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ミュンヒェンの白いばら

 7月25日、『ミュンヒェンの白いばら』(山下公子・筑摩書房)を読了。この本が日本で最初の(翻訳ではない)「白バラ」関係書籍らしい。数年前にネット(日本の古本屋)で手に入れた。1000円ちょっと。ところどころ目を通したが、全部を最初から読んだのははじめて。ところで、現在、アマゾンで検索すると(古本で)9800円ぐらい。なんでだろう?

 この著者山下公子さんはアリス・ミラーの『魂の殺人』の訳者だろうか。と思って奧付を見たらそうだった。

 読みながら、いちばん気になったのは「白バラ」にかかわる戦後のドイツのありようだ。

 80年代に観た映画『白バラは死なず』のエンディングにはこの判決は現在においても有効であるというテロップが流れた。

 このテロップがドイツでずいぶん論議をかもしたらしい。『白バラは死なず』は戦後ドイツのありように一石を投じた映画だった。そのことが『ミュンヒェンの・・・』を読んでよく分かった。

 『赤旗』の7月15、16日の連載記事に「過去と向き合う──ドイツの場合」という記事があり、そこに「白バラ」支持者として投獄され生き残ったマリー=ルイーゼ・シュルツェ=ヤーンさんのインタヴューが写真つきで載っていた。

 シュルツェ=ヤーンさんはハンブルクの「白バラ」の後継者であるハンス・ライペルト(死刑)と親しく、また「白バラ」の一人のフーバー教授(死刑)の家族を支える活動をして秘密警察に逮捕された。

 ハンス・ライペルトについては『白バラを生きる──ナチに抗った七人の生涯』(M.C.シュナイダー・W.ズュース/未知谷)に詳しい。

 その『赤旗』記事によれば、「白バラ」支持者であるシュルツェ=ヤーンさんは戦後もよく「国家の裏切り者」といわれ、(ナチスの民族裁判所の判決が戦後も有効であったため)元の大学にも復学を拒否されたらしい。だから「白バラ」の体験を語るには、戦後30年以上もかかったという。

 68年の学生運動の高揚のときから、次第に「白バラ」抵抗運動が「認められ」はじめたらしい。

 82年に映画『白バラは死なず』が公開され、先のテロップで論議がわき起こった。

 85年に、レーガン米大統領がコール独首相とともにドイツ将兵の墓地を参拝した折り、そこにナチ親衛隊の墓があったため、さまざまな論議がわき起こり、改めて「白バラ」関係者のまともな記念碑などがないことが逆に認識されるようになったという。

 それで87年に「白バラ」生存者・家族などが集まり「白バラ」基金をつくり、89年に記念館を開いたらしい。

 そうしてようやく95年に「白バラ」判決は無効とされたという(『赤旗』)。

 このあたりの事情については詳しいことは分からない。『ミュンヒェンの・・・』にはこうある。

 「今(88年)となっては(ナチの)国民(=民族)法廷の判決そのものが時効にかかり、判決としては正当なものだったことになってしまっている。フェアヘーフェン(82年の映画『白バラは死なず』の監督)が問題にしたのは、まさにその判決が判決として正当であるという点だった。そしてその問題提起の裏には、それらの判決を下したかつての国民(=民族)法廷、特別裁判所判事たちが、戦後も何食わぬ顔をして裁判官の職を続行し、高額の年金を貰って優雅な引退生活を送っていることに対する怒りがある。」(p370)

 また「連邦議会という公けの場で、繰り返し『政府としては、すでにその判決は無効になっている以上、改めて立法措置を取る必要を認めない』と言明」していたドイツ政府が、95年にはきちんと法律で無効であることを認めたということなのだろう。

 とりあえずここに至るまでには、実にねばり強い市民運動が必要だったのだろう。

 ここで考えたのは、大多数の戦後ドイツ人は、戦中のナチスの時代とさほど変わらなかったのではないか、ということだ。つまり、ナチスドイツの時代には、ナチズムに「迎合」し、戦後に西側・東側に無理やり編入された時代には、西と東に「迎合」し続けた、という点では変わらなかったのだ。体制の中を上手に泳いで生きてきた点では何も変わらない。だからこそ「負い目」もあって、「白バラ」運動を(たてまえとして)「ドイツの良心」に祭り上げることで、じぶんたちの「迎合」主義の免罪符にせざるをえなかったのだろう。

