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本当のユダヤ人はパレスチナ人?

 アサヒ・コム(5月31日)の記事を読んでびっくり。

 古代ユダヤ人の子孫はパレスチナ人だという。

 イスラエルのある大学教授が著書でそう述べたらしい。「今のユダヤ人の祖先は別の地域でユダヤ教に改宗した人々であり、古代ユダヤ人の子孫は実はパレスチナ人だ」。

 さまざまな「常識」がひっくりかえってしまう。

 考えてみると、古代のユダヤ人たちが、現在のパレスチナから追放されたとしても、すべての人々が木の葉がすくわれるようにゴソッと全部追い出されたわけではないだろう。改宗した人たち、秘かに改宗したふりをした人たち、追放されたがこっそり戻ってきた人たち、隠れていた人たち、出てゆきたくても出てゆけない人たちもいたにちがいない。そうして居残った古代ユダヤ人たち(教授によれば古代ユダヤ人は大部分が追放されずに農民として残ったという──つまり追放されたのは王族や貴族などの支配層か)が征服勢力(の宗教、ことば、文化、暮らし)に溶け込みながらその土地に住み続けたとすれば、古代ユダヤ人の直系の子孫はパレスチナ人となるのだろう。

 イスラエルの初代首相ベングリオンらが建国前に著した本の中で、パレスチナ人たちをユダヤ人の子孫と指摘していたという。

 逆に、追放された古代ユダヤ人たちは、たしかに世界へと離散したのだろうが、さまざまな他郷を流浪し、その他郷の人々に溶け込みながら2千年も暮らしてゆけば、「信仰心」は連綿と続いてきたとしても「血縁」関係は薄くもなろう。中国の開封にも漢民族にほとんど同化してしまったユダヤ人コミューンがあったという。

 だとすれば、現在パレスチナにパレスチナ人を追い出して建国している、通称ユダヤ人の国イスラエルとはいかなる国家なのだろう。



mojabieda * 政治 * 22:24 * comments(0) * trackbacks(0)

高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』

 長兄の葬儀のため東北新幹線の車内で読んだのは高田渡の『バーボン・ストリート・ブルース』(ちくま文庫)。

 この人も3年前に56歳で亡くなった。伝説のフォークシンガーとして唯一わたしがまともに知っている歌は「鉱夫の祈り」ぐらい。生涯生き方を変えなかった頑固者。逆説の歌を歌う叩き上げの「演歌師」。二枚腰だから反骨を貫けた、というよりただのビンボーな酒浸り?世界および横町最高の「世間」遺産。

 それにしても現在のパソコンに「こうふ」とインプットしても「鉱夫」とは変換されない。すでに死語になったようだ。

 歌も声もいい。岡林のように甘くない。拓郎のようにがなり立てない。陽水とは住む世界がちがう。文章もうまいし写真もいい。顔もいい顔をしている。生き方も立派。小田実などこてんぱんだ。ましてや鶴見俊輔など問題外の外の外だろうな(比較しちゃっていいのだろうか)。

 逆説の人生。あるいは人生の逆説。

 岡林信康や吉田拓郎や、はたまた井上陽水よりもずっとずっと後まで歴史に名を残すかもしれない。



JUGEMテーマ:読書


mojabieda * 読書 * 06:30 * comments(0) * trackbacks(0)

ドイツ・ハルモニア・ムンディ50周年記念ふたたび

 『ドイツ・ハルモニア・ムンディ設立50周年記念限定BOX(50CD)』が6月中旬に再入荷!とHMVにありました。すごい!で、価格を調べてみました。

 HMVのマルチバイ特価が5,742円。オンライン会員特価が6,889円。一般価格が7,655円。

 アマゾン(DHM 50TH Anniversary Box)の以前の予約価格が8.586円。現在の価格が10,072円(6月23日に見たら7,779円になっていました)。

 タワーレコード(Deutsche Harmonia Mundi -50th Anniversary Special BOX)がオンラインセール価格5,790円で予約受付中。発売日が6月13日。だそうです。



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mojabieda * 音楽 * 05:52 * comments(0) * trackbacks(0)

家族の記憶

 先日、長兄を亡くした。まだそれほどの歳ではなかったが、あっけなくガンで逝ってしまった。

 末子であるわたしはいつでも家族の最年少だった。最年少だから小さなころのさまざまな記憶をずっと保持しつづけてきたように思う。

 その記憶はどうなるのだろう。あの世へは持ってはゆけない。

 パソコンに日記を記しているので、文字として詳細に記録されている記憶もある。わたしの記憶だけでなく、葬式や法事などがあるたびに聞いた家族のエピソードなど、できるだけきちんと日記に記録している。それらの記憶がじぶんにとっては宝物であっても家族以外にはなんの価値もないものだろう。

