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2011.05.04 Wednesday
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坂井泉水さんの突然の訃報
2007.05.28 Monday
ZARDの坂井泉水さんが亡くなったことを今夜はじめて知った。
40歳だという。若い。まだ死を意識する年齢ではないだろう。
かの女の公式のWebサイトを見ると、所属事務所の関係者のメッセージがあった。
そのなかに気になる箇所がいくつもあった。
昨年6月から子宮頸ガンを患い、「入退院をくりかえしながら闘病生活を」していたという。「摘出手術により、一度は快方に向かって」いたが、「肺転移」が認められ、「今年の4月に再入院を余儀なくされ」たという。また、「主治医・・・のおかげをもちまして、ここ最近は、早朝に病院の敷地内を散歩するまでになり、気丈にも体調回復のための日課としておりました」という。
まずかの女はガンにかかっていた。「闘病生活」をしていた。「入退院をくりかえし」ていたことの内容は、(子宮の?)「摘出手術」を受け「一度は快方に向か」い、退院をしたということだろう。それが今年の春「再入院」となった。つまり「肺転移」し、ガンが再発したということだ。にもかかわらず「気丈にも」散歩していたという。気丈にも?
子宮頸ガンの再発率は以下の通り。
第1期──15%(5年生存率90%)。
第2期──25%〜30%(5年生存率75%)
第3期──再発率という概念は不適当。治りきらないガンの再出現。全身疾患(5年生存率40%)
第4期──再発率という概念は不適当。あえていうなら再発率100%。不治ということ。(5年生存率10%)
ある統計では、毎年約4500人が子宮頸ガンで亡くなっているという。
肺への転移、つまり「遠隔転移」しているということは、すでにその時点で全身疾患であって、第3期以降ということになるのだろうか。肺への転移は歌手としてのかの女にとってどうだったのだろう?転移が見つかり入院をはじめて約1ヶ月過ぎた。
警察では事故と自殺の両面から捜査しているらしい。
入院している病院の非常用スロープの下で発見されたのは26日午前5時40分。すでに陽はのぼっている。通りがかりの人が発見したという。それ以前に「日課の散歩」を病院の敷地内でしていて、このスロープを上って病室に戻る途中で、高さ約3メートルの非常用スロープの踊り場(手すりに指紋がついていたという)から転落したという。「靴ははいており」とわざわざ毎◯新聞では記している。服装はジーパンとTシャツ姿だったという。
転落したときに後頭部を強打したという。それによる脳挫傷で、約30数時間後の、翌27日の午後3時10分に亡くなった。その間は意識不明だったのだろうか。事務所が不慮の死のいきさつを発表したのは翌28日の今日である。
かの女が転落したとされるスロープの踊り場の手すりの高さは1メートル前後で胸の位置ぐらい。その手すりに「腰掛けていて地面に落下し」たとされている。しかも前日25日のどしゃぶりの雨で手すりは濡れていた。らしい。
かの女が入院していた(慶応大学病院の)病棟は5階建て。入院病室は4階と5階。
どうも腑に落ちない。
まず、高さが3メートル。それで打撲や骨折ではなく脳挫傷?
(濡れた)手すりに腰掛けていた?(後頭部を強打ということは、外に対して背中を向けながら座ったということか?なぜ?)
日課の散歩が早朝の5時40分以前?暗いうちから人目を避けて、ということか?
総合するとこうなる。26日の早朝にジーパンとTシャツに着替えたあと、敷地内で日課の散歩をし、5時40分以前にもどってきた。非常用スロープを上り、途中にある踊り場から胸の高さほどの、昨夜の雨に濡れた手すりの上に、背中を外向きにして座った。ところが何かの拍子に後ろへでんぐり返り、約3メートル下のコンクリート地面に後頭部を強打し、そのまま意識不明になった。
もし覚悟の自殺だとしても、生き残ってしまうかもしれない中途半端な3メートルの踊り場よりは、思い切りよく病棟の5階か屋上へむかうのではないか?(あるいは10階建ての新棟も隣にある)
もし事故だとしても、だいの大人が胸の高さの濡れた手すりの上に一人で内向きに座るというのは理解しがたい。少年たちが手すりに並んで座って思わず話に夢中になってしまうという状況ならば理解しやすいが。あるいは精神的になにか不安定になる要素があったのだろうか。
もし「つきとばされた」としたら?しかしもし争った形跡が残されていたら警察も見逃すはずはない。いきなりつきとばしたとしたら、顔見知りの計画的な犯行かもしれないが、完全犯罪を目的とするのなら、高さ3メートルというのはあまりにも不完全だ。だとすれば、突発的、偶発的な事故か?
