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想定外

 想定外のことが起きた。

 まず、バイパスが空いていた。これが第一の想定外。1時間かかる距離なのに30分で来た。これならもっとゆっくり家を出てくるべきだったと思った。

 そう思ったしゅんかん、バイパスから1号線への分岐の場所で渋滞していた。ふだん混むようなところではない。これが第二の想定外。

 分岐する左側へ車線変更ができなくて、しばらく右側の車線で停車し、後ろから来るトラックにぶつかりそうになる。あぶなかった。

 どうして渋滞しているのか。

 そのあと渋滞する1号線を東進していくと丸子の梅園がたいへんな混みようであることを知った。これが渋滞の原因だったのだろう。

 こうして、時間が余ると思ったのがギリギリの時間に静岡市に着いた。

 このとき思ったことは、「神様はいぢわるだ」ということ。渋滞もなく思いがけずゆっくり行ける、と思った瞬間に渋滞して決してゆっくりは行けなかったからだ。思った瞬間に現実の歯車が逆回転するという皮肉。

 「神様はいぢわるだ」と言ったが、この「思っていること」と「実際に起きること」との齟齬(そご)がひどく気になった。

 「思いがけないことが起こること」と、「思いがけないことが起こると思う(予想する)こと」との違いのようなものを感じた。
 
 「思いがけない」とは、その語のとおり、思いがけないことが起こったけれど、その思いがけないことが起こることについて思いつく(考える)ことさえなかったということだろう。

 しかし「神様はいぢわるだ」と観念していれば、思いがけなく「運がいい」と思った瞬間に、思いがけなく「あぶないことが起こるぞ!」と思わなければならない。このことを故人は「好事魔多し」ということわざで戒めたのだ。

 それにしても「好事魔多し」ということばですぐに思い浮かべるのは「工事魔多し」というだじゃれ。年度末になるとどうしてこうも公共工事(道路工事)がいたるところで見かけられるのか。予算を使い果たそうというのか。その中にはどれほどの無駄な工事があるのだろうか。

 さて、思いがけない「良いこと」が起こった瞬間に、きっと思いがけない「悪いこと」が同時に起こるに決まっていると思って(覚悟して)いれば、思いがけないことだからその内容は分からずとも、いちおうの心の準備はできる。そんな「根性のねじ曲がった」人はあまりいないだろうが、その必要はある。この世では何が起こるか分からないからだ。

 想定外のことは「起こるものだ」と観念すること。そう観念した以上は、それは想定外ではないはずだ。

 そこで東海大地震。いざ、原発震災が起こったときの対処の仕方は「想定外」で、もうほとんど対処の仕方がないというのがチェルノブイリの教訓だろう。普通の災害のときのマニュアルはあるだろう。しかし、通常の理解を越えた大災害の、通常の理解を越えた「思いがけない」事故が起きたとき、どうなるのか、どうするのかということはマニュアルにはないだろう。しかし、思いがけないことが起こることを「考えること」はできる。だから決して想定外ではないが、いざ大災害が起こったら行政は「想定外」(思いがけないことが起こった、考えたこともなかった、だから対処のしようがない)ということにしておくのだろうな、と予想はできる。これは想定外ではない。

 富士なんとか空港も同じ。いざ、蓋を開けてみたら大赤字だった、想定外だった、なんて言い訳をいまから行政は考えているかもしれない。いや、言い訳をするころには、知事はとっくに天下り、空港建設関係者の上層部は他へ転出(出世)していることだろう。だから知事の「功績」をたたえるために空港の脇に立派な銅像を建てるべきだ。ぺんぺん草しか生えない、カラスの糞が白くこびりついた無人の空港には未来永劫に残る銅像こそふさわしい。これも想定外ではない。
mojabieda * 人生 * 06:12 * comments(0) * trackbacks(0)

神戸で学んだ総合選抜制と格差社会





 写真は神戸の元町商店街と中華街

 組合の学習会のために神戸に行きました。

 兵庫県中央労働センターというところへ晩に行きましたが、主催者側のパンフの地図を当てにしていたのがそもそものまちがいで、はじめて来たわたしは元町で迷いに迷いました。ネットで下調べをしておけばよかったなあと思いました。で、元町の駅北の官庁街をさまよっていると、いくつか教会が見えました。ちょっと風変わりな風景でした。静岡ではありえないような街のたたずまい。

