mojabieda Blog
子育て・教育・高生研・読書・夢・世情・PowerBook・シュタイナー・神秘学などにかかわる身辺雑記の日記です
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『老子』を読む 4
2008.12.31 Wednesday
1 道沖、而用之或不盈、
道とは空[くう]であり、使っても使っても、くみつくせない
2 淵兮似万物之宗、
道は深淵、万物の源のようだ
3 挫其鋭、解其紛、
道はその鋭さをやわらげ、もつれを解き
4 和其光、同其塵、
そのひかりを弱め、ちりと同じになる
5 湛兮似常存、
道はたえず水をたたえ、涸れることなく(太古から)ある
6 吾不知誰之子、
(だから)わたしはだれの子なのか知らない
7 象帝之先、
神よりも先にあったようだ
道とは何か。沖とは空っぽのことらしい。何ものか、ではなく、何ものでもないということか。そうしてすべてでもあるのだろう。無限のなにかという意味。
道とは底なしの深く静かな淵で、すべてのものがそこから発生するという。
道はおのれのするどさをくだいて鈍くなるからこそ、(するどく)物事のもつれを解く。道はその輝きを弱め自ら光らないからこそ塵とともに輝いて生きる。
そのような道は深く水を湛えた池のようで、汲めども汲めども涸れることはない。無限に豊かだ。
さて、そのあとの記述が摩訶不思議。
「わたし(吾)」とはだれか。老子じしんだろう。だとすれば老子じしんが道ということになるだろう。「道」と「吾」とは一体化し、道である吾はだれの子でもなく天帝(神)よりも先んじてあったという。
だとすれば、ここの表現は道と一体化する「わたし(吾)」が実感する道=わたしを表現したものとなる。まったくもって神秘思想(オカルト)。
この解釈は五井昌久氏の著書による。他の注釈書はいずれも「吾」が唐突に出てくる意味を斟酌しない。
さて、おおみそか。一年の「計」は元旦にありというが、一年の「刑」は大晦日にありか。大晦日に大喧嘩して、一年間の喧嘩納めをした。
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平穏無事という不穏
2008.12.30 Tuesday
とくに大きなトラブルもなく、仕事・家族・健康それなりにまずまずの状態で一年、そして一日が過ぎてゆこうとしていると思っていた。
そう「思う」こと自体があやしい。つまり「思う」という意識的行動をしなければならないほど、意識できない精神的な不安定さが心の奥底にあったのかもしれない、ほんのささいなことで家族と衝突した。ささいなことばの行き違いや意思の不疎通。じぶんでも思いがけない心の「みちゆき」。あれよあれよと荒れ模様になる。じぶんの気持ちの変化におどろく。何かの呪いか、憑きもののよう。
このところいつになく家族みんな健康で元気、子どももかわいく思えた。大掃除もおわり、正月の買い物もすませ、あとはせいせいとのんびりするだけ。というときにひょっこり「プチうつ」くんがやってくる。「そう来るか」という感じ。
いつも無理をしていたのだろうか。
このときの心の状態を表現すれば「煮詰まった」状態といえるかもしれない。精神的な「密度効果」によるビックバン。
じぶんの心の「状態」をつかもうとするとき、その「状態」はすでに変質してしまっているようだ。それを「心の不確定性原理」と勝手に名づけた。
じぶんの心へさぐりを入れてみても、ほんとうの「我」はスルリとその姿をくらます。で、いつもの「プチうつくん」が仮面をつけながら意識の舞台へ躍り出る。こいつは一人が好きで、食えないやつだが、まあ、しょうもない、しばらくこいつとつきあうかという感じになる。
曲はRoy Powellの「Rendezvous」。聴きながらしばらく気持ちを鎮めて、プチうつくんにもほどなく退場してもらおう。じぶんの心ほどやっかいなものはない。
ついさっきまでの思いはちがっていた。気持ちのどん「底」だった。たとえば、さっきまで以下のようなことを思っていた。
──「平穏無事」と無理して思っているわけではないと思いながら、たぶん無理して思っていたのだろう。なんの不自由も不満もないと思い込んでいるようだが、じつは心の奥底になにか大きな不自由・不満、あるいは不安を抱いているのかもしれない。けれど、それがじぶんでもよく分からない。
たとえば「のむ・うつ・かう」など、酒を飲む、タバコを吸う、パチンコにはまる、賭け事に夢中になる、趣味に没頭する、仕事にうちこむ、家族としあわせゴッコする、宗教や「運動」に凝る、募集癖におちいる、ひたすら旅行する、これらはぜんぶじぶんについた「うそ」かもしれない。わたしは酒はビール一本のみでタバコは吸わず、パチンコも、賭け事もしないが、だれもが似たり寄ったりだろう──
このときわたしは「うそ」と表現した。しかし、「うそ」と一律に片づけるのも「うそ」かもしれない。べつの表現をしようと思ったが、そのことばももう忘れてしまった。それでいいと思った。ほんとうの「我」は道をよぎって霧の彼方へ行ってしまった。もののけ姫の獅子神みたいに。
