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2011.05.04 Wednesday
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通勤快(怪)音
2008.11.29 Saturday
夕べ、バッハの無伴奏バイオリンのためのパルティータBWV1004の「偉大なるD moll(たしかハイゼンベルクの自伝のなかにそんな文句が出てきたような)」のシャコンヌばかりを集めてMDに入れた。なんでそんなご大層なことをしてしまったのか。朝のラッシュ時にこんな大曲を聴けば事故でも起こさないともかぎらない。長尾春花さんの生の演奏の影響。さいきんの精神状態(プチウツ)には刺激になるかも。
家にあるシャコンヌを集めてMD数枚にした。短いのは11分、長いのは16分。なんでこんなに違うのか。長い順に番号を振ってクルマの通勤用の「通勤快(怪)音」にした。1番は最長16分のシゲティ。狷介固陋のガンコ親父という感じ。しかし通勤時間にぴったりなので、ちょうど一曲聴くことができる。
一つの曲には流れがあるのだろう。起承転結のような。その流れに沿って聴く者の心も流れるようだ。そうして、「ここだ、すべてがここへ収斂する」というクライマックスがある。全体の流れにストーリーがある。部分部分にも美しいエピソードがある。今朝、車のなかでそう思った。その余韻にひたる前に職場に着いてしまった。
シャコンヌ
2008.11.24 Monday
まったく忙しい一日だった。
朝はボランティアで編集したある「業界」のプログラムを届け、昼は子どもたちが通う保育園のバーベキューの会へ、晩から夜は陳昌鉉さんのトークと長尾春花さんのバイオリンコンサートへ動員された。
長尾さんの演奏プログラムは、さいしょにBWV1004のシャコンヌという大作。長尾さんの「思い」が込められていたのだろう。陳さんの新作バイオリンを今日はじめて演奏するとの由。ほとんどぶっつけ本番のようなものだろうか。ホール一杯に鳴り響いた。すごい。
バッハのシャコンヌには思い入れがある。10代の最後のころに下宿で一人よく聴いたレコードはなぜかグリュミオーだった。安かったからか貧乏だったからかその一枚しか聴かなかった。あれからたくさんの演奏家のシャコンヌをレコードやCDで聴いたが、生で聴いたのははじめてだった。一度生で聴いてしまうともはやCDなどでは聴けなくなってしまうようにも感じた。
で、翌日、家でさまざまなCDのシャコンヌを聴いてみた。どの演奏もやはり偉大だった。
ただグリュミオーを聴くと大昔のさまざまなことが思い出されてくる。それと同時にわたしは人間的にまったく成長していないのではないかとも思った。
シャコンヌ──このような曲を作曲するのも演奏するのも「天の業」なのかもしれない。バイオリンの名器をつくるのも同じ。わたしはただ聴くばかりだ。
長尾さんのシャコンヌを陳さんのバイオリンで聴くことができてほんとうによかったと思った。
天上の弦
2008.11.23 Sunday
『天上の弦』(山本おさむ/小学館)10巻を読んだ。
バイオリン製作者陳昌鉉さんの半生を描いた漫画。韓国で生まれた陳さんが日本へ来て苦学・苦労しながら独学でバイオリンの製作を学び、やがて世界的に認められ「東洋のストラディバリ」と呼ばれるようになる。そのストラディバリウスを生んだイタリアでは神様のようにその名が呼ばれているという。しかし日本では一般にあまり知られていない。漫画の原作となった文庫本もあって『海峡を渡るバイオリン』(河出文庫)。フジテレビでは草彅剛主演のドラマにもなった。
陳さんは朝鮮の植民地時代に生まれ、第二次大戦に巻き込まれ、在日としてさまざまな差別をうけ(つづけ)、さらに祖国の戦争で親子が引き裂かれる。そのような有為転変の世の中を、目標と生きがいをもとめて、幼いころの韓国・梨川村(イチヨンドン)の風景、母や友や小学校時代の恩師(日本人)の愛に支えられながらバイオリン製作に生涯をかけた人生を描いている。美しいものは国境を越えるのだろう。国や民族もない。一方、情報や経済も国境を越える。故郷の友の一人は後者の陰の世界へ姿を消してしまう。陳さんは表の世界に踏みとどまり、美しいものの世界を追い続けた。天上の弦の音を幼いころから聴き続けてきたからだろうか。陳さんを導いたものは天の配剤と母の愛。
