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文庫本で『セメント樽の中の手紙』が出た

 行きつけ?の書店が9月に閉店になってしまった。10月に買った本を調べる。『HARA』(加島祥造/朝日文庫)、『セメント樽の中の手紙』(葉山嘉樹/角川文庫)、『四国八十八カ所』(石川文洋/岩波新書)、『上海にて』(堀田善衛/集英社文庫)、『ウィーン』(田口晃/岩波新書)。多くない。しかもみんな手軽で安い文庫本や新書だけ。あと古本と洋書が少し。

 小林多喜二の『蟹工船』がブームだという。柳の下の2匹めのドジョウなのか、角川文庫から『セメント樽の中の手紙』(葉山嘉樹)が出た。ワーキングプア文学第2弾と銘打ってある。コーヒー一杯くらいの値段だからすぐに買ってしまった。

 小林多喜二や葉山嘉樹が今を生きる若者たちに読まれる時代が再びやってきたのだろうか。しかし、もともと読まれるべき世の中であったのだろう。ようやく(「自由」と「民主主義」という)世の中のメッキがはがれてきたのかもしれない。いまも「そのころ」も、世の中の基本的な構造はそんなに変わったわけではないのかも。

 一歩でも「規定」あるいは「既成」のレールからはずれてみれば「世の中」の裏の構造がよく分かるにちがいない。なんとなく不安な世の中だ。

 ある日目が覚めたら「茶色の朝」だった、みたいな。

 そういえば、今日あるビルにいた。昼休み1時ころ。トイレに行くと、狭い鏡の前で二人のホワイトカラーがそろって歯を磨いていた。で、下のトイレに行くと、ここでも洗面器に顔をつっこむように一心不乱に歯を磨く人がいた。ふと同じ時刻にたくさんの大人たちがトイレで一斉に歯を磨いている光景が目にうかんだ。いっしゅん「茶色の朝」のような気味悪さを感じた。


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mojabieda * 世情 * 21:45 * comments(0) * trackbacks(0)

週刊金曜日と緒形拳と『豆腐屋の四季』の歌と

 10月24日号の『週刊金曜日』の奥付に、「後手になってしまいましたが、お二人(何度も連載される作家・山口泉氏と9月5日号に載った山之口貘氏の娘さんと)は同姓同名の別人であることをお断りいたします」とあり、ようやくほっとした。さすがは『週刊金曜日』だと思った。

 編集長の北村肇氏からも丁寧なメールをいただいた。一読者のクレームにもきちんと返事をしてくれるのはやはり『週刊金曜日』ぐらいなものだろう。創刊号以前(準備号)から、いや構想の段階から応援してきたけれど、もう少し力を入れようかなと思った。

 さて、10月24日号の「抵抗人名録」は緒形拳だった。ついこの前の10月5日に亡くなった。じつに惜しい人だった。昔、テレビ番組の『豆腐屋の四季』に出ていたのを憶えている。原作は作家・松下竜一。この本(講談社文庫)からわたしは松下竜一を読むようになった。とはいえ、二人とももう鬼籍に入ってしまった。

 それで、テレビ番組の『豆腐屋の四季』の主題歌を思い出そうとした──

 土砂降りの雨なら 雨なら 濡れるだけ
 風なら 風なら 向かうだけ
 るるるる るるるる
 二人で いのちを 生きて 愛して 貫いて
 地球に印を残すんだ

 だったように思う。わたしの記憶は確かだろうか。でももう知っている人はいないかな。


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mojabieda * 読書 * 19:49 * comments(0) * trackbacks(0)

寛容は自らを守るために不寛容になるべきか

 新幹線のなかで渡辺一夫の『狂気について』(岩波文庫)を読みました。古本です。いくらだったか忘れましたが、ずいぶん安かったと思います。

 この本を買ったのは「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という文章を読みたかったからです。どうしてその文章を読みたかったかといえば・・・むかし読んだ武田秀夫という人の『私塾霞国語教室風景』(ウイ書房)の中に引用されていたからです。

 その『私塾・・・』を数十年前に読んで深い感銘を受けましたが、いまようやくやっとその引用もとを読みました。じっさいに渡辺一夫の文章を読んで、ああなるほどそうだったのか、といろいろと考えさせられるところがありました。