 その「迎合」世代を乗り越えられるのは、「タブラ・ラサ(白紙)」のその息子たちの世代である。今年、日本で公開された映画『白バラの祈り』の監督マルク・ローテムントは68年生まれだ。

 さて、そのドイツを日本に置きかえてみると、「日本の良心」として祭り上げるべき「白バラ」さえもないばかりか、A級戦犯が祭られた神社を現職の総理大臣が参拝しつづけている。ある意味、日本は戦前も戦後もなく一貫している。政府首脳も「正直」だ。

 戦後のドイツは「ナチスドイツではない、もう一つのドイツ=『白バラ』のようなドイツの良心」を必要とした。そうして戦後ドイツはナチスドイツを否定し「もう一つのドイツ」と一体化することで国際社会に認められようとした。ドイツはヨーロッパ大陸のなかの陸続きの国家である。
 
 では日本は?「軍国主義日本ではない、もう一つの日本=『白バラ』のような日本の良心」というものがない。ないどころか、政府は必要とも感じていないだろう。つまり、島国根性そのもので、いまも侵略を正当化するような政府だから、近隣諸国からああも批判されるのだろう。これほどまでに隣人たちから嫌われつづけても、太平洋の向こうにある「帝国」の「番犬」(「忠犬」)であるかぎり身の保障はあるというわけである。その「帝国」が、みずからを「国際社会」と名のっているのも笑止だ。



 
mojabieda * 白バラ * 17:59 * comments(2) * trackbacks(0)

プライドと偏見

 なにげなくQuickTimeで(というよりiTunesで)映画のトレーラーを観ていたら、名前も知らない女優にぐうぜん眼がとまった。昔のオードリーと日本のハセキョーを足して2で割ったような美しさ(なんだそりゃあ〜)。しかも絵(風景や自然や時代背景の映像)がすばらしい。18、9世紀ごろのイングランドだろうか。映画の題名は『Pride and Prejudice』となっていた。

 きっと日本語訳ではずいぶん違った題名になっているだろうなと思った。それでネットで検索すると、『プライドと偏見』という原作そのものの題だった。その女優の名前はキーラ・ナイトレイというらしい。
 
 原作はイギリスのオースティンという。ぜんぜん知らなかった。中野好夫訳を図書館で見つけた。『自負と偏見』。すぐに借りた。

 いろいろな訳があって『高慢と偏見』とも訳されている。こちらは英文学者の阿部知二訳(河出書房新社)。『三太郎の日記』の阿部次郎なら人物が分かるが、この人にはあまり好感が持てない・・・。

 それはともかく、『プライドと偏見』を観てしまった。話はまあ「(イケメン?)玉の輿」に乗るどこかのお嬢さんというよくある話。しかし、映画の中の女性はまだ若いのにしっかりしたお嬢さん。言うべきことはきちんと言う。頭も切れる役柄で、これは女優のキーラ・ナイトレイその人ではないかと思った。映画の作り方もうまい。ひきこまれて、ちょっとハラハラさせて、しかしほんわかとさせる。そして美しい女性と美しい風景とを存分に表現し尽くす。

 あまりどうしようもない男が出てこない。ほとんど善人だ。これは女性から見たメルヘンの世界。現実の男たちはもっとドロドロしてたちが悪い。いちばん魅力的な男は歳をとった親父さん。温かくて心が寛くて頭が切れてユーモアがあって家族思いだ。

 近代ヨーロッパのささやかなロマンスだが、あまり「時代」や「社会」は感じさせない。いつの時代でも男と女のドラマは変わらないのだろうし、そこにのみ焦点を当てている。

 観たあとの後味の良さ。DVDだが、最後のテロップが終了するまで観てしまった。

 おまけで「アメリカ版のエンディング」がついていたので観た。なんだこりゃあ。現代的な安っぽいラブロマンスの映像で終了させてしまった。

 「結婚」への物語は一種のメルヘンで、現実の問題は結婚の先にある。映画の中のあの大叔母などの家族関係から考えると、身分の低い新妻はずいぶん苦労しそう。それよりも風采のあがらない、あの「岡村」によく似た男性と結婚した方がまだ幸せになれるかもしれない。などと思ってしまった。