 ようやく中央労働センターの茶色い建物を見つけ、その入口あたりを見ますと、なんと「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)」の碑文がありました。ここ神戸にも住んでいたんだと改めて思いました。松江から熊本、それから神戸に二年いて、そのあと東京へ移り住んだようです。東京に住んでいたときに、ときどき夏を過ごしに焼津へ来たといいます。
 
 神戸から東京への汽車の窓に焼津の港を見たとき、一目で八雲は焼津が気に入ったようです。二歳で離れた生まれ故郷のギリシアの島のまぼろしを見たのでしょうか。ハーン(八雲)はその焼津の夜の海のふしぎな風情と、そこを泳いだふしぎな体験とを記していますが、ハーンのように泳ぐのが好きだった小川国夫は、大井川の河口あたりの夜の海をよく泳いだそうです。そういう小説を書いています。そしてハーンの文章をよく読んでいたといいます。

 さて、神戸の夜の学習会では明石の「総合選抜制度」という高校入試の制度について知りました。兵庫県では学区によって高校入試の仕方が違うというのも驚きでした。県によってずいぶん違いがあるものです。

 総合選抜制度とは、明石市にある普通高校六校を、学力が均等になるように入学させる制度です。そういう地区がまだ日本にもあったんだとびっくりしました。

 この総合選抜制度のもとで、明石の高校生たちはのびのびと学校生活を送っているらしく、進学の成績もよいし、中退者も少ないといいます。また地元で暮らしている人たちが制服で高校生を判断するような「制服格差」がないことも大きな利点でしょう。

 「機会の平等」と「結果の平等」とは違う、ということがさいきんよく言われます。機会の平等は尊重すべきだが、結果の平等は時代遅れだと。しかしこの言説を入試制度に当てはめるのはペテンのような言説です。

 現在の成績トップの者の利益をはかるためのような高校選抜入試制度。そもそも競争社会とは、トップの者がトップの地位を得るにふさわしいシステムの社会、つまり格差社会ということでしょう。トップ以外についてはほとんど考えていない、どうにでも〜という「自己責任の社会」でしょう。それなのに、どうしてこの競争社会(格差社会)を肯定する声が多いのでしょうか。ほんの一部の者の利益をはかるために、全体のシステムを変えてしまう。

 人が生まれたとき、すでに学びの「格差」が生じています。というのは現在、一般に親の高収入が子の高学歴を保障しているわけですから。現実的に学びの平等に「機会と結果の区別」など意味ありません。機会も結果もともに「不平等」であり、それを認めるか、認めないかということだけです。

 格差を認める社会はどう展望できるのでしょうか。わたしは映画『ソイレント・グリーン』を思い浮かべてしまいます。2022年のニューヨーク。人口増加と環境汚染の社会で深刻な食糧危機にみまわれ、社会は「持てる者」と「持たざる者」という、明確な「格差社会」をつくりあげています。そうして、一部のエリートのために、まさしく多数の「非エリート」たちがことばの正確な意味で「犠牲」になる社会。ある日殺人事件が起こり、捜査をつづける内に、おそるべき事実が判明してきます。そういうアンチ・ユートピアを描いた映画です。人が人を「食う」社会というのは事実か寓話か、魯迅の小説も連想してしまいます。

 大多数の「食われる側」の人が、ごく少数の「食う側」に自分もいるかのような幻想を抱かせられるように、あらゆるメッセージがあらゆるメディアを通じて発せられているのが現代社会です。「囚人」なのにあたかも自由であるかのようなメッセージがいたるところで発せられる社会、そこを抜けだそうとすると、すべてが組織的に管理され、抜け出せないことが暴露される社会、しかしそれが巧妙に隠されている社会を描くイギリスの昔のTVスパイドラマ『プリズナーNo.6』(ちょっとカルトかな)も、ついでに思い浮かべてしまいます。
mojabieda * 教育 * 19:06 * comments(0) * trackbacks(0)

低迷する心の波長

 今朝の通勤時も腹が立った。まず狭い道路で、対向車がすれ違うのがやっとなのに、ダンプが行き来するわ、おばちゃんが車を停めてゴミを出すわ、おばあちゃんが犬の散歩をするわ、自転車の高校生たちが列をつくって行き来するわ、挙げ句の果ては中学生たちが2列に並んで歩くわで、てんやわんや。

 それにしてもこんな危険な道なのに、平気の平左で2列登校する女子中学生が二組いた。おみゃあら、バカとちゃうか、と言いたくなる。歩くその後ろを何台もの車が列をつくっていた。「他力本願による自己中心主義の成就という厚顔無恥」および「あっけらかんとした無知さかげんの不気味さ」。

