<< December 2006 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
               Page: 1/3   >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

スポンサードリンク * - * * - * -

06年のしめくくり

 あるインタヴューのビデオ映像を拝見。

 画面の上にロゴがあり、

 「今年の漢字」AB首相は

 と銘打ってありました。

 キャスターが解説します、「・・・みずからの一年を字余りで振り返りました」

問 総理にとって今年の一文字(ひともじ)というのは、どういう文字があるのでしょうか。
答 変化の年でしたね
問 一文字(ひともじ)にするとすれば・・・
答 それは・・・責任ですかね

 ABというよりAHo。

*改正砲成ってこれから火薬詰め(朝日川柳)
mojabieda * 時事 * 23:12 * comments(0) * trackbacks(0)

3S政策

 『なるほど!これが韓国か』(李泳采/韓興鉄、朝日選書)がおもしろい。隣国・韓国の現代史から逆に日本が照射されてくる。

 P125に軍事政権・全斗煥大統領の「3S政策」が出てくる。全斗煥じしんがこう言ったのではなく、全斗煥の政策から民衆が名づけたものだ。

 全斗煥は政権を握っているあいだ、ずっとスポーツの育成に力を注いだという。プロ野球を創設し、サッカーW杯への進出をはたし、アジア競技大会を開催した。そうしてオリンピックのソウル開催を実現させた。

 さらに映画の制作、輸入に対する規制緩和を実施。洋画を全面解放した。

 また、エロ映画、ポルノビデオの流通も許可。さまざまな性産業を国家政策として打ち出したという。

 これらを称して全斗煥の「3S政策」という。Sport、Screen、Sex。
 
 「この三つのSを巧みに用い、人々の政治的関心をそらすために使われた政策」だという。「全斗煥はこのように、アメ(=3S)とムチ(=弾圧)を巧みに使い分ける政策によって、国民を『順化』させようとした」

 「『3S政策』は日本でも馴染みのある言葉かもしれない。米軍による占領期、GHQは日本の占領政策を円滑に運ぶため、いわゆる『3S政策』を実施した。これも同じく、スポーツ、映画、セックスをさす。これを全斗煥が知っていたかどうかは不明だが、光州民衆抗争以後・・・人々の関心を政治から引き離す手段を模索していた全斗煥が着手したのが、オリンピックの誘致とプロ野球の創設だった」という。

 なるほど、そうだったのか。

 さて、これからあとが日本と違う点、「しかし、このような政策で全斗煥政権が大衆の政治的無関心を助長させようとしても、国民の政府に対する批判は抑えられず、中産層の成長とともに反政府運動は激化していった」。
mojabieda * 読書 * 07:42 * comments(0) * trackbacks(0)

未履修問題の元凶

 未履修問題発生には、政府・文科省などの教育にかかわる行政機関がこれまで導入してきた二つの教育政策にその元凶を求めるべきである。

 一つは「新自由主義」教育政策、つまり世界規模の弱肉強食経済=グローバル経済という競争のなかで生き残るための超エリートの創出をはかるいわば「富国」のための教育政策である。

 もう一つは「新保守主義」教育政策、つまりグローバル経済のなかで米国のように国際的に日本を軍事力をもって拡張させようとするいわば「強兵」のための教育政策である。

 これら二つの政策はいずれも戦後の平和と民主主義とを支えてきた「教育基本法」(および日本国憲法)を空洞化・有名無実化させてきた政策であり、その教基法が先の国会で、平和的な市民づくりのためではなく富国強兵づくりの教育をめざした「やらせ教基法」へと改変され、名実ともに「国家のための教育」への法制化がはかられてきている。

 習熟度別クラス編成、中高一貫高などの高校の多様化、入試における小学区の廃止などの受験競争の激化を促進させる「新自由主義」(=富国)教育政策、また一方で、学習内容まで(生徒の心の中まで)国家・政府が規定しようとする学習指導要領の法的拘束力の強化、文科省から県教委、県教委から各学校への一方的な上意下達の「指導」、教育委員会の任命制という政府行政機関化、などという「新保守主義」(=強兵)教育政策、これらの押しつけられた教育政策によって、ほんらいの教育基本法の第1条にある「人格の完成」「平和的な国家及び社会の形成者」をめざすべき学校教育がさまざまにゆがめられてきた。

