの政策であっても、それに反対することばを少しでも教室で口にする教師はとうぜん罰することができる。
 
 Bでは、教育は国家によって統制される。つまり「国家にノーといえる教師」を抹殺することができる。さらにマス・メディアを規制して「国家にノーにいえるメディア」を抹殺する制度をつくれば、もう国家を牛耳る者たちにとってこわいものはない。
 
 Bでは、学校は政府の上意下達の末端組織に化する。
 
 Bでは、国民を国家の形成者とはみなしていない。国民は国家政策の受け手にすぎない。
 
 Bでは、「国民のブロイラー化」が完成される。ただ工場主によって与えられたモノをおとなしく受け取って、卵という税金を生み出せばよい。そして(どこかの大国のように)時いたれば大資本の先兵として外国へ「侵攻」することもあるだろう。
 
 しかし、あからさまに法律をAからBへと変えてしまえば、さすがにどんなに鈍感な国民にも気づかれてしまう。
 
 だから「愛国心」とか「国を愛する」とかいう、国民が大好きなことばで煙幕をはって惑わそうとした。
 
 さらに、「国民のブロイラー化」に反対する者たちを、この「煙幕」ことばに食い付かせる。しかし、うまくエサにひっかかったものだ。異常にこのことばに反応して食い付いてきたからだ。この反対者たちは、「国を愛する」国民の敵対者とみなされるだろう。そうして国民の、国民による、国民のための反対運動を、当の国民が抑圧して鎮めることができるのだ。
 
 「豆殻で豆を煮る」。これが政治の要諦である。
 
 こうしてAからBへの法律の「改正」は、粛々と進められるのである。
mojabieda * 時事 * 21:00 * comments(0) * trackbacks(1)

ナイフをつきつけられて人を好きになれるか

 「愛しなさい」と法律で人の心を規制しようとする。つまりは、法律で上から人の心の中身まで規制しなければならない時代だということか。
 
 「大道(だいどう)廃(すた)れて仁義(じんぎ)あり」と『老子』にみえる。「『愛と正義』が実現している理想的な社会が喪われてはじめて『愛と正義』が声高に唱えられる」という意味である。
 
 わざわざ法律で上から「愛」を強要しなければならないほど、「愛」が喪われているのだとすれば悲劇だ。
 
 しかし、強制されなくても、人は家庭も郷土もクニも、じぶんを育んだものとして愛するのはごくふつうのことである。
 
 愛さないのは、人から税金を取り立てる、あるいは人を外国の戦地へと派兵させる「国家という権力システム」である。羊の面をかぶった狼である。
 
 狼はたいてい「クニ」とか「郷土」とかいう面をかぶって登場する。だから心やさしき羊ほど欺されて狼に喰われてしまい、いっぽう狼は敗戦後ものうのうと生き残る(そして国家の首相になったり、その孫が次期首相候補になったりもするらしい)。そうしてまた心やさしき羊たちを集めて欺そうとするのである。
 
 人は、ナイフを突き付けられて、「オレを愛しなさい」と強制されれば、うわべだけは「愛する」態度をとるかもしれない。
 
 しかし内心はますます「嫌になる」だけだ。嫌になるどころか、「この野郎」とか「いつか仕返しだ」と恨みや反発を覚えるだけ。シートベルトやチャイルドシートの強要とはわけが違う。
 
 人間はロボットではない。人の内心を他人が力づくでコントロールはできない。
 
 「三軍も帥を奪ふべきなり。匹夫も志を奪ふべからざるなり」と『論語』にいう。「敵が大軍であっても大将を奪い取れば打ち破ることができる。しかし普通の男であっても、その内心を他人が奪い取ることはできない(から力づくでコントロールはできない)」という意味だ。

 人の内心や真心までコントロールできると思っている者たちが、どうやら国家の政治をにぎっているらしい。人を人とも思わず、ロボットだと思っている者たちなのだろう。
 
 密室検討会のすえ、13日に与党が合意した教育基本法「改正」案の第2条は以下のとおりだという。
 
 第2条(教育の目標)「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」


mojabieda * 時事 * 10:36 * comments(0) * trackbacks(0)

理想的なパソコン格納棚

 ふと、同僚の机の上をみると、すばらしいパソコン格納棚がありました。
 
 デスクトップに置くノートブックパソコンの格納棚で、きちんとした台(舌のように出てくるもの)があって、これは最高部類に入るのではないか。藤枝のMというホームセンターで2980円だったという。これなら使いやすいと思いました。
 
