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セチュアンの善人

 『セチュアンの善人』を観た。ブレヒトの芝居である。東京演劇アンサンブル。

 奥の深いシビアな劇。善であることと善であろうとすることとのズレ、善であることと善を維持することとの葛藤、善であることと生きることの剥離などの視点から考えさせられた。

 そうだ、ゴンチャロフの『オブローモフ』に出てくる主人公オブローモフと友人のドイツ系エリートのシュトルツ。シュトルム『みずうみ』に出てくる主人公ラインハルトと友人の実業家エーリッヒ。これが『セチュアンの善人』に出てくる主人公の善人シェン・テとリアリストのシュイ・タの関係か。

 演出がおもしろくてときどき人々の歩き方が変わる。奇妙な歩き方になる。善人の女性シェン・テが変身したシュイ・タというリアリストの白スーツ男は背筋をのばしながら極端に下へ傾いて歩く、とみれば、こんどは極端に上へ傾いて歩く。何か異様なふんいきを持っている。あとで劇団の人に訊くと、上を向くのは理想の姿、下を向くのは現実の姿。その二つの姿に引き裂かれる葛藤を描いているらしい。

 舞台のさいご。主人公の善人シェン・テが言う、
シェン・テ   でもわたしにはイトコ[リアリストのシュイ・タ]が要ります!
第一の神    あまり度々はいかんぞ!
シェン・テ   せめて週に一度!(ここでわたしは思わず笑ってしまった)
第一の神    月に一度で充分じゃ!
 
 観終えたあとの感想を言わせられたので、あえて言ったのは、舞台が中国(セチュアンとはスーチョワン(四川)のことだと加藤周一氏が書いていた)ということもあって、まるで「文化大革命」の理想と「改革・開放」の現実という葛藤を描いているかのように感じたと述べた。

 加藤周一氏がどこかで『セチュアンの善人』について述べていると思って探してみたら、一つあった。『現代世界を読む』(かもがわブックレット55)のはじめのほうで言及し「善人も善人であり続けるためにはある経済的条件を必要とする」と述べている。しかし一方「人生の目的というのは経済的条件の分析からは出てこない」とも述べる。

 別の本でも言及していたように思うが忘れてしまった。
mojabieda * 芸術 * 20:00 * comments(0) * trackbacks(0)

不信への不信

 マス・メディアでは食品への不信がたびたび伝えられている。ついこのまえは耐震補強に対する不信が世情をにぎわせていた。現在その問題がなくなったわけではないのに、さいきんはあまり聞かない。

 世の中、じつに不信だらけなのだ。政治がまずその先頭を切っている。たとえば政府はインド洋の米軍艦船への燃料補給の量も用途も「ゴマカシ」ていた。「戦争への完全なる加担」ではないのか。政治家と金の問題など、モグラたたきのような事件がいつまでもつづいている。

 ところで、マス・メディアなどによって国民の不安感・不信感をあおり立てることが、政治(政府)にうまく利用されているのではないか、と思うのはわたしだけだろうか。

 世の不信が高まれば高まるほど、逆に政府による徹底した監視・監査や管理が大手をふってものものしく登場できる。それによってじわじわと下々を縛り上げ管理する仕組みをつくる。国家による国民総監視社会。そうして、その管理によって国民の「不信の構図」がさらに強化されていく。ほとんど自動的ともいえるこの悪循環、悪連鎖。

 とんだ田舎のバイパスにも「テロ警戒中」という立て看板が立っているのを見て滑稽に思ったが、よく考えると、こうまでして政府は国民の不安感・不信感をあおり立てたいのだなという政府の用意周到なやり口に怖ろしさを感じた。

 「赤福よお前もか」をテレビがことごとしく喧伝することは、じつはひそかな政治的プロパガンダではないのか。お土産品の製造日などのゴマカシもたしかにひどいが、厚生省による薬害事件のゴマカシなどとは次元が違う。この「赤福」騒ぎによってインド洋での燃料補給のゴマカシや年金のゴマカシや薬害事件のゴマカシなどが少なからず霞んでしまったのではないか。ゴマカシをゴマカそうとしている?
 それにしても、上からの管理がないと国民はなにをされるか分からないという不安感・不信感をあおるにはちょうどいい事件の一つだったかもしれない。

