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詩への小路、老年の価値

 この前、本を買う。

 一冊は『詩への小路』(古井由吉/書肆山田)、一冊は『老年の価値』(ヘルマン・ヘッセ/朝日出版社)。

 前者はリルケのドゥイノの悲歌の訳があったので買ってしまった。おどろいたことに、なんと活版印刷。あの半透明なグラシン紙(パラフィン紙)でカバーされている。印刷は内外文字印刷という印刷所。発行は2006年で第二刷。

 後者は以前の『人は成熟するにつれて若くなる』(草思社)の補充・修正版。写真がたくさんある。しかしどうして草思社からではなく朝日出版社からなのだろう。ネットで調べたら、草思社は今年の1月に民事再生の申し立てをしていた。この6月に再生が決定し、7月から再スタートだという。知らなかった。有為転変の世の中。

 カーサ・ロッサの写真がたくさんある。この家はヘッセの没後、所有者が転々として替わる。内部をもう見ることはできない。

 それにしても、ヘッセは墓地以外にはこの世に「物質的な財産は全然持つ意志がなかった」という。スイスの友人からの、家と土地を贈ろうという申し出をことわって、生涯居住権だけもらったらしい。もし、ヘッセが建て、終の棲家(ついのすみか)となったこのカーサ・ロッサが、ヘッセの財産となっていて、現在も生前のまま、そのまま残されていたとしたら・・・。静かに考えると、そういうことをヘッセは望まなかったのだろうと思う。

 ヘッセにとって家は客を迎えるためのものだったのかもしれない。しかも、じぶんも「客」だったのだろう。この世の過客。



 写真は順に『詩への小路』


 『老年の価値』


 『人は成熟するにつれて若くなる』(草思社)




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mojabieda * 読書 * 08:31 * comments(0) * trackbacks(0)

水が好き

 夏休みに家族でどこかへ行こうという話になった。

 周に旅行の話をすると「伊豆へ行きたい」という。伊豆のどこへ行きたいの?温泉。温泉?とても5歳の子どものことばとは思えない。温泉だったらほら、すぐ駅前にある。

 どうして温泉かというと、たぶん広いお風呂に入ってのびのび「泳ぎたい」のだろう。
 去年だったか、春先に伊豆の修善寺へ泊まったとき、温泉の湯船の大きさに圧倒されたらしい。

 しかし、あいにくあのときは大雨で、しかも近所にお葬式なども出来て、急遽Uターンするというとんでもない旅行だった。にもかかわらず、それから以降、周に旅行はどこがいい?と訊くといつも「伊豆」。大雨でほとんどどこへも出られなかったのに。

 その前後に和歌山、奈良、愛知、山梨に周を連れて旅行した。しかし旅行というといつも「伊豆」になるのはどうしてだ?とふしぎに思う。

 人には出逢いのタイミングというものがあるのだろう。物心ついてはじめて出逢ったものの衝撃の大きさに生涯影響される。かれには大雨の「伊豆」と温泉とがインプリンティングされてしまったのだろう。

 知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむという。

 周はどうしたわけか水が(流れるのが)好きだ。風呂場、トイレ、水道、台所の蛇口、外の蛇口、雨、水路、川、田んぼ、如雨露、雨樋などの水をながめるのが好きだ。わざわざ二階のトイレに入って水を流し、外構のコンクリートに埋め込まれた樋から溝に流れる水を確かめる。そうして「どんなふうに二階のトイレから水が外へ流れるの?」と訊いてくる。そんなこたあ、しらすか、だ。

 水路から田んぼに水が流れ込んでくる。どんなふうに水路を辿って田んぼに流れるのか、近所をなんども一緒に歩き回った。その水路をいつまで眺めても飽きない。どうしてそんなに水が好きなのだろう。

 かれなら、風呂場やトイレから流れる水の渦を眺めて一日を過ごすことができるだろう。前世は水棲動物か何かだったのかもしれない。あるいは河童かな。




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mojabieda * 子育て * 00:03 * comments(2) * trackbacks(0)