なぞだらけの事故?(事件?)だ。
ともかく、坂井さんのことをずっと気にかけていた。昨年の9月9日にmojabiedaのBlogに以下の文を載せていた──
「わたしはついこの前までZARDということばしか知らず、坂井さんという名前すら知らなかった。じつは歌もよくは知らない。
しかし、ずっと注目はしていた。それがなぜか分からない。垣間見的な美に惹かれたのか。マスメディアの時代にあまり表舞台に出ず、素顔も出さず、しかもメジャーであることがふしぎだったのか。あるいはどこか時代に沿わないような、あまり「上手くない」生き方が気になったのか。
ふしぎなことに坂井さんの笑顔というものを写真でほとんど見たことがない。笑顔にその人の幸福感が現れると思うのだが。そういう点ではどこかうっすらと「陰」のような匂いを感じるのはわたしだけだろうか。
そういうところを全部ひっくるめて惹かれたのかもしれない。」
マックのスクリーン・セーバーに、かの女のいくつかの画像を浮かび上がらせている。毎日かの女の映像を目にしている。今日も昼間の職場で何度目にしたことか。しかも今日に限ってなぜかじっくりとスクリーン・セーバーに映るかの女の姿に見入っていた。
かの女の実像は知らない。メディアに出るときは虚像には違いない。しかし、何が虚像で何が実像なのか、もしかしたら、その両者の間はそんなに遠く隔たったものではないのかもしれない。それにしても薄倖の佳人というイメージは永遠のものとなってしまったようだ。生身のかの女のことをもっと知りたかった。ご冥福を祈ります。
写真は5階建ての病棟と非常用スロープとその入口
パソコントラブル三万里
2007.05.26 Saturday
ある日ある時(おとといのことだが)、とつぜんソフトがダウンした。いつも仕事に使っているメジャーなアプリケーションシリーズ。突然終了してしまうのだからおそろしい。大きな仕事をした後なので、それでも余裕があったが、ともかくいろいろ試してみた。
何を試してもうまくいかず、おかしくなったアプリケーションをとうとうゴミ箱に捨てた。関係するさまざまなものも捨てた。それから再インストールしてみた・・・が、できない?
これはおおごとだった。新しいヴァージョンでないとインストールできないのか?しかしいままで何の支障もなく動いていた。新しくしてもいいけれど、すぐには手に入らない。明日もまた使う。金もかかる。困った。
そう思い、さいごの手段だと思って、再インストールのときに、ちょっとした工夫をした。そうしたら、インストールできた。めでたしめでし。
それで次の日(きのうのことだが)、今後の対策として、このアプリケーションシリーズと互換性のある、あるフリーソフトをダウンロードしてみた。素人が使うのは怖いが仕方がない。Neoなんとかというソフト。で、職場の無線LANを使って、このソフトでつくった書類をプリンタに出そうとした。失敗。うまくいかない。
まあいい、こんどはメジャーソフトでつくった書類をプリンタに出そうとした。?うまくいかない。プリンタがまったく反応しない。信号が届いていないのか?さらに別のソフトでつくった書類を印刷しようとした。まったくだめだった。
こうして新たなトラブルが発生した。職場のプリンタがまったく使えなくなってしまったのだ。これこそおおごとだった。
まず、他のパソコンから印刷できるかどうかためした。印刷できる。
では、わたしパソコンから無線LANを使ってネットできるかためした。ネットできる。
さらに、専門家を呼んで、LANのプリンタ関係に不調がないか調べてもらった。おかしいところはない。
その専門家もマックのことはあまり分からないらしい。すべてはわたし一人で解決しなければならなかった。
最終的にわたしのパソコンのプリンタ関係のどこかにトラブルが生じたのだとわたしは結論した。
それで、まず、プリンタのドライバを新しくダウンロードし、インストールした。
だめ。まいった。
ともかく原因としては、プリンタドライバかプリンタ設定の「書類」か何かがなんらかのきっかけで(Neoなんとかで印刷しようとして)壊れてしまったのだろうか。
こちら(マック)からのプリンタへの信号が無線に乗っていないことだけはわかった。ネットで現在のトラブルの症状を調べることができる。この詳しい調査結果を分析できればいいが、素人だから分からない。
そもそもだ。マックのプリンタ設定の、なんと分かりにくいこと!