漫画に日韓の歴史が描かれている。激動の昭和の時代の日本と韓国。昔の韓国の農村の風景。北と南の戦争と対立。その狭間で辛酸を舐める人々の姿などが描かれる。
感動的なのは親子(母子)の愛情。日本も韓国も女性は差別されつづけてきた(きている)。しかし国境を越え、時代を超えるものは母子の深い情なのかもしれない。母こそすべての源(というのは老子)か。
この陳さんの半生のドラマが日本の高校の英語の「国定」教科書に載った。それが在日の人々や韓国の人々を驚かせた。「日帝」以来の差別が未だにつづく日本社会で、「国定」教科書に在日の人の人生が描かれるということが驚天動地であるのを、当の日本人自身は知らない。知らなければならないことを知らないままできた。
今晩、静岡市のAOIで、その陳昌鉉さんの講演と、陳さんの製作したバイオリンの演奏会がある。演奏するのは掛川出身の長尾春花さん。演目はバッハの無伴奏バイオリンのためのパルティータのシャコンヌ。陳さん・長尾さん・バルティータという三重の喜び。万難を排して聴きにいかねばならない(というか要員だけど)。
メールという不安
2008.11.19 Wednesday
さいきん手紙を書くことがほとんどなくなった。たいていメールのやりとりで済ましてしまう。
メールは便利だが、何か心にひっかかるものがある。それは内と外との隔絶がますます深くなっていく不安のようなもの、その隔絶がますます埋めることのできぬものになっていく戸惑いのようなものを感じる。
たとえばこうだ。手紙ならとうぜん宛名と差出人の名前を書く。もし書かなければ宛先につかない。差出人のない手紙は非常識という範疇ではなく、「いやがらせ」「脅迫」のたぐいの犯罪の手紙としてみなされるだろう。ともかく宛名と差出人というのは手紙を成り立たせる必須の要件。
しかしメールの場合はちがう。
テレパシーか独り言のように既知の仲間「内」の感覚で差出人を明記しないメールなどザラある。無意識に無記名のままでも伝わると思ってしまうのだ。差出人はもちろんそのつもりはないのだろうが、受け取った方はだれのメールなのかまったく分からなくてはなはだ困ることがある(迷惑メールも同様な体裁をとるので区別できず、その親密と疎遠の間隔のはざまでめまいを起こす)。
個人のポストはいわば私書箱として「表札」が隠されているから敷居が高い(はず──つまり特定の来客にしか開かれていないはず)。にもかかわらず、一方でアノニムな多数のメールが(世界中という)「外」から毎日掃いて捨てるほど勝手きままに入り込む。
この「落差」の激しさにめまいを起こすのだ。
仲間「内」という分厚い殻に頑なに閉じこもっているはずなのに、不特定多数の他者という「外」に勝手に開かれているという無防備さ。この法外な落差と矛盾。ここにめまいと吐き気だけでなく、「内」と「外」とを橋渡しする「中間」がないような、新しい世界への橋渡しができないような不安がある。
プログラムの原稿をつくる
2008.11.13 Thursday
ある印刷所に、あるプログラムの印刷を頼んだ。すると10万円以上かかるという。去年の予算は6万円。去年のプログラム担当者に訊いても、印刷所の名前を明かしてくれない。業界の掟やぶりの印刷所なのだろうか。しかし予算は昨年並みと決まっている。日数もない。どうするか。わたしは悩んだ。
時間もないから「いっそ、じぶんで完全原稿をつくってしまえ」と思った。そうして校正なしで印刷所に印刷・製本だけを頼めば短時間に安上がりにできるはず。この◯ソ忙しい時期に、よりによってどうしてプログラムの担当になってしまったのかと悔やんだが。
で、PagesというMacのソフトで12ページの広告入りのプログラムをつくることにした。原稿を依頼していた方面からつぎつぎと原稿が来ていた。しかし、肝心の事務局からの原稿がなかなかやってこない。なんてこった。