走る凶器、走るカンオケ

 きのう東名を走ったが、80キロ平均でゆっくり走る。車間距離もかなり空けた。ほとんど走行車線を走る。ときどき前がいっぱいになる。

 と、このとき、後ろから車間距離を狭めて迫ってくるクルマやトラックがある。だったらさっさと追い越し車線を走れよと思う。

 一般道路でも同様。前がつまっているのに、どうしてキリキリまいして迫ってくるのだろう。あぶなくてしょうがない。だから余計にわたしは意地でも車間距離をキープする。ばかかこいつは?と思う。

 船乗りは「板子(いたご)一枚下は地獄」と言った。クルマは「鉄板一枚外は地獄」だ。走るカンオケに乗っていると思えばいい。ちょうどそのように内部をイミテーションのイリュージョンのデコレーションで飾っているクルマもある。

 ケーサツや893のクルマもこわいが、いちばんビビるのは霊◯車。しかしみんな実はソレに乗っていると思えばもっとゆったり走るのではないか。

 仕事と買い物と保育園の送り迎えで必要悪なのがクルマ。ローンは終わったが、車検、税金、ガソリン代、修理費、メンテナンス費など、途方もない金食い虫。

 たいてい通勤に使うのは一日一時間もかからないから23時間は野ざらし。そろそろ考えなければならない時期かもしれない。


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mojabieda * 暮らし * 06:35 * comments(0) * trackbacks(0)

レジ袋の有料化

 隣町のスーパーで買い物をした。するとビニールのレジ袋が有料だという。わずか5円だったが、バカ見たなあと気落ちしてしまった。それからはカバンの中にいつも折りたたみ式のレジ袋(缶ビールのパックのおまけ)をひそませるようになった。

 そこで5円のレジ袋の心理を分析してみた。5円でも10円でも金額にあまり違いはない。有料であることの心理的負荷は大きい。レジでビニール袋を「買う」ことが恥ずかしかった。というのはその場で買う人などいないかったから。みんながレジ袋を持っていたかどうかしらないが、「わたしだけ」奇異な印象を周りに与えたようだ、「あんた、今ごろになって、そんなことも知らなかったの?」

 そそくさとスーパーを出たけれど5円の効果はバツグンだった。べつの日にまた違うスーパーに入る。簡単な買い物で急いでいたからレジ袋も持ってこなかったけれど、ビニール袋がないことが「自然」に身に付いていて「自然」に両手でかかえて持ち帰った。これが「進歩」である。

 さいきんの通勤道路のようすを見ていると、ガソリンの高騰からどうも自転車通勤がわずかに増えたような気がする。自家用車から自転車へ。環境に対する負荷を考えるとこれも「進歩」である。

 かつて公共機関の鉄道を廃止して自家用車が走るハイウェイを全国にめぐらせることがあたかも「進歩」であるかのようにいわれていた。しかしこれからは逆のことが「進歩」になるはず。とはいえ、ドイツにもフランスにもイタリアにもある「国鉄」をつぶした(分割民営化ともいう)日本でそれは可能だろうかと疑問にも思う。


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mojabieda * 暮らし * 06:34 * comments(0) * trackbacks(0)

宝くじしかない?

 この前の宝くじも3000円を買って当たったのが3300円。つづけて2度目となる。「利子」が300円ついた。当たりはうれしいが、一回だけでよいから3億円当たらないだろうか。

 さいきんの学校教師は「のむ」「うつ」「かう」の三拍子そろっているという。

 「のむ」は胃カメラを飲む、「うつ」は鬱、「かう」は宝くじを買う。当たったら即退職して悠々自適の人生を送る、のだという。それだけやりがいがなくなってきた、やりにくくなった、生きにくくなったということだろうか。