老子なら「うそ」も「ほんとう」もない、と言うかもしれない。つまりありのまましかないと。「且(しばら)く杯中の物を進め」るしかないか。
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4995人
2008.12.29 Monday
15年連続増加で07年は過去最高の4995人。何の数字かというと、公立小中高校教職員のうつ病などによる休職者数。生きる力が必要なのは子どもたちだけではないようだ。
ただし、いわゆる「生きる力」をうんぬんするだけでいいわけがない。自己責任論と発想が似ている。「生きる力」を植えつけられるだけなら、ガレー船を漕ぐ奴隷とそうかわりはない。鞭打たれてひたすら船を漕がされる奴隷。船に鎖でしばられ、船が戦闘に巻き込まれれば運命をともにする奴隷。
奴隷にはひたすら「生きる力」を注入しなければならない。が、力あまって鎖を断ち切らせて皆で反抗させてはならない。と考えるのはガレー船の「主」か。
もし「生きる力」がじぶんだけ生き残る力、人をけ落とす力を意味するなら、やがて通常の神経の人間(奴隷ではないと自覚する人間)には堪えられなくなるにちがいない。じぶんだけ生き残ろうとする「奴隷」とじぶんだけ生き残ることを奴隷に強要する「船」とははたして生きるに値するものなのだろうか。この世は生きるに値する世の中だろうか。と考える人が出てきてもふしぎではない。大道廃れて「生きる力」あり。
未来を担う次世代の人を育てるという教師にそのような「生きる力」が注入されつづけているがゆえの4995なのではないかと危惧する。
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学問・学校
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書籍の無料配付
2008.12.27 Saturday
きのうたまたまS市の会館へたちよる。すると一階のロビー一面にダンボールを敷いて本を入れる作業をしている。じっと見ていると、係員が「明日の9時からです」という。市立図書館の除籍処分の書籍の無料配付だ。
「たまさかに立ち出づるだに、かく思ひのほかなることを見るよ」
ということで、翌朝15分くらい前に来ると、もう列をつくっていた。わたしの後ろにもすぐに長い列ができた。一人20冊まで、というのをきのう確認しておいたので、リュックを背負ってきた。
9時になって一斉に人々が会場に入る。わたしも一渡り見る。パッとみ、歴史書と文学書がすくない。で、目についた本をとりあげてバックに入れた。
玉石混淆。イタリア・地中海関係の紀行文、写真集が多い。あとは絵画関係。気づくと1時間もいてしまった。魯迅とか羽仁五郎の本などはずっとあとまで残っていた。
「もらって行きます」と言って会場をあとにする。早起きは三文の「得」か。
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替え玉と写真の話
2008.12.26 Friday
『幕末維新の暗号』(加治将一/祥伝社)読了。このまえ古本で買って一日で読んでしまった。すぐにこれは『ダ・ヴィンチ・コード』をかぎりなく意識して書いた小説だなと思った。著者はかなりのストーリーテラーだと思う。つじつまがあっていて、おもしろい。歴史推理サスペンス小説。しかしそれだけではない。
ネットなどのいろいろな出典を利用しているようだから、著作権その他を考えるとノンフィクションにも、学術書のたぐいにもなりえない。さらにノンフィクションや学術書なら「菊のタブー」に直接抵触する。フィクションという小説形式だから「抹殺」されにくいだろう。これだけメディアに名前を売り出してしまえば、手だしされにくくなる。だれかに著者が始末されるようなことがあったら、フィクションではないことを証明してしまうことになるだろう。まあそんなことはないだろうけれど。
マイナス要素はいっぱいあるが、「菊のタブー」に挑んで、たぶんたくさん売れていることがすごいことだと思う。
替え玉説や写真については前から知っていた。もしそれがほんとうだとすれば──事実は小説より奇なり、かもしれない。
妙に納得する。というのは、どうして明治政府が南朝にあれほど肩入れしていたのか、よく分かるストーリーになっている。王政復古という親政の復活を嘉するだけで、例の「東京の一等地」に楠木正成像など建てようはずもないとわたしも思う。
歴史にタブーは多い。ある種の古墳などの発掘調査も国家権力によっていまだに封印されたままだ。つまり隠されているものがたくさんあるということ。
それにしてもVerfassungにある「象徴」という文言がいつも気にかかっていたが、「実体」ではないというふうに解釈すれば腹にすとんと落ちる。Das Sein selbst ist eine Fiktion.