 政府による一方的な、硬直した「新保守主義」(=強兵)教育政策が個々の学校現場の教職員の自主性や創意・工夫をいちじるしく阻害し、現場を混乱に陥れてきたのとは裏腹に、現場では生徒個々の、保護者個々の、あるいは地域の進学要求に応えようという教職員の自主的・個別的な努力がなされていた。しかし個々の進学要求に応えていこうとする教職員の個々の努力は、公的・集団的な指導体制ではなく、あくまで私的・個別的な指導にとどまり、個々の教師の負担を増すだけであった。そのため、現場の教師たちの一部は、いわば「必要悪」として、押しつけ学習指導要領を逸脱する、より受験シフト化された「自主的な」カリキュラムを学校に導入せざるを得ないと考えるに至ったのである。このとき、もう一方にある政府の、受験シフトを促進させようとする押しつけ「新自由主義」(=富国)教育政策が、このような「未履修」カリキュラムを公然の秘密のごとく「黙認」させているかのように、いわば「お墨付き」を与えられているかのように県教委にも各高等学校にも錯覚させてきたのである。

 つまり真正の教育基本法(および日本国憲法)を空洞化させてきた、これら政府の教育政策が、「未履修問題」を発生させてきた元凶なのである。

 これらの政府の政策のありようや矛盾にメスを入れることなしに、この未履修問題の元凶は解決されえない。対処療法的に県教委や校長の処分を行うだけでは、とかげのしっぽ切りと同じで事件の真相をうやむやにしてけりをつけるだけである。

 いまこそ教育基本法(および日本国憲法)を空洞化させてきた政府の責任を厳しく問わなくてはならない。

 また一方、後期中等教育(=高校教育)とは何かを根本的に問い直すという作業なしには、この問題の根源は解決されえないだろう。ここには国民の多くの議論が必要である。すくなくとも政府がすすめる「富国強兵」のための教育ではない。世界と連帯し、世界と共生する、平和的な国家及び社会の形成者として市民を育てるなかで、個々の人格の完成をめざすというのが本来の後期中等教育の目的のはずである。
mojabieda * 教育 * 14:17 * comments(0) * trackbacks(1)

遣唐使ならぬ遣共使

 Dead Letter Blogさんの記事がおもしろい。勝手にそのまま引用させていただく。「Straitjacket」と「遣共使」(11月29日)より。

       ★
 「教育基本法特別委員会質疑応答と弥次」より。
 羽仁五郎著「教育の論理 文部省廃止論p80〜85」のなかに興味ある歴史的事実の記述がある。

 [アメリカ教育使節団と文部省との問答]
 敗戦直後の日本に派遣されたアメリカ教育使節団が1946年4月7日に出した勧告は次のようであった。「敗戦にいたるまでの日本の教育は、一言でいうと、政府すなわち文部省が、全国の教員にストレイト・ジャケット(手足が自由に動かないように皮ひもでしばりつける胴着)を着せていたような教育であった。だから日本の教育改革とは教員をストレイト・ジャケットから解放することであると。」この勧告に先立っての3月、アメリカ教育使節団は日本の文部省の代表と日本の教員組合の代表とを共同の会合に招いてそれぞれの意見を聞いた。文部省を代表したのが田中耕太郎学校教育局長であり、教員組合を代表したのが羽仁五郎であった。教育の自由を主張する羽仁五郎の討論に対して、田中耕太郎は「教師がまったく自由に教育することとなると、教師が教壇から共産主義の宣伝をするというようなこともありえようが、そのような場合に、アメリカではそれに対していかなる処置をとるのか、なんらの処置もとらないのか」と質問をした。それに対して、アメリカ教育使節団は、「アメリカでは教師がそういうことをすることはない。日本でも教師がそうするときめてかかって、そういう場合の処置をあらかじめ規定しておくというようなことはすべきではない」と答えた。その答えに押し返して、さらに田中耕太郎はつめよった。「アメリカにはそういう教師はいない、と言われるが、もし万一にもそのような教師がいたら、その場合には、あなたがたはどうなさるか」と。すると、使節団は次ぎのように答えた。

 「教師といえども人間だ。良心的な人間であればあるほど、自分に確信をもっている。良心的な教師は教室が自分の確信を発表する場所ではない、ということを充分に承知している。しかし、人間であるから、自分の内心の確信に誠実のあまり、教室で思わずそれを顔にあらわし、または言葉にだすことがないとはいえないだろう。しかし、それを責めることのできるのは神のみではあるまいか。」

