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中部ではじめての『白バラ展』

 中日新聞オンライン(5月28日)に中部地区ではじめての『白バラ展』開催の記事が。

 「第二次世界大戦のドイツで非合法の反政府活動を行い、処刑された学生グループ「白バラ」を紹介するパネル展と映画上映会が、6月に愛知大豊橋校舎(豊橋市町畑町)で開かれる。愛大の創立60周年事業として文学部ドイツ文学専攻主催。

 白バラは1942年から43年にかけて活動。ミュンヘンを中心に、ドイツ各地で国民にナチスへの抵抗を呼びかけるビラをまいたり、郵送したりして、メンバー6人が処刑された。事件を題材にした「白バラの祈り」は昨年のベルリン映画祭で3冠を受賞し話題にもなった。

 パネル展ではメンバーの肖像写真やスナップ写真に、それぞれ略歴やエピソードを添える。上演される映画は「最後の5日間」(1983年、パーシー・アドロン監督)で、白バラのメンバーのゾフィー・ショルが逮捕されてから処刑されるまでを題材にしている。日本語の字幕付き。

 パネル展は1−14日。月−金曜日は午前10−午後4時。3、10日は午前10−午後1時。映画上映は3、10日の午後1時半から。いずれも無料。早稲田大人間総合研究センターの村上公子教授を中心に企画。国内16カ所を巡回し、中部地方では初めてという。」

 また、愛知大学の独文研究室のHP(http://liebesblick.biz/)に、

「白バラ展」について 2006 May 13 (Sat)
「白バラ展」を以下の予定で行なうことになりましたので連絡致します。

[展示館]
場所:愛知大学(豊橋)記念会館1F
期間:2006年6月1日〜14日
時間:月〜金 10時〜16時
   土   10時〜13時
   (日曜閉館)

[映画上映会]
映画:ゾフィー・ショル最後の5日間
   パーシー・アドロン監督 1983年西ドイツ 16mm 日本語字幕付き
日時:2006年6月3日と10日
   13:30〜15:40
場所:愛知大学(豊橋)622教室(から、記念会館3Fに変更)

主催:愛知大学および愛知大学文学部ドイツ語ドイツ文学専攻

お願い:「白バラ展」では50枚近い貴重で大きなパネルが記念会館に展示されます。そのため期間中は記念会館1Fに2名程度在室する必要があります。教員と独文専攻のみなさんでなんとか分担できないかと思っています。どうかご協力お願い致します。」

 とありました。

 映画『ゾフィー・ショル最後の5日間』は『白バラは死なず』のゾフィー役であるレナ・シュトルツェさんが出演する映画だったと思います。
mojabieda * 白バラ * 17:53 * comments(2) * trackbacks(0)

他者への想像力 2

 5月28日のさんけいのオンライン記事に君が代の替え歌の記事があったが、あるブログに「正直な」さんけいとあった。

 というのは、「(君が代の替え歌は)皇室に対する敬慕とはかけ離れた内容で」という文言があったからだ。

 君が代の「君」とは天皇ではないと与党の政治屋が国会で明言して(ごまかして)いたはず。だから皇室に対する敬慕の歌ではないはずだ。だから法律で国歌として制定したはずなのだ。

 もちろん戦前に君が代が国歌になったことはない。なぜならまさしく「皇室」の歌だからだ。国歌などと「下々」が親しげに呼ぶのは「不敬罪」だろう。

 それにしてもなんという世の中だろう。現在も、「なんでもあり」の時代になったのか。

 国会の討論をブログなどで見ると、政治屋たちにもっとも欠けているのは「他者に対する想像力」(と人間としての品性)だと思った。それに大メディアが乗っかっている。

 戦争がどのようなものかは、体験した者でなければ分からない。しかし、実際に一兵卒として辛酸をなめた大岡昇平、高杉一郎、石原吉郎、水木しげるたちの作品には真摯な体験が描かれている。

 そうして、生き残った市井の人たちのその後の人生に、戦争の傷跡がどれだけの陰を落としてきたのか、想像することもできる。

 その戦争を引き起こした軍国主義への道に導いた皇国教育、ナショナリズム(国粋主義)の危険性に思い至ることも。

 国家は一個人の人生に刻まれた傷跡さえ救うことはできない。ましてや命をや。

 それにしても、「犠牲者」という「欺瞞のことば」に慣れすぎた。犠牲者ということばを平気で使う精神には、すでに(死者・生者の区別なく)「他者の人生への想像力」が欠如している。