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試食荒し?
2008.12.24 Wednesday
スーパーへ行くと子どもたちが「試食荒し」をして困る。試食コーナーへ走り寄って「もらってもいい?」とか店員に訊いて食べている。食べ慣れているのか「ありがとう」と大きな声で言って楊枝などをきちんと袋に捨てている。
子どもの食べるものの試食ならまだ許せるが、こちらが見ていないときに、だまって「試食荒らし」をしているときは叱る。
やたら食い意地が張っているのか、あちこちで試食コーナーを荒らしているので叱った。ふと、下の子が姿を消した。探し出すと、遠くの方の試食コーナーへ黙って「出張」していたらしい。大きな焼きウインナを楊枝に刺して立っていた。わたしの姿を見るとかれはフリーズする。わたしは近くに寄ってにらむ。大きな垂れ目でわたしを見上げる。片手を口の中へつっこんで泣きそうな顔つきだった。わたしにド叱られると思ったのだろう。あまりにひきつった顔をしていたので、かわいそうに思って叱らなかった。そのあとは黙ってわたしのそばにくっついて離れなかった。
スーパーの試食コーナーに子どもたちを近づけないほうがいいのだろうけれど、親が見ていないところでこっそり食べていても困る。子どもたちも一度立ち寄ったコーナーには決して立ち寄らないぐらいの仁義はあるようだが、あっちのコーナー、こっちのコーナーと目の色を変えて駆け回っている姿はあさましい。困ったものだと思う。世の親たちはどうしているのだろう。
上の子が意地きたなくて困る。この前はかまぼこの板をなめていた。三角食べもできない。はじめに一気におかずだけ平らげる。
とはいえ、わたしが新聞を読みながら朝食をとっていると、なまいきにも「しんぶん見ながら食べちゃいけないよ」と下の子が言う。そのたびに「はいよ」と言って読むのをやめるのだが、どこでそんな文句を覚えたのだろう。たぶん前に居間で夕食を食べていたときに、子どもたちがテレビを観ながら食べるのを叱ったことがあるのかもしれない。
だとしたら試食荒しも、もともとは親が「意地きたなく?」コーナーを荒らしていたことがあったのかもしれない。
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『老子』を読む 3
2008.12.23 Tuesday
岩波文庫から『老子』が出た。蜂屋邦夫訳注。値段も中身も見ずに買ってしまう。さいきんの岩波文庫は活字が多少大きいのでたすかる。そのぶん、ページ数がかさばっている。
第三章
1 不尚賢、使民不争、
もし賢者を尊ばないなら、民衆のあいだに争いは起こらないだろう
2 不貴難得之貨、使民不為盗、
もし手に入らないような宝を貴ばないなら、民衆のあいだに盗人はいなくなるだろう
3 不見可欲、使(民)心不乱、
もし欲望を引き起こすものを見ないなら、民衆の心がかき乱されることはないだろう
4 是以聖人之治、
だから聖人の政治は
5 虚其心、実其腹、
民衆の心を空にさせるが腹は充たす
6 弱其志、強其骨、
民衆の意欲を弱くさせるが骨は頑丈にする
7 常使民無知無欲、
いつも民衆を知識と欲求のないままでいさせ
8 使夫知者不敢為也、
知ったかぶりの人間には口を出させず
9 為無為、則無不治、
何もしないからこの世はよく治まるのだ
賢とは立派な人格者というような意味か。単なる知者ではないようだ。このような立派な人格者が世の中の前面に出て名声を博するような場面をつくらない。つまり目立たず縁の下の力持ちの状態でいる。そのことによって賢が生きる。賢が人前に出てみんなに認識されることによって賢は賢ではなくなる。認識と存在との剥離。賢なることが意識され目的となり意欲されることによって、賢の変質が起こる。すべての人間の価値が世の中で一元化されることによって賢はやがて名声を博するための「手段」となり、偽りの賢がはびこる。そうして偽りの賢をめぐって醜い争いが起きる。ドイツ語訳ではこの賢を「Ansehen(名声・評判)」と訳してあって分かりやすい。