 とくに寛容なローマ帝国に対して峻厳で不寛容なキリスト教というとらえかたに驚きました。さらに、ローマ帝国がキリスト教に乗っ取られてゆく理由は、不寛容なキリスト教に対して、寛容なローマ帝国が不寛容になって弾圧を計り、逆にキリスト教をさらに峻厳に鍛えてしまったから、らしい・・・。

 そんなふうに考えると、自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)ということばも頭をよぎりました。これはさらに深い問題になってしまうのでまたの機会に──

 さて、渡辺一夫の『狂気について』のなかの「文法学者も戦争を呪詛し得ることについて」の中のある文章が目にとまりました。

 「(戦争時に)もちろん人間は、平和時に見られない自己抛棄(じこほうき)や自己献身の美しい例を見せることがあります。しかし、これを以て戦争は讃美できません。・・・コレラが流行した折に医者や看護婦が献身的な行動に出たからと言って、コレラを讃美する馬鹿はおりましょうか?」(p144)

 ああなるほど、と思いました。


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mojabieda * 読書 * 20:39 * comments(0) * trackbacks(0)

はやとちり始末記


 問題のインタビュー記事

 先日のブログ記事に『週刊金曜日』に載った「特集 高田渡」について記しました。そのなかに、詩人・山之口貘氏の娘さんである山口泉氏(女性)へのインタビュー記事があり、わたしははじめ、この山口泉氏とは、『週刊金曜日』のテレビ欄等にたびたび記事を載せている作家の山口泉氏だとはやとちりしてしまいました。実際はまったく別々の人々です。同一人物ではありません。

 その「同一人物はやとちり記事」をこのブログに掲載したところ、直接、作家の山口泉氏からコメントをいただき、作家の山口泉氏(男性)と、山之口貘氏の娘さんの山口泉氏(女性)とは同姓同名のまったくの別人であることを知りました。恐縮と赤面の至りでした。

 それですぐにブログを訂正して現在に至っているのですが、『週刊金曜日』のインタビュー記事を読んで、わたしと同じように「同一人物だと誤解してしまった」読者がもしかしたら全国にたくさんいらっしゃるのではないかと思いました。さらにわたしの最初の「はやとちり」ブログ記事を見て、同一人物だと誤解されてしまった方がいらっしゃるのではないかと懼れています。ブログ記事は後から訂正してもご覧にならない場合が多いからです。誤解を生む記事を載せてしまったことをたいへん申し訳なく思っています。

 それで、このブログにきちんと「別人物」であることを改めて明示する記事を載せている次第です。証文の出し遅れなのですが。

 さらに、『週刊金曜日』の読者で、潜在的な誤解者が全国にたくさんいらっしゃるおそれがあるため、きちんと別人物であることを、後からでも、なんらかの形で読者へ知らせるべきだという主旨のメールを『週刊金曜日』へ送りました。

 掲載号は違いこそすれ、同姓同名の山口泉氏が一方では46回記事を『週刊金曜日』に寄稿し、一方では1回だけインタビューされただけだとしても、同じ週刊誌に載っている以上、必然的に「同一人物だという誤解」が生じるでしょう。同姓同名の別人だという註記がない以上。ちょっとした配慮ですが、結果するものを考えると、「九仞の功を一簣に虧く(きゅうじんのこうをいっきにかく)」ものだったといわざるをえません。

 作家の山口泉氏については、以前、次のような文章に出会いました。

──人類がついに核戦争を避けることができるかもしれないという見通しにもとづいて生成される『希望』を、私は本当の希望とは考えない。核戦争は確実に起こるという認識、それによって人類はおそらく滅びるだろうという認識をもったうえで、しかも語ることのできる『希望』だけに、私は耳を傾けたい。たとえば核戦争に反対するというとき、あなたは何を根拠に、何を守るために、そうするのだろう。あなたは何を愛するのか。何によって、自分が立ち会ったこの世界に、あなたは価値を認めるのだろう。(山口泉『星屑のオペラ』径(こみち)書房)

