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ケルキラ島の旅行案内書



 今年の夏はいままで一度も海やプールに子どもたちを連れて行かなかった。さいごの土曜日に急に思い立って、海水浴へ行くことにした。泥縄式に準備をし、去年買ったままの浮き輪に空気を入れると漏れていた。長いあいだ折りたたんだままだと、折れ目かどこかが傷んでしまうのだろう。テープを貼って応急措置。海水浴などしばらく行ったことがない。長いあいだ「折りたたんだまま」の身体も、傷んでいるところばかりだった。

 この夏はギリシャの海に浮かぶケルキラ島──コルフ(korf──英語だとcorf)島ともいう──の旅行案内書をひたすら眺めて心を慰めてきた。ケルキラ島の旅行案内書など日本語のものがない。ドイツ語のものなら詳細なものがあって、昔からヨーロッパの人たちにとってはバカンスの島だったらしい。ただし、活字が小さいし、ドイツ語なのでよく分からない。たとえば「FKKは基本的にギリシャでは禁止されている」とあって、FKKって何?と思った。KKKなら知っている。辞書をひくとFKKはヌーディストのことだった。

 ケルキラ島にはロレンス・ダレルの紀行文がある。邦訳もされている。これを読むのはちょっとしんどいので、旅行案内書の写真を眺め、ところどころ拾い読みするだけ。  

 新書サイズだが、写真が豊富で総ページ数が450ページ以上もある(イオニア海のほかの島の案内も含む)。価格は2007年度版なので安い。それでイオニア海へ行った気分になれる(と思う)。それにしてもドイツ人というのはどこへ行っても徒歩旅行(ヴァンデルング)が好きみたいで、必ずそのための地図や解説を詳細に案内書に載せている。実際的というか。細かいというか。よくここまで調べたなあと感心する。

 ただし、レフカダ島の紹介のなかにラフカディオ・ハーンの名前が出てこない(ドイツ人には興味ないのかもしれない)。  

 さらに裏表紙にあったが、キプロス(ギリシァ語)のことをドイツ語でZypern(ツューパーン)と記している。どうしてだろう?英語ではCyprus(サイプラス)というらしいが、英語がまなったのか。そんなことはどうでもいい。歴史のある島なのにここは未だに紛争の地だ。ケルキラ島もキプロス島も(ギリシャ文化圏?の西の端と東の端?)、生きているうちに一度は行ってみたいけれど(むりだな)。  

 どうしてケルキラ島に興味を持ったのか?というと、わたしの好きな『風の谷のナウシカ』のナウシカが、ホメーロスの『オデュッセイア』に出てくる少女で、神話だけれど、この島の王の娘だったから。それだけ。



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mojabieda * 読書 * 06:47 * comments(0) * trackbacks(0)

教育のつどい2009に参加しました














 写真は上から「日比谷公会堂」「木遣りのオープニング」「あさのあつこさん」「未来へ発信する教職員と子どもたち」「飲み屋でも小型パソコンで明日の発表の準備に余念がない?レポーター」「中学・高校の国語教育分科会」「教員免許更新問題のレポートが出された今日の教育改革分科会」の風景。


 8月21日の「教育のつどい2009」に参加しました。全体会場は日比谷公会堂。日比谷公園のなかの由緒ありそうな建物でした。会場は入口付近にある赤い三角コーンもほとんど見えないくらいの人・人のにぎわいでした。
    
 会場いっぱいで溢れんばかりの参加者。古き江戸の情緒をしのばせる「木遣り」の歌などによるオープニングに迎えられました。
    
 つづいて「あさのあつこ」さんの講演。あさのさんは『バッテリー』などの著書のある作家です。思春期にある子どもの内面を深く掘り下げている作品です。あさのさんの話で印象的なものがいくつかありました。あさのさんの話というより、そのときにその話から考えたことを二点まとめます。    

 まず作家としてものを書く人間は、あることがらを知るためには書くことではじめて知るのだということ。書くという営為をつうじてはじめてものごとを認識するのだということです。あさのさんは国家と個人との関係について知ろうと思い、『No.6』という作品を書き始めたそうです。    

 もう一つ。思春期にある子どもたちにとって、大人になるために思春期があるのではなく、その時々を精一杯生きるためにあるのだということ。15歳なら15歳を生きるためにある。そのときどきの輝きはもう二度と戻らないのだということ。思春期の子どもたちの内面が大人とは独立してあるのだということ。あさのさんはその輝きを書き残そうとしたのだろうと思いました。そして書くことでよりその内面を深く知ることになったのでしょう。    

 書くという営為によって知るとは、簡単なことではないと思いました。ものごとをその根底から問い直してその本質を捉えるということでしょう。そのためにはたいへんな格闘が必要です。自己との格闘です。表面的な知識に満足することとは正反対の営為です。

 もちろんあさのさんはそのような重い話はしませんでした。かるく気さくに話されていました。「(世の中に)流されている(人が多いのではないでしょうか)?」という言い方の奥に垣間見えたのは、あさのさんの自主独立した徹底した「強靭な思索」でした。

 東京の教育状況が現在いかなるものになっているのか、がそのあとの合唱と寸劇から浮き彫りにされていました。教育の貧困と格差、政治による教育介入、30人学級でさえまだ実現していないetc、さまざまな訴えを見、聴きました。    

 しかし東京の若い教職員たちのはつらつとした合唱や劇から希望ある「未来への発信」をじかに観ることができたように思いました。

 夜は交流会や岩波ブックセンターとエキプ・ド・シネマに立ち寄り、他日は国語教育の分科会や教育改革の分科会へ参加、ハードスケジュールでしたが充実していました。

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mojabieda * 学習会 * 16:36 * comments(0) * trackbacks(0)