 これは末期的だ、末世かもしれない、などと思う。この前「ゲルニカ」という芝居を観たが、空爆されて絶命する運命にある子どもたちが、その運命をちゃんと予感しながら、空爆の下、非現実的にもみんなで「お誕生日のパーティーごっこ」遊びに興じる。端から見ると気が狂っているとしか思えない(じっさい気が狂ってしまったのだろう)。そんな芝居だったが、なにかそれに似ている。

 朝の渋滞路を走っていると、心の波長が低迷しているためか、はっきりと他者否定の心境になる。

 渋滞なのに後ろから迫ってくる危険な黒い大型車。バカ野郎と言いたくなる。見れば◯ヨ◯だ。さもあらんなどと八つ当たりに毒づいてしまう。

 世界に冠たるト◯◯は、南アフリカ共和国がアパルトヘイト(黒人差別というより虐待・虐殺)で国際的な非難を浴び、他国からの車の輸入が途絶えたときに、そのすきを狙ってそこへ車を売りつけて世界中から「エコノミックアニマル」とさげすまれた「掟やぶり」の日本メーカーの大筆頭だ(◯◯ダだけは違ったらしいが)。当時の南アフリカ共和国の政府や警察の車の後ろには、でかでかと「◯◯Y◯◯◯」とあって、その名前を見ただけで黒人の子どもたちはふるえあがったという。以前、ヨーロッパへ車を輸出するときにはエアバックをつけていたが国内へ出すときにはつけてこなかった。それが国内でも規制するようになるとようやくエアバックをつけはじめ、「当社は以前から安全性を考えていました」としゃあしゃあと宣伝した◯◯タ。車づくりが好きというよりもうけることが好きな大企業。鎌田慧の『自動◯絶◯工◯』を読んでからは、もうダメ。しかして日本でいちばん売れている。日本一(もうじき世界一か)になるにはそれなりの「理由」があることをみんな知っているのだろうか。

 日々の不特定な他者との接触は二つ。一つは車と車。もう一つは通勤電車の中の没交渉の他人同士。車と車との「やりとり」は毎日キケンがいっぱいだ。横入り、信号無視、スピード超過なんでもありの通勤事情に触れて、他者否定に陥らない日はない(じぶんも同じか)。

 それにしても今夜は静岡市から帰るバイパスを走る車のひどさ。わたしは左車線を制限速度を(ちょっと?)越して「ふつうに」走っていたが、その左車線は前も後ろも走っている車がまるで見えず、みな右側の追い越し車線だけをずっと数珠つなぎにつっ走っていた。

 そんなに職場が、仕事がきらいか?そんなに家庭が恋しいか?と思ってしまう。夜道に日は暮れない。今さら急いでもしょうがないのに、と思う。もっとも、わたしも職場がいやでいやでたまらなかったときは、1秒でもはやく家に帰りたくて車を走らせたことがある。

 さいきんは、まずまず仕事に満足しているし、やりがいもあるし、今日など組合事務の若い女の子にエクセルの秘伝口授を頼まれたし、交渉のときにも若い人をフォローできたし、要人との連絡もついたしで、なかなかよかったなあと思いながら帰途についたから、ゆっくり車を走らせることができたのかもしれない。今朝の他者不信(というより他者拒絶)が少しだけ解消し、他者(や世界)への抽象的な暗黙の信頼がちょっとだけ回復して自分が癒されたのかもしれない。

 みんながみんな仕事と職場が嫌いで不満がいっぱいで、他者不信・他者否定・他者拒絶のいつ爆発してもおかしくない飽和状態の心境で、1秒でも早く家庭に(あるいは癒しのパチンコ屋に?)帰りたがり、スピードをめちゃめちゃ上げて車を走らせるのだとしたら、なんと家庭を大事にする、美しい国だろう。
mojabieda * 暮らし * 22:59 * comments(0) * trackbacks(0)

通勤時のいっしゅん

 朝の狭い渋滞道路を出勤中、向かい側にある工場へ走って横断する工員を見た。ひやひやものだ。何か心がキューっと情けなくなる。朝から道を渡るために命がけにならなければならない庶民の日常が情けないのか、通勤・通学道路の整備もできない地方行政の貧しさが情けないのか、あるいは必死に道をわたっている工員の人生が情けないのか。

