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街の神秘と憂愁

 キリコの絵。『街の神秘と憂愁』。この絵を見たのは中学時代か。美術の教科書だと思う。この絵について、秋の夜長なのでつれづれなるままに書きつらねてみる。

 ヨーロッパの街は石の街である。石の街では生と死のコントラストが強くなる。石は人の棲み家となると同時に人の奥津城(おくつき)にもなる。石は生を謳歌するとともにやがて生を蝕む。あの、無機質な石の中に暮らす人たちを見よ。饗庭(あえば)孝男の「石の思想」だったか、石の建物の窓に老婆が顔を出していた。その老婆の目が窪んでいてドクロのようだったそうだが、その窓そのものがドクロの目のように見えたという。

 無機質と有機質との、不死なるものと死すべきものとのあくなき戦い。

 ふしぎな絵だ。明と暗のコントラストが強い。しかも画面の右半分は暗いカーテンのような前景の建物の陰に隠れている。そうして左側の建物との遠近法から、とうぜん視線は絵の中央の奥へと向けられる。そこには何があるのだろう。

 幾何学的な街のようす。人気がないなかをただ一人、画面の手前のすみを、輪をころがして少女が走る。この少女も画面の中央へと向かっている。

 どうやらこの少女が「主人公」らしい。

 それにしても中央の人影はなんだろう。あまりに唐突で、不自然で、ぶきみな影だ。見えないむこう側の世界からやってくる。

 空はいちおう晴天なのだろう。太陽は見えないがまぶしい日差し。中央に向かってへんに奥行きの深い建物の壁は虚しいほど白い。

 風が吹いている。マンスフィールドの「風が吹く」のような、妙な倦怠感がある。すでに人生の虚無が予感されるような手触りがある。

 音楽が流れているとすれば、デイビスの「ブルー・イン・グリーン」か、透明でけだるい乾いた抒情を感じる。

 時間が止まっているようにも見える。少女は止まった時間の世界をただ一人走っているように見える。あたかも輪はじぶんの「運命」のようだ。少女はおのれの運命の輪をころがしながら走り、やがてその向こうの人影と出逢うのだろうか。

 一番てまえには荷車が見える。左下の二本の黒い線はレールのようだ。石の建物や車やレールの物質的な存在感に対して、走る・歩くものたちのシルエットは影。

 地平線のはるか向こうに、ほんのわずかに見える緑はまぼろしか。
mojabieda * 芸術 * 06:05 * comments(0) * trackbacks(0)

早朝の夢

 早朝に夢を見る。一つは狭いT字路を車で行くのだが、右に行けばすぐに大通りに出て近いはずなのに、なぜか左に曲がってしまう。狭い道だ。しかもなかなか進まない。どこかおかしいのだ。ようやく大通りに出て左折する。そのあたりから、車はオモチャになり、わたしは右手でそれを上から抑え、道路を走りながら動かしている。そのうち、そのオモチャの車はなめくじになっている。なめくじの腹は道路にすりへって、口内炎のような穴がポツリと空いている。ちょっとかわいそうになる。なめくじは動作がのろい。わたしはそれをつかんでいるが、急に体を弓のように曲げて跳ねあがって、道路の向こうの家の敷地に飛んでいってしまった。びっくりして目が覚めた。そのとき、道路になめくじが飛び出さなくてよかったなと思った。
 なめくじはさいきん調子の悪いわたしの胃だろうか。

 それからギターを持って得意な歌を歌おうとする。それで、ギターの調音をするのだが、弦を弾こうとしても、その弦が弾けなくてなかなか調音できない。それで、あきらめて、だいたいのところを合わせて、さあ歌を歌おうとするのだが、そのギターではなくて別のギター(アコースティックギター)でなければならなかった。ようやく別のギターを弾こうとするのだが、そのとき、ハタと困ってしまった。歌を忘れてしまったからだ。どうしても有名な別のフォークソングしか思い浮かばない。じれったくて悔しい。そうして目が覚めた。
 これはじぶんの理想とすることをやりたいのだが、まったくうまく展開しない現状を表しているのだろうか。

mojabieda * 夢日記 * 20:37 * comments(0) * trackbacks(0)