 きのうのテレビを観たら、うつでも典型的なうつではなく、不定型のうつがあるらしい。一日中ではなく夕方だけとか、自己嫌悪ではなく他者に当たるような「うつ」状態。そういうものまで範囲をひろげてうつというなら、わたしもその中に入るかもしれない。

 またまたテレビを観ていたら、派遣社員の生活をドキュメントしていた。12時間くらいみっちり働いても手取りは10数万円。何年働いても賃金値上げもない。そういう非正規雇用がどんどん増えているという。所得の格差(較差か)がひろがっている。貧困と貧乏はちがうと例の湯浅氏が述べていたように伝えきく。昔はお金がなくても助け合う人間関係があったという。これを貧乏というらしい。いまはその助け合う人間関係も失われている。これを貧困と呼んで区別しているようだ。そんな中での絶望的な秋葉原の事件。直後の見せしめのような立て続けの死刑執行。

 それでなくても年金や医療制度の崩壊のきざし、物価の値上がり、ガソリンだけではなくさまざまな食品も高くなっている。食糧不足も「つくられた偽インフレ」も地球温暖化による異常気象が遠因とか。地球規模の問題までかかえていて、人はいま天災・人災入れ乱れ、先行き不安の社会の中にいる。

 そういえばまたまたテレビで月の地表から出てくる青く白い地球の映像を観た。ふしぎな映像。もう一つ、日本と中国の間にある海底油田の(共同?)開発のニュース。地球規模の問題が人類の存続にかかわる時代なのに国と国とが境界線をめぐって争っているとしたら愚かなことだ。「地球は一つ」しかないと思えば国境など意味がないはず。しかし各「国民」として分割され時の為政者に統治されているのが現状。

 若者も中年も夢が持てなくなっている。やはり宝くじしかないのか。


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mojabieda * 世情 * 18:07 * comments(0) * trackbacks(0)

青い鳥の後日談

 『青い鳥』の結末はどうもへんだ。人の心の襞がわかっていない。

 人の心ほど不可思議なものはない。「幸福だ」と思った瞬間、その幸福をぶちこわすようなことを人はしでかしたりする。

 青い鳥を発見する前、貧乏をしながら青い鳥を探そうと冒険していたときほど、チルチルとミチルが幸福であったときはなかったのではないか。

 そうして青い鳥を発見し、幸福である(幸福であった)と感じたとたん、世の中はまったく別物に見えてきたはずだ。二人は一瞬幸福感と満足感にひたった。しかしそのあと「めでたし、めでたし」で終わるのは童話の世界だけだ。

 人は生きて動いている。チルチルとミチルの一瞬の幸福感は直後に心の奥の「何者か」に微妙な作用を与え、やがて心の奥のその「主」はニョキニョキと不気味な頭をもたげてくる。

 高校の古文の入門編に「児のそら寝(ちごのそらね)」という話がある。

 比叡山延暦寺に「児(ちご)」がいた。児とはお寺に行儀見習いのため預けられた子どものこと。

 ある晩、僧たちが「牡丹餅をつくろう」と話し合っていたのを児(ちご)は小耳にはさんだ。うれしかった。しかしすでに子どもは寝る時間だ、僧たちが牡丹餅を作りあげるのを待ってこのまま起きていようかどうしようか、と児(ちご)は思い迷う。お腹がすいている。食べたい。だったら起きて待っていようと思う。

 しかし、心の中でとつぜん誰かがささやく。「おまえ、ずっと起きて待っていたら、いかにも物欲しそうで、いやしく思われるぞ。それよりも、寝ていたらきっと起こしてくれるはずだから寝たふりをして待っていろ」と。

 そこで児は寝たふりをすることにした。

 まずここで児は第一回めの誤りをおかした。素直に起きていればよかったのだ。

 やがて牡丹餅は完成した。

 ある僧が児を起こそうとした、「目を覚ましてください」。児の思っていたとおりだった。うれしかった。

 ここまではよかった。ここですぐに「はい」と返事をして起きれば、なんの問題もなかった。さあ、返事して起きよう。

 ところが心の中であろうことかまたとつぜん誰かがささやいた、「おまえ、一回で起きれば、寝たふりをして待っていたことがバレバレではないか。もう一度起こしてくれるまで待て」。