 それはそうと、ネットで『プライドと偏見』の(トレーラーの)ムービーのストリームをダウンロードしようと思った。いちばんよいのはアップルのホームページ(米国)からQuickTimeの映画のトレーラーを探すこと。

 
mojabieda * 映画 * 21:31 * comments(1) * trackbacks(2)

7月22日、ようやくアマゾンにもDVD『白バラの祈り -ゾフィー・ショル、最期の日々-』が


 ◯ 価格 3、701円
        (25%オフらしい)
 ◯ リージョンコード2
 ◯ ディスク枚数2
 ◯ 販売元 レントラックジャパン
 ◯ 発売日 2006年9月22日
 ◯ 特典映像(合計約130分の映像)
   ・海外版予告篇  
   ・日本版予告篇
   ・生存者(証言者)インタビュー
   ・「白バラ映画祭」時のシンポジウム映像
   ・日本公開初日舞台挨拶
    &ドイツ映画祭2005舞台挨拶

 ということは、ドイツ発売のDVDの特典映像とはずいぶん違っています。
 ドイツのものは、一つは脚本にはあっても実際の映画にはカットされた場面が(たぶんすべて)収録されていました(ということは、脚本全部をいちおう映像化しているということでしょうか)。
 またもう一つは、「メイキング・オブ・白バラの祈り」ともいうべき撮影の様子やキャストや裏方(舞台や大道具)へのインタヴューをたくさん撮っています。
 ギロチンなども苦心しながら精巧に(かつ、にこやかに)製作している様子が撮られていました。
 映画の舞台裏のようすがよく分かる映像です。
 そして、現代を生きているキャストや現代の街にただよう雰囲気と、映画の中の時代の人物や町の雰囲気とが対照的に浮かび上がり、その「落差」のようなものも強く感じました。
 ナチの制服を着る現代ドイツの若者のとまどいにも似たぎごちなさのようなようすもうかがえました。
 シンポジウムや舞台挨拶などの映像も大事ですが、こちらもぜひ「日本語版」化してほしかったなと思いました。予告編はカットしてもよかったのに・・・まだ手にしていないので全容は分かりませんが。
 とはいえ、さっそく予約してしまいました。

mojabieda * 白バラ * 21:05 * comments(0) * trackbacks(0)

さまざまな耳より情報

■ ノーマ・フィールド氏の講演会

◯ 講演:「平和な国で生きたい
       −日本のそしてアメリカの女性は今」
◯ 講師:ノーマ・フィールド氏
    (シカゴ大学教授:東アジア言語文化学)
 彼女は日本人の母とアメリカ人の父を持つハーフ。
 18歳まで日本で暮らし、日本文学・日本女性史にも
 精通する彼女が、今アメリカから愛を持って
 祖国日本をみつめ、語る。

◯ 日 時:8月15日(火)  13:30〜15:30
◯ 会 場:アイセル21 1Fホール 
            (静岡市葵区東草深3-18)
◯ 対 象:一般市民 入場500円
◯ 主 催:静岡YWCA Peaca Festival 実行委員会
◯ 連絡先:静岡YWCA 
      事務所 TEL:054-283-2242


■ 石川文洋氏の講演会
 〜戦争の現実と日本国憲法
  今、日本の若者として考えよう〜

◯ 日 時:8月19日 14:00 開場
      14:30 講演開始 16:30 終了予定
◯ 会 場:グランシップ静岡
◯ 入場料:一般1000円 学生無料
◯ 主 催:静岡県高校生平和ゼミナール

 さらに「東屋」さんによると、ありがたい、耳寄りな情報!

■ 『白バラの祈り』DVDの発売
◯ 発売予定:9月22日(金)DVD発売、レンタル同時開始
◯ 映像特典:(予定)<2枚組>
 ・「白バラ映画祭」シンポジウム映像
 ・証言者トーク
 ・公開初日舞台挨拶
 ・ドイツ映画祭 舞台挨拶&記者会見
        (監督:マルク・ローテムント
         主演:ユリア・イェンチ)
◯ DVD仕様:本編:121分/製作国:ドイツ 
  2005年/片面2層/日本語字幕/ドイツ語(オリジナル)
  2chステレオ・日本語(オリジナル)2chステレオ
  /ビスタサイズ
◯ 2枚組仕様:REDV-00514
◯ 価  格:¥4,935(税込)
mojabieda * 白バラ * 22:13 * comments(0) * trackbacks(0)