最賃も知らない

 きょう、県庁で組合と人事委員会との交渉があった。人事委員会とは公務員の賃金などの勧告をする機関。県の公務員の賃金は、県下の民間企業の労働者の賃金、最低賃金にも影響を与えるだろう。

 公務員の給与を抑えたり下げたりすることが、間接的には民間の賃金水準を抑えたり下げたりすることにはね返ってくる。

 世に言う「公務員攻撃」が、そのまま民間にはね返ることを、世間の人は知っているのだろうか。

 ともかく労働基本権を奪われた公務員の、その代償としての人事委員会が立派な勧告をしてくれれば、公務員も民間の労働者も助かるはずだが、交渉をしても、その回答が「総務省」の役人のような回答だとつぶやいたのは国公(国家公務員労働組合)の人。

 その人に言わせれば、人事委員会の回答は「生計費原則(人たるにふさわしい健康で文化的な生活を営むに足る生計費の保障)の無視」、「人材確保にマイナス(公務員希望者の減少)」、「同一労働同一賃金の原則のなし崩し」らしい。

 これはもう人事委員会というシステムそのものの問題だろう。教育委員会といい人事委員会といい、県民のためではなく、中央の行政府のためにある組織だ。

 ところで、人事委員会に「県の最低賃金をご存じか」と質問したところ、ご存じではなかった。今年の最賃がいくら上がったかも。そういう人たちが県の公務員の給与を勧告するという。

 ちなみに静岡県の今年の最低賃金は時給682円(H18.10.1発効)。昨年は時給677円(H17.10.1発効)。つまり5円上がった。
mojabieda * 時事 * 21:20 * comments(0) * trackbacks(0)

日本が先祖返りする

 ベネズエラ大統領・チャベスの9月21日の国連演説をネットで少し読んだ。米大統領を「悪魔」と名指しした演説

 「そして悪魔〔el diablo〕は昨日ここにやって来ました。

 (拍手)

 昨日、悪魔はここに来ました。正にこの場所に。ちょうどここに。〔十字を切る〕今日となっても未だに硫黄の臭いがします。私の目の前にあるこのテーブルは。

 皆さん、昨日この演壇から、私が悪魔と呼んだ紳士である米国大統領は、ここに上り、まるで彼が世界を所有しているかのように語りました。全くもって。世界の所有者として。

 私が思うに、精神科医を呼んで、米国大統領によって成された昨日の声明を分析してもらうのもいいでしょう。帝国主義の代弁者として、彼は特効薬を分かち合いにきました。世界の人々を支配し、搾取し、略奪する現行の形式を維持するために。」

 なぜベネズエラ大統領が米大統領を「悪魔」呼ばわりするのかは、彼がこの演説の冒頭にとりあげている世界的に高名な(したがって暗殺の危険の少ない)米国の言語学者ノーム・チョムスキーの著『覇権か、生存か──アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社新書)を読めば分かる(読まなくても分かるが)。

 チャベスはこの本について、「20世紀の世界で起きたことや、現在起きていること、そしてこの惑星に対する最大の脅威――すなわち北米帝国主義の覇権的な野心が、人類の生存を危機にさらしていること――を理解するのに最適な本です」と述べている。

 さらに「この本は英語、ロシア語、アラビア語、ドイツ語に訳されています」と述べているが、日本語訳もある。

 ちょっと読んだが、読みにくい。訳が・・・「一般的」ではない。「障壁」「隠蔽」などという訳語など、ふつうの民衆が一生読むことも書くこともない漢字だろう。

 はじめのところに、「暴力的な国家」と「より民主的な国家」とある。いわゆる全体主義の国家・前近代的な封建主義の国家は「暴力的な国家」であろう。「より民主的な国家」とは、欧米や日本のような「民主主義国家」。前者をチョムスキーは「野蛮な社会」といいかえ、後者を「自由な社会」といいかえている。しかし、民衆支配の手段はちがっているが、目的は共通するという。つまり、両方の社会とも、「大いなる獣」(アレグザンダー・ハミルトン)と呼ばれる国民をいかに支配するかが目的だという。

