mojabieda Blog
子育て・教育・高生研・読書・夢・世情・PowerBook・シュタイナー・神秘学などにかかわる身辺雑記の日記です
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いつか来た道
2007.02.27 Tuesday
チェイニー米副大統領が20日に「強引に日程をこじあけ」来日した。が、いったいそうまでして何をたくらんでいるのか。21日のA新聞には「
米、イラン空爆策定(英BBC報道)
」とある。
あるネット記事によれば、「まさかとは思うが、イラン戦争の戦費を日本に調達しに来たということだろうか」という。「しかし、日本はもう、イラク戦争の戦費30兆円以上負担している」とも。さらに「イラクの人道組織によると、2003年3月に始まった米国のイラク侵攻以降に殺害された数は12万8000人に達すると発表している(2005年7月11日付け)」という。
こういう記事を読むと改めて気が滅入る。日本は平和国家でもなんでもなく、戦争にまさしく加担してきた。国民が約1億2千7百万人ぐらいだから、日本国民の「イラク戦費」は(赤ん坊から老人まで)一人あたり約24万円?これは計算まちがいか?一桁まちがえたとしても2万4千円でさえ言語道断だ。それだけの税金を使って12万人の殺害に加担している?その上さらにイラン戦費の要求?憲法◯条がなくなればドーメーコクとして英国と同じように日本のヘータイさん(の血)も要求するだろう。
26日、東京都は朝◯総◯の関係団体が主催する日比谷公園での集会の使用を取り消した。日比谷公園や公会堂など、何度も行ったことがあり、何度も集会に参加したことがあるが、あの公会堂や公園の使用許可が、主催団体によっては許可されたり許可されなかったりするということか。その主催者たちの集会では、おそらく政府の政策に反対はするだろうが、公序良俗を乱すわけではない。権力に抗議する者たちには集会さえ都は認めない。やがて労働者・市民の集会にも、どんな難癖をつけて使用取り消しをはかることだろう。戦前の暗い影がよぎってくる。たしか公園のそばに自由と民主主義とを掲げた政党のビルがあったと思うが。
27日、学校での旗と歌をめぐるトラブルが最高裁判所まで持ち込まれ、あげくにその判決が「校長の職務命令は思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反しないとの初判断」。
これは木(条文)を見て森(世の中の動き)を見ない判決。見ざる・言わざる・聞かざるのただの小役人的、あるいはカポ(ナチスに協力した強制収容所のユダヤ人)的確信犯の判決か。
ただの旗や歌だが、戦争になったらすべてのヘータイの心を一様につなぎとめる最高の象徴になる。戦争のときには強力な「心の武器」になる。三つ子の魂百までというから、小さいうちからたたき込んでりっぱなヘータイさんに、という道は「いつか来た道」だ。
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mojabieda
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サウダーデ
2007.02.25 Sunday
ポルトガル語の「saudade」って日本語で表記するとなんていうの?
サウダード、サウダーデ、サウダージ?
その意味を日本語にするとどうなるの?
ある辞典によれば「懐かしさ」「未練」「懐旧の情」「愛惜」「郷愁」「ノスタルジー」「孤愁」。しかし、「いずれの訳語もサウダーデの表す多面体的な意味のいづれかの面に対応するものであって、それが持つ意味の総体を示す訳語ではない」という。
「サウダーデとは、自分が愛情・情愛・愛着を抱いている人あるいは事物(抽象的なものを含む)が、自分から遠く離れ近くにいない、またはいない時、あるいは自分がかつて愛情・情愛・愛着を抱いていた人あるいは事物が、永久に失われ完全に過去のものとなっている時、そうした人や事物を心に思い描いた折に心に浮かぶ、切ない・淋しい・苦い・悲しい・甘い・懐かしい・快い・心楽しいなどの形容詞をはじめ、これらに類するすべての形容詞によって同時に修飾することのできる感情、心の動きを意味する語である。
そこには、たんにそうした人や事物を思い描いたときに心に浮かぶ感情だけでなく、そうした人や事物をふたたび眼の前にしたいと願う思いも含まれている。サウダーデはこのように複雑で豊かな意味を持つ語であるから、外国語で1語によってその意味を表すことは不可能であることも、訳語としてあげられている種々の語の意味の一面しか表しておらず思い出す対象によって訳語が異なるざるを得ないことも明らかであろう」という。
つまり外国語には簡単には訳せない微妙で複雑なことばということだろうか。
杉田敦の『白い街へ』を読んでいると、「寄る辺なさ」と「サウダーデ」ということばが出てくる。
白い街とはポルトガルのリスボンの街。
スペインならマドリッド、バルセロナ、トレド、コルドバ、グラナダ、セビーリアなど中心の町だけ行ったことはある。しかしポルトガルはまったく知らない。
この本はリスボンを描いた映画『白い町で』を観て、リスボンに惹かれた著者のリスボン案内?の本だ。この『白い町で』という映画も知らなかった。監督はアラン・タネール。主演はブルーノ・ガンツ。これは知っている。『ベルリン・天使の詩』に出てきた。
この本にはフェルナンド・ペソアという詩人がでてくる。知らない。アントニオ・タブッキがこのペソアを小説にしている。この人なら知っている。『インド夜想曲』のイタリアの作家。須賀敦子訳。タブッキはペソアに心酔していたという。
ポルトガル。ポルトガル。ポルトガルで連想するのは「ファド」とリルケの『ポルトガル文』。それから最近読んだ『前世への冒険』に出てくるイタリア人彫刻家デジデリオが実はポルトガルで生まれたという話。コインブラ大学という古い由緒ある大学。そのくらい。
『白い街へ』のなかで、ポルトガルを「最初に船出して最後に帰国した」国という。つまり「忘れられた国」であり、「置き去り」にされた国である。「現代社会の逃避地としての条件を充たしている」という。
荒涼とした街のふんいき。昔行ったスペイン・バルセロナの街中へ入るときの、港に近い石の建物のたたずまいを思い出す。数世紀前へタイムトリップしたような、時代に忘れ去られ置き去りにされて眠っているような風情だった。
さて映画『白い町で』の主人公の男性は8ミリカメラをいつも構えているらしい。
それで連想したのは羽仁進の『自立と試行』という文章。ポーランドの学生がつくったという映画が紹介されている。羽仁の文章は海の中から二人の男がタンスを持って砂浜へ上がってくるというその映画について述べた若者論である。
その文章はこのように始まる。
「だれもいない砂漠。強い風が吹いているわけでもないのに、白い波頭がむき出している北の海。その海の底から、まるで魔法のように、二人の男が現れてくる。しかも、男たちは奇妙なことに洋服ダンスを担いでいるのである。