 だれも他人の犠牲となるために生きている者はいない。それを生き残った者たちが「犠牲者」と呼ぶ無神経さ。もし死者の声があるのだとすれば、こう叫ぶだろう、「勝手におれを犠牲者などと呼ぶな。おれはおまえたちによって死んだことはあっても、おまえたちのために死んだことはない。」

 かつて日本は一度国をほろぼした。また同じ道を行こうとするのか。教育基本法を変えようとする動きが与党の政治屋たちにあるが、国をほろぼしたのは不良少年ではなかった。国を導く政治屋と官僚たちであった。

 かつて東京都の教職員組合の委員長が言ったことばをもういちど繰り返したい、「いまだかつて不良少年が国をほろぼしたためしはない」。
mojabieda * 時事 * 07:09 * comments(2) * trackbacks(1)

ブログの検索

 検索では主にグーグルとヤフーとTechnoratiとを使っている。

 それでびっくりしたのは、Technoratiはわたしが更新したばかりのブログをたった数分後に検索できてしまうことだ。ブログ専用の検索エンジンだと思うが、おそろしい。すごい世の中になった。以前つくったホームページなど、検索に載るのにどれほどの日数がかかったことか。検索できるようになったときの喜び。なんだか世の中にデビューしたような気持ちになったのはついこの前のことだ。

 ちなみにわたしのブログのランクは1、205、569位(0リンク・フロム0サイト)。見てくれる人は1日に100人もいない。つまり「この世で知る人もほとんどいない」ブログだが、検索エンジンにかかれば、あっという間に検索できてしまう。

 あるサイトを見ていたら、現代に必要なリテラシーは「読み・書き・パソコン」なのだそうだ。そうかもしれないと思った。しかし、このパソコン・インターネットなど、おそろしい勢いで進歩・発展するから、とてもついてゆけない。

 さっきTechnoratiでこの記事を検索できるかためしたら、4分後に検索できた。RSSリーダーとして利用しているViennaでは数時間くらいかかりそう。
mojabieda * 時事 * 21:49 * comments(0) * trackbacks(1)

他者への想像力

 雑誌の『国文学』6月号が映画の特集を組んだ。その中に『ルート181』があって、岡真理という人の文章が印象に残った。

 『ルート181』という映画についてはちょっとだけ知っていた。しかし岡さんの文章を読んで、もうれつに観たいと思った。パレスチナ人クレイフィとユダヤ人シヴァンが共同でつくったインタビュー映画である。南から北へとイスラエル/パレスチナの境界線をゆく中で、次第に明らかになってゆくものがあるという。勝手に引用してしまう。

 「『ルート181』では、クレイフィとシヴァンを乗せた車が南部から中部を経て北部へと移動していくが、それは単なる空間移動ではなく、同時に、イスラエルという国家の歴史を遡行する旅として構成されている。旅が進むにつれて、イスラエルという国家がその歴史の深奥に抱える暗部が徐々に、徐々に、抉り出されてゆくのである。」

 「では、イスラエル国家がその歴史の深奥に抱える暗部、『ルート181』という作品がそこへの遡行を目的とする歴史の根源とは、いったい何か。それは、端的に言えば、このイスラエルという国が、誰の、誰に対する、いかなる暴力の上に──より厳密に言えば、誰の、誰に対する、いかなる暴力の「忘却」の上に──存在しているのか、ということにほかならない。」

 「「自分の土地」について語っていた者たちが、声を荒げるのはこのときだ。『白バラの祈り』が、最高裁判事の怒声によって、そこにナチスが恐れたもの、否定しようとしたものがあることを描いたように、『ルート181』は、インタビューされる者たちの、こうした突発的な感情の暴発を誘い出すことで、そこに、彼らが躍起になって否定したい、隠蔽したい「真実」があることを観る者に指し示していく。」