 「一般大衆を支配することは、いつの時代でも権力者や特権階級の主たる関心事」であり、「17世紀にイギリスで最初の近代民主主義革命が起こって以来、特に重要な問題となっている」という。近代民主主義国家が成立してから、「ナイト(騎士)やジェントルマン(郷紳)による統治を拒む」「人の姿をした軽薄な獣の群れ」(=民衆)をどのように支配するかが、権力者たちの最大の問題となったのである。

 「暴力的な国家」なら、権力者たちが権力をむきだしにして暴力的に民衆を支配するが、「自由」と「民主主義」を看板にする民主主義体制では権力をむきだしにして「獣」たちを暴力的に支配はできない。「獣たちを手なずけるために新たな手段を考え出さなければならない」。それは「世論と国民意識の操作」である。

 この「操作」に多大な威力を発揮するものが、新聞・テレビなどのマス・メディアであり教育だろう。したがって政治によるメディアの規制と教育の統制が最大の問題となってくる。AB氏は教育基本法を変えると明言している。

 「鞭(むち)によって服従させられない自由な社会の方が、世論操作が遙かに重要になる」。つまり「民主主義国家」においては、世論の操作が政府の基盤となる。

 ナチスや戦前の日本のような全体主義国家でプロパガンダと呼ばれた「思想統制のシステム」は、実は「自由な社会」イギリスが発祥の起源となっている。そのシステムは「ナチス・ドイツや(人種差別の国だった)南アフリカやソ連、更には米国防省によって・・・幅広く模倣」されたという。

 なるほど、支配の手段こそ違うが、一部の特権的なエリートが支配する社会という点では、昔も今も、戦前も戦後も変わりはない、いうことか。看板だけ「自由」と「民主主義」をかかげた「羊頭狗肉」。

 AB氏が26日に首相に選ばれたが、「貴族社会」イギリスのBBCのネットでは、AB氏のことを「blue blood」と呼んでいた。青い血、つまり貴族である。

 日本が先祖返りする。


mojabieda * 時事 * 07:17 * comments(0) * trackbacks(0)

力を以て人を服するものは心服に非ざるなり

 9.21の東京地裁の「君が代・日の丸」強制に対する違憲判決。

 日本の象徴とされる天皇が、「(君が代・日の丸の)強制はよくない」と(米長とかいう)東京都の教育関係の責任者に直接口頭できっちりと述べているのにもかかわらず、強制して従わない教師を罰して来た東京都。

 政府や東京都が大事にしてきたのは、血の通った生きている天皇ではなく、天皇制である。政府や東京都は天皇を道具にし「君が代・日の丸」を道具にしてきただけにすぎない。

 その天皇制と「君が代・日の丸」を道具にして、庶民を、自発的・盲目的に政府に、そして政・官・財の上層部に従わせようとしてきた。これは明治政府以来、今に至るまでの日本の国家政策である。

 尊敬や敬意は自発的なものであり、強制はできない。『論語』にいう「匹夫(ひっぷ)も志を奪うべからざるなり」である。つまり「平凡な男でも、その本心を強制的に奪い取ることはできない」。

 尊敬や敬意の念を育てるということの前提に、その対象が果たして尊敬や敬意の対象となっているのかという問題がある。

 ナイフを突き付けられて、「おれを尊敬しろ。おれに従え」と言われても、ほんとうに心から尊敬の念を持って従うものはいない。もし従うのだとしたら、相手よりもこちらに力が足りないからだけである。

 『孟子』にいう「力を以(もっ)て人を服する者は、心服に非(あら)ざるなり。力贍(た)らざればなり」である。つまり「権力や暴力でもって人を服従させても、それは心から従うことにはならない。(表面上従っているように見えても)それはじぶんの方に力が足りないから(従っているだけ)である」。