海からタンスを担いで現れた二人の男は、いかにも楽しそうに砂漠へ上がって、街のほうへ歩きだす。
一人はいつも首を曲げていなければつりあいの取れないぐらいの大男。もう一人は、小さくあまり力はないらしいのに、むやみに景気のよい男。海辺の青年たちがよくしているような縞のシャツを着込んだ二人は、威勢よく街に入るのだが、街のほうでは、いっこうに彼らを歓迎してくれないのだ。
二人は、まず道端のレストランに入って、飯を食おうとするのだが、あっさりと追い払われてしまう。」
こうして街のなかをさまようのだが、タンスを担いだ男たちはだれからも疎外され、結局また海へともどっていくしかない。
この話が奇妙に心に残り、『白い町で』のカメラを持つ男とオーバーラップしてしまう。タンスではなくカメラを持ち、そのカメラに「白い町」を映しながら、やがて海へともどってゆくという映画のストーリーらしい。
どういうわけか手元に『胡同(フートン) 北京下町の路地』という本がある。図書館から借りた。この胡同の写真にもサウダーデのようなものを感じる。四合院(しごういん)の屋根瓦や庭木や狭い路地裏の向こうに北京の高層ビルが見える。現在はこういう風景もすでにほとんど失われているらしい。白黒写真。すでにこの世の風景ではなく「白い街」として写真だけに残されているのか。
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mojabieda
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広河隆一写真展講演会の感想
2007.02.14 Wednesday
2月10日(土)に藤枝文化センターでひらかれた「広河隆一写真展講演会」は参加者が150人ほど集まり盛況のうちに終了しました。とくに中学生や若い人たちが目立ちました。
主催はエバーグリーンという団体で、実行委員会に高校生、専門学校生、大学生、市民、教員が集まっています。
アンケートの感想などをいくつか紹介します(以下は『
藤枝の空と緑と子どもたち
』からの転載です)。
◆ 大人の人たちの感想です
(1)写真展講演会の感想
(2)高校生若者へのメッセージ
(1)写真を見てからだが震えました。人間とは、人間の命とは、生活とは、人生とは、いったいなんなのかという思いがつきあげてきました。そして、なぜ、人間は多くの人間を不幸にする戦争をするのか。人間は、一人ひとりは優しく賢いはずなのに、どうして愚かな戦争を繰り返すのか、とやりきれない気持ちになりました。戦争につながるものは何かを見抜く目を持つことがいかに大切かということを思い知らされました。
(2)平和あってのモノダネ。平和であってこそ私たちは人間らしい生活ができるのです。日常生活の中に忍び込む戦争につながるものを見抜き、排除できる力をつけましょう。
(1)講演会でのお話をきいて、報道の何を信じていいのかわからなくなりました。一方からみることがいけないことはわかります。両方の意見を聞くのは難しいと思いますが、どちら側の見方なのか、相手はどうなのかを考えることが大切なのだと思いました。
だれの心の中にも闇があるといいます。ほんとうに地球上から戦争がなくなる日は来るのでしょうか。
(1)小6の息子と来ました。彼が何を感じたのか話したいと思います。
(2)やさしさを持って生きていける力を訓練していくようにしてください。
(1)広河さんの話しを聞くのは2回目です。いつもながら自分の無力さを思い知らされます。広河氏の40年の経験や思いは2時間ほどでは語りつくせないでしょう。日本の報道のあり方、ジャーナリストのあり方に関する指摘は胸に迫るものがありました。デイズジャパンも定期購読していますが、最初に書いたように何をしたらよいのか、何かできないかと毎号問いながらも、何もしない自分に情けなさを感じています。
広河さん、ご自身のお体、命を大切になさってください。そして、いつまでもわたしたちの知る権利を守ってほしいです。と自分は危険な前線に行かずにお願いするのは心苦しいですが・・・。
きょうは、ガールスカウトのリーダーとして、スカウトと3名をつれて参加しました。アフガニスタンとチェルノブイリに関心を持っていますが、次の機会に聞きたいです。
(2)会場にも多くの中高生がいて感心しました。若者もさることながら私たちおとなも、一人でも多くほんとうの報道、ジャーナリストの姿を知ってほしいと思います。若い人たち、がんばれ!!
(1)何度か広河さんの写真展には足を運んでいたのですが、講演会は初めてでした。とても貴重なお話しを聞くことができ、ありがたく思っております。広河さんの著書やパレスチナに関する本もいくつか読んでおりますが、やはり理解のおよばない点があったり、想像できない点が多くありました。私たち日本人には遠い国で起こっている関係のないことと考えてしまいがちですが、生きる権利はすべての人が平等にもっており、それが壊されている現実がある事実を客観視せず、広河さんの言うように「知る権利」を実行していこうと思います。
(2)わたしも同じ若者として、現実を知り、常にアンテナを張っていようと思います。
(1)子どもたちの表情に魅かれました。広河さんの写真は以前から何度か観る機会はあったのですが、本人の話しを聞いて、伝えたい思いがよく理解できました。いまの日本では想像できない世界ですが、映像で訴えることによって、立ち止まり考えることができました。
(2)自分の身の回りだけでなく、世界中のできごとに心を留めて、状況を想像できる気持ちを大切にしてください。
(1)ジャーナリズムの公正性の危機の問題や、パレスチナの和平直後のイスラエル国内における科学的歴史研究の動向など、たいへん興味深いお話を聞くことができました。欧米における反ユダヤ主義の解決をイスラエル建国に求めたところに、西欧世界の誤りがあったと感じました。
(2)たいへん立派な会を企画してくださり、ありがとうございました。物事の現象面にとらわれるのでなく、本質は何かという点を考えることのできるおとなになってください。これからもがんばってくださいね。
(1)チェルノブイリ写真集、チェルボナ・カリーナ(再生の実)が事故後20年を経て実った感動がよみがえります。人間の愚かしい戦争の歴史から目をそむけず、そこから学んで人間への希望を見出していきたい。広河さんとそのスタッフの皆さんの活動に敬意を表するものです。カンパを事務局にわずかですが送らせていただいています。これが、いまの私の支援の方法(自分たちのためでもあります)です。
(2)広河さん、お大事になさってください。ジャーナリストの使命もほとんどないまま作られるメディアを通して見ている私たちについても考えさせられました。