 わたしの車は外国車。故障ばかりだ。メンテナンスをしょっちゅうしていなければならない。国産車がうらやましいと妻はいう。しかし国産車に故障はないのだろうか。わたしにはないとは思えない。ある一定年数まではメンテナンスフリーかもしれない。しかしいつかどこかで、とんでもない故障が生まれるのかもしれない。あるいはとんでもなく高額な修理費が必要になるのかもしれない。それは分からない。

 いつも故障ばかりする外国車。「クルマなんてそんなもんだ」とわたしは開き直っている。もっとも、高級住宅が買えるくらいの高級車なら故障などないかもしれないが、チープな大衆が乗るチープな大衆車に故障がないわけがないのだと思う。

 なのに、内部の管理を強めて「故障などない」というゴマカシで塗り固めてしまったとしたら、そのあとどんな危険と悲劇が生じるか。

 学校のいじめ問題。人間関係が濃くなれば「いじめ」のような事態はいつでもどこでも起こりうる。そのいじめを根絶しようなどと無理な管理を強めた結果、「いじめはない」などという滑稽なゴマカシが生まれたのではなかったか。そうしてそれによって国民の「不信の構図」がさらに強化されてきたのだ。

 去年さわがれた高等学校の未履修問題という全国の進学校のゴマカシはほんとうは県のゴマカシ(ひいては文科省のゴマカシ)にも責任があるはずだ。だが、現場の教育や教師への国民の不信感があおり立てられ、そのあと、そのようなゴマカシを批判するような形で、国家管理を強める新教育基本法を政府は成立させることができたのではなかったか。マッチポンプ的ゴマカシによる不信を利用することに成功したのだ。不信の利用、これはおそらく権力の常套手段なのだろう。
mojabieda * 時事 * 22:00 * comments(0) * trackbacks(0)

社会的ネアンデルタール人

 『プリンセス・マサコ』(ベン・ヒルズ/第三書館)を斜め読みした。

 この書そのものにはあまり興味はなかったが、外国人から日本を見たら、いかに日本が「倒錯した」社会であるのかがよくわかった。自宅軟禁・籠の鳥はなにもミャンマーのアウン・サン・スーチーさんばかりではないようだ。

 印象に残ったのは東◯都◯事の石◯慎◯郎を「社会的ネアンデルタール人」と呼んでいること。その箇所だけ引用してみる。とはいえ、この命名はネアンデルタール人に対して失礼ではないだろうか。

 『日本社会に根深い性差別を示す出来事のなかで、おそらく近年で最も言語道断なのは、東京都知事の発言である。
 石原慎太郎は大衆の人気を拠り所にする右翼の政治家で、公の場で女性を「ババア」と呼んだのである。さらに、
 「女性が生殖能力を失っても生きているっていうのは無駄な罪です」
 と続け、日本の弱々しいフェミニズム運動でさえこれには憤激した。
 本書の調査のために日本にいたとき、東京の女性百三十一人が彼の発言による損害の賠償を請求する民事訴訟を起こした。
 日本ではこうした侮辱に対する罰則が定められていない。西洋人の目から見て驚くのは、こんな途方もない発言をしている石原のような社会的ネアンデルタール人がこういうことを言ったという事実ではない。むしろ、法廷がこれを許したという事実である。
 東京地裁の河村吉晃裁判長は、「原告個々人の名誉が傷つけられたとは言えない」として請求を棄却した。』
 (『プリンセス・マサコ』第三書館139ページ)

 「法廷がこれを許した」とあるのは、2005年2月24日の第一審東京地方裁判所の判決で、被告(石原都知事)の発言を「原告ら個々人の名誉が毀損されたかということになると疑問である」などとして「損害賠償の請求は認められない」と原告らの請求を棄却した判決をいう。なるほど西洋人から見れば、民主主義国家も憲法も男女同権もすべてふっとぶような「こしぬけ」司法の判断として「こんな途方もない発言」以上に驚くべき事実なのだろう。現代日本社会は「文明開化」以前どころか、「ネアンデルタール人」社会か、とでもいうような。

 さて、その「社会的ネアンデルタール人」の「ババア」発言とは以下のような女性雑誌の記事のことを指しているという(2001年の11月6日号の『週刊女性』のインタビュー記事)。

 『これは僕が言ってるんじゃなくて、松井孝典が言ってるんだけど、「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なる物はババァ」なんだそうだ。「女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です」って。男は八〇、九〇歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって……。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。
 まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。』