 (1)ところで学習指導要領を絶対化して教師を拘束し、行政が決めた内容をそのまま教えるだけで、そこに教師のパーソナリティ・オリジナリティも必要ない、と言うのであれば、文部科学省は、いわゆる「優秀な」教師のみ数人を選んで、モデル授業を録画して、サテライト授業をやればどうだろうか。人件費が大幅に削減出来て、しかも「偏向」教師による、学習指導要領から逸脱した「偏向」授業が行われる懸念は一掃されるだろう。

 ついでに乱立する教科書も一つに統一してしまおうか。そうすれば「教科書採択」で「一部の人間の政治的偏向による介入」や揉めごとも無くなるだろう。

 (2)それにしても、例えば伊吹の「教育内容は行政が決めたものをそのまま教えなければならない」かのごとき答弁は、非常に興味深いものがある。民主主義的決定=国民全体の意思としてそれを絶対視しそこからの逸脱を「不当」として否定する発想こそが全体主義そのものではないか、というごく常識的なツッコミはここではとりあえず置く。

 そうではなくて、僕が指摘しておきたいのは、保守系議員・文化人が中国の教育を批判する時に頻繁に持ち出す「中国はひとつの教科書で、ひとつの歴史観(価値観)しか教えていない反自由主義的な国家である(が、日本はそうではない)」という論法が、まさにここで「自家中毒」を起こしている、という極めて皮肉な事態である。

 「国家権力が教育内容をひとつに定めて、それを画一的に教え込むべき」なら、それは彼らがイメージし、批判する独裁国家=中国がやっていることそのものではないだろうか。ちなみに制度的には中国にも教科書は複数存在するようだから、伊吹の答弁通りの方針が採られるとすれば、彼らが蛇蝎のごとく嫌っている「はず」の国・思想的に相容れない「はず」の国と、いわゆる「美しい国」とやらは制度的にも発想的にももはや瓜二つなわけである。

 というわけで、当Blogでは安倍内閣に対し、「美しい国」のより円滑な実現の為、1100年ぶりに「遣唐使」ならぬ「遣共使」を復活させることを提案したい。

 「やらせミーティング」の上手なやり方を始めとする世論の統制の方法、子供に「その国独自の特定の価値観」を叩き込む洗脳教育のやり方、政権の方針に違反した者への厳しい罰し方、などなどその筋ではいまや先達であるらしい隣国に学ぶべきことは多いはずである。

         ★
 なあるほど。でも、どうせやるなら遣北鮮使がいいと思う。ついで、国民に核兵器を持つことのありがたさをどのように洗脳したらよいか、なども学ぶ点が多いはず。
mojabieda * 時事 * 12:49 * comments(0) * trackbacks(1)

サンタクロースはコカ・コーラがつくった?

 サンタクロースの起源について、オーマイニュースによれば、古代ギリシャ(現在のトルコ)にあるパタラ(現在のデムレ)に紀元3世紀に生まれた「聖ニコラス」にその起源をもとめている。

 この聖ニコラスが12月に子どもたちに贈り物をするという伝説が中世以降のヨーロッパにひろがる。
 サンタクロースという呼び名は、新大陸の米国へ渡ったオランダ人の「シンタクラース」から来ているという。英語では「サンタクロース」。

 19世紀のはじめ、米国作家がこのサンタクロースのことを書いていた。このころは、サンタクロースは「いたずら者」の陽気な老人だったらしい。空を飛ぶそりで旅をして煙突から贈り物を届けるという、今の伝説がこのころできあがる。19世紀の米国諷刺画家がサンタの絵を描き、これが普及していく。当初のサンタは緑色などの服を着ていたらしい。この画家が後年、赤いコートをサンタに着せたとコカ・コーラ社はいう。

 とはいえ、1931年にコカ・コーラ社が赤い服のサンタクロースを広告として使い、これが今日のサンタクロースのイメージをつくったらしい。

 だとすれば、サンタクロースも近代商業主義の産物だったのだ。「しきたり」といい、「伝統」というが、こういうものも、ただの「流行」とあまり違いはないのだろう。

 今夜はクリスマス・イブ。家ではケーキをつくるというが、どうせつくるならビールのつまみがいい。
mojabieda * 日記 * 12:42 * comments(1) * trackbacks(1)