 という映画なのだが、わたしが特に考えさせられたのは次の箇所である。

 「たとえばスピルバーグは最新作『ミュンヘン』において、一九七二年のミュンヘン・オリンピックでイスラエル選手を襲撃したパレスチナ人テロリストの「首謀者たち」を暗殺するユダヤ人暗殺者の人間的葛藤を描き、右派のユダヤ人の批判を浴びたが、しかし、この作品においても、ユダヤ人国家イスラエルの建国それ自体が、パレスチナ人という他者に対するレイシズムに基づく植民地主義的暴力であったという批判的認識が描かれているわけではない。スピルバーグにおいてパレスチナ人の「ナクバ」(大いなる災厄)の記憶はあくまでも、「パレスチナ人はそう語っている」、「パレスチナ人からすると出来事はこの上うに見える」という相対的な認識にとどまっている。

 だが、たとえばホロコーストという出来事は「ユダヤ人はそう語っている」、「ユダヤ人からすると出来事はこのように見える」といった相対的なものではないはずだ。だからこそ、ドイツ人ゾフィー・ショルは、ユダヤ人という他者の、人間の尊厳を否定するナチスの論理を否定したのだった。」「それは、ユダヤ人であろうとパレスチナ人であろうと、他者の人間性を否定する暴力であるという点で同じではないのか。」

 「だが、『ミュンヘン』の主人公が深く苦悩するのは、このような問いに直面してではない。彼が煩悶するのは、「われわれユダヤ人」がこのような罪を犯す者であってよいのか、という葛藤ゆえだ。主人公のその葛藤は、エドワード・サイードによるアモス・オズ批判を想起させる。オズはイスラエルの和平派の良心的知識人として日本では紹介されているが、サイードは、オズの占領批判を批判して言う。オズが「占領」を批判するのは、それがユダヤ人の魂を破壊するからであって、イスラエルの占頷下でパレスチナ人が日々、暴力を振るわれ、その人権を蹂躙されているからではないのだと。」

 「ナチス支配下のヨーロッパにおけるユダヤ人の移送の責任者であったアイヒマンの裁判を傍聴したアレントは、ホロコーストという巨大な犯罪が、人間の想像を絶した怪物的な犯罪者によって遂行されたのではなく、アイヒマンのような能吏が、自分に与えられた職務を「忠実に」、すなわち他者に対する人間的な想像力や自らの行為に対する批判的想像力をいっさい差し挟むことなく遂行することで可能になったという事実を看破し、これを著書『イェルサレムのアイヒマン』において「悪の凡庸さ」という言葉で表現した。」

 「他者の人間性に対する想像力と、自らの行為が他者の上に生み出す結果への批判的想像力。ゾフィー・ショルにナチスの体制告発を可能にしたのはこの二つの想像力だった。『ルート181』は、かつてホロコーストを可能にした、人間におけるこれら二つの想像力の欠如が、イスラエルという国の歴史的、社会的病理であることを描いている。」

 明晰な論理だと思う。スパッと小気味よい。「それがユダヤ人の魂を破壊するからであって、イスラエルの占頷下でパレスチナ人が日々、暴力を振るわれ、その人権を蹂躙されているからではないのだと」すれば、たとえばユダヤ人としてとか、パレスチナ人としてとか、日本人としてとかではなく、一人の人間として(つまり「わたし」個人として)、いかなる他者の人権をも蹂躙してはならないという想像力が大事だということだろう。

 日本人の魂とか、日本人としての誇りとかいうものによって曇らされてしまうのは他者への想像力だ。そういうことを無理やり政治屋や役人が押しつけてくるのだとしたら、やはり戦争への準備のためだろう。

mojabieda * 白バラ * 22:47 * comments(0) * trackbacks(2)

教育基本法「改正」と教職員評価制度

 今年度から静岡県の公立高校では教職員評価制度の試行が数校でおこなわれる。来年からは全県で試行される。この試行の結果、試行が施行になるのかどうか分からないが、「試行」をすでに「施行」と思い違いする教員が出ているという。

 現在この評価シートには「愛国心を指導したか」の項目はないが、教育基本法「改正」案が可決されれば、教育基本法にのっとって、文科省の「指導」により全国一律にこの項目が入るだろう。

 事実、19日の会見では小坂文科相が「(愛国心教育の)適切な指導が行われている状況を把握するなんらかの方法をとる。指導のあり方について確認作業を考えたい」と明言している。