ともかくプリンタドライバをまた新しくダウンロードしてみた。しかし何度インストールしなおしても印刷に失敗するから、ドライバの問題ではない。きっとドライバにつながるマックのプリンタ設定のどこかに異常が生じたのだろう。
それでしょうがない、「プリンタリスト」の中の「プリンタ」(家のプリンタなど含めて三つあった)をすべて「削除」してしまった。で、新たに設定をしなおした。あとから考えると、職場プリンタの設定だけを削除すればよかった・・・。
職場のばあい超めんどうなことに、プリンタブラウザを出して固定のプリンタアドレスを入れないとプリンタが認識されない。アドレスを覚えていたからよかったが。
で、新たなドライバをインストールして、固定アドレスを入れて、プリンタ設定を新しくして、そうして印刷してみたら、みごとに印刷できた。
結局、ごちゃごちゃやっているうちに解決してしまった。2時間かかった。
そのあと家に帰って、家のプリンタドライバもインストールしなおした。そうして新たにプリンタの設定をする。これにて一件落着となった。
それにしてもむなしい。0からプラスへの解決ではなく、マイナスから0への解決だった。ほんとうにパソコンにはむだな時間と労力を費やされる。メンテナンスだけで消耗してしまう。もとはといえば、超メジャーな「窓」のアプリケーションがとつぜんダウンしたからだ。窓というより舞黒祖父戸の御不椅子だが、わたしにとっては同じ。うんこ「窓」の大ば◯ものめ!と叫びたい。
五足の靴
2007.05.18 Friday
「『海に沿うた馬関(ばかん)の町は今水瓜(すいか)と氷水(こおりみず)の世界だ』
ころは八月、さりげなく季節感が盛りこんである。雨の日の佐賀の町を歩いていて、軒が傾き、壁の崩れた家並みに来あわせた。そのなかで人々はひっそりと位牌を守り、日々こともなく生きている。
『天下に事なし、自然主義が流行ろうが、象徴主義が何(ど)うあろうと毫も関(かかわ)らん所が面白い』」
このなかの「雨の日の佐賀の町を歩いていて、軒が傾き、壁の崩れた家並みに来あわせた。そのなかで人々はひっそりと位牌を守り、日々こともなく生きている」という文章に妙にしっとりと惹かれた。ことばの喚起力というのか。
「雨の日」の古い町の、昔から変わらない人の営みとたたずまい。何か時間が止まったような感じで、そこにあるのは慎ましい暮らしの原点なのか。懐かしい故郷のような、遠い遠い異郷のような、そんな風景。旅のなかで垣間見えた淡い郷愁か。
この文章は池内紀の『作家の生き方』(集英社文庫/p184)の中の「与謝野晶子」の章の中のことば。与謝野鉄幹が30代のときに北原白秋などの若い才能を連れて五人で旅をしたときの旅行記を池内が紹介している。
ネットでその旅行記の書名を調べると『五足の靴』だった。アマ◯ンで見たら今年の今月に岩波文庫で出版されていることが分かった。すぐにア◯ゾンではなく、セブンア◯ドワイで注文してしまった。アマゾ◯だと1500円以上でないと送料が無料にならない。セブンアン◯ワイなら、コンビニのセブンイ◯ブンで送料なしで買うことができる。ちなみに483円。
それにしても「読みたい!」と思った(超マイナーな)書物がさいきん文庫で出版されていたとはなんというタイミングだろう。こわくなってしまうほど。
それからむかしむかし読んだ『遺跡の旅・シルクロード』(井上 靖/新潮文庫 p51)の中にも妙に惹かれた箇所があった。
「私たちはブハラに着いた日、夕食後に町を散歩した。白い土屋が並んでいる、気の遠くなりそうな古い町であった。」
シルクロードの「ブハラ」という都市からすでに想像力をかきたてられる。「気の遠くなりそうな古い町」ということばに想像の翼が遠く羽ばたいた。
通常の理解を越える事件
2007.05.16 Wednesday
5月16日、ある初対面の女性と話をする。
その直前に、さいきん起きた福島県の会津若松市の高校生三年生による母親殺害事件が気になっていろいろとネットで調べてみた。
ネットで調べると、その生徒の高校名も氏名も出てくる。その情報はほんとうだろうか。創立100年近くになる名門の元女子校で、5年ほど前に共学になったばかりである。地域の中堅進学校で生徒数は女子の方が多い。
ともかく、その高校の生徒・教職員の動揺など、収拾のつかない混乱の極致にあるに違いない。これから先、その高校がどうしてゆくのか気がかりだ。ホームページを見ると、年々進学実績を上げてきた進学バリバリの高校だったらしい。