(1)この瞬間にも射殺されている人が世界の中で何人もいるという事実。死の恐怖にさらされて生きている人たちの存在。人として知っておかなければならないと痛感しました。 メディアの恐ろしさもあらためて痛感。広河さんの勇気の源は?広河さんのようなジャーナリストを応援していきます。
(2)わが家にも校の息子がいます。帰宅したらきょうの講演会のこと、内容だけでなく現役の高校生が会の運営にたずさわっていたことなどを話してみたいと思います。一人の力は小さいですが、人と人をつなげていけば大きな力になりますね。ぜひがんばってください。
(1)危険な現地に命がけで飛び込んで得られた生々しいお話を聞かせていただき、ありがとうございました。目を伏せたくなるような写真も多かったですが、見なくてはならないと思いました。メディアも恣意的な報道をするものだとわかっているつもりでいながら、大量の情報の日々に流されている自分に気づかされました。また肝に銘じておく必要性を強く感じました。科学も使う人の思いによって恐ろしい状況を作るものだとつくづく感じました。
(2)今回のような会を企画、開催してくださり、ありがとうございました。これからも継続してください。またチェルノブイリに関する企画もお願いします。
(1)ユダヤ、パレスチナのモーセからさかのぼった歴史の話はとても興味深かった。ジャーナリストの真の役割、いまの企業ジャーナリストの問題点がよくわかった。戦争の罪、ますます大きくなっていくが、あきらめてはいけないと思う。
(2)62歳のわたしも若者も、真実、歴史をしっかり知ることが大切です。
(1)写真展も講演会もたいへんよかった。お話しを聞けてよかった。現場を知る人の真実に触れることができてよかったです。
(2)高校生の活躍、たのもしい限りです。来年もよろしく。また来ます。
(1)昭和一桁生まれの私には戦争の思いは人一倍強く、いとこや親戚をなくした悲しい経験があります。戦争の悲惨さを改めて思い、絶対にやってはいけないことだと思いました。
(2)戦争を知らない世代に生まれた高校生や若者諸君にいつまでも平和な日本であるように努力していただきたく思います。
(1)生きる権利、知る権利、人として平等にあるものだとほんとうに感じました。正しく見ようとする力を養うことが必要だと思いました。観察する力を身につけていこうと強く感じました。
(1)今回のお話を聞かせていただく機会があり、思うことは、これを機に私はいかにできることをしていくかということです。自分でそしゃくし、人々の心に火をともせる人になれれば、と思います。
(2)平和、幸せは人一人の心の奥にあると思います。となりの人に笑顔を!そして、戦争反対を訴えたり、反抗するより、自分の幸せを問いながら、どこにいっても光をともせる人に、どうかなっていただきたい。
(1)たいへんよかったです。後から反省するのですが、もっとPRしておけばよかったと。本2冊を買いましたので、子どもたちに回覧して伝えます。レジュメも8冊いただきました。職場の同僚に勧めます。
(2)えらい!立派!これからもがんばってください。
(1)日本人が戦争に加担しているということをつい最近知りました。それは銀行預金とか国債を買うことで、それが何に使われているのかを知ったから。わずかな貯金ですが、わたしは銀行から引き出してきました。
広河隆一さん、どうぞお体を大切にして、ご活躍をお祈りいたします。
(2)一人でも多くの人にきょうのことを伝えてください。
(1)ごくろうさまでした。知らせてくれてありがとうございました。知ろうと努力します。ほんとうのジャーナリスト精神に感銘しました。
(2)よくやってくれました。これからも期待しています。
(1)ジャーナリストの仕事というのを再考しました。勝者がいかに理不尽なことをしているか。しかし、人類誕生以来それがくつがえされたことはないと思うと、この世が終わるまでとめられないのか、あるいはこの世を終わらせるしかないのかと考えてしまいました。
(2)外部からの知識を取り入れるだけでなく、自分自身もみつめることができるようになることかなあ。
(1)よかった、につきます。お話の記録を冊子にまとめられるようでしたらほしいのですが。
(2)若者たちの企画に大きな拍手を贈ります。おかしな日本の社会の中で光を感じました。
(1)この戦争ビジネスをいつまで続けたら気がすむのだろう。人間の生きる権利を守っていくことがもっとも大事なことなのに。日本では9条を絶対守っていきたい、守らなければ、と日々思っています。
(2)よい仲間と行動していることに応援します。継続は力だと信じて、自信を持ってください。いつか夢がかなうと思っています。
(1)たいへん衝撃を受けました。世界で起こっていること、今まで知らなかったことを知る機会をあたえていただいたことに感謝します。知ることは、何かの行動につなげなければそこで終わってしまうと思うので、自分に何ができるか考えて何かの行動につなげて生きたいと思います。
(1)一昨年くらいから平和などに関する講演会に行く機会があり、その中でメディアのあり方やメディアに対する自分たちのかかわり方に強く関心を持つようになりました。多くの情報を得て、わかったつもりでいることが多いわたしたちですが、その情報が発せられる時点ですでにコントロールされているということはとても恐ろしいことです。今日のお話を聞いて、ますますその思いを強くしました。自分の目を耳を研ぎ澄まさなければ、と。
(2)藤枝にこうした団体があると初めて知りました。とてもたのもしく感じました。
◆ 中学生たちの感想です
(1)写真だけでも現在世界で起きていることがこんなにもあるのかと思いましたが、広河先生の講演会においては写真に裏にあることも知ることができてよかったと思いました。 現在の戦略は、何の罪もない女性・子ども・老人、つまり軍人でも、何の関係もない人たちを巻き込んで殺している。こういうやり方はほんとうにひどいことだと思います。同じ子どもとして、未来を奪ってしまうおとなたちは一体何を考えているのかと思います。人を傷つけあってまで何の権利を得たいのでしょうか。たくさんのさまざまなことを考えることができた機会になり、これからの生涯に生かしていきたいです。どうもありがとうございました。
(1)目を伏せてしまいそうな写真がとてもたくさんありました。しかし、広河さんが、目を伏せてしまったらいけない、見なければいけない、見る義務があるとおっしゃいました。私たちはおとなになったら、戦争を止めなければならないと思います。今日、ジャーナリストの大切さを初めて知りました。真のジャーナリストの活動がもっと広がり、地球の人一人が世界で起こっている現状を知ってほしいと思いました。この地球から一日でも早く、戦争がなくなってほしいです。
(1)戦争はいけないことなのに、イスラエルとかイラクとかで戦争が起こっているが、世界ってこれで大丈夫なのなのかな?と思いました。そして、ジャーナリストの人たちは危険なところでも写真を撮るために行っていることが衝撃的でした。この講演を聞けてよかったです。
戦争は起こしてはいけない!!絶対に参戦してはいけない!!