 何か腑に落ちないものがある。
 理不尽な、という形容詞が似合うだろうか。怒りにも少し似ている。

 少し待てば車の行き来もなくなるはずだ。そのときを見計らって道を渡ればいい。しかしその時を待てない。物理的に待てないのではなく心理的に待てないのだ。

 ここにあるのは何か。何かに焦り、何かに突き動かされている。そうして何かを失っている。気になるのは飛び出すその「行為」と、平常心をもって待つ「行為」との間にある、ほんのわずかな冷静さ・落ち着きだ。英語でいえばセレニティか。

 二つの行為にはほんのわずかなへだたりがあるだけだ。しかしそのへだたりには千尋の谷のように深い断絶がある。前者の行為には命の危険があるからだ。何が重たいといってじぶんの命ほど重たいものはない。それと引き換えにわずかな時間をかせぐ。どちらが重いのかという冷静な判断もしない・できないのはなぜか。そこからくる情けなさなのか。

 マクロの中央政界では「美しい国」とかいう胡散臭いきれいごとで飾り立て、いっぽう現実の地方行政では、地元住民の通学路・通勤路のまともな整備もできないでいる。なのに近くの地方空港づくりのために湯水のように住民の税金を投入している。この現実、現実の格差、現実の矛盾が情けないのか。

 あるいは、朝から毎日バタバタと忙しく立ち働き、出勤すれば渋滞道路にいらつくなんの余裕もないじぶんの生活、いつか宝くじさえ当たれば・・・という儚い願いしかないじぶんの生活が情けないのか。現実にはお年玉つき年賀はがきさえまともに当たったことがないし、かろうじてシートは当たったけれど、今日も帰りは保育園のお迎えか・・・そういうじぶんの人生のルサンチマンを投影しているだけかもしれない、と思ったりする。

 いや、人を振り見て我が振り直せ、ではないが、我が身を振り返って見ていたのだろう。その工員の姿はじつはじぶんの姿だったのだ。冷静に物事を推し量り、理性的に行動することのできないいつものじぶんに無意識に苛立っていたのかもしれない。

 その外にもまだなにかありそうだ。生存の不条理のようなもの。何者かに突き動かされてわけもわからずにこの世に生きているという何か底意地の悪い不条理のようなものを無意識にも感じながら人は生きているのではないか。じぶんの意志といったって、じぶんの存在そのものがそもそもじぶんの意志ではない。気がついたら狭い「鳥かご」の中に生きていた。ただその「かご」を正確に認識できないから、見ないことにしているだけかもしれない。おまけに「欲望」まで与えられている。この「欲望」のままに生きられればそれに越したことはないが、きっと破滅するだろうからうまく小出しにしながら人の世と折り合いをつけて生きるしかない。そうして「天然の鳥かご」とこの「人為の鳥かご」とは年をおうごとに身に迫ってくる。

 ふと見わたすと深淵の中にただぽっかり浮かんでいるだけ、どこから来てどこへ行くのかも分からない。まったく中途半端な、とつぜん消えるシャボン玉のような存在であることに気づく。その不安にも似たありようを日々のせわしなさに紛らせて見ないことにしているだけではないか。

 日々見ないことにしているものを、朝の通勤時の、日常生活の表皮がぐうぜん切り裂かれた一瞬、その奥にちらっと垣間見たのか。

mojabieda * 人生 * 06:48 * comments(0) * trackbacks(0)

素個人

 13日の町内の新年会そのものはいつもの通りだったが、宴のしまいごろ、ご老体二人に呼ばれた。わたしはかれらと同じ出身高校(旧制中学)だという。なにかそんな雰囲気を感じていたらしい。だとしても、わたしには出身校など今ではまったく意味を持っていない。学閥もなにもない。こんなことばがあるなら「素個人」だ。ご老体になっても「出身学校で集まる」ことに意味があるのだろうかと思ってしまう。赤ん坊と老人はみんないっしょになる。身にまとってきたものなどなんの意味もなくなってしまうからだ。

 昨年から組合の執行部に入って県庁へ行く回数がひじょうに増えた。

 しかも入ったことのない部屋、会議室、その他、さまざまな場所や会議、交渉、協議会などに出入りするようになった。中には「偉い」人たちもいるのだろう。しかし、「偉くない」人たちのなかに、立派な言動の人がいることを、わたしはさまざまな(市民・労働)運動の場で見てきた。

 県庁はカフカの「城」を想起させる。何人もの知り合いがその「内部」に棲んでいる。「城」を棲み家とする人たちは自らを「城」化するしかないのではないか。わたしにはとても棲めないところだ。
 