 この箇所を読んだときの衝撃が忘れられず、その衝撃とともに、この箇所がわたしの脳裏に鮮明にインプリンティングされています。ずいぶん昔に観て感動したアーノルド・ウェスカー作の、地人会の劇『橋』のなかに出てくるセリフと重なるものを感じました。その台本のセリフを引用してみます。

──(ビーティ)「かまわないって言うけど──そう、それならいい、でも自分をよく考えてごらんなさいよ。あんたここへ来てから何をやった?何か言ったかしら?私の言う意味はね、あんたが生きているって事を示すような事を本当に言ったり、したりしたかってことなのよ?生きてる!どういうこと!ねぇ、どういう事だか分かる?ねぇ、誰か?この間、スージイのとこへ行ったとき、彼女の言ったこと、教えてあげましょうか?彼女ったらこう言うのよ、原子爆弾が落っこって来て死んだって私別にかまわないわって、こう言うの。何故彼女がそんな事言うか分る?それはね、もしかまわなくないとしたら彼女は何かをしなくちゃならない、ところがそれは大へんな努力がいる事だって事が分る。そう、分ったのよ、それが。彼女はそんな事で悩みたくない──もうそんなことつくづくいやになっちゃってるのよ。私たちだって同じこと──皆もう、いやになっちゃってるのよ。」(p166-167)

 ビーティが「生きている」とはどういうことかを自問自答している場面です。この場面を観劇して、深く感じるところがありました。「もしかまわなくないとしたら彼女は何かをしなくちゃならない」という「何か」とは何か。それはまさに生きるということそのものだと思いました。なにげない日常の生活そのものです。

 ビーティの「生きてる!どういうこと?」という問いは、「あなたはいま・ここに生きているのですか?」「あなたの生とは、いま・ここで原子爆弾とともにあっというまに何の苦痛なく消滅したとしても、何の悔いも思いも残らないような生ですか?」「あなたは、いま・ここで『オレはほんとうに死にたくないぞ』と心底思えるような生活をしていますか?」という問いなのだと思いました。わたしにも憶えがあります。昔、車を運転して(ちょっとあぶない)カーブを曲がるときに、「オレはほんとうにいま死にたくない」と一瞬思いました。そのときは、ほんとうに充実した時間を過ごしていたからです。努力に努力を重ねて何かを成し遂げようとしていた矢先だったからです。人と人との感動的な信頼のつながりを実感していたときだったからです。日々の生活そのものに目的と生きがいとを強く感じていたときだったからです。

 また以下は『きけわだつみのこえ──日本戦没学生の手記』(岩波文庫)の中村徳郎氏の文章を読んだときのわたしの昔の感想です。上のビーティのセリフにつながると思うので続けてみます。

──「わたし」の問題として、極論すればこの世が戦時か平時かということそのものは問題ではない。本当に「生きている」人間なら、たとえ戦時であろうとも「生きている」はずである。反対に「生きていない」人間なら、平時であろうとも「生きていない」ままであろう。問題なのは、おのれが「いま・ここ」でほんとうに「生きている」かどうか、であって、それは外的状況のいかんには直接関係はないのである。たとえ明日までの命だったとしても今日をしっかり「生きている」人間こそがほんとうに「生きている」のであり、そのような者たちによってほんとうに平和は保たれるのかもしれない。逆に平時にも「生きていない」人間たちによって戦争の火ぶたは切っておとされるのにちがいない。かれらはおのれの「いま・ここ」という日常に「生きていない」ゆえに、他者をまきこんで不満のはけ口を外の世界に求めるのである。
 もし戦争に反対するなら、PKO法案に反対するなら、その「正義」の行為の深さに対置しうるだけの深さで、おのれがおのれの日常を豊かに「生きている」のかどうかが問われるのではないか。対置しうるだけの深さがなければ、外の世界へむかって「正義」を行為するとは、たんにおのれの「いま・ここ」に「生きている」ことの貧しさを糊塗するための口実として「正義」をかかげているだけにすぎないのかもしれない。そしてもしそうなら、それは戦争を引き起こすものたちと本質的にはなんら変わりはないのである。

 かなりの極論です。山口泉氏のさきの文章とはかなりかけ離れてしまいました。

 『星屑のオペラ』以来、山口泉氏の著作を少しずつ読んできました。さいきんは『宮澤賢治伝説』の一部を、ある勉強会の参考資料にさせてもらいました。




 作家・山口泉氏の著作(いちばん右が『星屑のオペラ』)