(1)とてもびっくりしました。私たちはこの日本に生まれて、パレスチナの人たちの気持ちはわからないけれど、しっかりと気持ちを受け止めて、すべてに感謝をしていきます。
(1)わたしたちが普段何気なく暮らしている中で、パレスチナでは爆弾を投げられてたくさんの人が亡くなっていることがわかり、私たちは幸せだと思いました。
(1)広河さんの講話を聞き、中学生のわたしの心も動かされました。わたしは何でここにいるのか。何で平和に暮らしているのか。パレスチナの問題は幻ではない。現在起こっている。私にできることはたくさんあるはずなので、考えていきたい。
◆ ある英語の先生の感想です
「人々の意志が戦争を止める日が必ず来る」
二枚のモノクロ写真
の前で思わず立ち止まる。
一枚はレースの服を着て、可愛い帽子を被った赤ん坊と幸せ一杯という表情の母親のポートレイト。どうやら自宅の居間らしい。赤ん坊は皆からの祝福を受けているのを感じているように、大きな黒い目をくりくりさせて写真を撮る人(お父さん?)の方を見つめている。ベッド上部の棚には、LOVEという字をかたどったお手製の飾りが置かれている。若い母親も幸福そうな表情で笑みを浮かべながら、左手を幼子の上に、多分、娘の左手の上に置いている。小さな手と握り合っているのかもしれない。
もう一枚の写真のキャプションには次のように書いてある。「この写真(前述)を撮ってまもなく、彼女は米国軍の爆撃を受け、ガラスの破片で失明した。顔面はガラスを取り除く簡単な手術しか受けていない。幼い娘は爆撃で亡くなった。イラクにて」白い布を頭に被り、我が身に突然起こった運命をじっと耐えているように、下を俯いている女性のアップ。キャプションが無ければ、とても同一人物だとは思えない。顔は無数の手術の跡が刻まれ、ガラスの小片をまだかなり含むかのように、大きく腫れ上がっている。驚きとあまりの惨たらしさに思わず目を背けてしまう。
先日の土曜日、藤枝文化センターで開かれた『広河隆一写真展・講演会』で見た写真の一枚である。このイベントはエバーグリーンという平和市民運動(主婦や看護婦、大学生、高校生、教員などで構成するをしている)団体が開く3回目のもの。昨年はイラクで人質となった高遠菜穂子さんの講演会を行っている。実は僕もそれに参加し手伝っているので、朝から椅子を出したり、看板や受付を作ったりと会場準備に忙しかった。会場の後ろ、写真展のコーナーに、90枚にも及ぶ広河氏の写真を一枚、一枚、キャプションを合わせながら注意深く飾っていく。
そこにはニュースやテレビでは報道されないパレスチナやイラクの現実が映し出されている。ミサイルで家族が殺されたパレスチナ人の遺族、米国軍爆撃後の、女性が焼けた「跡」が残っている防空壕の壁、自爆攻撃で兄を亡くし、自宅を破壊、更地にされたショックで言葉を失ってしまった少年、イスラエル軍に連行された我が子を返してもらうためにシーツを棒に巻き付けた白旗を持って訴える年老いた母親と銃で追い払われ泣き叫びながら戻る母親の写真、殺された子どもの墓の前で号泣する母親、発電所や浄水施設が爆撃されたイラクで、栄養失調、下痢、脱水症状で死んでいく子どもたち、イスラエル軍に完全に破壊された荒れ地で自分の家を探す父親、赤ん坊の泣き声が入れられたテープ爆弾に騙されて吹き飛ばされた人の死体の写真・・・そして前述の「娘を失い無数のガラス片で失明したイラクの女性の写真」、広河氏の説明によれば彼女は次の子どもを身ごもっていたのだが、爆撃でお腹の中の子どもも同時に失ったのだという。嗚呼!何という事実。最早、言葉にもならない。これらの写真を見ていると、事実の多くが報じられずに、茶の間のテレビを通してマスコミが作り出した言葉を鵜呑みにしているこの国の状況が本当に怖くなる。
広河氏は言う、「占領軍の後をに従って報道する従軍カメラマンによって報じられるニュースはその軍の広報、宣伝でしかない。いやそうであるばかりか、大衆に誤ったことを信じ込ませる極めて危険な『報道』だ。占領された道の横、50メートル、100メートル離れたところに、敢えて自分の身を置かなければ、戦争が何をもたらしているのか決して分からない」「生きる権利、命が奪われる危険が感じずに生きる権利は世界の誰もが持っているものだ。しかし、その権利を掴むには、社会が常にそのような機能を果たしているか常にチェックし、知る権利が必要だが、誰もがその『知る権利』を掴むわけにはいかない。それを行う者、『知る権利』を正当に行使し、国際世論に訴えて人々の『生きる権利』を守る者こそが、『ジャーナリスト』だ」と。広河氏が今でも募金を送り続けるチェルノブイリの子ども達に、自分たちの
ことを世界に伝えて欲しいと言われ、ジャーナリストとしての使命を改めて教わったのだという。
「いくら惨たらしいものであっても、私たち日本人はこれらの現実に目をそらしてはいけない。見る責任があるのだ。一枚の写真が世界を変えることもある。人々の意志が戦争を止める日が必ず来る」と静かな声ながらも重く力強い口調で聴衆に語りかける。
気がついてみると、会場は多くの聴衆で埋まっている。中学の先生が生徒を大勢連れてきてくれていたたり、家族で来るひとがいたり、「毎年、楽しみにしている」と言ってくれるかつての先輩教員がいたりする。皆、帰りがけにアンケートに熱心に記入したり、「話が聞けて良かったです」と言ってくれたりする。広河氏の写真集、著作を求める人が列を作っている。
英語の教師として、「何で英語を教えているのだろう、どうして英語を学んでいるのだろう」と自問することも多い。最近、その目的のひとつは「平和を作ること」と改めて思うようになった。自分と違う価値観を持っている世界があること、自分が当然と思っていることが全くあてはまらない世界があるということ、文化には多様性があり、どちらが優れているとかはないということ(実際、未開文明の人達は意識して「発展」などはせずに、この世界と人生を豊かに享受しているかもしれない)。そして違う世界を知ることにより、今生きている世界を見つめ直すことができるのだ。
果たして、自分の授業で、どれだけ実際にそれができているかは誠に覚束ず、たいそうなことはとても言えないが、少しでも「平和を作る」ことを手伝えたとしたら良かった。会場の整理をしながら、そんなことを考えていた。
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井上さんの語る『千と千尋の神隠し』
2007.02.11 Sunday
空港建設に抗議して焼身自殺した井上英作さんのHPを見つけました。
井上さんがどういう方がまったく存じあげませんが、映画の『千と千尋の神隠し』について書いてありましたので、それを読ませてもらいました。
映画に対するわたしの感想と似ているところもありましたが、ずいぶん違っていました。わたしが見落としていたところがたくさんあることに気づきました。
たとえば弱い者に対する優しさなど。心が柔らかく繊細で綿密で注意深く、さらにするどい感覚の上に思慮にあふれているのを感じました。文章は飾り気なく率直・正直で、お人柄をそのまま表しているような印象を受けました。
一つ一つ挙げていくと、たとえば「髪留め」がさいごに「小さく輝く」ところなど、わたしはまったく気がつきませんでした。
井上さんは千尋が「トンネル」に入る前と出た後とでは変わったのだろうかという点に注目しています。また「勇気」あるいは「勇気ある生き方」ということばが数カ所見られ、勇気をもって生きることに注目しています。
「ススワタリたちと友達になったのは、ススワタリたちが最下層の存在であり、弱い立ち場の千尋の優しさに素直に心を通わしたからなのだ」と喝破します。
映画のなかの「美しい風景」に「すべてが子供の頃に見た懐かしい風景」を重ね、昔風の歓楽街や油屋で働く人たちの貧しい世界に「昔の日本」を見ています。
たしかに、あの海の中を走る列車の情景、陰のような人々など、ポルトガル語なら「サウダード(saudade)=郷愁・哀愁」とでもいうような情景でした(なんでポルトガル語がとつぜん出てきたのかというと、さいきん
宮崎次郎
氏の絵をネットで見たためと、リスボンを描いた『白い街へ』という本を読んでいるため)。
かってに転載してもいいものかどうか分かりませんけれど、できるだけ多くの人に井上さんがどんな方なのかを知ってもらうほうがいいのでは、と思って転載させてもらいます。
井上英作さんのHPから
「千と千尋の神隠し」
先日、ビデオレンタル屋にふらっと入ったところ、「千と千尋の神隠し」の中古DVDを格安で売っていたのでつい買ってしまいました。
公開当時、4回見に行きました。そして必ず二度見ましたので、合計8回以上見たことになります。
続けて二度見ても、映画館から出たくないほど映画の世界に浸っていました。
映画は、やはり映画館で見るものです。DVDでは、あの美しい心安らぐ風景を満喫できません。
(でも DVDでは、8回見ても気が付かなかった細部が見えました。一瞬の情景を一時停止して調べることもできます。)
けれどもこの、へちゃむくれでふてくされた少女が主人公の、わざとらしい話のアニメがあれほど多くの人や外国で賞賛を受けたのには、不思議な気持ちもするのです。
私が何より心を引かれたのは美しい風景でした。
草原をわたる風の香りと感触、青い空白い雲光りに満ちた澄んだ空気、碧い湖白いさざ波、ゴトゴトと田舎の野辺を走る電車、そこに乗り合わせる荷物をいっぱい持った乗客、窓の外を流れる家々やネオン、ぴょんぴょんと飛び跳ねて出迎えてくれるランプは幼い日に見たディズニーのファンタジアのようで、そのランプに田舎の夜道を導かれたどり着く農家。
すべてが子供の頃に見た懐かしい風景なのです。
さらに油屋の前に連なる歓楽街の(何度見ても見飽きない)光景、怪しげな路地、何だか意味の分らない看板、安っぽくて薄汚くて、暖かくてよだれが垂れそうないい匂いの食べ物屋、猥雑で淫靡さが漂う覗いてみたくなるようなバー(死語です)のドア、
あるいは、油屋で働く者たちの貧しい世界、これは昔の日本なのだ。
そのことを知らない若い人たちや外国の人に、私が味わったやすらぎ居心地のよさ懐かしさが分るのだろうか?