 ただし、背が高いので、上に置くのは横積みの書類とかティッシュの箱などになっているようです。もう少し背が低くなれば本立てを乗せることができるのですが、その点だけ残念です。

mojabieda * PowerBookG4 * 18:07 * comments(0) * trackbacks(0)

絹村実践について その2

 絹村俊明氏はクラスの前で一人の生徒の問題を取り上げる(相談する)。あるいは「みんなにお礼を言いたい」と言って、クラスの何人かの生徒の名前をあげ、その生徒が他の生徒を支えたり助けたりした事実を一つ一つ取り上げて思いがけず涙を流してしまう。そして、A子という女子生徒について「自分はA子のことはもうあきらめていたけど、HがA子に『しっかりやれ!』と言ってくれ、A子がそれを喜んでいた、そしてそれを知って私もA子に『学校に来い』と言えた、それがうれしかった。ありがとう」とお礼かつ弁明をする。
 
 この場面では絹村氏の実践スタイルからすると、あまり見られないウエットな場面である。ミスタースポックのような絹村氏が、どうしてそのような真率な感情をクラス全体の前で表そうとしたのだろうか。
 
 「二学期に入り、何人かの生徒が学校をやめていき、それはそれで自分の人生の選択だから、と冷静をよそおっていても私の中には何となく寂しいというか辛いものがあるのかもしれない」と絹村氏は自分の内心を分析するだけでなく、それを生徒の前で表明する。
 
 もし「お礼」を言うだけなら、個人的に当事者となっている生徒にお礼を言えばいい。絹村氏はそれを「みんな」に対して表明した。その意味はどこにあるのだろう。

 ここには「これからもお互いに励まし合う関係をつくっていってほしい」という、クラス全体に対する担任としての願望がある。同時に、絹村氏じしんが生徒に励まされ、喜んだことを語らずにはいられなかったという何かがある。
 
 その何かは分からないが、氏が望んだのは、先の願望から推察するに「コミュニティとしてのクラス」であったろう。問題なのは、それをいかにして実現するかであり、氏の実践はどこまでその願望としての「コミュニティ」にクラスを近づけたのか、という点である。
 
 さて、クラスは二年生に進級する。ある生徒たちの提案で「(今のクラスの)愚痴をこぼす会」を学校近くの喫茶店でひらくことになった。担任にも(相談役・顧問というような感じだったのか)参加要請があった。ここには現在のクラスの危機的な状況を心配し、クラスの立て直しをはかろうとする生徒たちがいる。担任も参加しているというのは、クラスという「公」的組織の責任者も同席させ、その権力をも取り込んで立て直そうとする生徒たちの意図があったからだろうし、(先に涙した)担任も(単なる「公」的組織の責任者というだけでなく)クラスという「コミュニティ」の一員であるという認識が生徒たちにあったからだろうと思われる。
 
 その後6月に、氏の提案で「O子をめぐる話し合い」が2時間つづきのLHRでおこなわれた。問題を抱え、他の生徒に迷惑をかけるO子に対する、多少は「つるし上げ」のような話し合いである。「陰で言うより」、きちんと本人に対して言葉で不満を表すことを氏は要求し、実現させた。声なき者たちの声を立ち上げさせたのである。これは「公」的な空間をつくるには必要なことだろう。
 
 批判が出尽くしたあと、氏は「O子がきちんとアルバイトにつけるためにアドバイスをしてほしい」と要求する。アルバイトはO子の生活の立て直しに必須だと担任は考えていたからであるが、それを生徒たちからアドバイスしてもらうことは、この話し合いが単なるつるし上げではないということを意味している。ここには、先にあげた「励まし合いの関係」、つまりコミュニティ空間を生徒たちに要求するという意図があったのではないか。
 
 生徒たちはこのアルバイトや仕事の話には盛り上がったそうだ。タコ部屋のような職場で働かされている者のひどい実態も出てきた。
 
 さいごに担任は「つながり」と黒板に書いた。「クラスの生徒がみんなが仲良しになる必要はない。ただ、同じクラスにいる生徒がお互いにこれは、ということは言い合ってつながりをつくっていこう」と呼びかける。氏のこのことばから「つながり」ということばだけ取り去れば、「公」的空間をつくろうということだろう。しかし、「つながり」ということばを使ったのは、「公」的空間づくりにとどまらず、コミュニティ(公共)空間をつくろうという(無意識の)意図が氏の心のどこかにあったからではないだろうか。
 