 家族とはまず第一にじぶんが生まれ育ったところの家族で、所与の家族であり、最年少だといつも受動的に受容せざるをえなかったようだ。この受動性はわたしを記憶の保管者にしたようだ。愛憎が深くからみついている、じぶんがそこから出発した原点、生涯消えることがない原郷。

 第二にはじぶんが結婚してつくる家庭で、これは第一の家族とはまったく別物。しかもその記憶は第一の家族ほど印象深くないし忘れがちだ。記憶が作られるというより、じぶんが記憶を作り与える側になる。記憶の受け手ではなく記憶の作り手として。

 第一の家族の記憶は永遠には保管されない以上、今度は保管者ではなく作者としてその「家族の記憶」を生かすしかないのだろう。

 そのとき、ヒモノの記録ではなくナマモノの記憶が、意識的な記憶よりも無意識的に心に深く刻まれた、血となり肉となった記憶こそが生きるのだろう。だとしたら、そのためには記録やヒモノの記憶は捨てなければならない。「思い出を捨てよ、それによって思い出は生きる」という逆説を、覚者ならきっと理解しているのだろうが、わたしのような未熟者はそこまで悟れない。



JUGEMテーマ:家庭


mojabieda * 人生 * 05:15 * comments(0) * trackbacks(0)

髪をかき上げる一瞬の表情

 この前(24日)テレビで女子バレーを観ていて、タイのセッターの13番に惹かれた。

 名前はTOMKOM NOOTSARA(ヌットサラ)。芳紀23歳。

 セッターとしてチームをひっぱり、ときどき見せる鋭い視線ときりっと引き締まった精悍な顔立ち。髪をかき上げる一瞬の表情。

 残念ながらタイは北京五輪には出られないが、次の五輪に期待している。




人がいふ
鬢のほつれのめでたさを
振り向く時の君に見たりし


君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ


しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ




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mojabieda * テレビ番組 * 18:20 * comments(0) * trackbacks(0)

面妖道路と曲芸自転車と空港建設事務所と

 その道は通勤の車で毎朝渋滞する。通勤の工員・サラリーマン、通学の高校生の自転車が往来する。小学生・中学生が徒歩で登校している。道の先には学校や幼稚園があるから通勤・通学路?

 国道にも駅にも大井川を渡る橋にも通じているから幹線道路?

 道の左右には工場や建築会社がありトラックが出入りしている。ダンプもすれ違うから産業道路?

 田植え前にはトラクターが通る。ところどころに田んぼがあるから農道?

 スーパー、パチンコ屋、レンタルショップ、美容院、歯医者、仕出し屋、ラーメン屋、肉屋があるから商店街?

 おばちゃんやサラリーマンが朝ゴミを出しに歩く。軽四トラックがゴミの集積場に一時駐車している。おばあちゃんが乳母車につかまって散歩し、近所のおばさんが犬に散歩させている。住宅地が道の左右にあるから生活道路?

 百面相のような面妖な一筋の道路。その道は歩道が完備されているところがわずかにある。しかしたいていトラックがすれ違えない狭い道路。ブロック塀に挟まれているところではダンプが通るときに対向車は脇にどいて停車しなければならない。あるいは自転車の高校生の後ろに、あるいは工場の車庫へ入れるためにバックする大型トラックを待って、長い車の行列ができるときもある。

 職場までは車ですぐだが、この道を高校生のように自転車で通う勇気はない。この歳だと命がいくつあっても足りないから。高校生たちは幅10センチくらいの道の端を通って、渋滞する車の脇をまるで曲芸のようにすり抜けていく。慣れないと田んぼに落ちる。

 いったいこんな道を県や市はいつまで続けるのか。空港建設などよりよほど住民の命と生活に直接かかわる。そういえば、この道の脇には空港建設事務所のビルがある。この立派な建物を横目に見ながら毎日この道を通っている。




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mojabieda * 暮らし * 23:28 * comments(0) * trackbacks(0)

斜め読み

 いろんな本・冊子・映画などを、まとまった鑑賞・読解の時間もなく、てんでバラバラに知ったことをメモのように「そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」という心境にもなる。