(非日常の世界なのに、この薄汚れて貧乏たらしいありふれたリアリティは何なのだ? ネズミーランドとまったく違うコンセプトは?)
さらにDVDであらためて見直して気付いた事は、
それはこの異界の人々の人間関係もまた、昔の日本だったことです(少なくとも私がそうだと信じていた頃の)。
この異界に住む者たちは、意地が悪そうに見えても、乱暴でも、触れ合えば心の通じ合う人たちなのです。千尋の為に湯婆婆に頭を下げて頼む、兄役や青蛙。ねずみになった坊、ハエドリ。怖い魔女のはずの銭婆婆。湯婆婆でさえ、交わした約束は守っている。
その辺もまた私がこの不思議の世界にいつまでも留まっていたいと思う理由ではなかろうか。
千尋がわずかの間にススワタリたちと友達になったのは、ススワタリたちが最下層の存在であり、弱い立ち場の千尋の優しさに素直に心を通わしたからなのだ。 (今の世の中、弱者が弱者をいじめてはいませんか? 勝ち組がどうのと、敗者の美学はどこへ行った)
「カオナシ」 (みんなの中にカオナシがいる)
カオナシは当初端役のつもりだったようだが、このキャラクターはどんどん重要な位置を占めていったようだ。
彼は現代の病根を象徴している。
自分の顔も言葉も持たない気弱で行動力も意欲も無い、誰かが手を差し伸べてやらなくては何もできない影の薄い存在。しかし自分の物ではない捏造した金で周りの者を思い通りにしようとし、思い通りにならないと暴れだす、未熟で幼児性を持った存在。
(偽の金で飽食し肥え太ったカオナシ、バブルで膨れ上がった日本そのものではないか、今の日本が必要としているのは、悪いものを吐き出す本物の苦団子なのだ。)
そんなカオナシを千尋は、わずかなふれあいの中で、悪い心の持ち主ではないことを見抜いていた。
素朴な世界にいさえすれば、素直でおとなしい存在なのだと。(銭婆婆のところでケーキを食べる姿のかわいいこと)
守銭奴湯婆婆、
「まだ分りませんか大切なものがすり替わったのに」
ハクの言葉にもまだ、金が偽物であることが分らない、大事な大事な我が子がいなくなっって、お金どころではなくなって初めて金が土くれであることに気付く。
そしてハクとの出会い。
ハクの助けもあって千尋は油屋で働き出す。生きるために、両親を救い出すために。
挨拶も掃除も出来なかった少女が河の神を癒し、カオナシをなだめ、ハクを助けるために怖い魔女に許しを請いに行く。封印されていたハクとの記憶。(この映画は、たった4日間の物語なのだ、油屋の中で千尋が学び育っていく時間的過程も描いて欲しいような気がする)
この、大切な人のために力を尽くす勇気、これは千尋が元々持っていた力なのだ。
(あるいは私たちも皆その勇気を持っていると言っているのだろうか?)
ラスト、千尋が両親と一緒にトンネルを元の世界に戻っていくシーンは、入って来たのと同じ映像(実はちょっと違う)である。これは意味深い。千尋は元の千尋に戻ってしまったのか。
それともこちらの世界では勇気ある生き方はできない、という事なのか?
(このときすでに千尋は異界での記憶を失っている、という説もあります)
千尋は今通ってきたトンネルの入り口を見つめた。
それは「油屋」の看板がかかっていた、入って行った時の入り口ではない。
もうハクのいる世界に戻ることは出来ないのだ。
しかし、異界から戻ってきた千尋が、持ち帰ったものが二つだけある。
愛する者の為に力を尽くした記憶と、お守りの髪留めである。
振り返り、明日に向かって走り出す千尋の髪留めが、一瞬小さく輝いた。
(2003.10.24)
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広河隆一氏の写真展・講演会ひらかれる
2007.02.10 Saturday
写真は広河隆一氏
今日は終日、広河隆一氏の写真展と講演会にかかわった。
150人ほどが会場に集まり盛況だった。終わったあと、「この会の主催者ですか?この講演のまとめをぜひ送ってください」と言われた。とにかく最初から最後まで感銘を受ける講演だった。飾らないことば、飾り気のない人柄の上、淡々ともの静かに(実際に小声に近い声で)語るので、しぜんに話に集中してしまう。
紛争地へ出かけるときに体が拒否反応を示してたじろぐ話など、正直な話をしてくれる。レバノンのある難民キャンプの様子がどうもおかしい。一方的な銃声しかしないしイスラエル軍が封鎖しているようだ。一般市民が生きる権利を守るために知る権利を持つが、ジャーナリストがそれを代行する役割を持つ以上、一般市民には隠されたところだからこそ「行かなければならない」という。それが真のジャーナリストであると。そう信じて紛争地へあえて入っていく。しかし一般市民の目から真相を隠したい側にとっては、そういうジャーナリストは邪魔だから紛争地へ真相を知るために出かける者に対して「自己責任」論というキャンペーンを張って叩くことを一般市民にたきつける。という。
一人で行くことにためらいながら(一人で行くことは殺されたときに闇に葬られるから)イスラエル兵の監視の網の目をぐうぜんくぐって、その難民キャンプへ入り込んだ。それで最初に撮ったのがこの壁際で何人もの村人たちが銃殺された写真。と言ってその写真をパソコンからのプロジェクターの映像で見せてくれる。
しかもこれはイスラエル兵によって銃殺されたのではない。占領しているイスラエル兵がレバノンの(R)翼たちを難民キャンプで「放し飼い」にして殺させたものだ。という。
しかし、われわれには知らないことが多すぎる。それを(命がけで)写真一枚一枚に撮り、その写真がどのような状況のなかで撮られた、どのような「文脈」の写真なのかを話してくれる。一枚の写真には深くて広いコンテクストがある。現実がある。それは写真を見、キャプションを見ただけでは分からない。
たとえば、一枚の少女の(白く?)やけただれた右腕の写真。これはフォスフォラス(黄燐)弾というもので、それまでのナパーム弾をさらに開発した爆弾らしい。どのようにしたら効果が、被害が拡大するか、より科学的に殺人のための兵器が開発されてきた。ベトナム戦争で森林や人体を焼き尽くしたナパーム爆弾も、水にもぐったり、砂をかけたりすると効果が減る。そうではなく一度浴びたらもう助からないという内側からブスブス焼き尽くす爆弾らしい。
あるいは現地で家宅捜索をする銃を持つイスラエル軍とパレスチナかレバノンの家族が対峙する室内の写真。普通では撮れない写真だが、広河氏は若いころイスラエルに来ていてヘブライ語ができる、若い兵士よりもずっとイスラエルについて詳しいから、なんとか言いくるめて紛れ込むらしい。
あるいはイスラエル兵から銃をつきつけられている写真。どうしてこんな写真が撮れるのですか?という質問に対して「PRESS」という腕章では文字が多くて目立たないから「TV」と2文字で大きく目立つようにする、動作もすばやくすると兵士に見間違えられるからゆっくり動く、三脚や望遠レンズなども銃と間違えられるので広角のカメラにする、などという細心の注意を払って相手に報道機関だとアピールしながら撮る、ということらしい。
またイスラエルや米軍の戦車の後から撮る写真は「屈辱的」だともいう。これでは「従軍記者」になってしまうからだと。米国のCNNも英国のBBCも立派な報道機関のように言われているが、戦場の報道になると日本の戦前の「大本営発表」となんら変わりがないらしい。
クラスター爆弾の破片が体内に無数に入って動けない少年の写真。無数すぎて取り出すこともできない。どうしてこのようなクラスター爆弾が使われてきたのかといえば、標的となる人物の情報(といっても、ガセネタが多いらしい)が入ったとき、イスラエル軍や米軍のヘリコプターなどによる攻撃はその人物がいる場所へ到着するまでに数分の誤差が生じる。だからその人物が移動してすでにその場にいないことが多い。しかしクラスター爆弾を付近にばらまいて爆発させれば、そのあたり一面にかなり広く被害者が出る。その「危険人物」にも当たり致命傷を与えることができる。この場合、それに巻き込まれて被害にあった人は米軍などによれば「付随的被害」とよばれている。