 2学期。Y子がさまざまな問題行動を起こす。絹村氏はクラス全体に問う、「大事な話し合いをしたい。・・・このクラスの多くの生徒がY子からストレスを受けている。そしてストレスを与えているY子自身がそれによってもっとストレスを感じている。これはなんとかしないとお互いのためにならない」と。ここでもY子に対する「つるし上げ」にならないように氏は気をつけてことばを選んでいる。ここでの話し合いは、いちばん不満を持っているTという生徒の批判が不発に終わり(宥和してしまう)、まじめな生徒からは「中途はんぱ」と批判される。
 
 それで、またある生徒が「愚痴をこぼす会Part2」を開きたいと言ってくる。Part1を提案した同じ生徒たちである。その会でいろいろなクラスの問題を話し合うが、それとは別にさまざまな話題に花が咲いたという。
 
 この話し合いの中で、クラス全体で話し合う場を持とうということになった。「先生が前で仕切ると意見も出しにくいから『しゃべり場』のように丸くなってやろう」という。そして中心的なテーマはY子とO子のことだが、話題をぼかして、アンケートを取ってそれを話のネタにしようということになった。最初から直接二人のことをテーマにすれば、なかなか意見が出にくいという理由のようだ。さらに、「話し合いが終わったらすぐに新しい班長会を開き、話し合いの結果を生かせるクラスの体制にしよう」という。しかもその場に参加した者たちが班長になることも確認された。司会は学級委員長とした。
 
 この愚痴をこぼす会は、単なる愚痴をこぼすことにとどまらなかった。クラスの中心的な者たちが、愚痴をこぼしながら互いの友誼を厚くしてゆくとともに、自治的な組織を自ら役割を担うことによってつくり、問題解決への展望を具体的に決めたところがすばらしいところである。
 
 クラスは担任主導による「被指導の空間」から、自治的な空間へと移行しつつあることを暗示させる。さらに、クラスという「公」的組織の形をとりながら、その中身は「しゃべり場」という「公共」的(コミュニティ)空間を生徒たちはつくりあげようとしていた。
 
 実際の展開はつぎのようである。まずアンケートの結果からクラスの問題点をとりあげる。さいしょに授業中の携帯の問題や、年上の同級生と話すときの話し方の問題などが取り上げられ、直接二人の問題生徒にかかわるものではなかったが、これらの問題では話し合いが盛り上がったという。
 
 やがて二人の生徒の行動を批判する意見が読みあげられる。それに対する本人の弁解の機会もつくった。すると「どうせわかってくれないと思うから」とY子は言う。別の生徒が「言わないとわかんないじゃん」と言う。
 
 自分の私生活についてカミング・アウトできるのは「わかってくれ」る者がいる「私」的空間としての親密圏のなかだけだろう。問題生徒たちの私生活や心情を、担任や一部の生徒たちは多少分かっているが、クラス全体に本人たちがカミング・アウトはとてもできない。あくまでクラスは「公」的な空間だからだ。その「公」的な組織のなかで、「しゃべり場」というコミュニティの場をつくろうとした。その場とは、「好き・嫌い」にかかわらず、共に生きる空間として「つながる」ことのできる場である。
 
 とはいえ、このしゃべり場は問題生徒に対する「つるし上げ」的な場に多少なってしまったように思う。というのは、クラスの大多数がY子・O子を批判し、結局、Y子やO子にとって「(自分のことを)わかってくれない」「敵」としてクラスがかなり鮮明に立ち現れてきてしまうからである。
 
 全生研の照本氏はこの場面で「O子、Y子がケアされていない」と言う。生徒たちがY子・O子へ思いを「寄せる」ことができるだけの材料を与えられていないからであると。その材料は私生活にまで立ち入った(込み入った)内情のカミング・アウトでなくてもよいと思う。互いにそこまで知らなくとも、理解しあうことは可能だろうし、またその内情を知っても理解しあうことにはならないだろう。問題はその材料である。
 
 ただ、先の愚痴をこぼす会の構成員でもあったF子の「居場所」論が、O子やY子をケアする材料は提出しなかったものの、F子自身と他の生徒たちにとって、コミュニティ空間をつくりあげるための大事な意見だったと思う。
 
 F子はこう言う、「クラスのみんなにはそれぞれ居場所があると思う。その居場所を自分から小さくしている人がいると思う。『私は病気だから、みんなは私にこうして』とか(要求して)。(その人は)自分中心にクラスをつくっていく、とか考えると自分の居場所が小さくなっていくと思う。「私は病気だけど、別にみんなといっしょ」って気持ちになってほしい。相手に、自分を合わせさせようとする(と)無理が出る。」
 