 コミュニストとアナキストをどうやって見わけたらよいかは簡単だ。コミュニストは反対の側(体制側)に入っても、きっと出世するにちがいない。しかしアナキストはぜったいそうはならない。アナキストのイメージは世捨て人とか仙人というイメージ、古典でいえば隠者。

 コミュニストというと語弊があるかもしれない、組織のヒトというべきか。わたしは組織のヒトにはなかなかなれないし、アナキストほどの気骨もない。ただの素個人だ。
mojabieda * 人生 * 23:22 * comments(0) * trackbacks(0)

CDラベル直接印刷迷走記

 MacのPowerBookG4(OSX4.8)でCanonのプリンター複合機MP800を使い、CDのラベルをそのままダイレクトにCDに印刷しようとした。

 それで手に入れたソフトはact2の「ディスクマイスター3」。iPhotoにある写真を印刷したかった。

 とりあえず、プリンターに付属している「CDトレイ」を取り出し、生のCDを入れて、マニュアルのとおりプリンターに差し込む。

 ソフトを立ち上げる。すると「ラベルの選択」というダイアローグが出てくるので、種類は「CD/DVDラベル」にする。メーカーは「キヤノン」、型番は「PIXUS MP800(12cm)」。

 すると、プリンターの「CDトレイ」とは形の違う、A4の大きさの型紙が現れ、左側にCDの型の枠が寄っている。これでいいのかなあと思って、プリンターを見ると、「CDトレイ」の位置が中央よりなので、ちょうどよい「寄り方」になっていることを確認する。

 「ツールパレット」のiPhotoのアイコンをクリックする。出てくるのが遅い。「ファイルが見つかりません」という警告ダイアローグが出てくる。無視して「OK」をクリック。すると30秒くらいしてiPhotoの1万4千枚くらいため込んだ写真の一覧表が出てくる。

 「アルバム:」のボタンをプルダウンさせて(下に垂らして)、あらかじめ作っておいた「DISC用家の周囲の写真」をクリック。写真を一枚選んで「挿入」をクリック。

 すると円をはみ出た写真が貼り付けられる。この写真ははみ出たままでよい。というのは、印刷のときには円の中しか印刷しないので。以下、ロゴを入れるが、それは省略。問題は印刷。

 メニューバーの「ファイル」をプルダウンして「ページ設定」をクリック。用紙サイズは「A4」で「OK」。あとはそのまま。
 
 次に、「印刷設定」をクリック。初期設定のままでいい。「ラベル枠内のみを印刷」と、「すべてを印刷」をチェックすると円の中のみを印刷することになる。後はそのままで「OK」。

 さて、最大の難関の「プリント」をクリック。まず「プリンタ」を選ぶ。「プリセット」は無視。そのあとの、「印刷部数と印刷ページ」のボタンがものすごく大事。これを無視すると印刷できないことが、さんざん試行錯誤して分かった。

 まず無視して印刷しようとした。プリンターへはデータが行く。しかし、プリンターからは「CDトレイ」の入口が開いていますよ、とかいうつれないエラーメッセージが出る。当たり前じゃん。そこからCDのラベルを印刷するんだから。

 しかし、ふと考えた。普通にプリンターからCDラベル専門用紙に印刷することがあるだろう。とすれば、それと区別するために、「CDトレイ」を使うときにはなにか特別な操作が必要なのだろう。

 キヤノンのプリンターのマニュアルをまずしつこく見る。しかし特に何も書いてない(ほとんど何も書いていない)。ソフトの扱いについてはもちろん、巻末のトラブルQ&Aを見ても分からない。それでソフト(ディスクマイスター3)のマニュアルを見る。こちらはまったく役に立たない。

 だとすればプリンターとソフトとMacとの相性が悪いのか、と思った。

 それは最悪のパターンだ。うまく行かないと愚痴っぽくなる。CanonはまずMacには冷たい。OS9に新しいプリンタのドライバは対応していない。古いソフトのアップデートもOS9など無視している。プリンターがまずかったのか。あるいはまずいソフトを買ったのか、と半分あきらめかかった。もちろんもうOS9ではなくOSXを使うために「ディスクマイスター3」というソフトを手に入れたのだが。

 とりあえず、プリンタドライバをアップデートし、ソフトもアップデートした。それでも印刷できない。ちょっと頭をかかえた。

 最終的にはよく出来たソフトだったということが後で分かる。ともかく気をとりなおして、プリンターのトラブルでも、ソフトのトラブルでもなかったら、最終的にはMacの印刷設定そのものに何かあるはずだと思った。