記事も写真も原稿用紙や現物ではなく、デジタル・データで送信してくれたほうが手ばやいのだが、写真など、なんと写メールをインジェクトプリンターで普通用紙に印刷したものを持ってくる。だめだこりゃあ。ナマのデジタル・データをネットで送ってもらった。
たくさんの広告記事も原稿をスキャンしてグラフィック・コンバーターなどいくつものソフトを使ってつくる。画用紙に描かれた表紙の絵なども原稿にはうすぼんやりと色をつけてあるが、スキャンしてもきちんと色がでないので、じぶんで色を描いてしまった。
つくりながら思ったのは、印刷所のご苦労。いいかげんな「原稿と写真と広告記事」を送られて、完璧な手直しと編集と印刷とを要求される。ちょっとでもへんだと細かく注文をつけられる。校正を頼んでもなかなか返送してくれず、締切も守らない。ようやくじぶんがその立場になることで人の苦労が分かる。
個人持ちのふつうのパソコンとソフトでは限界があるが、いちおう原稿をつくりあげた。ほっと安心したがこれで大丈夫だろうかといつまでも心配。考えると印刷所もたいへんだなあと思う。(人の苦労を思いやらず)やたらに注文ばかり多くて神経を使い手間がかかってお金にならない仕事などとてもできやしないだろう。仕事とはいえ気は心。お金だけの話ではない。依頼する方は少しでも相手のご苦労を知って依頼するのだろうかと思った。これは自戒。
わたしはボランティアでやっている。どうしてそんな手間と神経を使う仕事がボランティアでできるのかといえば、それは「趣味」だから、と思ってじぶんを納得させた。5万円くらいは経費が浮いたかな。
ついでに家族と
2008.11.10 Monday
街道の祭り
天狗におどろく
署名用の客寄せ風船をふくらませる
縁起ものの熊手を売っていた
夜店のたいやき
帰り道ではしゃぐ
動物園の虎を見入るふたり
ちょっと肌寒くなった11月。組合の用事で静岡市へ。ついでに家族で駿府公園の大道芸を観ました。
別の日には地元の商店街のにぎやかなお祭り。ここでも署名あつめ。ついでに子どもたちを連れて行きました。子どもたちは風船をたくさんふくらませ、天狗に驚き、射的をやり(ぜんぶはずれ)、たこやきとやきそばを買い、お寺さんをお参りし、たいやきを食べました。以前から「いつかこのお祭りに子どもたちを連れて行きたい」と思っていましたが、来てよかったと思いました。とはいえ、いつも「ついで」です。
それで一念発起し、別の日の子どもたちの保育園の親子遠足についてゆきました。バス2台で浜松の動物園。父親がいっしょなのはたくさんの親子組のなかで珍しかったようです。
『老子』を読む 2
2008.11.04 Tuesday
■ 第二章
1 天下皆知美之為美、斯悪已、
この地上のすべての人が「美しい」ものを美しいと認めることによって美しくないものが生じる、
2 皆知善之為善、斯不善已、
すべての人が「善い」ものを善いと認めることによって善くないものが生じる、
3 故有無相生、難易相成、
こうして有るものと無いものとがお互いから生じ、難しいことと易しいこととがお互いから生まれる、
4 長短相形、高下相傾、
長いものと短いものとがお互いを形づくり、高いものと低いものとがお互いに依りあう、
5 音声相和、前後相随、
音と声とがお互いから和し、前と後ろとがお互いからつながりあう、
6 是以聖人処無為之事、行不言之教、
だから聖人は何もしないところに居て、何も言わない教えをする、
7 万物作焉而不辞、生而不有、
すべてのものは彼によって作られるが彼は何も言わない、彼はそれらを生むが何も持たない、
8 為而不恃、功成而弗居、
彼は仕事をするが誇らない、彼は事が成就してもいつまでもこだわらない、
9 夫唯弗居、是以不去、
彼はこだわらないからこそ、成功は常に彼から去ることはない、
■ 注釈