朗読者

 『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク、新潮文庫)読了。

 原題は「Der Vorleser」(ドイツ文学)。この本は、あるイギリス人の英語教師から教えられた。この人は北部ドイツのウェストファリアに住んでいたことがあり、そこの判事だった作者のシュリンクに興味を持ったらしい。調べたら『朗読者』として日本語訳がとっくに出ていた。

 図書館でその本『朗読者』を見つけて、そのイギリス青年に、「日本語に訳されているよ」と文庫本をブラブラ見せながらドイツ語で言ったら、「150カ国に翻訳されているんだよ」とドイツ語で言う。「英国人の自分にドイツ語で話しかけてくるへんなニホンジン」ときっといぶかしく思ったに違いないが、ふつうにドイツ語で応えてくれた。わたしは英語は話せない(ドイツ語もほとんど話せないが)。

 主人公の男性が、15歳から中年ぐらいまでのじぶんの人生を回想する小説。一気に一晩で読んでしまった。少年時代に出逢ったふしぎな中年女性との愛と失踪。女性はなぜかさまざまな文学書の朗読を少年にさせた。主人公が青年となったとき、かの女がナチの戦犯として裁かれるところにある日ぐうぜんに出会う。思いがけない再会。やがてその裁判の過程で主人公はある結論に達する。かの女は文盲だったのだ。それを隠しながらかの女はあえて無期懲役に甘んじて刑務所に服役した。かの女の文盲を知っているのは彼だけ。しかもそれを明らかにすれば刑は軽くなったはずだったが、彼は明らかにしなかった。彼はそれからずっとテープに朗読を吹き込んで送り続ける。そうしてようやく釈放の日がやってくる・・・。話はハッピーエンドではない。なにかしら、深い思いを心に宿させる本だ。愛と性と過去の戦争責任と人生。それらが心の襞のなかに深く、複雑に、かつ淡々と織り込まれてゆく。
mojabieda * 読書 * 01:32 * comments(0) * trackbacks(0)

公務員の人件費



 あるHPに日本の公務員人件費はOECD諸国の中で一番小さいらしいとあった。それで「総務省 公的部門職員数」で検索すると上のような表が出てくる。総務省のHPの資料らしい。「人口千人あたりの公的部門職員数は、日本33.6人(2005)、ドイツ57.9人、米国78.4人、英国78.8人、フランス89.7人。」とある。

 ふ〜ん。公務員数の削減やら給料の引き下げやら、政府はさまざまな公務員「抑圧」政策をはかって「小さな政府」にしようと努力しているようなことをいうが、すでにもうとっくに小さな政府だということか。(過剰な公務員攻撃によって)国民を味方につけながら、政府の政策の失敗(赤字)の埋め合わせを、(国民のための)公僕たる公務員へとなすりつけている。なんという欺瞞。なんという騙し。

 市立病院にしろ、市営の保育園にしろ、市立図書館にしろ、身近な自治体でどんどん公共サービスに対する財政が切り捨てられてきている。市民会館の運営が民間委託されて使用料の減免がなくなり、地域の文化的な営みや共同態がどんどんやせ細っている。

 右◯は「左◯は国家と政府とを混同している」というが、左◯からすれば、「右◯は国家と共同体とを混同している」といわざるをえない。

 もともと豊かではない公共組織・機関・サービスをますます削る。しかし税金だけは取れるところ(社会的弱者)からしぼり取る。これが現在の日本という国家(政治機構)のしくみだ。

 政府は公共の組織・機関・サービスをますます削りながら、国民に公共の「精神」だけは磨かせようと「やらせ教基法」を成立させた。格差社会という棄民政策を押しつける者が「道徳」を説く破廉恥。
mojabieda * 時事 * 00:08 * comments(0) * trackbacks(0)

シュタイナー小学校とやらせ教基法

 12月20日のアサヒ・コムによると、これまでシュタイナー教育のフリースクールはいろいろあったけれど、日本ではじめて「シュタイナー小学校」が「承認」されたようです。千葉県長南町。「あしたの国ルドルフ・シュタイナー学園小学校」(仮称)。2008年4月開校の予定。設立代表はシュタイナー教育の研究で知られる早稲田大名誉教授の子安美知子さん(73)。
 