そういう話を写真を見せながら話をするので、一枚の写真の奥に潜む現実が手にとるように分かってくる。
そのほか、イラクの紛争地で、英国の情報機関がアラブ人の服装で大量の爆薬を車に積んでイラク警察の検問にひっかかり捕らえられ、そのあと英国軍がそれを奪回する話、英米軍が爆弾テロによって宗教対立を煽ってきたことを暴露する話、車を爆破したあと車内から赤ん坊の泣き声をテープで流して人々を集めてから(遠隔操作で)大爆発させる話、いっぺんに3桁の死者を出すほどの大爆発をさせる爆薬を街中へ運搬するためには「正規」のルートをたどるしかなく、英米軍の「先導」なくしては不可能である話、など興味のつきない話ばかりだった。
広河さんとあとでみんなで会食したとき、写真家となるまでの「苦難」の道についてお話を聞いた。フォトジャーナリストとなるまえ、じぶんをプロだと売り込んでかなり大変な仕事を運よく乗り越えて写真を学んでいったという。綱渡りのような仕事をしながらプロへのすさまじい修行を重ねてきた。一時はあの「藤原新也」氏ともいっしょに仕事をしたという。「いまの写真とはまったく違う写真を撮っていた」らしい。
8時ころすべて終了。
疲れたが有意義で深く感銘を受けた、楽しい一日だった。
また、実行委員会に高校生、専門学校生、大学生、一般市民、教員が集まっているが、終了時に、とんでもない(めでたい)ニュースが発表された。
実行委員長のしめの挨拶のあと、とつぜんある男性がある女性の横に立ち、「報告があります。ぼくたち結婚します!」。これには一同がたまげる。
疲れが吹っ飛ぶくらいにみんなが驚く。総パニックのあとは質問ぜめ。とくに高校生(女子)たちに質問してもらうが、「そんなこと〜高校生には恥ずかしくて質問できない〜」などと、妙に刺激が大きかった。何を考えていたんだろう。
しかし、周囲にはまだヒミツらしい。エバーグリーンという実行委員会の活動で知り合ったので、まず最初に実行委員会のめんめんに報告したとの由。二人がだれとは今は言えないが、知る人が知れば「え〜っ!この二人が〜っ!」と、たまげかえるだろう。まずはめでたい春の知らせ。
写真は順に
パンフの準備をする高校生
写真を展示する大学生
若い人たちがめだつ見学者
広河さんを囲んでの会食
??
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抗議の焼身自殺
2007.02.09 Friday
2月6日の未明、静岡県の県庁前で一人の男性が焼身自殺した。
その近くに知事あての(空港建設等に反対する)抗議文があった。その内容はネットに公開されている。いわゆる抗議の焼身自殺(ガソリンをまいて、ライターで火をつけたらしい)。
亡くなったのは静岡市の自営業・井上英作さん(58)。以下の文章は「
空港はいらない静岡県民の会
」のホームページからである。
「
抗議文
石川嘉延に物申す
貴様は、静岡県民の意思に反して静岡空港建設を推し進め、 今は、農民から無理やり、権力を使って土地を取り上げ、 又、反対する多くの支援者をも無視して、力ずくで排除し、 何の必要も無い、永久に税金を無駄遣いする空港を、 嘘八百を並べ立てて、さも役に立つ空港であるかのように偽装し、県民を騙し、 犯罪者となんら変わらないゼネコンを使い、癒着し、県民に百年の禍根を残すその所業は赦しがたい。 よって、我が命を捨ててその悪行を糾弾する。
今、地球は危機的な状況にあり、このような環境破壊に金を使うべきではなく、 間近に迫っている温暖化への対策にを使うべきなのだ。
地球市民 井上英作
」
亡くなった方の(命をかけての)抗議文なので、そのまま転載させてもらった。
空港建設が反対運動のために遅れ、そのために何十億、何百億円とかいう「損害」が生じているという話を聞くことがある。すでに膨大な税金を投入して空港をつくっている以上、いまさら中止するわけにはゆかない、もし中止などすればその膨大な税金は無駄になってしまう、という。
そう考える人たちに「コンコルドの誤り」ということばをささげたい。行動生態学の分野のことばだ。行動生態学者の長谷川眞理子が『科学の目 科学のこころ』という本に記している。
「(超音速機)
コンコルドは、開発の最中に、たとえそれが出来上がったとしても採算の取れない代物であることが判明してしまった。・・・ところが、イギリス・フランス両政府は、これまでにすでに大量の投資をしてしまったのだから、いまさらやめるとそれがむだになるという理屈で開発を続行した。その結果は、やはり、使い物にならないのである。使い物にならない以上、これまでの投資にかかわらず、そんなものはやめるべきだったのだ。
」
「
このように、過去における投資の大きさこそが将来の行動を決めると考えることを、コンコルドの誤りと呼ぶ。
」
「
将来の行動に関する意志決定は、過去の投資の大きさではなく、将来の見通しと現在のオプション(選択可能性)によらねばならない。
」
「
コンコルドの誤りは、人間の活動にしばしば見られる。元祖のコンコルドもそうだが、作戦自体が誤っているのに、これまでにその闘いで何人もの兵隊が死んだから、その死をむだにすることはできないといって作戦を続行するのもその例である。
」
英仏両政府が膨大な資金と年月をかけて共同開発してきた超音速旅客機コンコルド。その開発途中ですでに使い物にならず、赤字になることがわかっていたという。もちろん両政府はコンコルドで新時代を開くのだと宣伝していたにちがいない。当時この開発に反対していた人はどのくらいいたのだろう?そうして製作され、就航したあとは、どのくらいの赤字が山積みされたのか。くわしいことは分からないが、よそ事ではない(もちろん現在はとっくに飛んでいない)。
なんだかいろいろなことが連想されてくる・・・戦前なら戦艦大和か・・・。
最近なら、毎年数億円(2004年度は7億円)の赤字を出しているエコパ(静岡県小笠山総合運動公園スタジアム)、開館以来10億円ほどの赤字が毎年つづいているグランシップ(静岡県コンベンションアーツセンター)、そうして今度は富士山なんとか空港。
エコパなど、建設当初はワールド・カップの開催でにぎわったのも事実。それを見越してつくったけれど、その後は悲惨な赤字続き(ということも分かっていた)。
2月6日の焼身自殺と同日の日付で、空港建設関係から一通の内容証明郵便が知人の家へ届いた。7日の昼間に知人の妻が受け取ってしまったという。現金書留で1733円あったらしい。これは空港建設予定地の立木トラストの補償金らしい。こういうものを当局から送られ、それをもらった人はかえって絶望的になってしまうかもしれない。自殺した人にも書留が来たことだろう。
空港建設予定地近くに住む知り合いにメールを送ったら、つぎのような返事。
「
焼身自殺の件詳細がまだわかりません。静◯新聞は夕刊にべた記事1つ載せただけでした。SBSは放映しました。
痛ましい事件です。
ところで、立木のことですが、送り返しても供託されてしまうので、あまり意味がありません。皆さんにはこれからの裁判闘争の為のカンパをお願いしています。
円満解決などとメディアは伝えていますが嘘です。自分で立ち退かないと、(空港建設地にあった反対)小屋の解体費などで800万円を請求すると脅してきたからです。800万を無駄にすることは出来ないので、「自主的」に(小屋を)移転させたのです。先週、大阪府はホームレスの家を壊した代金10万円をホームレスの人たちに請求しました。それとおなじです。
」
ええっ?ホームレスに10万円を請求する自治体?