宝石も希少価値があるということで貴ばれる。しかしそれは日常生活で重要な役に立つものという意味ではなく「Ansehen(名声)」に利するものという意味で貴ばれるにすぎない。「Ansehen」という語は「見える」という語が基。「外見」とか「みせかけ」とも訳せるか。そのようなみせかけよりも、日常生活のなんでもない必需品を大切にすべきだろう。日常の生活をともにした、長いあいだ使用した、あるいは代々伝わるボロボロになったものほど大切なものであるはず。宮澤賢治の詩『永訣の朝』にある「青いジュンサイの模様のついた/これらふたつのかけた陶椀」「わたくしたちがいっしょにそだってきたあいだ/みなれたちゃわんのこの藍のもよう」こそ大切な宝であるはず。そんな人の宝を盗む盗人はいない。
「欲望を引き起こすもの」に弱いのは人の性か。しかし「見る」とは認識するという意味だろう。旧約聖書の創世記のエデンの園のアダムとイブを想起させる。認識の木の実だ。「それ」を認識することによって「それ」は変質する。幕末に日本を訪れた外国人たちがいちように驚いたのは日本人の「裸」でも平気な姿。うら若い女性でも平気で人前で裸で行水していたという。これは『逝きし世の面影』(渡辺京二)に見える。
聖人の治世は民衆の心を空にさせる。つまり「みせかけ」に踊らされず、実質を貴び、欲望を引き起こすものをことさら「見ない」ようにさせる。一様に上から「見るな」と命令して禁じれば逆に人はこっそり見たくなるのかもしれない。あけすけにすればかえって日常茶飯事として「見ない」のかもしれない。このあたりは微妙だ。
「意欲(する)」とはがんばるという気持ちをことさら意識し無理に引きだすことと解釈する。「それ」を「苦」にしなければ意欲することもない。思い起こすのは禁煙。たばこを「吸うのをやめる」が「吸わないのもやめる」という覚悟でようやく禁煙することができた。
「無知無欲」をどう解釈するのか。「知」をさかしらな知恵と解釈するのだろうか。いわゆる知ったかぶり。自分こそものごとをよく知っていると意識している人を「知」者と呼ぶのだろうか。あるいは知識および知識人そのものの否定なのか。20世紀は「戦争の世紀」と後世に呼ばれるようになるだろうが、その戦争の世紀を牽引したのは「無知無欲」の人々では決してなかった。むしろ知識があり意欲がある人々だった。
ほんとうの知というものがあるとすれば、ソクラテスのような「無知の知」なのだろうか。人間が所有する知はせいぜい浜の真砂の一粒のような知にすぎないという知の限界を知ること。知がすべてを解決するわけではないこと。知のみが世界と未来とを切り開くわけではないこと。(現在の)知力が人間のさまざまな能力や可能性のほんの一部でしかないこと。むしろ知のみの肥大化によって人間とその文化・文明がゆがんでしまっていること。そのことをすでに予見していたのだろうか。
さかしらな知に驕ることによってほんとうの知に対する畏敬が失われる。本屋で立ち読みしていたとき、なにか本を探している若い人が通りかかった。その人はさまざまな本の背表紙を眺めながら、はにかんだような表情をする。彼の前にはなにやらむずかしそうな本が並んでいた。じぶんにはとても理解できそうにない、というような感情。恐縮というのがぴったりだが、わたしには新鮮だった。わたしは知に対して厚顔無恥になっているのだろう。知ったかぶりという「無知」に居直っている。
あるいは「知」も「欲」も認識につながる。「知」も「欲」も認識によって引き起こされる。ことさらな知も欲もない状態にあって世界を眺めることができれば、心静かに暮らすことができる。認識とは頭の理解であって、性根からの理解ではない。だから頭でっかちになって不安になる。腹の底からものごとを理解するときは、たぶん人間が変わるときだろう。そうして頭を使って(じぶんのために)周りを変え、利用するのではなく、周りのためにじぶんを変え、利用されるようになるとき、天命が全うされるのかもしれない。