生命記憶とうんこ座り

 駿府公園の鳩はあまり人を恐れないで近づく。わたしの家の庭に来る雀は、人の姿を見ると、さっと飛び立ってしまう。公園の鳩があまり人を恐れないのは、後天的な学習に負うところが大きいだろう。逆に雀が人を恐れるのは、後天的な学習によってではなく、先天的に古い先祖たちの記憶が個に宿っているためだといわれている。

 問題なのは、後天的な学習ではなくこの先天的な学習の記憶である。この記憶がどこに蓄えられて継承されてゆくのか。一つの考え方は生物学の考え方で遺伝子に蓄えられるというもの。

 もう一つの考え方は神秘学の考え方だ。記憶は遺伝子という物質的なもの(親子)を媒介せず、いわゆる個の魂に蓄えられ、生まれ変わったときに保持されさらに発展してゆくと考える。

 生命記憶ということばがある。たとえば、清浄な水や空気にわたしたちはほとんど「味」や「匂い」を感じない。長い生命の記憶の中で「無味」なものとして感じられるようになったということだろう。もし生命体が水や空気に「味」や「匂い」を感じ取って日々暮らしていたら、とうぜん「好き嫌い」が生じるだろうから生命自身にとって危険なことである。老子ではないが「無味」こそ最高の味なのだ。とはいえ、生命維持のための「無味」は結果であって原因ではないのだろう。

 生命記憶は遺伝子に蓄えられるのか、それとも輪廻転生する魂に蓄えられるのか。

 教育はeducationである。本来(元あったものを)引き出すという意味である。産婆術だ。引き出されたときにはじめて生まれる。だから後天的な学習を仕込むことだけが教育ではなく、実は「万物すでに我に備わる」ということわざ通り、はじめから「我」に先天的に備わっているものを個々に引き出すことがeducationなのだろう。さらに個々の「我」を「この世」と「時代」とに出逢わせることで、それをより発展させてゆく。そうでなければ輪廻転生の意味はないというのが神秘学者ルドルフ・シュタイナーの考えである。

 われわれは引き出して「出逢わせる」ことができるだけなのだろう。

 家の下の子どもは2歳になったばかりだが、1歳のころからうんこ座りをしてうんちするとき、それを人に見られることを極度に嫌った。何が恥ずかしいのかと教えられる前に、自我の意識が生じる前に、すでに「恥じらい」のような心の動きがあるということが分かった。

 1歳の幼児がうんちをするのを恥ずかしがるのはなぜかという問いに対して、たとえばその行為をしているときが(外敵に襲われて)生命にとって危険なときだから先天的に警戒をするのだという答えは、原因と結果とを逆転させている。創世記で人類の祖がいちじくの葉で下半身を隠したのを、隠すことができるようになったから恥ずかしいという感情が生まれてきたのだという説明も、おそらく同じ逆転だろう。恥じらいという感情は後天的に生まれるものではない。すでにあったものだ。われわれにできることはそれをTPOに合わせることだけである。

 「人を殺すな」という人類最古の掟は理屈ではない。理屈と膏薬は後からどこへでもくっつく。この掟は後天的な学習ではなく、(人が長い長い年月をかけて)先天的に学習してきたものだ。どうして人を殺してはいけないのか、「だから」うまく説明ができない。問題なのは、源を辿ってその理由を究明することではない。いますでに個に備わるものをさらに発展させることだ。われわれの課題の一つは物質文明という「この世」と戦争の「時代」という現実から「人を殺すな」(共存)をさらに発展させることではないか。

 肉体だけでなく精神をも含めて「人を殺すな」という命題は、戦争のみならず、環境破壊、貿易(貧富)の格差、さらにクローン人間の科学技術まで、さまざまな課題をその射程に含んでいる。これらはいずれも広く人類的課題である。

mojabieda * 子育て * 21:36 * comments(0) * trackbacks(0)

シュタイナー学習会

 7月9日。朝5時から起きて読書。『エーテル界へのキリストの出現』(シュタイナー/アルテ)。
 今日の午後に西川隆範氏の学習会があるのでそのテキストをあらかじめ読了した。