 「松井孝典が言ってる」などと「社会的ネアンデルタール人」が引用している松井孝典氏の言葉は実際どうなのか。たぶん以下の箇所の牽強付会ではないかと思われている。

 『“おばあさん"とは、ここでは生殖年齢を過ぎたメスが生き延びている状態を表すことにします。哺乳動物でも、サルでも、類人猿でも、メスは子どもが産めなくなると、それから数年ぐらいで死んでしまいます。一方オスはいつまでも子どもをつくれる能力がある。したがって、おじいさんは存在します。自然の状態では、哺乳動物にも、サルにも、類人猿にも、おばあさんは存在しません。どういうわけか現世人類にだけ、おばあさんが存在するのです。
 おばあさんがいると何が違うか。一つはお産が安全になることです。加えて、娘が産んだ子どもの面倒をみたりする。このため、メス一個体当たりの出産数が増え、群れの個体数増加につながるわけです。人口増加です。
 人口増加が起こると、ある地域で生きる人の数は決まっていますから、地域を移動するという圧力になり、新天地へ散っていきます。このため、現生人類は「出アフリカ」と呼ばれるような行動をとるわけです。十数万年前アフリカに誕生した現生人類が、人口増加にともなって世界中に散らばる。これが、我々が何故人類圏をつくって生きるようになったか、一つの理由です。』(NHK人間講座/2002年『宇宙からみる生命と文明』)

 つまり松井氏はおばあさんをいわば「人類の祖」として讃えている。それを「社会的ネアンデルタール人」(あっ、またもネアンデルタール人に対して失礼なことを言ってしまった)はいわば「人類の敵」と、ひっくり返したようだ。
mojabieda * 読書 * 20:30 * comments(0) * trackbacks(0)

浜岡原発と東海地震

 2007年10月26日、静岡地裁の宮岡章裁判長は浜岡原発は大地震が起きても安全だと判断したが、もし原発震災が起きたばあい、この裁判長は責任をとれるだろうか。とれるはずがない。

 万が一原発震災が起きたばあい、どれほどの「被害者」が出ても、決して「犠牲者」と呼んではならない。わたしを含めて地元住民は、直接被害を被らなかった地域の住民のための「犠牲」になろうなどとは決して思ったことはないのだから。もしそのような事態が出来したら、地元住民は「犠牲者」ではない。「被害者」だ。

 マスメディアはこれまでに犠牲者などという「おためごかし」のレトリック(ユーフェミズム=ごまかし)を使って被害者に対して最大の侮辱を与え、被害と加害の関係と、そこから当然見えてくる「事件」の責任の所在をごまかしてきた。

 もう一度いうが、原発震災が起きるとしたらこれは「事故」ではなく「事件」だ。マスメディアはあくまで「事件」としてその責任の所在を追及しなければならない。

 第二次大戦のとき、日本は米軍から空爆された。地元住民は防災のためバケツリレーなどの訓練をしていたらしい。国家と自治体が呼びかけたようだ。災害が起きても防災は自己責任で、という論理。これは論理のすり替え・責任の転嫁だ。すでに敗戦が決定的だった時点で、もっとも有効な対処は国家が「戦争をやめること」だったはずだ。

 いま自治体は家具の固定やブロック塀を生け垣にすることをすすめる。これはバケツリレーで焼夷弾の大暴風に対処することと同じではないか。住民の自己責任?人を愚弄している。論理のすり替え。責任の転嫁。自治体も国家も、もっとしなければならないことがあるはず。巨大地震時に最大・最高・最悪の被害を呼び起こす危険があるのは原発なのだということはだれもが知っている。

 原発が空爆されたらひとたまりもなかろうが、震源地の真上にあるからにはいわば直下からの「空爆」(つまり巨大地震)が避けられない以上、もっとも有効な対処は原発を停止するしかない。すぐ目の前の巨大地震の到来は決定的だ。もし浜岡に原発震災が起きたら、ことは東海地方だけにすまされない。東海の「倒壊」はさまざまな意味で「日本沈没」を引き起こすだろう。21世紀前半に日本は滅ぶことになる。浜岡はHamaokaとなって、HiroshimaとNagasakiと並ぶ「世界語」になるだろう。
 あるいはスリー・マイル、チェルノブイリと並ぶのかもしれない。