さて、今日たまたま話をした女性が、なんと福島のその高校出身者だということが判った。卒業して十数年経っているから、女子校だったころの卒業生。お見合いには最高の名門女子校だったらしい。
地元の妹さんから連絡があったという。お姉ちゃんの出身校でたいへんな事件が起きたという。とうぜん、地元ではどこのだれかということが大きな話題となっているらしい。これから中学生の募集がたいへんになってくるだろうとも言っていた。
氏名までは(正しいか)判らないが、高校名のネット情報は正しかった。
それにしても異常な事件。管理(親)からの自由を得たくてより強力な管理(警察)へと身をゆだねるという自己撞着?広い世界への逃避ではなく、狭い自己の中心への限りない逸脱?10代にしてすでにその人生は狂気の深淵へ、二度と浮かび上がることのできない奈落の底へ堕ちてしまった。
映画『日本の青空』を観る
2007.05.12 Saturday
5月11日の夜、映画『日本の青空』を観る。藤枝市生涯学習センター。1日三回上映した総観客数は約850人。仕事を終えて観にいくが、三回めもホールはほぼいっぱい。
この映画は日本国憲法が、GHQ(連合国軍最高司令部=米国占領軍)からの押しつけといわれていることに対する一つの反証である。政府案は退けられたが、民衆案は採用されたのだ。
GHQは「日本国憲法草案」を起草するにあたって、日本の民間の憲法制定研究団体である「憲法研究会」(会長・高野岩三郎・戦後の初代NHK会長=大統領制を望む共和主義者)を手本にした。
その「憲法研究会」の中心は後に静岡大学教授となる鈴木安蔵である。したがって、この鈴木安蔵こそ、日本国憲法の間接的起草者だ。
この経緯を描いた映画。この鈴木は戦前の治安維持法で逮捕された第1号で、戦中、逼塞した生活のなかで転向せずに憲法の研究をしつづけた。戦後、47歳になってようやく就職。それが静岡大学だった。しかしかれの著書は戦前から米国でよく読まれていたという。
鈴木は明治の自由民権運動・植木枝盛たちの憲法を学びその民主主義の伝統を受け継いでいた。国家権力からもっとも遠く離れた、草の根からの憲法学者である。いわば草莽崛起の、民衆の、民衆による、民衆のための憲法の精神を受け継いでいた。国民主権の憲法だ。したがって、現在の日本国憲法も、明治からの日本の草の根の民主主義の伝統を脈々と受け継いでいるのである。
ただし、この鈴木を中心とした憲法研究会の草案には軍事条項がない。意図的なのか、全くの白紙のままであったらしい。第9条の戦争放棄は、敗戦直後当時の無声の民の悲願・不文律であって、容易には条文化できなかったようだ。それをGHQ草案が明文化した。政府は政府案を作成したが、これは国民主権を無視したような憲法草案でGHQが受け容れなかった。しかし、この戦争放棄については当時の吉田茂首相も「自衛権も放棄する」と国会で堂々と演説をぶちあげ、明言している(のちにこの考えを変えたらしいが)。
まったく個人的な好みとして、映画の鈴木安蔵の妻役の藤谷美紀がいい。
映画を見終えて、すがすがしい気持ちになった。風薫る5月の夜だった。
心の玉手箱
2007.05.09 Wednesday
5月9日。早朝に夢を見た。
校舎らしい廊下から教室の半分くらいの部屋に入る。準備室だろう。何もないガランとした白い光につつまれた部屋だ。向かいには大きな窓があって、そこから白い光が入ってくる。
わたしはその窓辺に向かう。手すりがある。低い手すりで落ちそうだ。下を見ると大海原。右側をのぞいてみると、緑の草の生えた丘のようなところに男女の学生たちの群れがいて、昼食をとって談笑しているようだ。その青春が急にうらやましくなる。古い古い、じぶんの失われた青春がひしひしと感じられてくる。
波が浜辺に寄せている。校舎のすぐ近くまで波が来た。「ほお」と思う。「波が校舎のすぐ近くまで寄せているよ」と誰かに告げたくなった。
その相手のことを思い、とてつもない寂寞の思いがよみがえってくる。かの女も同じような思いをしているに違いないと感じる。乾いた河床のように荒涼とした思い。しかし過去にもどることはむなしいだけだろうと感じる。
レクイエムのような夢だった。白い光に包まれた白い部屋の静謐さはなんだったのだろう。同時に感じられた寂寞の思いはなんだったのだろう。