じぶんのために「知」を働かせる人が政治に口だしをするとき、社会は貧しくなるだろう。むしろ「無知無欲」の人々がおのれと社会とを(協同して)治めるのだとしたら、たとえ上に立つ者がいたとしても、なにも口出しする必要はないだろう。これこそ自治である。極端にいえばだれが上に立とうと関係ない、というか、だれでも上に立つことができる。これが民主主義の究極の姿ではないだろうか。あるいはアナーキストの夢か。クセノフォンの『アナバシス』を連想する。
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ヘタな人生論より「寅さん」のひと言
2008.12.22 Monday
『ヘタな人生論より「寅さん」のひと言』(吉村英夫/河出文庫)読了。おもしろかった。CDの『男はつらいよ 松竹映画サウンドメモリアル』の口上を聴きながら読んだので台詞がよくわかった。吉村氏が描くのは大人のメルヘン。
しかしこの本のなかには充分に表現されていないものを感じる。わたしは寅次郎と「とらや」の人々とのあいだの「ぎくしゃく」にあるものを感じる。で、安部公房の『無関係な死・時の崖』(新潮文庫)の中にある「家」という短編小説を連想してしまう。この短編には(どの家にでもあるような)家の中に隠しておきたい、恥辱の部分、家や血のつながりの中にある不条理な、暗い負の(愛憎の)陰翳が描かれているように思う。寅さんと「とらや」の人々とのあいだにもそのような、なんともいえない負の部分を感じる。
血とは逃れられない宿命だ。池内紀の『作家の生き方』(集英社文庫)には「軒が傾き、壁の崩れた家並み・・・のなかで人々はひっそりと位牌を守り、日々こともなく生きている」という描写があるが、そのようなネットリと暗く湿った部分が血のつながりにはある。それがときに爆発するのだ。柳田国男の『遠野物語』に「嫁と姑との仲悪しくなり、嫁はしばしば親里へ行きて帰り来ざることあり。その日は嫁は家に在りて打ち臥して居りしに、昼の頃になり突然と倅の言ふには、ガガ(=母親)はとても生かしては置かれぬ、今日はきつと殺すべしとて、大なる苅り鎌を取り出し」うんぬんとある話などはその極端な例。
故郷に帰るたびに寅さんが引き起こすドタバタの根っこにはこの血の宿命があるはずだ。
山田洋次監督は、寅さんとその家族、および寅さんにかかわる人々のそのようなドロドロとした血の宿命を、「人情コメディ」にきわどく反転させ、しみじみとした大人のメルヘンに仕立てているように思う。
しかし寅さんはおもしろい。こっけいな寅さんを笑いとばすことで、少しでも「おのれの現実」を「解毒」しようとしているのかもしれない。
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「カルペ・ディエム」(carpe diem)
2008.12.11 Thursday
◯「私のカメラ」(茨木のり子)
◯「ある人、弓射ることを習ふに」(徒然草)
◯「カフェの開店準備」(小池昌代)
これら三つの文章(詩)の共通点は、いずれも「いま・ここ」にしか人は生きていないということを表現している。
「私のカメラ」は、恋人の写真を撮るより、「いま・ここ」でじぶんの胸に刻み込め、あるいは愛していればしぜんに胸に刻み込まれるのだから、「いま・ここ」でその人を愛せよ、というメッセージとして受け取るべき詩だろう。
後の思い出のために写真を撮るということもあるが、それは手段であって目的ではないはず。いつのまにか手段(写真を撮る)が目的となり、本来の目的が忘れられてしまうことがある。「いま」が「未来」のための手段となり、置き去りにされてしまうことがある。
遠州に京丸ぼたんという伝説の花があるそうな。遠州の奥に咲くというその花、ずっと向こうに見えるので近づいていくと、いつまでたっても距離が縮まらない、いつまでも向こうに見えるままだという謎の花らしい。