 問題はMacの「プリント」のプルダウン先にある「印刷部数と印刷ページ」という実に分かりにくい・けしからんボタンにあることが最終的に分かる。そこまでに至る道は「茨の道」だった(というか、そんなの常識じゃん、と言われるかもしれないけれど)。

 さんざん試行錯誤して、「消去法」で解決を試みたわけだ。まずプリンターを徹底的に点検。次はソフトを点検。特に問題がなければ残りはパソコンである。

 それでMacの印刷操作に問題を絞ることにした。メニューバーの「ファイル」の印刷にかかわるさまざまな項目から点検し、問題がなかったので、最終的に「プリント」をクリック。そのダイアロークの中の上から順にボタンを点検する。特に問題はない。それで最終的に残ったのは「印刷部数と印刷ページ」というボタン。このボタンをクリックするといくつかの項目がプルダウンされる。「レイアウト」「スケジューラ」など。一つ一つあたってみる。そうして「品位と用紙の種類」に行き当たった。

 この「品位と用紙の種類」のボタンの下(横線が入っていて、カテゴリーの境界を意味しているらしい)の「用紙の種類」をさらにプルダウンしてみると、「普通紙」からはじまってかなりの種類が出てくる。ここに「プリンタブルディスク(推奨)」「プリンタブルディスク(その他)」という項目を見つけた。「これだ!」と思った。どちらでもいい、ともかくこの「プリンタブルディスク」を選択すると、「給紙方法」が自動的に「ディスクトレイ」と選択される。連動しているらしいことがわかった。

 はじめは「普通紙」を選択し、「給紙方法」ボタンのさまざまな項目を試してみた。そうして消去法からようやく辿り着いたのが「プリンタブルディスク」と、それに連動する「ディスクトレイ」だった。当たり前といえば当たり前だったが、疑心暗鬼と慎重さとから、一つ一つ点検してみたわけだ。

 ここまでに至るのに苦節3時間(おかげで翌朝は寝不足)。

 よく迷路に迷わない歩き方が一つあるという。それは右手を壁につけて、ひたすら歩くというもの。そうすればいつか(途方もなく大回りしても)必ずゴールにたどりつく。そんなふうな試行錯誤をしていった。

 ここ(正解)までに至るまでに三つの階層をたどり、総計六つのクリックをしなければたどりつかない。これは多いのか普通なのか。

 けっきょく問題だったのはMacの「プリント」ダイアローグのあり方だ。三つのカテゴリーがありながら、3番目のカテゴリーには名前がない。なんとなく横棒二本で一つのカテゴリーをつくって区別していますよ、的なレイアウトをしている。だから理想的には、
 プリンタ:
 プリセット:
 その他:
 などという、三つのカテゴリーに分けて、それぞれに(プルダウンする)ボタンをつければよかったのだ。この3番目の「その他」というカテゴリーのボタンの中にある項目の一つに「印刷部数と印刷ページ」という項目を置き、同列に「品位と用紙の種類」という項目を置くべきだったのだ。
 そうすれば、「その他」カテゴリーボタンの中にさまざまな項目が潜在していることがきちんと認識できる。
 現状ではカテゴリー名がなく、「印刷部数と印刷ページ」というボタンがあるだけ。それがをカテゴリー(ほんとうは項目)だと錯覚してしまう(ボタンではあるけれど)。つまり「印刷部数・・・」をカテゴリーと勘違いして、その裏にある諸項目を見落としてしまうのだ。このボタンの中だけで12項目も(選択肢が)存在する。そのうちの11項目が埋もれて気づかないままになってしまうのだ。これはアップルが悪い。

 それにしてもMacのマニュアルもソフトやプリンターのそれも、ほんとうに不親切だ。実際に使うにはひたすら試行錯誤するしかない。逆にいえば、そこまでカバーするマニュアルなどとても作れないほど、さまざまに操作が細分化し、複雑化してしまったということだろうか。

 もともとパソコンなどボタン一つで動くべきなのだろう。「CDトレイ入れるからさ、CDのラベルをプリントしてよ」と声で命令すれば印刷できる、というのが理想。こんな複雑な操作を試行錯誤しなければできないテクノロジーとはまだまだ未熟なテクノロジーだ。

 車の運転操作がメーカーごとに違っていたら、とんでもないことだろう。しかし基本的にはどのメーカーの車も操作方法はほとんど同じだから、どの車でも運転できるようになっている。