 寝たふりをして待っていたなどという意地汚い気持ちが分かってしまったら、ひどく恥ずかしいことだ。やはりここはもう一度起こしてくれるのを待って寝たふりを続けよう。児は念には念を入れようと思った。

 ここで児は二度めの誤りをおかした。もうだれも起こしてはくれなかった。「起こすな。もう眠ってしまっているから」という声が聞こえてきた。

 その声を聴いて、ああ弱ったなぁと児は思う。僧たちが牡丹餅をムシャムシャと食べている音がする。このままだと全部食べられてしまう、児は焦る。もう恥も外聞もない、ずいぶん遅くなってしまったが、今ごろになって「はい」と返事をして児ははね起きた。

 寝たふりを続けていたことがバレバレだった。児はみんなに大笑いされた。

 児が心の中で欲していたことと、じっさいに行動したこと、さらに現実に生起したこととのちぐはぐさ。むしろ思っていたこととは逆に逆にと現実が動き、「ぜったい避けたい」と思っていたことを思いがけず引き起こしてしまう。皮肉な話だ。これは大げさにいえば古代ギリシア悲劇の「オイディプス王」と同じ。

 あるいは芥川龍之介の『羅生門』。盗人になるしかないと思っていた下人が思いがけず悪者を捕らえて善人になってしまう。しかし善人になった喜びに浸ったとたん、すぐに盗人として行動してしまうというちぐはぐさ。

 どうしてこういうズレが生じてしまうのか?これは悲劇か?喜劇か?

 じぶんでも意識されない心の奥の「ささやき」。意識などというものは心のほんの薄っぺらな表面にあるものにすぎない。心の奥には得体のしれない「魔物」が潜んでいる。そうしてこっそりと自分を操っている。

 魔法使いに青い鳥を手渡したあと、チルチルはだんだん不機嫌になってきた。

 あの青い鳥こそおれたちの幸福の象徴ではなかったか。人にやってしまったのは実に惜しい。しかし相手は魔法使いだ。だまして戻してもらうわけにもゆかない。情けないわ、腹が立つわ、おもしろくないわで、もうたくさんだとチルチルは思う。そうしてとうとう思いつめて家を出てしまった。やけっぱちで家出したため、道中でさんざんな目にあう。自分も世の中もひどく怨むようになる。

 いっぽうミチルはどうしてチルチルが家出してしまったのか分からない。じぶんだけ別の青い鳥を探しに行ったのだろうか。わたしをのけものにして行ってしまった、といじける。やがて人や世の中が信じられなくなる。じぶんだけ家にいてもおもしろくない。こうしてミチルも家出してしまった。

 このあとのストーリーはもう記さなくてもほとんど予想できるだろう。

 二人がいなくなった一家はやがて離散した。音信もとだえ、二人ともどこで何をしていていたか。

 それから数十年が過ぎた。チルチルは傭兵となってどこかの戦場で人知れず果てたらしい。

 ミチルは・・・。ミチルはさまざまな仕事を転々としていたが、やがて名家の若旦那に見初められてその夫人になった。有閑マダムだ。華やかな生活のなかで、故郷のことも両親のことも、兄チルチルのこともすっかり忘却の彼方へ去っていた。過去とは完全に決別した、と思っていた。

 ある晩、館のベランダの手すりによりかかりながら月を眺めていたミチルのところへ青い鳥がやってきた。暗かったのでミチルにはよく分からなかった。その鳥はあろうことか人語を話したらしい。

 「ミチルさん、わたしのことを覚えている?わたし青い鳥よ」と鳥は言った。
 「青い鳥?いったい何のこと?あなたは黒い鳥でしょ?欺されないわよ」とミチルは気味悪くなって言った。
 青い鳥は暗闇のなかでは黒くしか見えなかった。
 「月の光の中でわたしをしっかり見てください」と青い鳥は月光の差すベランダの上に降りようとしたが、ミチルはさっさとベランダから追いだしてしまった。
 鳥は闇の帳の向こうへ飛び去っていった。