 「教科外活動」の項目の中に「愛国心を指導したか」の項目を入れて教員を評価する。その評価はやがて査定昇給や昇進などにも結びついてゆく。教員はこのようにきちんとコントロールされる。愛国心教育に反対する教員は「指導力不足」と評価され、研修所に回されるか飛ばされるか・・・。

 その教育基本法「改正」案には日本の「伝統と文化」の尊重も入っているから、とうぜんこの語句は「天子様」に直結する。

 こうして「改正」後は、教育基本法にのっとって、忠君愛国の精神をたたき込むことができるようになるだろう。そうすればやがて憲法もすっかり変えてしまうことができる。

 2003年の5月3日の朝日新聞の調査によると、以下の都道府県の市町ですでに愛国心教育の評価が通知表になされているという。

■「国を愛する心情」などを通知表に使った小学校のある市町
採用校  採用校のあった市町
岩手県  4 盛岡市、宮古市、一関市
福島県  8 いわき市、会津若松市
埼玉県 37 熊谷市、行田市、川里町、騎西町
山梨県  3 甲府市
静岡県  3 静岡市
愛知県 15 西枇杷島町、豊山町、師勝町、西春町、新川町
福井県 11 勝山市、坂井町、丸岡町
京都府 10 八幡市、京田辺市、宇治田原町、井手町
山口県 11 防府市、光市
福岡県 67 福岡市、柳川市
長崎県  3 諌早市
合計 172(11府県28市町)

 だとすれば、「改正」後は、全国津々浦々の児童・生徒の通知表にもこの愛国心の評価欄ができ、教員が生徒の愛国心を評価しつつ、校長がその教員の愛国心教育を評価するということになるのだろう。具体的な行為・行動で評価しなければならないから、やがて教育勅語の奉読、御真影(ごしんえい)、奉安殿(ほうあんでん)、宮城遙拝(きゅうじょうようはい)が復活するかもしれない。いつか来た道だ。

 こうして世界に冠たる日本、撃ちてし止まんの大和魂、「大君(おおきみ)の醜の御楯(しこのみたて)」として「大君の辺(へ)にこそ死なめ」と教え、「教え子を再び戦場に送」りこむ時代が到来するのだろうか。

 ちなみに、国会傍聴などの記録は「教育基本法『改正』センター」(http://www.stop-ner.jp/bochoki.html)にくわしい。また「内申書制度の廃止を求めます」(http://blue.ap.teacup.com/paletoutseul/)にもさまさまな情報がある。
mojabieda * 教育 * 02:46 * comments(0) * trackbacks(0)

米軍再編のための負担金3兆円

 今年、2006年度の日本の国家予算の歳入は約80兆円弱。
日本の文教(文化・教育)および科学振興費が5兆2600億円。
日本の防衛費が4兆8000億円。
そこへ今度の米軍再編のための日本の負担金が3兆円??
グアムの米軍住宅のため、一戸につき8000万円??
グアムって、日本ではありませんよね?
政府が教育基本法改悪法案で「国を愛する」というのは、きっと米国のことなのだろう。
mojabieda * 時事 * 07:02 * comments(0) * trackbacks(0)

これ以上何をすれば国を愛しているということになるのか

 5月18日号の週刊誌をラーメン屋で読んでいたら、「愛国教育?大きなお世話」という文章が目にとまった。

 さきの大戦のあと、うらみごともいわず日本を瓦礫から立ち直らせた国民、必死にものをつくり世界有数の経済大国にした国民、馬鹿な連中のバブルの後始末を国民にしわ寄せする政策に文句もいわずに従う国民、天下りなど税金かすめどりの官僚天国にもテロも起こさない国民。「これ以上何をすれば国を愛しているということになるのか」と述べている。たぶん後は「命を差し出せ」ということだろう。

 さらに福沢諭吉の『文明論之概略』を引用して以下のように述べている。

 選挙で登用された国の臣僕に、徳義品行の指図など受けるいわれはない。「我輩に向(むかっ)て善を勧(すす)め生を営むの道を教(おしう)るがためにとて、銭を出さしめんとするに於(おい)てをや、謂(いわ)れなきの甚(はなはだ)しきものなり、誰か膝を屈して人に依頼し、我に善を勧めよとて請求する者あらん」。つまり、じぶんに対して善をすすめ、生きる道を教えようとして、金を出させるなど、まったく「ありえねー」ことだ、と。