 マグニチュード8級の東海大地震がここ30年以内に起きる確率は87%以上だという(2007年1月日本政府地震調査委員会試算)。

 「東海地震は不規則に起きる地震なので、計算・予測ができない、鬼ッ子みたいな地震なんです」(気象庁・地震火山部地震予知情報課・上垣内修氏)。

 また、東海地方では過去5000年に4回の、これまでの国内の地震の規模を上回るマグニチュード8.6以上の未知の「超巨大地震」が起きていたことが判明した。「この地震は約1000年周期で起きている可能性があり、次の東海地震がこのタイプの地震となって、想定を大幅に上回る被害を出す危険性が浮上した」(2007年10月18日・毎日新聞)。
mojabieda * 時事 * 08:51 * comments(0) * trackbacks(0)

誇りを持つとはどういうことか

 誇りはじぶん自身についてしか持てないものだ。じぶん自身に誇りを持てないものが、じぶん以外の者に誇りを持とうとする。なぜなら、まるで自分に誇りを持てたかのような「心地よい」錯覚に浸ることができるからだ。

 空っぽなコップに(自分の水[=誇り]ではなく)他人の水を浸すことで満杯にしよう(満足しよう)とすることは幻想であるばかりではなく、「ならず者のさいごの逃げ場(the last refuge of a scoundrel)」(サミュエル・ジョンソン)になる。なぜなら、コップがあいかわらず空っぽであることを見つめる勇気がないから、空っぽであることを暴く者を攻撃することでしかみずからを欺く道がないからである。自己欺瞞に明け暮れる者はかならず他者に対して攻撃的、暴力的になる。いつまでも充たされないからだ。

 冷静にしっかりと見てみろ。コップの中の水はお前の水(=誇り)ではない。お前のコップはお前の水でしか充たせないのだ。たとえそれが身内であろうと友人であろうと、それはお前自身ではない。ましてやそれが民族や国家などであろうはずがない。

 じぶんに誇りを持つ人ほど謙虚になる。なぜなら、誇る必要がないからだ。誇りを守るというのなら、じぶんを守る、じぶんのあるがままを守るのみだろう。
mojabieda * 世情 * 21:01 * comments(0) * trackbacks(0)

若桑みどり

 若桑みどりさんが亡くなっていたことを知らなかった。10月3日。急性心不全の由。71歳。今日来た『週刊金曜日』ではじめて知った。

 さいしょに読んだ本が『都市のイコノロジー』(青土社)だった。あと何冊か読んだが、さいしょのインパクトが強かった。松井やよりさん(2002年12月27日68歳『魂にふれるアジア』朝日新聞社)といい、元気よく時代の最先端を切りひらく女性がこれでまたひとりいなくなってしまったのは残念。たしか『都市のイコノロジー』のなかに、こんな文句があったように思う。

──弱い者を中心に生きることを文化といい、強い者を中心に生きることを野蛮という。

mojabieda * 時事 * 20:05 * comments(0) * trackbacks(0)

お籠もり

 ことし町内の神社の当番組となって数度目の「お籠もり」があった。

 祭の前の晩に掃除をし浄めてから、町内の役員が集まって社殿のなかで飲む。大昔は一晩中ほんとうに籠もったのかもしれないが、いまは蝋燭の灯が消えるまで籠もって飲む。約一、二時間ぐらいか。
 
 祭の屋台も神社へもどってくる。今年生まれた赤ちゃんを連れたお母さんや、子連れのお母さんたちも来て、いっしょに社殿で飲む。ふしぎな光景だ。

 翌日が秋祭。町内のそうそうたる人々が集まる。昼前に神主さんが来る。御供え。玉串の奉納。祝詞。そのあとまた社殿のなかでそのまま役員と当番組といっしょに飲む。

 「お籠もり」もはじめての体験だったが、御供えの順番なども生まれてこのかた知らなかった。それからご神体を神主さんが奥の方でゴソゴソと出し入れするときだろうか、なにやら得体のしれない奇声を発してうなっている。そのあいだ、見てはいけないのか、一同ずっと頭を下げている。摩訶不思議というか奇妙というか。

 そういうわけで夜も昼も飲んでばかりだった。
mojabieda * 暮らし * 18:55 * comments(0) * trackbacks(0)