◯「美しい」「醜い」という基準が相対的なものだ、という言説にはどこかひっかかる。納得がゆかない。「美しいものは美しい」。とはいえ、地上のすべての人間がそのように「美」「醜」をお互い確かめ合い、認め合うことで、何かが狂う。というのは、美醜の基準はあくまで「わたし」の心の中にあるものだから。「心のものさし」をみんながそれぞれ外へ出して比べてみたとき、みんな同じ「ものさし」になるだろうか?しかも美醜の基準などじぶんの心の中でコロコロ変わる。あばたもえくぼ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というではないか。さらに複雑なことには、美しいことを自ら誇る人は美しく見えない。高慢とかキザとかに見える。だから、みんながいま・ここにある何かを同じように「美しい」と認め合うことはありえない。むしろ、レッテルを貼ることで何かを無意識に、あるいは意図的に排除・排斥・攻撃する心根を、集団的オーラを生じさせる。ある勢力(人種とか階級とか)を排除するために政治的にも利用される。
善悪も美醜と同じ。何が善なのかは究極的には個々人の心が認めるもの。しかも何が善なのかは時と場合によっても変わる。年齢によっても変わる。いちがいに「これが善だ」と、みんながみんな認め合うことによって何が起こるか。ファシズムだ。
美醜と善悪が意図的に喧伝されるとしたら、そこに政治的、経済的、社会的必要があるからだ。それがファシズムのやり方ではなかったか。『老子』の本を「道徳経」というが後世の道徳とは正反対、対極にある。
◯ 有から無が生じ、無から有が生じる。その変化の妙を言っているのではないか。その矛盾、対立と見えるものが絶対的なものではないこと。両者は容易に変化しうるということ。元は一つということ。現実は渾然一体となっていること。
◯ 易しい難しいというのもそう。易しそうにみえる問題がかえって難しかったり、その逆だったり。人間関係を見ていると、そう思う。
◯ 長短も一体だ。少年のころ長いと思っていた人生など、たぶんあっという間かもしれない。長短をはかる絶対的な基準がないということだけでなく、長い短いという内面的な感覚と、外界の物理的なものとの隔絶を暗示しているように思う。
◯ 高下というと、すぐに身分とか家柄とかを思ってしまう。身分低い者の生活の上にようやく身分高い者の生活が成り立っている、ということだけを意味するのではないだろう。身分低き者が死に絶えたとき、身分高き者のなかから必ずや多数の身分低き者が生み出される。高い低いは循環するのだ。あがりさがりは世の常。
◯ 音声相和し、ってなんだろう。よく分からない。ただし、ハーモニーというのはふしぎ。和というものがふしぎ。それぞれが自立し干渉せず、それでいて互いを引き立てて、全体が一つになる。個人を認め尊重するがゆえに全体が調和する。逆に一人一人を認めない全体主義はバラバラになる。握り飯をつくろうとしたら餅になってしまった、餅をつくろうとしたら握り飯になってしまった、みたいな。
◯ 前後うんぬんというのも、たとえばバイパスが出来て時代に取り残された旧街道が、いまは新しい観光地として脚光を浴びているみたいなことを連想する。10周遅れのトップランナーみたいな。後ろにいたと思っていた者が、いつのまにか(時代の)先頭に立っていたというような。
◯ 健康・病気も同じかもしれない。健康って何?と訊かれれば「病気でないこと」と応えざるをえない。で、病気って何?と訊かれれば「健康でないこと」かな。健康のように見えて病気だったり、病気のように見えて健康であったり。正常と異常も同じ。正常の中に異常があったり、異常の中に正常があったり、渾然一体。
◯ 暑い・寒いも似ている。この前まで暑くて車のエアコンは冷房だった。ところが今はもう暖房をかけている。エアコンをかけない日がない。何もしなくていい日がない。この虚無的な変容。
◯ 聖人ってなんだろう。道の体得者か。何もせずにそこにじっとしている。何も言わない。そのことが相手に与える影響とは何か。そこにその人がいるという、ただそのことで、意識はしないが、心がほっとする、みたいなこと。この人がいるなら大丈夫だという安心感がある。なんとなくうれしい。そんなことだろうか。