心の玉手箱を開けないままで暮らす毎日の生活のなかで、もしその玉手箱の中身を見たいと思っても、中身の見当はたいていつく。むしろ、玉手箱の中と、外側の現実の生活とのギャップがあればあるほど、その玉手箱をかかえて生きる現実の生活が「はればれとした」ものになるに違いないと思う。目覚めた朝は穏やかな朝だった。
しかしその玉手箱の中身を見たいと思う気持ちがつのりにつのって、ある日衝動的に「開けてはならない」という玉手箱を開けてしまうことがあるのかもしれない。すると・・・。そこから先はおとぎ話のようになるのだろう。
いや、「開けてはならないといわれている玉手箱」であって、「開けてはならない玉手箱」ではない。開けたいのなら開ければいい。しかし、開けたときには、尻が割れるだけだろう。
これが現実なのだ。だから「わたし」の現実をむしろ架空の「おとぎ話」のように生きるべきなのだろう。ありえない、不可解な物語として。
いつも疑問に思っていたのは、竜宮城の乙姫が浦島太郎へ決して開けてはならないという玉手箱などをどうして贈ったのかということ。そんな「危険な」物ははじめから贈らなければいい。浦島太郎が玉手箱を開いてはじめてそこは「現実」の世界になった。つまりそういうなりゆきこそが「現実」だということだろう。
だからこの玉手箱の意味は、「現実」を回避して、現実を「おとぎ話」として生きろ、ということなのだろう。現実こそ、なんとも判じがたい世界だから。おとぎ話以上に「おとぎ話」として生きるときには。
カート・ヴォネガットのこと
2007.05.04 Friday
写真は文庫本とビデオの『スローターハウス5』
カート・ヴォネガット氏がニューヨークで先月亡くなったことを知らなかった。07年4月11日。84歳。
はじめて氏を知ったのは、テレビの映画番組で何気なく観た『スローターハウス5』から。いまビデオを(持っているので)観ても、さいしょに観たときの衝撃はもはやない。
はじめて何気なく観たとき、異様な衝撃を受けた。しかし題名さえはっきり覚えていなかった。
異様な衝撃だけはその後ずっと尾をひいていて心の片隅に残っていた。いつか、その題名も作者も内容も詳しく知ることができればなあと無意識に思っていたようだ。
ある日、本屋でたまたま文庫本を立ち読みしていて、この本は、もしかしてテレビの映画で観たものかな?と思って買ってきて読んだ。全部読んでしまってから、やはり映画で観たものだと確信した。それが『スローターハウス5』(ハヤカワ文庫)だった。おもしろかった。わすれられない本となった。カート・ヴォネガット氏との出逢いだった。
スローターハウスとは屠殺場のことだ。
第二次世界大戦のとき、米兵としてドイツのドレスデンで捕虜になっていた氏は友軍によるドレスデン大空襲に遭遇する。ドイツ語でシュラハトハオス(Schlachthaus)、英語でスローターハウス(屠殺場)を米兵捕虜の収容所にしていたのだが、ドレスデン全市が米軍によって文字どおり「スローターハウス(屠殺場)」にされる。
このねじれた体験が氏を小説家にし、過去と現在と未来とを自由に行き来するふしぎなSF小説『スローターハウス5』はその体験が根っこになっている。
ドイツのドレスデンは軍事的な拠点となる都市ではなかった。もともとバッハで有名な宗教や音楽などの文化都市だ。なぜそこを、東京大空襲のように大規模に空襲したのか。このような米国の国家としての戦略はヒロシマ・ナガサキへの原爆投下にも、ベトナム戦争の北爆にも、現代のアフガニスタン戦争・イラク戦争にも通じている。つまり覇者(強者)としての世界戦略だ。
さいきんまたドレスデン空襲が映画になった。『ドレスデン、運命の日』。カート・ヴォネガット氏の『スローターハウス5』とはずいぶんふんいきが違うようだけれど。
カート・ヴォネガット氏はユーモアとペーソスとペシミズムが、ふしぎな哲学のふんいきのなかに混ぜご飯になっているふしぎなSF作家?である。
『スローターハウス5』のはじめの方とおわりの方に、つぎのようなことばが出てくる。
神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ。
God grant me the serenity to accept the things I cannot change, courage to change the things I can, and wisdom always to tell the difference.