■ 開封のユダヤ人
 『図書』の5月号を読んでいて、中国の開封に千年くらいまえにユダヤ人が西方からやってきて、その末裔は現在もそこに住んでいるということを知った。小岸昭が本を出しているが読む機会がない。それにしても中国に住みつづけたユダヤ人って。途方もない異邦人という感じ。文化の端から端へ、歴史の端から端へ、あたかも迷路にもぐり込んでしまったような、くらくらした気分になる。

■ 北京の回族
 映画『胡同の理髪師』のなかで北京のモツ料理店の親父さんが、じぶんの葬式については子どもに内緒でイスラム寺院に相談した、と言う場面がある。外見からはまったく分からないがイスラム教徒だったのだ。中国では回族というらしい。西方からやってきたイスラム教徒の末裔で北京にもイスラム寺院があるという。だから(鶏の)モツ料理なんだな、と後から思った。イスラム教徒で豚肉を扱えないから。

■ ケルト以前の巨石文化
 『ケルト神話と中世騎士物語』(田中仁彦/中公新書)を読んでいて、ヨーロッパの巨石文化がケルト人の到来以前の謎の民族の造ったものであり、数百トンもある「巨石を運び、屋根にのせ、あるいは垂直に立てるというようなことは、現代の科学技術をもってしてもまったく不可能なことなのである」ということを知った。しかも高度な力学の計算によってだろうか、重い石を上に乗せたまま「数千年を経た今日まで、倒れもせず崩れもせずに残っている」というのは驚異的だ。

■ ザルツブルクの小枝
 大岡昇平の『ザルツブルクの小枝』(中公文庫)を読んでいて、題名となっている「ザルツブルクの小枝」とは、スタンダールの『恋愛論』の中に出てくる恋愛の結晶作用をたとえたことばであることを知った。いわば恋という勝手な思い込みのはげしさを意味する。そういうの、永く忘れていたなあと思った。

■ ワイマールのユダヤ人
 『ユダヤ人 最後の楽園』(大澤武男/講談社現代新書)を読んでいて、たしかにおもしろいが、本書に出てくる多様な「ユダヤ人」をひとくくりに「ユダヤ人」としてしまうのはどんなものか。どんな意味があるのか。排除する側と同じ「支配の論理」に立ってしまうのではあるまいか、とふと懸念してしまった。
 かつてのヨーロッパで政治的に邪魔な人々にレッテルを貼って火あぶりにしたのと同じに、ワイマール時代にヨーロッパで台頭してくる「ユダヤ人」とは、さまざまな政治勢力によるただの「排除のためのレッテル貼り」の記号にすぎなかったのではあるまいか。
 もちろんかれらのユダヤ人としての出自は共通の根っこになるとしても、かれらをワイマール前後のドイツにおいてユダヤ人としてひとくくりにする実質は、言語も宗教も文化も何もかもちがう人々を出自だけでユダヤ人とする実質は、もうすでに何もなかったのではあるまいか。
 バイエルン王国を倒して共和制の首相になった社会主義者クルト・アイスナーも出自は「ユダヤ人」。大々的にユダヤ人として取り上げられている。だが、かれを暗殺した「反ユダヤ的右翼急進派軍人」アルコバレーも出自はじつは「ユダヤ人」。しかしかれをユダヤ人とは著者は呼んでいない。ユダヤ人対非ユダヤ人という二分法は現実には成立しない(していなかった)のではないか。そういう二分法を用いて、白を黒と言いくるめて巧みにじぶんに都合よく政治を仕立て上げるのが権力の支配の論理ではなかったか。




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mojabieda * 読書 * 23:15 * comments(0) * trackbacks(0)

人はどうして直立し、歩くようになったのか

 有志の学習会で、4つの文章を読みました。『自立と試行』(羽仁進)、『生命はいつか宇宙に旅立つ』(龍村仁)、『千年間押しくらまんじゅうし続けた町』(畑山博)、『一握の大理石の砂』(中井正一)です。ほとんど脈絡はありません。

 龍村の文章などを読んで、人はなぜ、どのようにして四つ足ではなく大地に後ろ足で立ち、二足歩行をはじめたのか、などを語り合いました。

 学習会のあと、わたしは一人で以下のことを考えました。

 はじめに「大地に立ちたい、歩きたい」と想像し、「そうしたい」という願望が前提にあってはじめて、人にはそれが可能になったのではないか。

 ではなぜ「大地に立ちたい、歩きたい」と思いはじめたのか。

 大地に立つという行為は、重力に抗う行為。四つ足ならあばら骨が内蔵を支えるのに、二本足で立つ以上とうぜん内蔵や腰や足に負担がかかる。そんな無理な姿勢にもかかわらず人はいつからかスクッとまっすぐに立ち上がることを望んだ。