 とはいえ、お上(政府や官僚)から「承認」をもらわないと小学校もつくれないっていうのは何か解せないのですが。

 (政府の思惑は)学校教育とは(市民のためではなく)国家のためにあるということなのでしょう。このまえトコロテン式に成立した「やらせ教育基本法」によって、「国家のための学校教育」が名実ともに法制化されたわけですが。

 テストをせず、学力を点数化しないシュタイナー教育。シュタイナーは表象は前世から来ると主張したれっきとした神秘学者。

 いいんですか?文科省は?
 教育基本法を「やらせ教基法」に改変し、新保守主義(国家主義・国粋主義)教育へといまこそ邁進しようとするときに、それらとはまったく相容れない学校をつくっちゃっても。
mojabieda * ルドルフ・シュタイナー * 23:23 * comments(1) * trackbacks(0)

テレビと新聞の伝え方

 教育基本法「改正」案が参議院本会議で可決された15日の夜、テレビではこれをどのように伝えたか。

 ある市民メディアがテレビ朝日「報道ステーション」を取り上げて検証している。
 
 まずトップニュース(約5分)は石油ファンヒーターの不完全燃焼による死亡事故。
 2番目は大型トレーラーが旅館につっこんだ死亡事故(約5分)。
 3番目はプロ野球の松坂大輔選手の大リーグ入団発表(約15分)。
 4番目に、教基法「改正」案成立のニュース(約10分)。法律の内容にはほとんど触れずじまい。市民へのインタビューや教育現場の関係者の声もなし。

 なのだそうだ。「国家100年の大計」ニュースが「一野球選手の就職」ニュースよりも後になったことは特筆に価する。

 民主主義が「お仕舞い」のときには、こんなものだろうか。4番目のニュース・バリューしかないということであり、マス・メディアのこの扱いはおそらく民意の反映なのだろうが、その民意はこれまでのマス・メディアによって形成されてきた。

 朝◯新聞などは、成立がほぼ確実となった14日になってはじめてつぎのような見出しの記事を出したらしい。
 「教育基本法改正に反対し、キャンドル片手に人間の鎖」。遅きに失するというより、「すでに決まり」が見えたときにはじめて「反対」の文字を見出しに入れたいわば「確信犯」である。

mojabieda * 時事 * 17:21 * comments(0) * trackbacks(0)

右◯さえ懸念する教育基本法「改正」

  あるメディアによれば、「40年間もアイコク運動をやっている」「日本一のアイコク者」だと自任している生粋の右◯の鈴◯邦男氏が嘆いているという。

 ある集会で「在日の人にも参政権を認めるべきだ」と発言したら、「国賊!」「売国奴!」と糾弾され、新聞でも大々的に書かれ批判されたという。ちょっとの意見の「違い」でもあれば、たちまち「売国奴」にされてしまうのはたまらないと氏。「僕が売国奴なら1億2000万人の日本人はすべて売国奴だ」。

 03年にイラクへ行ったときに知り合った「人間の盾」に参加した一人の教師が最近クビになったという。生徒が「反ニチ的なことを言っている」とテープにとって告発したらしい。

 あるコント集団が失礼な皇◯ネタをやったら「週刊誌は大々的に報じ、日本中は大騒ぎになった」という。

 「反ニチ的言動」の評論家が「子どもの通学路を知っているぞ」と電話で脅された。するとそれまで圧力に屈しなかったその評論家も口をつぐんだという。

 右◯学生の理論的支柱だった元皇◯館大学学長が最近「◯室の安泰のためには女系も検討しなければ」と主張したとたん、保守論壇の総攻撃を受けた。直弟子の教授にまで痛罵(つうば)されたという。アイコクシンの前には、すでに恩師も先輩もないらしいと鈴木氏は嘆く。

 すでにこのような「アイコク」社会になっているのに、さらにそれに輪を掛けた教育基本法「改正」がなされた。

 鈴木氏は「しかし、・・・『アイコクシン』を持ち、『国をアイする態度』を果敢に実践している人々には、既にこんなにも多いのだ。わざわざ教基法を改正するまでもなかった」と述べる。

 少しの違いも許さない、右◯が右◯を攻撃する世の中に、すでになっているのに、この上さらに「アイコク」社会になったらどうなるのかと、年季の入った右◯活動家が懸念している。
mojabieda * 時事 * 17:20 * comments(0) * trackbacks(1)
このページの先頭へ