 「心貧しい者は幸いである。天国はかれらのものである」というマタイ福音書の意味が本書を読んでよく分かった。心貧しい者とは、もはや自我においてしか精神(聖霊)と出逢えなくなった者。その自我を通してしか天国(精神の世界)へ行くことができないということ。

 西川氏によると、神道はもともと天界についてはあまり詳しくはないらしい。江戸時代にはあの世に言及する仏教に対抗してこの世の道徳を説く儒教を神道にも取り入れ、本居宣長などは死や死後については特に言及がないらしい。平田篤胤はしかしあの世のことを以下のように捉えているという。神界、霊界、幽界、現界。

 仏教には無色界、色界、欲界があるという。

 仏教でいう極楽というのはもともと仏教以外の概念で、インドの宇宙観とは違うらしい。

 西洋では天界の概念はギリシア哲学とユダヤ教の二つの源流があり、それらがキリスト教の天界の概念をつくっているという。ギリシア哲学には二つの大きな宇宙観があり、一つはグノーシス神話、一つは新プラトン主義。グノーシス神話は30以上の神々によって宇宙(天国)が創造され、その後デミウルゴスがこの宇宙(悪の世界)を作りあげた。だからこの宇宙を否定して最初の宇宙に帰ることを希求する宇宙観。新プラトン主義はこれと構造は同じだが、この宇宙を悪とは規定していない。この二つの宇宙観がキリスト教に取り入れられたという。

 ヘレニズム時代のプトレマイオスの宇宙観は黄道十二宮、土星、木星、火星、太陽、金星、水星、月、地球という構造の宇宙観。これは中世のトマス・アクィナスやダンテの『神曲』にもひきつがれていく。シュタイナーも基本的に同じ宇宙観である。しかしシュタイナーも60代からはその区別がおおざっぱになってゆく。

 シュタイナーによれば、この区別を、
1 月から太陽までで一区切りした。これを英語ではsoul worldという(ドイツ語ではSeele Weltか)。また、
2 火星から上をspirit land(ドイツ語ではGeist Landか)という。

 中国(台湾も)では1を「心霊の世界」、2を「精神の国」と訳しているという。1はいわゆるアストラル界である。さらに1と2の上にも世界があるが省略。

 2の「精神の国」の一番下の世界を「天国の陸地」と呼ぶらしい。いわゆる物質界の元になる世界だという。しかし「国」とか「Land」とか呼んでいるのは、陸地のイメージがあるからだという。それに対して1の「心霊の世界」にはまだ不安定な大海を漂うイメージがあるらしい。

 シュタイナーによれば、現在はカリ・ユガ(暗黒時代)である。『マハーバーラタ』によるクリシュナの死の紀元前3101年から続いたカリ・ユガの最悪の5000年は1899年に終わったという。しかしあと40万年はこのカリ・ユガの時代が続くらしい。

 神霊とともに人間が生きていた黄金時代がクリタ・ユガ。それから白銀の時代、青銅の時代を経て、物質界へと完全に落ち込んだ暗黒時代カリ・ユガを迎えた。

 カリ・ユガから3000年を過ぎ、霊がイエスという人の肉体に降り、人々と物質的に出逢い、しかも磔刑にあったことは、この暗黒世界を大きく転換する意味があるらしい。キリストの磔刑をゴルゴダの秘儀とシュタイナーは呼び、人がその意味の深さを理解するにはまだまだとうてい及び難いらしい。しかしゴルゴダの秘儀から2000年経ってからようやくその意味が現れてきたという。地上の物質的存在である人間が、民族や集団としてではなく、個としての自我を通してキリスト存在と(エーテル界で)出逢う契機をつくったのだという。

 20世紀に入って、物質文明は転換期を迎え、物質的な宇宙観を変えるようなエーテル界への明視が人には可能になってきたという。

 現在は、かつて自然科学に霊感を与えた大天使ガブリエルからミカエルの時代になったらしい。ガブリエルは仲間・集団・国・家族を人の意識の中心に据えたが、ミカエルは個人を中心に据える。個人であるということは自分で考え、自由に生きることである。

 この自由の発端をつくったのは堕天使ルシファー(いわゆる悪魔)である。人間を誘惑するルシファーだが、いまはその自由を大天使ミカエルが後押ししている。

 神の行いを真似るのは自由ということではない。考えや行動の根拠が個人にあることを自由という。具体的な行動を真似たら、そこに依存する気持ちがある以上自由ではない。たとえばイエスの語った(抽象的な)ことばをじぶんなりに想像して行動するなら、そこには自由がある。