やがて変化が起きる。無理に起こさなくてもいい。起こせば必ず無理が生ずる。反動が反動を生む。相手の心にひずみが生まれる。聖人は何かを為し、つくりあげる。それらはやがて聖人から離れてゆき、聖人は忘れ去られるだろう。忘れ去られることによって、つくりあげたものは生きる。逆に聖人が聖人としてその業績をたたえられ、後世に名を残すとき、聖人が求めていたもの、つくりあげようとしたものは、たぶん変質している、あるいは失われてしまっているだろう。孔子しかり、老子しかり、キリストしかり、仏陀しかりだ。老子は分からないが、あとの三人は、いずれも本人の教えを本人ではないものたちが書き残した。せっかく書き残したのに、言った内容ではなく、だれが言ったかがみんなに大事にされ、喧伝されるとき、その内容は変質せざるをえない。政治的に利用されざるをえない。
『老子』を読む 1
2008.11.04 Tuesday
『老子』を読む 1
秋は『老子』を読むと、なぜか心が鎮まる。精神がおちつく。
『老子』は断片的に昔から読んでいたが、全部読み通したことがない。
それで『老子』全八一章をはじめから一章ずつ読もうと思った。さいごまでつづくか分からないが、一つ一つじっくり読んだことがないので、先が八一もあるのは楽しみ。まあ、一生かかって読めればいいという程度。
テキストは『老子』(小川環樹訳注/中公文庫)。今は県会議員になってしまった高校の同級生から大昔借りたままの本。当時は160円。もう彼女は貸したことさえ忘れているだろう。
いま手元にある参考図書は以下のとおり。ちょっと眺めるだけ。薄いが中身の濃い小川環樹訳注で充分だと思う。
1 『老子』(上下/福永光司/朝日文庫)
2 『老子の思想』(張鐘元/講談社学術文庫)
3 『老子』(秋庭久嘉/開成出版)
4 『老子講義』(五井昌久/白光出版)
5 『THE WAY AND ITS POWER』(Arthur Waley)
6 『Lao-tse Tao-Te-King』(Guenther Debon/Reclam)
7 『Lao Tse Tao-Te-King』(Hans Knospe und Odette Braendli/Diogenes)
8 『タオ 老子』(加島祥造/筑摩書房)
■ 第一章
1 道可道、非常道、
それを道と言ってしまうと、ほんとうの道ではなくなる
2 名可名、非常名、
(それを)名づけてしまうと、ほんとうの名ではなくなる
3 無名、天地之始、
名づけることのできないものが、天地の始まりからあった
4 有名、万物之母、
それを名づけることによって、万物が生まれ(認識され)た
5 故常無欲、以観其妙、
このように常に欲のない者が、ものの妙(無名──隠された本質──驚き)を観る
6 常有欲、以観其徼(きょう)、
常に欲のある者が、ものの徼(有名──表層──結果)を観る
7 此両者、同出而異名、
この隠された本質(無名──オカルト)も表層(有名──現象)も、同じところから生まれて名を異にするだけ
8 同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門、
源は同じで、これを神秘という、神秘以上に神秘であり、すべての隠された本質の門である
■ 注釈
◯ これは認識論とか哲学とかのレベルの話ではないのだろうと思う。宇宙に永遠に存在するもののことを言っているようだ。仮に名づけて神とか大生命とか。もともと名づけるなどという人間の力を越えているもの。だから無名。天地之始から存在するもの。人間が名づけることによって人間に(無限に極小の表層のみ)認識され意識されるが、認識され意識されると人の欲(強烈な自我意識?)もそれにくっついてきて、そのものの隠された本質を見失う。欲のない者は対象をあるがままに驚きを以て観る。欲のある者は対象を対象(目的、道具)として観る。それらを統合することによってこそ人は神秘に達するらしい。
欲ある者が見るものと、欲なき者に観えるものとの源はひとつ。それは神秘(オカルト)?神?
◯ 「万物之母」の「母」は重要な語。深い意味がありそう。ただの比喩的表現ではないと思う。