甃のうへ


 み寺の境内

 ある勉強会のおり、とつぜん三好達治の「甃のうへ」が出てきたので、懐かしく思って、以下はとつぜん詩の解釈に走りました。

 三好達治の詩に最初に出会ったのは中学のときの旺文社文庫。その本はどこへいったのか──


◆ 甃(いし)のうへ

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳(ひとみ)をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂々(ひさしひさし)に
風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ

<三好達治(みよしたつじ)/測量船(そくりょうせん)>



 題名の「甃」とは「しきがわら」だという。瓦を道に敷く小径か。寺の境内かその周辺。奈良か京都か。築地にも瓦が積み重ねられているような古都の風情をイメージする。

 「あはれ」からはじまる。
 古語では「ああ」と訳される感嘆の語。この語尾の「れ」と「ながれ」の「れ」とは韻を踏んでいるかのよう。詩情が「ながれ」る。ひらがななのもやわらかい。

 この「ながれ」の詩情は、ちょうど万葉集の東歌(あずまうた)の「多摩川に さらす手づくり さらさらに 何ぞこの子の ここだ愛(かな)しき」の「さらさらに」を連想させる。川にさらされる布のように爽やかで柔らかく繊細だ。

 そして「花びら」。これは桜の花だろう。桜の花が舞い散る風情。とすると、空は真っ青な透きとおる空か。

 なぜ「あはれ」なのか。「花びら」が「ながれ」る故に「あはれ」なのか。淡い情感だ。冒頭からの「あはれ」という情感が通奏低音となって詩の全体に「ながれ」ている。さいしょからそこはかとない無常観がただよっている。

 二行目に「をみなご」が現れる。「をみなご」は「をとめご」にくらべてより詩的なイメージがあるし、そのひびきは幼さや無垢さをも感じさせる。「をみなご」の眼前に花びらが流れている情緒は劉廷芝(りゅう・ていし)の『代悲白頭翁』(白頭を悲しむ翁(おきな)に代わる)の「洛陽(らくよう)城東(じょうとう)桃李(とうり)の花」「洛陽の女児(じょじ)顔色(がんしょく)を惜(お)しむ」に通う。「甃」と「をみなご」という語によって時間を一気に超越してしまう。

 三行目は「花」を離れ、「をみなご」に視点が移る。「しめやかに語らひあゆみ」の情景は大伴家持(おおとものやかもち)の「もののふの 八十(やそ)をとめらが汲み乱(まが)ふ 寺井の上の かたかごの花」を連想させるが、家持の歌の情景よりもしっとりとして清楚だ。

 さらに「ながれ」は空間の移動だけでなく、時間の推移をも暗示する。それが「語らひあゆみ」につながり、六行目の「すぎゆくなり」につながる。

 この一行目から三行目まではまるで万葉集の冒頭の歌のような「をみなご」が立ち現れてくるリズムを持つ。「あはれ」(3)「花びらながれ」(7)、「をみなごに」(5)「花びらながれ」(7)、「をみなごしめやかに」(9)「語らひあゆみ」(7)という、前の語句が(3)(5)(9)と増えていくリズム。万葉集では「籠(こ)もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち (この岡に 菜摘ます児)」と、「籠もよ」(3)、「み籠持ち」(4)、「ふくしもよ」(5)、「みぶくし持ち」(6)と徐々に増えていくリズムだ。このリズムによって万葉集では「菜摘ます児」が舞い現れるように徐々に立ち現れてくるが、「甃のうへ」では映画のシーンのように「花びら」から「をみなご」へとカメラが「パン」する。あるいは「オーバーラップ」する。そうして「花びら」のイメージと「をみなご」のイメージが重なってゆく。

 四行目の「うららかの跫音」の「の」はその前の行の「をみなご」の「ご」に韻を合わせたものか。「花びら」に代わって「跫音」が「空にながれ」る。「跫音」は「きょうおん」とも読む。「空谷(くうこく)の跫音」など。陽の当たる堅い石畳の上を明るく軽やかな、しかし硬質で禁欲的ともいえるような足音が響く。

 五行目の「瞳」は「をみなご」たちの「瞳」だろうか。明るい青春の輝きを放っているそのすがすがしい「瞳」は春の空を「ながれ」る「花びら」を追っているかのようだ。「をみなご」たちは晴着を着ているような晴れやかなイメージ。