 だとすればパソコンの操作もそうあるべきだろう。現実はOS、ソフト、ハードが違っていたらてんでばらばらだ。しかも一つのソフトの使いこなしにだけでさえ「教室」が開かれるほどめんどうだ。高度な技術がありながら、どうしてこうもめんどうなものになってしまったのだろう。

 

 
mojabieda * PowerBookG4 * 19:15 * comments(0) * trackbacks(1)

国家と(いう)テロ組織

 新年そうそう縁起がよくないが、サダム・フセインが絞首刑される映像(ケータイで政府高官が撮ったものだという)をYouTubeで観ていたら、人質を拉致・監禁したイラクのテロ組織のような覆面をした男たちが周りを囲んで処刑場にフセインを引きだして処刑していた。フセインは黒いオーバーコートを着て、淡々として視線をカメラに向けもしない。処刑場はどこかの殺風景な建物。映像は複数流出している。直前に周りから怒声が聞こえる。フセインはそれにわずかに笑って応える。

 映像を観るかぎり、覆面武装テロ組織による人質事件の映像とまったくオーバーラップする。この映像を流出させたのはイラク国内の武力闘争のためという政治的な意図があるのだろうか。それとも映像の管理もできない杜撰な国家体制を問わず語りに露呈しているのか。あるいは国家体制そのものがテロ組織と本質的に変わりないということか。
mojabieda * 時事 * 17:46 * comments(0) * trackbacks(0)

夜と霧、戦場からの報告、黙って行かせて

 DVDの『夜と霧』とDVDに落とした30日の犬HKのETV特集『戦場からの報告〜レバノン・パレスチナ』を同時に観た。

 『夜と霧』は戦時中のユダヤ人虐殺をドキュメンタリーとして描き、ETV特集は現在のイスラエル(ユダヤ人)によるレバノン空爆(という虐殺)をニュースとして伝える。映像を観ながら、両者に共通するのは徹底的な「殺す側の論理」に立つ加害者意識の欠落かもしれないと思った。

 長い間の迫害に耐えてきたイスラエル(ユダヤ)の民が、今度は迫害の側に立つ。被害者意識の過剰が加害者意識を欠落させるのだろうか。

 それにしても分かりにくい。大昔に先祖が住んでいた土地だということだけで他人の土地に勝手に国家をつくってきておいて、それを世界中が認めていること自体、ふつうありえないことではないか。

 もちろんアウシュビッツなどのユダヤ人虐殺は人類未曾有の犯罪だが、だからといって被害者が何をしても許されていいはずはないと、どうして世界はものが言えないのだろう。

 なんとなくイスラエル国家というのはアメリカ合州国に似ている。人の土地へ乗り込んで強引に国家をつくりあげた点。強力な軍事力をバックにして周囲に圧力をかける点。気に入らなければ他国へどんどん軍隊を送る点。西洋諸国や「世界」を味方につける点。軍需産業が盛んな点。

 アンネの日記やフランクルの『夜と霧』など、さまざまな面からユダヤ人の迫害や虐待などが伝えられ、とうぜん同情的になり「判官贔屓」になる。そうして加害者である悪辣なナチス・ドイツに怒りの鉄槌を下したくなる。

 まったく同様に、迫害され、虐待されるパレスチナ人に、とうぜん同情的になり「判官贔屓」になる。そして悪辣なイスラエル(ユダヤ)国家に怒りの鉄槌を下したくなる。

 「殺される側」と「殺す側」の両方のユダヤ人の姿がともに実像だとしたら、わけが分からなくなるのはとうぜんだ。過剰な宣伝をされ、真実が見抜けないのだろうか。一つだけ言えることは、国と国、民族と民族、宗教と宗教の戦いとか対立とかいう単純な視点から見るだけではまずいということ。そのような視点を強要する何らかの力が働いているということ。

 事実、ナチスに協力するユダヤ人(カポという)がいたし、アウシュビッツ強制収容所で司令を出していたナチスの親衛隊の幹部も「命令されただけ」と証言しているのは責任のがれだけではないだろう。ユダヤ人=善、ナチスドイツ=悪という単純な図式しか持っていないと、パレスチナにおけるイスラエル(ユダヤ)国家の現在の「蛮行」はまったくの論理矛盾におちいる。

 民族や宗教は個人を国家に結びつける精神的支柱になる。だから国家は民族や宗教を前面に押し出して個人を国家に巻き込んでゆく。そのために国家は民族や宗教をねじまげもし、でっちあげもしてきたのは歴史が証明している。