 ミチルは手すりによりかかりながら思った。「わたし今がいちばん幸福だわ」と。そう思ったとたん、なんだか昔、同じように思ったことがあるような気がして、なぜか胸がしめつけられるような哀しみを覚えた。月の光だけが静かにベランダを照らしている。

 翌朝、ベランダの下に倒れているミチルが発見された。事故なのか自殺なのかわからなかった。
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mojabieda * 人生 * 17:21 * comments(0) * trackbacks(0)

ドイツ・ハルモニア・ムンディ50周年記念が来た







 6月13日にようやく来ました。
 写真のような感じの箱に入り、曲名や時間なども裏に書いてあります。
 簡単なパンフもついていますが、日本語の解説はありません。
 一枚120円くらい。


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mojabieda * 音楽 * 06:35 * comments(0) * trackbacks(0)

高田渡とバッハのインヴェンション

 思いあまってDVDの『タカダワタル的』を買ってしまった。今度また新しく『タカダワタル的ゼロ』という映画ができたらしい。

 ずっと前、NHKのETV特集だったか、高田渡の酔っ払い居眠りライブ(ライブの最中に眠ってしまい、心あるお客さんに起こされた)などを観たことがある。それからアパート住まいのたたずまいや奥さんなども出ていたような気がした。そのころDVDレコーダーがあれば撮っていたのに、と思うとくやしい。

 しょうがないユーチューブなどで少しだけ観ることができるけれど、隔靴掻痒でもの足りなかった。筑紫哲也が押しかけてインタビューした家賃5万円のアパートの台所はほんとうに伝説の15アンペアだった。

 いままで高田渡のことをほとんど知らなくて、もったいなかったなと思った。

 身内の不幸もあってか、何か高田渡の歌や人生に懐かしさを感じて惹かれる。

 沖縄の詩人・山之口貘の詩が高田渡も好きで、何曲も作曲して歌っている。レンタルショップにある『ファーストアルバム ごあいさつ』の中には貘の詩を作曲した「年輪・歯車」「鮪に鰯」「結婚」「生活の柄」が入っている。特に「生活の柄」がいい。愉快な「生活の柄」のライブ(公民館みたいなところ)はユーチューブでも観ることができる。

 ドック・ワトソンの歌と高田渡の歌が重なるなら分かる。しかしどうしたわけか「生活の柄」を歌う高田渡とバッハのインヴェンションとがわたしには重なってしまう。なぜ?人類数十億人のなかでわたし一人だけだろう、この二つが重なってしまうのは。そういう心境のときもある。

 で、通勤用の曲を編集した(高田渡ではない)。バッハのインヴェンション。

 メジャーよりマイナーが好きなので、

 1 BWV773(Cモル)
 2 BWV778(Eモル)
 3 BWV784(Aモル)
 4 BWV790(Dモル)
 5 BWV788(Cモル)
 6 BWV793(Eモル)
 7 BWV799(Aモル)
 8 BWV775(Dモル)
 最後は長調(あまり長調ぽくないが)でしめくくる
 9 BWV792(Eドア──映画『母べえ』で流れた曲)。

 これらをそれぞれ次の四人の奏者の演奏を並べてMD一枚に編集した。

 1 ウェーバージンケ
 2 シフ
 3 グールド
 4 ヴァイオリンでジャニーヌ・ヤンセン

 テンポも曲想もずいぶん違うので飽きない(でも毎日聴いていればいずれ飽きるだろうが)。

 これを車の中でしみじみと聴いている。

 ニンゲンが暗いせいかマイナー(モル)の曲を聴くとしぜんに心が落ちつく。心が鎮む。


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mojabieda * 音楽 * 19:10 * comments(0) * trackbacks(0)
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