 その晴れやかさにつづく六行目の「翳りなき」によってかえってそのコントラストが映えてくるのがさいごの「わが身の影」。「翳りなき」といいながらも、逆にその「翳り」が背後から秘かににじみ出てくる。青春の「翳りなき」光の中をゆく「をみなご」たちだが、その背後にはしっかり「翳り」が暗示され刻印される。いわば青春の(人生の)光と影。ジュディ・コリンズの「Both sides now」(青春の光と影)という歌のメロディを思い浮かべてしまうのは年のせいか。

 「翳りなき」は「み寺」と「春」を修飾するようだ。さらにそこを「すぎゆく」「をみなご」たちをも修飾しているのだろう。「翳りなき」は「み寺」の「み」にも通う。一点の「翳り」もない明るく輝かしい美しい寺。「み寺の春」「をすぎゆく」というからには場所のみでなく時の「ながれ」をも意味する。

 七行目から視点は「み寺」へと移り「をみなご」たちを一端去る。春の寺の境内の静謐な風情。「みどりにうるほひ」は屋根の「緑青(ろくしょう)」の色だけでなく、境内に茂る樹木の葉の色でもあるのだろう。

 八、九行目の「廂々」に見える「風鐸」の姿にの「しづけさ」に「わたし」を感じているようだ。

 十行目の「ひとりなる」が独立している。ここもまた万葉集の家持の歌「うらうらに 照れる春日(はるひ)に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば」の「ひとり」を連想してしまう。

 「をみなごたち」の去った空間に「わたし」はひとり残されている。静謐な世界のなかを「わたし」のたてる「跫音」に思わず振り返って足もとをみれば、「わが身の影」を「甃のうへ」に「あゆま」せている。「ながれ」ていた時間と空間はさいごに「甃のうへ」で体言止めになり、あたかも時間が止まったかのように、舞台の上にのみピンスポが当てられて幕が降りる。

 どうして題名が「甃のうへ」なのだろう。冒頭は「あはれ花びらながれ」から始まるから、題名とつなげれば「甃のうへ」に花びらが散るイメージがある。とすれば、最後が最初につながっていく。あるいは最初に最後が立ち現れる。ちょうどアンゲロプロス監督の『旅芸人の記録』のように。先ほどの劉廷芝の詩なら「年々歳々(ねんねんさいさい)花相(あい)似たり」「歳々年々人同じからず」というような円還するイメージか。

 「甃のうへ」とは永遠のなかの一瞬ということだろうか。「甃のうへ」とは地上のことを意味し、この甃の上に「わが身の影をあゆまする」とは永遠のなかの一瞬、この地上に生きるということなのだろうか。

 影はプラトンの洞窟の神話を思い起こさせる。人は一生洞窟の中にいて、壁に映った影しか見られないという。この世を生きるとは「わが身の影をあゆま」せるにすぎないのかもしれない。











 
mojabieda * 芸術 * 17:52 * comments(3) * trackbacks(0)

「南イタリア周遊記」と「ドイツ人のこころ」と

 同時に何冊かの本を読みながら、今日は2冊読了した。

 『南イタリア周遊記』(ギッシング/岩波文庫)を読了。おもしろかった。もう一度読んでみたいし、読み終えるのが惜しい本だった。

 100年以上も前の南イタリア紀行。著者は現実のイタリアの風土と人々とに接しながら、心は常に古代のギリシア・ローマ時代の文芸に描かれたそこの風土と文化にある。その落差がおもしろい(?)。現地のどの人よりもその土地の古代の歴史に詳しい筆者。とはいえ、やはり生身の人間としての苦しみからは逃れられない。イタリアの貧しい風土、食べ物、宿屋、イタリアの庶民の暮らしが活写されている。それにしてもその様子は現代とはずいぶん違っているようだ。ギッシングの時代の南イタリアから現代の南イタリアへという時間の流れは、たんに量的なものではなく質的にまったくちがうイタリアをつくっているのかもしれない。それは日本も同じだろう。

 イタリアに興味を持ちはじめたのは須賀敦子の『トリエステの坂道』からだろうか。それから河島英昭の『イタリアを巡る旅想』を読んで決定的になった。それで今回はギッシングの『南イタリア周遊記』。その間に陣内秀信の書があったり、サルデーニャにも興味を持ったりした。そうして行きつく先にはゲーテの『イタリア紀行』がある。ローレンスの『海とサルディーニャ』も読んでみたい。