 教育とは、力ではなく、まさに人徳・人柄で自然に子どもたちに教えることだろう。このことをいちばんよく分かっているのは現場の教師である。「強制の非」が体験的に最もよく分かっているのが教師である。だからこそ、都の「君が代・日の丸」の強制に異を唱えるのである。

 もちろん力ではなく人徳・人柄で、というのは孟子以来の理想である。現実には力を用いざるをえない場合もあるだろう。しかしこれは実に悲しい結末である。だからこの力を原則として是認肯定するわけにはいかない。

 力で強制する教育、学校、都政、国政はいつか破綻する。それはすでに60年以上も前に日本国民が体験したことではないか。

 じぶんの家の子どもたちを見てもわかる。腕力で従わせることはできる。しかし一時的なものだ。いつもいつも反抗的で、いつもいつも叱っていなければならない。まさに「心服に非ざるなり」。叱るたびに自己嫌悪に陥らない親はいない。
 
 04年10月28日園遊会。
 東京都教育委員の米長邦雄が天皇に「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」。
 天皇「やはり、強制になるということではないことが望ましい」。
mojabieda * 教育 * 07:51 * comments(0) * trackbacks(0)

日本でいちばんえらい人

 どこかの学校の先生が、「日本でいちばんえらい人はだれか?」と生徒に質問したらしい。

 すると生徒は「天皇!」と言ったり「総理大臣!」と言ったりしたという。そのうち、「国民」ということばがようやく出てきた。すくなくとも「主権在民」と昔習ったことがある。

 さらには、「せんせー、えらい、ってどういうこと?」と、質問の意図を疑問視する意見が出てきたという。なかなかするどい。

 ところで、先生はなんと答えたか。「日本でいちばんえらいのは、米国大統領です」。うそか本当か。冗談か真実か。

mojabieda * 時事 * 22:55 * comments(0) * trackbacks(0)

保守派の教育論

 関 曠野氏が『クレスコ』9月号で、「保守派の教育論」を分析している。

 「戦後日本で教育論の分野をほぼ独占してきた左翼は、保守派には国粋や復古の時代錯誤的イデオロギー、あるいは経済至上主義しかないとみなしてきた。そのせいか、日本の保守の教育論を深く掘り下げて研究した著作はいまだに存在していないのではないか」という。

 「保守派には明治以来それなりに一貫した教育観があること、しかもそれは土着的・伝統的どころか近代ヨーロッパの国家主義の論理に見事に一致している」という。

 関氏は近代ヨーロッパの国家主義教育観としてホッブズをとりあげている。「人間は感覚的な刺激と反応で動き、死と苦痛を回避して欲望を満たそうとする存在」とホッブズは規定しているらしい。「(君主ではなく世論が統治する近代世界の)国家の安定と統一の鍵は・・・一般人民の精神を主権者(国家の統治者)に服従するよう条件付けることにある。・・・人民の精神は『白紙のようなもので公的権威によって刻印されるものすべて受け入れるもの』(『リヴァイアサン』)だからである」という。

 「(戦前の教育)勅語の意義は特定の思想を吹き込むことにはなく、儀式の魔術的効果によって臣民を思考停止の状態に置き、権利、義務、正義といった権力の正統性の評価にかかわる観念を理解できない人間にしてしまうことにあった」という。

 さらに「感覚と衝動で動くばらばらな個人を国家に統合し、主権者の権威に無条件に服従させる契機になるものは、死と苦痛の脅威なのである。それゆえに(教育基本法)改正案の究極の目標は、テロや仮想敵国の恐怖によって統合され、政府が世論や法的先制を無視して権力を行使できる国家の実現にあると見ていいだろう」という。

 「死と苦痛の脅威」および「感覚と衝動の帰結」としての服従。なんとなく、キリッと背広をきめて、もの言いは柔らかく、かつ家柄のよい風な政治家の「対外姿勢」と「美しい国」という言い方を思い起こしてしまう。