ちょうどそのように、ずっと向こうにあるらしい「未来」をめざして「今」を犠牲にしていると、いつまで経ってもその「未来」はやって来ない。「未来」はいつでも「今」のむこうにしかないからだ。「いま・ここ」を充足させる「未来」などありえないからだ。
「思い出づくり」は思い出をつくらない。思い出はつくろうとして意図的につくられるものではない。むしろ「いま・ここ」に生きていることを存分に楽しむことによって自然に思い出がつくられる。思い出が生まれる。
『徒然草』の文章は「たった今」という一瞬に誠心誠意、全身全霊をかけて集中すべきことを述べている。後々を期待する、後になって取り返せばいいという思いによって、「いま」をだいなしにしてしまう危険を述べている。生きているのは未来でも過去でもなく現在しかないのだということを厳しく述べている。思い立ったら、たった「いま」せよと述べている。
小池昌代の「カフェ──」も同じ。「現在」は「未来」のための「準備」ではなく、いつも「本番」なのだということを述べている。
それで「カルペ・ディエム」(carpe diem)。
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薩摩通り
2008.12.10 Wednesday
写真左上は薩摩通り?
写真左下は服織(はとり)の町
薩摩通り。静岡市にある通りで、どこかよく分からないが、東名の取り付け道路を線路の北へのぼった辺りらしい。昔は薩摩土手といい、家康が薩摩藩に安倍川の氾濫をおさえるための大がかりな土手をつくらせたらしい。その名残がいまも残っているという。
その薩摩土手のことを、詩人の三木卓が『はるかな町──介添え人』の中で「火屋(ひや)の土手」と呼んでいる。火屋とは火葬場のことだ。むかしはその辺りにあったらしい。
その『はるかな町』とは静岡市のこと。戦後まもないころに出来た米国文化啓蒙のための「アメリカ文化センター」が小説に出てくる。図書館のようなものだったらしい。これは今の体育館や文化会館あたりにあったのだろうか。駿府公園にはむかし丹下健三の駿府会館があった。その駿府会館で高校生のときに南米フォルクローレのキラパジュンを聴いた。
詩人の三木は高校生のころ駅南に住んでいたらしい。駅南というと、満州から引き揚げてきた人たちが住んでいた大きな木造アパートのこざっぱりと黒ずんだ廊下を思い出す。
それらはもうすっかりなくなっているだろう。水落の交差点近くにあった「カトレア」という喫茶店など、わたしには思い出深いがもう存在しない。
このまえ静岡市街をドライブしたとき、その薩摩通りらしき通りをたどり、安西橋をわたって服織(はとり)の辺りを走った。超渋滞だったが、服織は鎌倉時代の『吾妻鏡』に出てくる町だ。帰化人の秦(はた)氏の里だったらしい。なんとなく風情を感じる。
さて、今日の昼は新静岡センターへ行った。5階の中華で食事をとり、ついで丸善で文庫本を買ってきた。ここも取り壊されて新しいビルが建つらしい。この辺りもすっかり変わってしまうことだろう。
社会はそれでも思い出(記念物)を残すが、個人の思い出には名残もない。「過去はどこにしまってあるんだろう」とときどき思うことがある。過去を回想するのは歳をとった証拠か。
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静かな流れは底が深い
シュティフターの『森の小道』の中に出てくるドイツのことわざ
犀の角のごとくただ独り歩め
『スッタニパータ』(ブッダのことば)のなかで繰り返されることば
人はいつか夢の隣りにいる
高生研の池野眞氏のことば。夢そのものは実現しないかもしれないが、ふと気づくと、夢の隣りにいる。
いまだかつて不良少年が国をほろぼしたためしはない
かつて都教組の委員長が言ったことば
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