行政による弱い者いじめ。
この件は非道で痛ましい。
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顔なしの寄る辺なさ──『千と千尋・・』を観て
2007.02.07 Wednesday
さいきんDVDで『千と千尋の神隠し』を子どもたちと観ている。子どもたちは何度観てもあきないらしい。
主人公の千尋が、ふしぎなお化けの世界(?)から、さいごにまた両親のもとに帰り、通常の人間世界へもどるのだけれど、お化けの世界の方がリアリティも人情も豊かで、人間の世界の方がかえって殺伐とした世界に感じてしまった。あのお父さんとお母さんのもとにいるより、なんだかおそろしげだけれど、温かみもある魔女の双子のお婆さんたちの近くにいたほうが千尋にとって幸せなのではないだろうかと。
そのほか、いろいろなキャラクターが出てくる。龍がすぐに「あ、お化けだ!」と指さす「顔なし」というお化けなのか神様なのか分からないふしぎな者など。かれは「無垢(イノセント)」であるが故に孤独であり、強欲であり、従順であり、子どものようだ。顔のある者たちの存在感の強さに対して影が薄く、幸も薄くて行き場がない。そのような陰の存在に対しても千尋は温かい。お化けの世界には主人公のそういう温かさを引きだすおもしろい存在にあふれている。
あらゆる登場人物のなかで、この「顔なし」ほどリアリティにあふれるものはない。これが人間の本質なのではないかとさえ思った。どこから来てどこへ行くのか分からない行き場のない放浪者。その「寄る辺なさ」。
彼岸と此岸とを分ける「三途の川」のような境界地(グレンツラント)があって、彼岸の入口にトンネルのような大きな門があるというのは何か示唆的だ。その門の内部は教会の内部のようで、ステンドグラスを通す光や人気のないベンチなどが見え、なにか「忘れられた」静謐な感じがある。神霊の世界あるいは死後の世界への玄関を暗示しているのだろうか。
人は死んだらどこへ行くのか、ということが労働組合の執行委員会でちょっと話の種になった。さいきんの若い人はどうもオカルトを信じる人が多くなっているようだね。そうそう、人は生まれ変わると信じてるらしい。おかしな風潮だよ。うんぬん。
たしかにその通り。そしてそのように(批判して)いう「あなた」も「わたし」も、いったいなんのために、「どこから」来たのか。「あなた」も「わたし」も寄る辺のない「顔なし」ではなかろうか。「わたし」とか「いのち」とか「そんざい」とかをだれが与えてくれたのだろうか。無から偶然が生み出したものか。などと、とりとめもないことを思いながらわたしはその会話を聞いていた。
神様が囲碁を楽しんでいた。そこへ猫たちがやってきた。猫たちは囲碁などまったく理解できない。ただ碁盤の上の蝿を眺めていた。ある猫がその蝿に手を伸ばしたら、打ったばかりの碁石に触れて少しずれてしまった。それを見ていた神様が「これはなんと、すごい手があるものだねえ」と感心した。猫は何をほめられたのかも知らず、ひたすら蝿のゆくえを追っていたという。
猫たちには神様たちが何をしているのかまったく分からない。人間はこの猫のようなものか。あるいは碁石なのか。
さっきの碁石が「この手はおれが考え出したものだ。おれはじぶんの意志でここへじぶんを置いたんだ」と言う。ある碁石が「この世界(碁盤)もおれたち(碁石)もぐうぜんに生まれてここへ置かれたんだ。だからそれぞれ勝手に活きればいい」と言う。ある碁石は「なんのために世界やおれたちがあるんだ?このような形をしているものが、ぐうぜんに生まれてぐうぜんに並べられているなんて有り得ないじゃないか」と言う。「そんなことを考えるより、じぶんの置かれた場所でじぶんなりに働けばいいじゃないか」と言う者もいる。「勝負が終わったり、取られたりした後は、おれたちはどうなるんだろう?」と言う者もいた。
こうして「考える碁石」たちが碁盤の上で「置かれたり」「つながったり」「切られたり」「捨て石にされたり」「活かされたり」「殺されたり」しているが、いったい碁盤全体を眺めて一つ一つ碁石を置いたりはがしたりしている「者」はだれなんだろう?