 照本氏は次の点を指摘する。まず「6月の2時間LHRでの話し合い」の場面で、アルバイトの話でクラスが盛り上がったこと、「愚痴をこぼす会Part2」で、さまざまな話題に花が咲いたこと(その中で「年上年下問わずいろいろな生徒からいろいろなことが学べる楽しさを語った」Hという生徒がいた)、さらに「しゃべり場」では、授業中の携帯の問題や年上の同級生への話し方の問題で盛り上がったことなどを指摘し、話し合いのテーマを特定の生徒の問題行動へ焦点をあてるのではなく、離婚問題や恋愛や家族とは何か、人を愛するとは、授業や学校の意味は、などのテーマで話し合いを持つことも考えられたのではないか、と言う。とくに「しゃべり場」が(「公共」的な空間をつくる場とはなりえず)、たんなるHR討論の場となってしまっていると言う。
 
 「しゃべり場」として、一般論的なテーマで対話しながらも、その中から個々の「生きがたい辛さ」が浮かび上がってくるはずで、その辛さへの思いを共有することで、出逢いなおしとしての新しい展開や変容が生み出されるのではないかという。なるほどと思う。
 
 いわば「学び」の場をつくるということだろうと思う。「公」としてのHR討論で特定の生徒の問題行動を直接批判する場も必要だろう。ただ、別の場として「しゃべり場」という空間も必要だろう。「公」から「私」へと橋渡しする「公共」の空間として。
 
 絹村氏の実践はあくまで「公」にかかわりながら、その中身を「公共」的空間にしようとしたが、まだまだ「公」という形にこだわってしまっていたのかもしれない。ただ、「しゃべり場」という、たんなるHR討論ではない場をつくりあげたのはすばらしいことだった。あとはその中身をどう「公共」的空間に近づけていくかということだと思う。その点で照本氏のことばは大きな示唆を含んでいる。(とりあえずおしまい)

 
 
mojabieda * 教育 * 13:03 * comments(0) * trackbacks(0)

なんという遠回り

 auのW32Tというケータイを使っている。Bluetoothを使ってケータイの写真をPowerBookG4に転送したいと思った。「ピクチャ送信」というものである。ところが「対応機種ではありません」というつれない返事。auは受け付けてくれない。

 くわしいことは分からないが、ピクチャ送信はBIP(Basic Imaging Profile)というプロファイルを使っているらしい(プロファイルってなんだろう)。

 きっと付属のCDになにかドライバみたいなものがあるだろうと、auの付属CDを見ると、なんとウインドウズしか対応していない。ばかたれかau。

 それで青歯を使うことができず、ケータイで撮った写真を簡単にPowerBookに転送する方法は・・・添付書類にしてEメールでじぶんのWEBメールのアドレスへ送るしかなかった。

 しかしこれがいちばん簡単な方法だろう。しかしなんという遠回り!

mojabieda * PowerBookG4 * 07:02 * comments(0) * trackbacks(0)

 沖縄、パレスチナ、米国の都市にかつての「ベルリンの壁」がある。
 
 壁の向こうには広々とした土地があり、きれいなビルがあり、豊かな暮らしがある。壁のこちら側には、狭い土地に小さな家々が密集し、貧しい暮らしがある。沖縄では壁の向こうが米軍基地、パレスチナでは壁の向こうがユダヤ人の植民地区、米国の都市では壁の向こうが富裕層の居住区だ。
 
 あるブログにこうあった(勝手に引用してごめんなさい)。
 
 「喫茶店で時間をつぶす彼は、いつもテーブルの上に家の鍵や請求書が入っていると思しき封筒を置く。だれも彼がホームレスだと思わないように。/全米で、ホームレス人口は210万から350万の間と推計されているが、最近、車の中で暮らす人が増えている。"Mobile homeless" と呼ばれているらしい。車を駐める最適な場所は、あまり建て込んでおらず人目につかず、しかし公衆トイレなどには歩いていけるぐらいのところ。急な坂道や林の周辺などが歩行者が少なくてよい。大規模スーパーの駐車場や病院の駐車場などもよい。大学の体育館などでシャワーを浴びるとよい。大都市では、ホームレスに対する警察の取り締まりは厳しくないが、郊外の住宅地では、住民の通報ですぐ警察が飛んできたりするので、毎晩場所を変えるなど、注意を要する。」
 
 米国ではどんな貧乏な人でも車を持っていなければ生きてゆけないらしい。安部公房の小説に『赤い繭』というのがあるが、「壁」がテーマの一つであったと思う。最後に(ホームレスだった)主人公が、自らの「家」を自らの心身によってつくり「繭」化してしまう。車の中に閉じこもるホームレスとはまさにこの「繭」化そのものである。
mojabieda * 時事 * 06:39 * comments(0) * trackbacks(0)
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