 さらに、国家は組織や社会という網の目に国民をしばりつけるいわば蜘蛛の巣のようなものだ。蜘蛛の巣にからめとられたらじっとして動かないこと。へたに動けば蜘蛛(国家)に喰われる(抹殺される)だけ。

 だから個人は国家によってでっちあげられた民族や宗教を「国家にからめとられた言い訳」とすることで免罪符としたがるのだ。もちろん自身は民族や宗教を誇りとすることで帰属意識を満足させ、生存意義のアリバイとすることができる。

 ヘルガ・シュナイダーの『黙って行かせて』(新潮社)を読んだ。筆者の母親のことが書かれている。ナチスの親衛隊でアウシュビッツの看守だった女性。戦後になって年老いて死ぬまでかの女は徹底的に骨の髄までナチス親衛隊員だった。「命令に服従する義務」があっただけだという。組織の中で一定の地位を占めること以外には何も見えなくなるらしい。それ以外に「生きる場」を持てなかったのだろう。だから「その後」はその言い訳にしばりつけられ、言い訳を生きる以外になくなる。こうして娘は57年前に別れた母とようやく面会しても、「黙って行かせて、お母さん」と言わざるをえない。

 それにしても評論家のA庭孝男という人は、ユダヤ人の悲劇は国家を持たない民族の悲劇だったと何かの書物に記していたと思うが、国家を持っていたらアウシュビッツのような悲劇は起きなかったとでもいうのだろうか。まさか。ポーランドは国家を持っていたが塗炭の苦しみを味わった。そうして国家を持ったユダヤ人は今やどんなことをパレスチナで展開しているのか。国家を持つことでむしろ「悲劇」をより増大させているのではなかろうか。
mojabieda * 読書 * 22:52 * comments(0) * trackbacks(2)

お正月の堅い夢

 2日、7時15分起床。早朝に夢を見た。半分意識があったかもしれない。

 知識・技能の客観的な抽出という夢。夢の中では知識・技能ではなく、もっと幅広い「ことば」であったような気がする。

 まったく正月そうそう「仕事」関係の夢を見るなんて。

 知識・技能は人格に結びついている以上、個性(個人)に属するものかもしれない。しかし、それを個人に死蔵させるのではなく、「取り出」して、定量的な客観的なものにすることによって蓄積させることができる。そうして、そのストックされたものはオープン・ソースとして万人に共有されてゆく。それによって学問・科学(技術)は発展してきたはず。

 しかし、いわゆる「評価制度」というものは、その評価の結果が個人に帰着するものではあっても、万人にオープン・ソース化されることはない。その人の持つ知識・技能(技倆というべきか)の客観的な「抽出」による評価とその技倆のストックとオープン・ソース化こそ組織の「活性化」と個人の「資質の向上」に役立つものだろう。

 いや、オープン・ソース化されたものを万人が評価することによってはじめて評価が成り立ち、それによってストックされてゆくのだ。

 夢の内容はこのあたりまで。あとは目覚めて考えたこと。

 密室による上役の評価などただの評定にすぎない。しかもそれが査定昇給などにむすびつけば組織の「活性化」ではなく上意下達の組織をつくるだけ。「資質の向上」どころか面従腹背、その場しのぎの創造性・共同性のない劣等「資質」の個人をつくるのみ。百害あって一利なしだろう。

 さらに、すべての技倆が客観化されるとは思えない。個人にのみ帰着するものがあり、人格に深くかかわるものがあるはず。ほんものの「資質」とは客観的に「抽出」できるとは限らない。いや、「できない」と断言してしまってもいいだろう。もし、そんなことができれば、科学(技術)にのっとった教育によってすべての人類は「善人」に改造できるはずだ。

 個人の人格の完成がたとえ教育の目的の一つではあっても、ひどく間接的にのみ、その営為に他者がかかわることができるだけなのではないだろうか。そこのところの「禁欲性」に気づかない高慢な者たちによって結局組織や社会が滅んでいったのではなかったか。

 オープン・ソース化できるものとできないものとがあり、その区別こそ人類の叡智だろう。そしてオープン・ソース化できるものを媒介にしてしか「できないもの」(=人格)にはかかわることはできない。

 などということを正月そうそう考えてしまった。正月だからもう少し雑煮のように柔らかいことを考えるべきか。
mojabieda * 夢日記 * 08:22 * comments(0) * trackbacks(0)
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