そんなことを考えてみても、しょせんこの宇宙という「囲碁」の意味や「碁盤」の上に並べられている諸物のかかわりなど理解しようがない。さっきの猫が囲碁を眺めるようなものだ。
ただその猫も、「川向こう」から吹いてくる風を感じるときがあって、「向こうの世界」へ紛れ込んで行って、こちらの世界を逆さまに眺めてみたくなることがある。『千と千尋の神隠し』を観ながら何か郷愁のようなものを感じたのはこういうことなのだろうか。
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暖冬
2007.02.07 Wednesday
いつもの年なら、車のフロントガラスが凍りつき、外気温がマイナス3度になる真冬。
ところが今年はフロントガラスが凍りつくこともなく、もちろん雪も降らず霜も降りず、外気温の最低が2度くらいで立春を過ぎてしまった。
あまりに暖冬すぎて気持ちが悪い。
この前鼻の奥に違和感があったので、てっきり風邪かと思っていたが、どうやらすでに花粉症がはじまっているらしい。
近くのドラッグストアーへ行ったら、すでに花粉症の薬の小さなコーナーがあった。しかし甜茶(てんちゃ)がない。カウンターで「甜茶(てんちゃ)ありますか?」と聞いたら、店員が「ちょっと待ってください」と店の奥へ行き、なにやら別の店員といっしょに店内を探し回っていた。で、通路に放ってあったダンボールを空けて甜茶を出してくれた。まだ準備中だったらしい。
沈丁花の蕾も出てきた。梅も菜の花もとっくに咲いている。ほんとうに冬はもう過ぎてしまったのだろうか。
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勘違いことわざ第2回
2007.02.06 Tuesday
ことわざをバロってみました、というか勘違いの「誤」答です。第2弾。
◯ あとは野となれ花となれ
これはなかなか味のあるきれいなことわざになっています。元は「あとは野となれ山となれ」。
◯ 魚心あれば下心
元のことわざの本質をついています。「魚心あれは水心」。
◯ 悪女身につかず
「悪女の深情け」と「悪銭身につかず」との合作か。体験から出たような?
◯ 悪妻千里を走る
ショッピングと称して休日はいつも気晴らしのドライブ。「いつものことぢゃ」ってな感じです。元は「悪事千里を走る」。「悪妻は六十年の不作」ともいいますから、孫子の代までたたる?それにしても「悪夫は六十年の不作」ということわざがないのは、「悪」と分かったら、さっさとさよならするバイタリティを女性の方が持っているからでしょうか。
◯ 男は度胸、女は愛胸
たしかにその通りです。「男は度胸、女は愛嬌」。
◯ 車にひかれて善光寺まいり
魂になってお寺へお参りかな、なんだか滅入ります。「牛にひかれて善光寺まいり」。
◯ 思い立ったが休日
「きょうは休みにしよう」って、落ち込んだ朝は休みにしたいもの。「思い立ったが吉日」。
◯ 見ると行くとは大違い
ライブなど実際行ってみなければそのダイナミックな迫力はテレビでは分からないということでしょうか。「見ると聞くとは大違い」。
◯ 鉄からでたさび
ごく当たり前すぎてあっさりとしています。「身からでたさび」。
◯ 仏造って墓入れず
たぶんテロとか暗殺のたぐいでしょう。「仏造って魂入れず」。
◯ 下手な考え悩むに似たり
へたに考えるよりも行動せよという意味でしょうか。「下手な考え休むに似たり」。
◯ 腹が立っては戦はできぬ
戦をするためには冷静にならねばならないということ?「腹が減っては戦はできぬ」。
◯ 夫婦喧嘩は飯も食わない
食事もいっしょにはしないという殺伐とした風景です。「夫婦喧嘩は犬も食わない」。
◯ 馬鹿を見たくば俺を見よ
自己卑下していて痛々しいことわざになっています。「馬鹿を見たくば親を見よ」。
◯ 薔薇のむしろ
きっときれいな「むしろ」だったのでしょう。痛いけれどそのままずっと居たかったかもしれません。「針のむしろ」。
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待つ
2007.02.04 Sunday
「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」という古今集の歌。口語訳するとふつう「五月を待って咲く橘の花の香を・・・」となる。この「五月を待って咲く」という口語訳がなんとなく腑に落ちない。ほかに訳しようがないのだけれど。
その腑に落ちない原因の一つは、「待って咲く」という言い方をふだんしないからだ。しかも、そう訳したとたん、なにか大事なものが抜け落ちてへんに散文的になってしまう。「五月待つ」は訳しにくいことばだろう。
さらにもう一つの原因は、「待つ」という行為が「能動」的であるよりも「受動」的であるように思うからだ。あるいは「自発」の場合もあるのかもしれない。
「五月を待つ」と口語訳してしまうと、「〜を待つ」という言い方が目的語を伴う他動詞だということが浮き彫りにされる。ほんらいの「待つ」という行為そのものの「受動性」に合わないように感じる。
もちろん「あなたを待つ」とか「指示を待つ」とか、明確に「相手」や「目的」を志向することもある。しかし、それでもなお、能動的とは言い難い。「なにかをする」という「行為」ではなく、「なにもしない」という「行動」であるからだ。果たしてそれで能動といえるのだろうか。
ドイツ語では「auf4格 warten」。自動詞であって他動詞ではない。が、前置詞をともなってその後に4格の目的語が来るから他動詞っぽい。
2月2日の朝の通勤道路の右側にコンビニがあった。車の往来が激しい。かなり無理をしてコンビニの駐車場から一台の軽トラックが左折してきた。すぐ後ろに車が迫っていてあぶなかった。そのあと、まもなくして車の流れはとだえた。ほんのわずかな時間、待っていればゆったりと道路に出ることができたのだ。「待つ」という行動について考えてしまった。
「待つ」のはむずかしいことだ。期待して待つと、その期待はたいがい外れる。宝くじをはじめとするあらゆるくじに期待をかけても、はずれることがはじめから分かっているから「待つ」ことはない(けれど秘かに期待したりする)。
「待つ」という行動の内には(顕在潜在のちがいにかかわらず)期待があり、「〜が〜する、あるいは〜になることを期待して待つ(時を過ごす)」ことが「待つ」の本意だとすれば、まさに他力本願。おのれの意志と行為によって対象に働きかけ、対象を変革するという自力本願的な能動的行為とは対照的だ。
「五月待つ」の主体は「花橘」。橘が五月に花を咲かせる。ほころびはじめた蕾のほのかな香りと形姿とから、「五月待つ」という形容が生まれたのだろうか。「昔の人の袖の香」を連想させるくらいだから、ぎんぎんに薫ってくるような今を盛りの雰囲気ではないだろう。だとすれば、「時」は(花がこれから満開になる五月へという)「未来」を志向すると同時に「昔の人」という「過去」をも志向している。両方とも「今」にはないが、「今」に「生きている」のだろう。ドイツ語で「einst(アインスト)」といえば、「いつか」と「かつて」の両方の意味がある。その両方への志向、あるいは(淡い)願い、憧れ、もの悲しさのような感情を「待つ」という動詞が醸し出しているようだ。
過去も未来も、己の意志とはかかわりなく移りゆく。「待つ」しかないのかもしれない。「待つ」ことと「あきらめる」こととはどこかつながりがあるようだ。「待つ」ことに徹する内には何か清澄な感じがあって、その受動性を貫徹することで、能動性を獲得するという逆説が生じるのだろうか。
散文的に「五月を待って咲く」と口語訳してしまえば、今すでに五月になっていて橘の花が満開で・・・ということになるだろう。「待つ」ということばの持つ淡い、陰翳のある、やるせないほのかな心のひだは表現されない。だからこの句はあくまで「五月待つ」としか表現のしようがない。
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静かな流れは底が深い
シュティフターの『森の小道』の中に出てくるドイツのことわざ
犀の角のごとくただ独り歩め
『スッタニパータ』(ブッダのことば)のなかで繰り返されることば
人はいつか夢の隣りにいる
高生研の池野眞氏のことば。夢そのものは実現しないかもしれないが、ふと気づくと、夢の隣りにいる。
いまだかつて不良少年が国をほろぼしたためしはない
かつて都教組の委員長が言ったことば
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