 その理由は、人が大地の桎梏(しっこく)から脱して「天を仰ぎたかった」「天に近づきたかった」からとしかいいようがないのではないか。

 はじめに「想像力と願望」があった。

 こうして立ち上がることができた結果として、両手が自由になり、バランスをとって二足歩行をすることができるようになったのではないか。

 やがて前肢は体を支えるための、大地を蹴って走るための前足から、自由にものを使い、改良し、かつ表現する手に「変形」した。いや、人がみずから「ピンゼル(絵筆)」(中井正一)を持つことのできる手に、その骨格や筋肉などを変形させてきた、ということだろう。

 たとえばキーボードを叩き、箸を使う指の細やかな動きを観察してみる。これほど繊細な動きができるようになるまでに、人はどれほど永い年月をかけて「前足」の「足指」を変形させてきたことか。人は「〜してみたい」というおのれの想像力と願望とから出発して、永い永い時間をかけてみずからの肉体を変形させてきたのだろう。

 こんなふうに考えて人を定義してみると、人とは「天をめざす」生き物ではないか、と考える。ギリシアの真っ青な空へそそり立つ古代神殿の石柱の遺跡(の写真)を見ると、なぜか感動する。今は幾本かの柱がぽつねんと大地に立っているだけであっても、古代の人々の天をめざす情熱は伝わってくる。

 人は「天」を求め、より高い存在を想像し、それをめざして今日に至ったのではないか。人類の永い永い歴史とは、人がより高い存在を想像し、めざしてきた歴史ではないか。人は善悪の両面を持つふしぎな存在だが、その矛盾を発展のダイナミズムにしてきたのではないか。もともと学問にしろ文学にしろ芸術にしろ、「まったき人間」への一歩をめざしてきたのではないか。

 そんなことをいろいろ考えました。



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mojabieda * オカルト * 21:55 * comments(0) * trackbacks(0)

「SL列車の旅」に参加


 SLです


 昔の車内です


 うたごえ喫茶みたいです

 「SL列車の旅」に金谷駅から参加しました。主催は「よみがえれ国鉄静岡県民の会」。参加者は国鉄関係者・県評の人たちとその家族、鉄道愛好家、家族連れなど多数。

 機関車が好きな子どもたちのためと、ほんのちょっぴりですが、「国鉄闘争」(不当な不採用や不当な解雇に対する裁判闘争)の応援のために参加しました。

 初参加のわたしはSL車内に知り合いが一人もいませんでしたが、和気藹々としたふんいきでした。車内はみんな知り合いという風なアットホームな空気で、たいへん居心地がよかったです。

 事前に参加費を振り込まなければならなくて、当日持参するのは「ご遠慮ください」とパンフに明記されていたのにもかかわらず、それをちゃんと見てなかったので、当日困ったなあと思いながら恐縮して参加費を支払いました。が、じつに親切で丁寧に対応してくれましたので、ホッとしました。それにしてもほんとうにまずかったなあと思いました。

 車内ではアコーディオンにのせて歌声がひびき、手品をする人、ハーモニカを吹く人などさまざま。とつぜんパンダが出てきたり、車内だけで売っている(という)おもちゃや最中を販売したり、お年寄りから小さな子どもたちまで楽しんで乗っていました。

 両手でも開けにくい昔の窓を、トンネルを通るたびに閉めるのに一苦労。見かねた人たちが「いいよ、いいよ」と言ってくれます。
 
 千頭駅前はドライブで来るときなどたいてい閑散としていますが、今日は地元の若者たちが太鼓の演奏で迎えてくれました。千頭からハイキングへ行ったのですが、すれ違う人はみんな「SL列車の旅」の人たちのようで、「こんにちは」と挨拶をかわしてくれます。

 千頭からトロッコ列車に乗り、両国駅で降りようとしましたが、乗っていたのがうしろの車両だったためかドアが開きません。近くに乗っていた「旅」の人たちが、「(この人たちが降りれないよ〜ドア開けてよ〜!」と窓から身を乗り出してどなって駅員を呼んでくれます。

 SLの窓から見ると、遠くから手を振って見送ってくれる人たちが必ずいます。こちらも思わず手を振ります。

 手を振るといえば、千頭駅前から帰るらしい観光バスの車内からわたしたち親子づれを見つけた若い女性たちが手を振ってくれます。それは小さな子どもたちに手を振ってくれるのですが、若い女性たちから手を振られるということがないので、ちょっとトクしたような気分に・・・。