 秘儀参入のことを本書で「真夜中に太陽を見る」と表現している。いわば自分の自我がアストラル体、エーテル体、肉体を、太陽のように光を送って生かしているのが見えるということらしい。同時に神々が地上の生命を生かしているのも見えるという。
mojabieda * ルドルフ・シュタイナー * 20:29 * comments(0) * trackbacks(0)

地殻の大変動

 それにしても昨今の世情はどうでしょう。きのう(7月6日)起きてすぐにテレビを観たら、まずテポドン2号の発射のニュースでもちきり。さらに王貞治監督の手術と入院。ワールド・カップ準決勝でのフランスの(あやしい)PKでの勝利。ちょっと前には、29歳の中田のとつぜんの引退宣言。川渕キャプテンのオシム失言、陸上自衛隊のイラクからの撤退とひきかえの、イラクへの航空自衛隊派兵の増強、連日の「北」の拉致報道・・・。

 6月の国会では共謀罪、教育基本法「改正」、憲法「改正」国民投票案、防衛「省」案、自衛「軍」案など、世の中がひっくりかえるような法案が目白押しに出されて継続審議。

 学校教育関係では、公務員給与の引き下げ、査定昇給を織り込んた給料体系の根本的な改訂、教職員評価制度の試行や実施、教員免許の更新案など、これまたひっくりかえるような改訂や試行や案が出されています。

 あの懐かしい60年代のころに、これらの政策や法案が出されたら、全国津々浦々まで大反対運動のうねりが起きたでしょう。

 日常生活が変わった様子はありません。街も家並みも人々もいつものまま。しかし、たしかに「地殻の大変動」が起きています。起きてみたら「茶色い朝」が始まっていた・・・なんていう日が来るのでしょうか。

 ニート問題を取りざたする一方であきらかな棄民政策に走る政府の思惑に、自衛隊志願者の増強(あるいは徴兵制)のもくろみが見えてこないでしょうか。いつまでもA級戦犯合祀の神社に参拝する首相や政府首脳の思惑に、「英霊」の「安置場所」の確保のもくろみが見えてこないでしょうか。

 これらはあきらかに戦争への「レール」を敷いていると見えてこないでしょうか。

 敗戦後の職員会議で、新しくできた教育基本法を、涙を流しながら教職員に対して読みあげた校長がいたそうです。慚愧の涙だったのでしょう。この慚愧から戦後の教育は「教え子を再び戦場に送るな」をスローガンとして出発しました。恒久平和を希求する教育を支えたのが憲法であり教育基本法でした。

 現在、その憲法と教育基本法が最大の危機を迎えています。

 さて今日は七夕。わたしたちは何を願ったらいいでしょう。短冊に記すのは「家族が健康でありますように」「サマージャンボが当たりますように」の隣りに「日本がほんとうに住みやすい国になって、いつまでも平和でありますように」。
mojabieda * 時事 * 17:14 * comments(0) * trackbacks(0)

ポチの芸

 ネットのBBCのビデオで、渡米をした極東の「ポチ」首相が「ご主人」ブッシュの前で「芸」をしたのを拝見しました。 http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/5132376.stm

 ポチがとつぜんエルビス・プレスリーの歌を歌い出したり、色眼鏡をかけてエレキギターを抱える仕草をして「ぐろうり、ぐろうり、はれるう〜や」などと歌ったりして、「ご主人」の前でおどけていました。BBCではかれをPM(プライム・ミニスター)と、つまり一国の首相とわざわざ銘打って報道していました。

 「ご主人」へのお礼参りができたうれしさのあまりとち狂ったか。隠居まぢかの気安さからボケたか。カラオケにでも行ったつもりか。税金を遊興費に使って居直ったか。山のような報道カメラマンのフラッシュの前で(愚民にはとうてい計り知れない深謀遠慮のため)したたかに酔っぱらったふりをしたか。

 ともかくBBCを通して全世界に報道されてしまいました。そういえば、テレビ番組に似たようなのがあったな〜、◯◯殿さま、だったっけ。
mojabieda * 時事 * 20:51 * comments(0) * trackbacks(1)
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