出典をいろいろと調べてみたがよくわからない。が、この祈りは米国のプロテスタント神学者ラインホルト・ニーバーの祈りといわれ、「Serenity Prayer」(冷静さを求める祈り)として有名になったという。1943年の第二次大戦のさなかに、戦線にいる数十万人の米兵にクリスマスの祈りのカードとして送られたという。氏のところにへ送られてきたのだろうか。
とりあえず米国神学者ニーバーが大きくかかわっているというのはわかった。第二次世界大戦で米国がドイツへの戦争を(米国民に対して)推し進めていた国家戦略を宗教の側から補完した「功績」のある人物だ。
その「功績」に対して逆の、つまり被害者の立場にあるカート・ヴォネガット氏がおのれの小説の中に引用しているというのは、なんという皮肉だろう。
ふたたび悪夢の高速点滅
2007.05.03 Thursday
写真はヤフーの8MのADSLモデム(5年前とまったく同じモデムだ)と、無線LANベースステーション(AirMac Extreme)
モデムの右端の「WAC」ランプが点滅し、ベースステーションは緑のランプが点灯している。これが繋がっている状態。
モデムのランプは正常時には「PWR」「LLK」「WLK」が点灯し、「LAC」「WAC」が点滅する。ベースステーションのランプは異常(繋がっていない)時には橙色で点滅する。立ち上がっているときには橙色で点灯する。正常時には緑色で点灯する。
5月3日午前6時00分、とつぜんネットに繋がらなくなった。急いでADSLモデムの「WAC」と「WLK」ランプを確認する。「WAC」は点灯せず、「WLK」は悪夢の高速点滅。
すわっ!一大事だ。モデムを新品に替えたばかりで、すっかり直って快調だったのに。
急いでパソコンから無線LANを切って、次の電源を次の順で落とす。
1 ベースステーション(AirMac Extreme)の電源を落とす
2 モデムの電源を落とす
で、30秒くらいしてから、逆の2、1の順で(間隔は数秒)電源を入れた。
「WAC」が点灯せず、「WLK」の高速点滅は変わらない。
これはまいった。しかしあきらめない。
次に、同じように1、2の電源を落とし、モジュラージャックからケーブルを取り外す(ここまでしなくてもいいと思うけれど)。そして再度挑戦する。復旧は逆の順。ただし、電源復旧の間隔をあける。
0 モジュラージャックにケーブルを付ける
1 モデムの電源を入れる
2 ベースステーションの電源を入れる
復旧する順と間隔は次のとおり。
1 モデムの電源を入れる
このとき、モデムは完全に立ち上げる(10秒くらいかかる)。そうして様子を見る。しばらくすると「WAC」がついたのを確認できた。このあと、
2 ベースステーションの電源を入れる
すると、これも立ち上がるのに10秒くらいかかったが、ベースステーションには「緑」ランプがついて、ネットに繋がったことが確認できた。
ううん、微妙だ。どうしてトラブッたのかわからないし、どうして復旧したのかもよくわからない。まあ、よかったけれど。