 アーノルド・ウェスカー作『橋』



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mojabieda * 読書 * 22:12 * comments(2) * trackbacks(0)

『出世ミミズ』『空からきた魚』



 『出世ミミズ』『空からきた魚』(アーサー・ビナード/集英社文庫)読了。

 ふたつともビナードさんエッセイ集。わたしのネタ本でもある。

 おもしろい。ちょっとずつ読んでいったので、読了するまで半年かかった。つかず離れずという読み方。興味があるけれど引き込まれないという距離を感じるのはなぜだろうと考えたが、ベクトルが逆なのだろう。わたしには和から洋へ、ビナードさんには洋から和へのベクトルが働いているようだ。

 わたしには『出世ミミズ』のほうがなんとなく読みやすい。話が短くて、なんとなく菅原克己的?だから。
 
 「『鼻たれ小僧』をめざして」のなかに、ベストセラーのある流行作家(学者らしい)の書き物に対する批評がドンピシャという感じで記されている。日本語を扱う学者なのに、その日本語を大切にしていない。むしろ外国からきたビナードさんの方が日本語に敏感で大切にしている。

 ビナードさんについては「ねぎまのまはマグロのま」に写真とともにくわしく記した。



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mojabieda * 読書 * 08:12 * comments(0) * trackbacks(0)

4歳児

 4歳の子どものことばはおもしろい。

 休日に近所へ軽四トラックがやってきて、マイクで
──た〜けや〜竿だけ〜、と叫ぶので、その声をまねる。しかしちゃんとしゃべれなくて、
──か〜れや〜顔やけ〜、と言うので大笑いしてしまう。

 それから「ご飯粒」というのを「おわんつぶ」と言う。「ご飯」と「お椀」が同じ発音。
 さらに「〜だよ」というのを「〜だお」と言う。舌が短いのだろうか。
 それと、語尾に「〜けど」をつけて、ちょっと変な余韻をのこす。
 しかも、「とこしゃん行く?」(図書館行く?)とか、なんど訂正させても「コンニビ」(コンビニ)としか言えない。
 わけもわからないくせに「ほんとだ〜」と相づちをうつのはご愛嬌か。

 この前、その子がDVDをDVDレコーダー(プレーヤーも兼ねる)に入れて「アンパンマン」をテレビで観ようとした。で、リモコンの操作も知らない小僧だから、きっと出来ないだろうと思って眺めていた。

 ちょこんと正座してかわいい手でDVDを不器用に持って、DVDレコーダーのトレイにやっとこさっとこ乗せることができた。そうしてスイッチを押して格納する(ここまでは前に教えたことがある)。

 さて、その後だ。そのあとかれはとつぜんテレビの電源スイッチをプツンと押した。すると、はじめはテレビ(番組)が立ち上がるが、すぐにDVDの「アンパンマン」が始まったのだ。

 すごい!すばらしい!知らなかった!離れ業だ!一発再生!

 わたしはテレビとDVDレコーダーの二つのリモコンをあれこれ操作してようやくDVDを鑑賞していた。4歳のガキに負けたと思った。


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mojabieda * 子育て * 18:45 * comments(0) * trackbacks(0)

ポール・ニューマン

 9月26日にポール・ニューマンが亡くなった。83歳という。「ハスラー」「暴力脱獄」「明日に向かって撃て」「スティング」が好きだった。懐かしい。

 「暴力脱獄」は衝撃的だった。囚人たちがボクシングをするのだが、殴られても殴られても立ち上がるクール・ハンド・ルーク(ニューマン)の姿に相手も周りの者たちも皆あきれてしまう。あのシーンを漫画の「あしたのジョー」がまねたんじゃなかったか。あの矢吹ジョーの原型がここにある。もう40年も前の話だ。

 権力や暴力にたった一人で抵抗するクールでニヒルな生き方。孤独。にもかかわらず優しげに微笑む内面的な青年。内の毅さが外への柔らかさとしてにじみ出ていた。

 あれはポール・ニューマンそのものだったのかもしれない。




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mojabieda * 映画 * 21:56 * comments(0) * trackbacks(0)
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