 疲れましたが子どもたちはたいへん満足したようです。「おもしろかった」と繰り返していました。



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mojabieda * * 20:48 * comments(0) * trackbacks(0)

一日を繰り返す

 『胡同(フートン)の理髪師』という映画は一老人のなにげない、朝起きてから夜寝るまでの一日を淡々と描いていた。それを観ながらふと心に湧いた疑問がある。どうして人には(繰り返さなければならない)一日があるのだろうという奇妙な疑問だった。

 たとえば一日という単位が、つまり日が昇ってから沈むまでの一日が一生であるような生き物であっても人はよかったのではないか。それを繰り返すことにどのような意味があるのか。

 人は朝昼晩夜という変化に富んだ一日を過ごしている。それを繰り返すのは、再生とか修正とか、そういう意味があるのだろうか。あるいはたんに繰り返すということに意味があるのだろうか。

 なぜこのような疑問が生まれたかははっきりしている。映画の主人公の老人はつねに死を前提にして生きているようすだったから。死を前提にしたときの一日のすがたを淡々と描いてでもいるかのように。

 ある日老人は昼下がりの街路でめまいを起こし、静かに壁によりかかって座る。そのまま目を閉じる。このまま息絶えてしまったのかと思わせた。しかしやがて目が覚める。そういう場面があった。

 老人と同じくらい古い、壊れそうな振り子時計が朝の6時の鐘が鳴る直前に止まってしまう。そばで寝ている老人も起きない。まるで時計とともにこの世を去ってしまったのかと思わせた。しかし9時ころに息子が起こしに来た。寝過ごしたらしい。

 老人にはおそらく「再生」は似合わないのだろう。一日をたんに繰り返しているのにすぎないのかもしれない。そしていつなんどき心身がこの世を離れるのかわからない。しかしそういう一日の過ごし方にこそ意味があるのかもしれない。

 そういう過ごし方を思わせる文章を以下にあげてみた。

◯ 人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。(人が皆、生きていることを楽しまないのは、死を恐れないからである。いや、死を恐れないからではない、死が近いことを忘れているからである。兼好『徒然草』)

◯ 若きによらず、強きによらず、思ひ懸(か)けぬは死期(しご)なり。今日まで遁(のが)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。(若い人でも頑丈な人でも、思いがけないのは死の時期である。今日まで死から逃れて来たのは、めったにない不思議なことなのだ。兼好『徒然草』)

◯ もし人来たりて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか営まん、我らが生ける今日の日、何ぞその時節に異ならん。(もし人がやって来て、『お前の命は明日きっと失われるだろう』と告げ知らせてきたとしたら、今日の日が暮れるまでの間、いったい人は何を頼りにし、何を成そうとするのだろうか。われらが生きている今日の日こそ、まさにその時なのだ。兼好『徒然草』)

◯  電車の窓の外は
   光にみち
   喜びにみち
   いきいきといきづいている
   この世ともうお別れかと思うと
   見なれた景色が
   急に新鮮に見えてきた
   この世が
   人間も自然も
   幸福にみちみちている
   だのに私は死なねばならぬ
   だのにこの世は実にしあわせそうだ
   それが私の心を悲しませないで
   かえって私の悲しみを慰めてくれる
   私の胸に感動があふれ
   胸がつまって涙が出そうになる(高見 順『詩集 死の淵』)

◯ 私はいま、生きることの素晴らしさを感謝している。いままで私は何故、この素晴らしさを感じとれなかったのか。(西川 喜作『輝け我が命の日々よ』)

◯ その夕刻。自分のアパートの駐車場に車をとめながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中が輝いて見えるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子どもたちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いているのです。アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえたのでした。(井村 和清『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』)

◯ 明けゆく毎日をおまえの最後の日と思え。そうすれば当てにしない日はおまえの儲けとなる。(ホラチウス)

◯ 四月二九日
 夕暮の武蔵野を戦車を駆って西へ。武蔵野!
 けやきと杉と、竹と雑木と。畑の匂いがする。夕餉(ゆうげ)の味噌汁の香がする。若芽の薫。軽戦の煙の中からかすかに嗅ぎあてた時の嬉しさ。どこまでも涯しなく続けと、念いながら操縦桿を握っていたのであった。(『きけ わだつみのこえ』)

◯ 瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり(正岡 子規)

◯ 牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ(木下 利玄)



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mojabieda * 人生 * 07:04 * comments(0) * trackbacks(0)
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