久し振りに書庫の整理をした。床に山積みされていた本を、とりあえず本棚へ縦にも横にも詰め込む。もう物理的に無理、というぐらいに。現れ出た床を数年ぶりにぞうきんがけをした。せっかくきれいに整理・整頓しても大地震が来たらすべてお仕舞いだ。日常のそういうあやうさというか、脆さを、地震などの非常時ほど感じさせるものはない。
このまえ災害訓練に参加したときも、それを感じた。
たまたまエルマンノ・オルミの『ポー川のひかり』を岩波ホールで観ることができた。イタリアのポー川のほとりにたどりついた、一人の世の中を「降りた」男のドキュメンタリー風、かつ、キリスト寓話風な映画だった。主人公は大学(中世からつづくボローニャ大学らしい)の先生なのに、大学図書館の貴重な書物を床に散乱させ、一冊一冊釘を打ち込んで逃走する。中世から伝わるような羊皮紙の書籍の磔刑?原題は百本の釘だそうな。
地位も将来も高級車もケータイも捨てて(パソコンと現金とクレジット・カードは捨てない)、この世とあの世の端境のような川のほとりの廃屋に住みつく。風貌はキリストそっくり。しかもマグダラのマリア風女性(パン屋の田舎娘)や、使徒を思わせる、おなじように川のほとりに住みついた老人たちとの晩餐?風景もある。さらにキリストみたいに、その人たちにしんみりと寓話を語る。実際まわりから「キリストさん」と呼ばれる。しかもキリストのように「復活」?してレジェンドになる。ポー川のひかりとして・・・。あるいはポー川のひかりとは隣人たちが「復活」した?教授を招くために街道に灯したひかりだったのかもしれない。だれがどんな思いをこめて訳したのだろう。
それにしても貴重な本を数え切れないほど釘で磔のようにするとは。わたしなどぜったい出来ない。生きたことば、生きた記憶、生きた人との交流をこそ大事にすべきだ──ということなのだろうか。それにしても書物にそれほど重罰を科すほどの罪があるのかとも思う。これは象徴的な意味なのだろうか。
あのキリストさん(『ポー川のひかり』の主人公)は、クレジット・カードも使ったが、それは隣人を救うためであった。パソコンを使うのも同じ。人を救うため以外のすべての「知識」(書物の知識)も道具も捨てる。
ポー川に巣くうのは外からやってきた大鯰(なまず)。エサにひっかかって暴れる姿を夜中にキリストさんが見る。何か忌まわしいもののようだ。昼は河川開発の測量技師たちがやってきて、隣人たち「不法占拠者」を追い払おうとする。外から平和をおびやかす力がやってくる。
夕闇。川面をゆく船上のダンスと歌。うたかたの夢のように美しい。岸辺で同じようにダンスをしていた教授と隣人たちは立ちつくす。曲はわすれな草。「私を忘れずにいておくれ/私の人生は君のもの/私の心の中には/君との愛の巣がある/忘れずにいておくれ/私のことを」。
あやうい日常を生きる。それはうたかたの夢のようだ。その中ではかないものを慈しみ、人と人とがむすびつき愛しあう。そこには書籍の知識も、虚構も虚栄もいらない。言い訳もいらない。それぞれがおのがままで、自然のなすがままに生きる。あるのは名も無き愛と信仰──そういう淡い詩のような映画だった。キリスト教にうといわたしには意味不明が多かったし、ちょっと非現実的だったけれど。
エルマンノ・オルミ自身がもう長編映画はつくらないといっている。だからこれが最後の長編映画となるらしい。ドキュメント風の『木靴の樹』から角張ったものをそぎ落としたような現代の寓話風なメルヘンだった。