 「テロと仮想敵国の恐怖」および「感覚と衝動」から支持をする人民。その結果として主権者(=政界・財界・官界の上層部)に盲目的に服従する人民・・・。

 しかし「美しい国」といっても、自分とは意見を異にする者の口を塞ぐためにその人の家を全焼させたり、脅迫電話をしたりする国だが。

 戦前、歴史家の羽仁五郎は、新聞を読むたびによいニュースには青い線、わるいニュースには赤い線を引いていたという。やがて戦争に突入するころには、青い線はひとつもなく、赤い線ばかりになったことだろう。
 
 羽仁がまだ生きていたら、9月20日からはずっと赤い線ばかりになることだろう。
mojabieda * 時事 * 22:54 * comments(0) * trackbacks(0)

シュピーゲルのAB記事

 以下はドイツのネット記事です。

 安倍、小泉の後継者に選ばれる

 安倍は小泉よりも保守的だとみなされている。

 かれは正規の、フレキシブルに動員できる軍隊をこの国に再び可能にするために、平和的な戦後の憲法を新しい憲法に換えようとしている。

 安倍はそのために断固とした教育改革に取り組んでいる。さらに学校で再び強く愛国心を伝えることを望んでいる。

 小泉が戦争犯罪人も栄誉がたたえられている、日本の戦死者のための靖国神社に参拝するのを、安倍は常に擁護してきた。

 また安倍は東京裁判の正当性を疑ってもいる。

 安倍のような強硬論者として見なされている愛国主義者が新しい首相に選ばれであろうことは、北東アジアに、より強い緊張の時代を生む。(シュピーゲル/オンライン記事/9月20日)

 つまりは、はっきりと戦前回帰だといっています。
mojabieda * 時事 * 22:54 * comments(0) * trackbacks(0)

霞(かすみ)を食う仕事

 公務員や教師とは霞(かすみ)を食う職業である。

 というのは、ちょくせつ金を稼ぎ、その儲けた金で食べる職業ではないからである。

 仕事の成果が直接飯の種になるわけではない。「公」のために働くから、はるか遠く、100年先に実をむすぶ仕事もあるかもしれない。

 教育も同じである。「子育ては孫を見るまで分からない」という。その孫がどう育つのかを見てはじめて、じぶんの子育てがうまくいったのかそうでなかったのかが分かるらしい。

 このような「霞を食う」ような仕事が公務員や教師の仕事だろう。目の前にある現実の飯の種など考えず、ある意味で「仙人のように」遠い理想を追いかけてゆかなければならない。

 ニンジンをぶらさげて走る馬のごとく、目の前の成果しか追わず、「木を見て森を見ない」短絡的な仕事を公務員や教師がしていたら、そして仕事の成果が直接飯の種になるようになったら、公務員も教師も、理想などはもうぶっとんで、赤裸々な現実主義者になるしかない。おのれの「おまんま」のためだけに仕事をする。「公」も100年先も知ったことではない。上から言われた通りに忠実に仕事をこなしていればいい。「我が亡き後に洪水よ来たれ」だ。

 そうなれば町も市も県も国も学校も、じきに滅びるしかないだろう。

 教職員評価制度というものは、その危険性がある。
mojabieda * 教育 * 20:11 * comments(0) * trackbacks(0)

ゲーテッド・コミュニティ

 なにかと心配事がおおい。そのストレスで口内炎が二つもできている。

 仕事や家庭のこと以外に、まず、ネットの接続がおかしくなってきた。無線LANが「弱く」なっているのである。

 いまヤフーを使っているが、NTT光の大攻勢にあって、何回も勧誘の電話がかかってくる。その度に断っている。ヤフーがいいというわけではない。なんとなく大上段にかまえたNTTの強制的なものいいが気にくわないからだ。