 さらに電車の中で『ドイツ人のこころ』(高橋義人/岩波新書)を読了。最初から興味ぶかい。まず「聖なるメランコリー」の箇所。著者がケルンの本屋で見つけたという『来たれ、聖なるメランコリーよ』(Komm, heilige Melancholie)というアンソロジーはレクラムから出ていたらしいが現在では入手できなさそうだ。そもそもレクラム文庫そのものが東京の洋書を扱う書店から姿を消す世の中になった。しかし「聖なるメランコリー」ということばの響きがいい。メランコリーには白いメランコリーと黒いメランコリーがあるらしい。ちょうど魔術のようだ。

 ドイツ的な内面性について分かりやすく記している。その内面性にかかわって「リリー・マルレーン」についても言及している。さらにシュティフターやシュトルムを「人生や人間社会に対する諦念を基調とする作家」と言い切っている。「日本人とドイツ人」では「日本人のこよなく愛する次の五点」というのがあって、「1、富士山 2、桜 3、中国文化 4、正月 5、海」とある。富士山と桜はなるほどと思うけれど、あとの3つはなんだかな〜という感じ。

 ドイツ人には二面性があるという。甘美なロマンティシズムと好戦的なナショナリズム。女性的な面と男性的な面。

 菩提樹がドイツ人の心の原風景であり愛とやすらぎの樹であること。回帰すべき母なる自然の象徴であったらしい。

 自然にも父なる厳しい自然と母なる(聖なる)安らぎの自然とがある。『母の胎内にも似た「森のふところ」』が。後者は家庭的で静謐で慎ましいクリスマスをこよなく愛するドイツ人の心性にもつながるのだろう。

 ローレライの解説でアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』に言及している。『オデュッセイア』のなかのセイレーンの話に、「人間が自然を支配し管理するにいたった過程、そして芸術の享受と労働とが別の道をとるにいたった過程を見ている」という箇所を読んで、みょうに惹かれてしまった。

 オデュセイアの部下たちにはセイレーンの声(外なる自然の甘美な誘惑)から耳をふさげと命じたオデュセイアは、みずからはその甘美な歌声を聞く。ただし、じぶんを帆柱に縛り付けて聞いた(内なる自然の誘惑を抑圧した)。つまり、外なる自然を享受しつつも、実生活から遠ざけたのだという。「外なる自然を支配するために内なる自然を抑圧」したのだと。なるほどと思った。これが近代市民社会のありようなのだろう。わるくいえば歪んだ抑圧なのだ。

 まだ読んでいる途中だが、『「冬のソナタ」から見えてくるもの』(高柳美知子・岩本正光/かもがわ出版)もおもしろい。この書に、韓国のソウル市の清渓川(チョンゲチョン)復元事業について言及している。2年半前までは幅80メートルの高架高速道路と側道が6キロあったソウル市中心部の大幹線道路が、その高架道路を撤去して30年ぶりに清渓川を復元させたのだという。自然の河川を元の姿にもどすということらしい。まさに「人間・自然優先主義」というパラダイムの転換。
mojabieda * 読書 * 22:21 * comments(0) * trackbacks(0)

「郵便局」へ行く

 先日、保育園がはやめに終了するのではやめに職場をひきあげてお迎えに行く。

 その途中に郵便局がある。それでネットで購入した古本代金をついでに払い込みに行くことにした。

 民営化してはじめて行く郵便局。玄関にはガードマンみたいなおやじさんがいる。

 (この時間だともう遅いから金銭は取り扱わないかも)と思ったが、窓口で「振替です」というと、「入口の機械でどうぞ」という。

 ついてきてくれて機械の操作も教えてくれる。(機械でできるようになったのか)と思った。平日は5時30分まで機械でできるという。土曜日も昼くらいまではできるらしい。

 振替払込用紙はいつもの用紙(青い用紙で料金がかかるもの)。それに名前や住所をいつものように書く。

 で、機械に入れると画面にコピー映像が出てくる。わたしの筆跡を読み取るらしい。ふ〜ん、便利だなあと思った。

 本人確認のために打ち込むのはお金を入れるときの電話番号のみ。料金は80円。領収書にも用紙のコピーが印刷されている。で、もう郵便局ではなく、この業務は「ゆうちょ銀行」になったらしい。
mojabieda * 暮らし * 07:29 * comments(0) * trackbacks(0)
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