 そういえば、イエス・キリスト氏も言っていた。「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」(マルコ12、17)。思想信条は私個人のことであり、銭を与えている相手に寸毫も口ばしを差し挟まれるいわれはない。
mojabieda * 時事 * 18:04 * comments(0) * trackbacks(0)

ヘルマン・ゲーリングのことば(続編)

 バーサミアン では戦争への「合意を捏造する」メディアの役割についてお話しさせてください。ニュルンベルグ裁判でヘルマン・ゲーリングはこれを次のように述べています。

 「民衆は常に指導者の命令に従わせることが可能だ。それは簡単なことだ。やるべき事はただ一つだ。民衆に対して、おまえたちは攻撃されるぞと告げることだ。そして平和主義者には、『愛国心に欠け、国を危険にさらす』と非難するだけでよいのだ。どの国でも全く同じだ」と。米国でそのやり方は通用するのでしょうか。

 チョムスキー 確実に通用します。周りを見回りしてご覧なさい。あなたが示す程度ではないかもしれませんが、確実に通用しているでしょう。

 過去から事例を取ってきましょう。そうすればもっと冷静に見ることができます。1980年代中頃、第1次「対テロ戦争」時代のことです。レーガン政権が現在と全く同じ用語で、同じレトリックで「対テロ戦争」と呼んでいるのです。・・・ニカラグアから自国を守るというヒステリーの頂点で、たとえば『ワシントンポスト』や『ニューヨークタイムズ』の社説や特集の論説記事では、ニカラグア政府転覆への支持は100%近いものでした。(『チョムスキー 21世紀の帝国アメリカを語る』(明石書店)101〜103ページ。ちなみにこれは02年10月のインタビューです)

 ニカラグアが米国の脅威だって??もうずっと以前から米国では政府とメディアとが戦争への合意を捏造してきたのでしょう。

 現在の日本のメディアはどうでしょうか。

 連日の拉致問題、竹島問題、靖国神社問題で外から国民のナショナリズムをかき立てて囲い込み、内側から改憲と教育基本法改悪と共謀罪とでがっちりと国民を縛り上げる法制をととのえることによって、格差社会(新階級社会)を前提にした統制的な国家(つまり「無駄な」弱者の切り捨て)を実現させ、(米国なみに対外戦争をしグローバリズムの潮流にのる)国家、社会をつくるというもくろみを補完するメディアの動き(まさに「共謀罪」)なのでしょうか?
mojabieda * 時事 * 07:13 * comments(0) * trackbacks(2)

盗人の説教

 クニを愛したいのですが、クニの基になっている山川草木、自然、農業、人々の暮らしを破壊しつづけてきたのはいままでの政府の政策でしょう。

 愛したい郷土の風景は、大手資本による開発によって郷土の風景ではなくなってきています。

 たとえば日本の都市の駅前はどこも同じようなマンションとサラ金の看板が建ち並ぶ風景。地元商店街が消滅し、街角には全国一律のコンビニ、チェーン店、郊外にはどこにでもある大型店舗など。

 わたしの身の回りでも、田園風景だったのですが、急速に宅地化されて、水田がどんどんなくなっています。

 田植えの季節には水田に映る青空や夕暮れの風情、若葉の季節には草の薫りや夏みかんの花の香、ザリガニをとった里山の小川の風景などなど、そんな愛する郷土をどんどん失わせてきた政府が、国民に郷土を愛せよという・・・教育基本法の改悪。これを盗人の説教とよぶのでしょうか。

mojabieda * 時事 * 07:09 * comments(0) * trackbacks(1)

ヘルマン・ゲーリング元帥のことば

 ゲシュタポ(秘密警察)を創設したナチスの高官ヘルマン・ゲーリングは、戦後のニュルンベルク裁判のおり、次のように語ったという。

『……もちろん、国民は戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。……そして国民はつねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやりかたはどんな国でも有効ですよ。』(Wikipedia)
 

mojabieda * 時事 * 07:03 * comments(0) * trackbacks(0)
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