 ヤフーの接続が弱くなったのは、もしかして、回線をにぎっているNTTのいやがらせか?と思ってしまう。そういうことが技術的にできるのだろうか。

 さらに心配事。パソコンの前でしゃべるだけで電話できてしてしまうソフトを試してみたら、(後で知ったことだが)既存の電話機への通話は有料だった。

 なんぢゃ、そりゃあ。無料だというのは、そのソフト同士での通話だけだった。なんだかだまされたような気がして、ゆううつになった。

 世の中、あらゆる手段を使って金をしぼりとろうというのは官も民も同じか。

 せちがらく、息苦しい世の中になったと思う。

 シンプルな生活・生き方がいちばんいい。パソコンも車もテレビもケータイも(家も?)持たない生活をしてみたい。

 おそらくこれからの世の中は二極分化が進むだろう。

 高級で高性能の機械に囲まれて快適に過ごす階層と、ライフラインがやっとという階層と。

 すべてにしがみつかないと生きてゆけない階層と、「ぜんぶ捨てられる」という階層と。

 「ぜんぶ捨てられる」という生き方、「どっこい生きているぞ」という生き方をしてみたい。

 以前、退職した人からたくさん本をもらったことがある。有益な本だが、「公的」な施設で保有したほうが本のためにも人のためにもなるだろう。

 思えば諸悪の根源が「私有」にあるのかもしれない。

 公立の図書館や施設の運営が、指定管理者制度とかいう、民間経営になる風潮があるらしい。

 いわば「公」が「公共」を手放して、「私」を収奪するだけの機関になりさがるということだろう。

 そのとき「私」は団結して「公共」を取り戻すのか、あるいは「私」同士で「公共」を奪い合って私有するのか。

 空間と時間を共有し、美を共有し、幸福を共有し・・・・・人はどこかでこういう理想(空想)を思い浮かべる。

 いまはどんどん違う方向へ向かっている。個々人が分断され、空間も時間も美も幸福も私有するとき、「壁」が必要となる。心の壁、個人の壁、家の壁、町の壁・・・。ゲーテッド・コミュニティ。

 週刊金曜日の9月8日号によれば「私自身、三年前にカリフォルニアのゲーテッド・コミュニティに滞在した経験があるので興味深く読んだ(斎藤貴男の『分断される日本』)。同じ造りの白い家。『部外者』の侵入に備え、迷路のように入り組んだ道。可愛いという理由で唯一その場での生存を許された野うさぎ。当時、ゲーテッド・コミュニティという言葉すら知らなかった私は、明日にでも陰惨な事件が起きそうなクリーンすぎる雰囲気に身震いした。すべての家の庭の花が同じ種類なので理由を問うと、ここに住む者の契約で庭の花の種類が決まっている、という答えが返ってきた。管理され、規制され、あらかじめ別種のものがそこに出現することが禁止されている場」との由。(雨宮処凛)

 壁の世界。じぶんのクルマの中をきれいにするために外へゴミを放るのは、クルマが壁となっているからだ。壁の向こうがどうなろうが知ったことではないということだろう。

 飲酒運転で懲戒免職の時代。いわゆるゼロトレランス(寛容性なし)の時代か。

 にもかかわらず、たぶん事故は減らないだろう。数千年前の『老子』を引用するまでもない。

 昨晩、子どもたちを保育園に「お迎え」に行って家に帰る途中、右に合流する左車線から猛スピードでむりやり前へ割り込んできたクルマがあった。わたしはすぐに切れた。パッシングを繰り返し、警笛を鳴らした。引きずり降ろしてぶん殴りたかった(短気だ・・・)。

 飲酒ではない。正確無比にギリギリに割り込んできたから。しかし、わたしがちょっとでもスピードを上げていたら接触していただろう。

 世の中に無駄な人はいない。老人でも赤ちゃんでも身体の不自由な人でも。しかし、このような「正気」で「健康」な輩こそ「生きているだけで迷惑」千万だ。いつか人を巻き込んで事故を起こすだろう。

 飲酒運転ではない。法規には触れないかもしれない。健康で正気だ。しかしその精神は健全ではない。
mojabieda * 時事 * 07:36 * comments(0) * trackbacks(0)
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