『ユルスナールの靴』を読む

 霧のむこうに人は理想郷をもとめる。魂のアルカディアを──。

 須賀敦子の文章を読んでいると、そのことを思う。『ユルスナールの靴』を、暇なときどきに、しおりも挟まずに読む。だから気づかずに(あるいは気づいていても)同じところを何度も読んでいる。  

 『ユルスナールの靴』は10年前に買った文庫本。遠くへ出かけるたびにバッグに入れて持っていく。新幹線の中で読む。  

 何かに惹かれる。何に惹かれているのかよく分からないまま。  

 新幹線のなかで『ユルスナールの靴』を、前の座席にくっついている小さな棚の上に載せた。ふと、この本を人に見られることが恥ずかしいような気持ちになった。この感覚はどこから来るのだろう。あまりにこの世ばなれしているのを気恥ずかしく思ったのだろうか。貧困問題や、どうやったら人は飯(めし)が喰えるのか、という次元からは遠く離れている。  

 とくに惹かれるのは「皇帝のあとを追って」と「木立のなかの神殿」。須賀敦子というイタリア文学者を通したユルスナール(Marguerite Yourcenar)というフランスの作家を通したハドリアヌスという古代ローマ皇帝の姿が浮かびあがる。ハドリアヌスの人生とユルスナールの人生と須賀敦子の人生とが三重にかさなる。それぞれの人生の哀歓のひだに降り立つような感じ。共通するテーマは「ノマッド(放浪者)」か。  

 ノマッドということばは「砂漠を行くものたち」の中にでてくる。人のことばを借りて記されているが、ヴァガボンドには「ほんとうはひとつ処にとまっているはずの人間がふらふら居場所を変える」どこか否定的な語感があり、それにくらべると、「ギリシアに語源のあるノマッドは、もともと牧羊者をさすことば」だという。ノマッドには「血の騒ぎ」や「種族の掟」のような支えがあると。

 イタリア文学にもフランス文学にもなじみはないのに、『ミラノ 霧の風景』という須賀敦子の本の背表紙を見ただけで、いつか読もう、いつか読まなくてはならない、と思ってしまった。実際さいしょに読んだ須賀敦子の本は『トリエステの坂道』だった。それからは須賀敦子と著者の名前が冠される書物はかたっぱしから読み出してしまった。題名を見ただけで内容が想像されるが、どれもまさに思っていた通りの(心惹かれる)本だった。  

 夏に読書という「靴」をはく。しかしノマッドにもヴァガボンドにもなれないので霧のむこうにただ思いを馳せるしかない。

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mojabieda * 読書 * 06:15 * comments(0) * trackbacks(0)

秋へ 村野四郎


  秋へ   村野四郎 

 コスモスの向こうを 
 傷兵がとおる 

 あかい帽子と 
 白い衣服と 

 手を執るひとと 
 手を曳かれるひとと 

 あたたかく 
 きよらかに 

 冬へ傾く 
 秋の中を  



 今年の「教育のつどい」の国語分科会のレポートの中に見つけた。村野四郎の戦中詩のひとつだそうだ。  

 大昔、ある人に教えられた詩。詩のなかの秋の風景と「秋へ」という題名との齟齬から何が読み取れるかという主題に迫る授業実践を聴いた人から教えられた。印象ぶかくて覚えていた。  

 詩人の目にまず(病院の庭の)コスモスが映る。その向こうを傷兵が歩いていた。コスモスの花の間にその傷兵の赤い帽子が見える。ふと、横には白い衣服の人が見えた。よく見ると白い衣服の人は手を執る人で、傷兵はその人に手を曳かれて歩いているのだった。「傷兵がとおる//あかい帽子と」とつながり、「白い衣服と//手を執るひとと」とつながっていく。「あたたかく/きよらかに」はふたりの情景だ。しかし現実は「冬へ傾く/秋の中」だった。  

 題名の「秋へ」と「コスモスの向こうを」という冒頭の描写が淡く穏やかな調べとなって詩の通奏低音になっている。「手を執るひとと/手を曳かれるひとと」、「あたたかく/きよらかに」という情景はあきらかに男女の、つつましやかな仕草とそこに流れる淡い情を思わせる。コスモスの色は初恋の色ではないか。一時的な淡い出会い。  

 赤い帽子は陸軍の軍人を表しているのだろう。歩いている以上重症ではないが手を執られないと歩けない。看護婦に手を執られながら歩く練習をしているのだろうか。やがて完治すればふたたび戦場へ赴かなければならない。  

 戦時中に若い男女が公衆の面前で手をとりあう光景などありえなかっただろう。しかも相手は兵隊だ。だからここの光景は場違いな、この世ならぬ奇跡のような光景だったに違いない。傷兵と看護婦だからこそあり得た光景だが、あたかも恋人同士のように、病院の庭なのか、コスモスを前景にして端から見ていても「あたたかく/きよらかに」見えた。心温まるような、清らかで平和な一風景ではなかったか。  

 傷兵は傷が治れば再び戦場へ赴き、もうもどってくることはないかもしれない。その不安が「冬へ傾く」という語が表しているのではないか。戦況はますまず激しく、苛烈を極める。だから、いま・ここの出会いをいつまでも、という詩人の切ない思いが詩に込められているのではないか。ひとときの出会いと平和な一瞬。それを永遠にとどめたいという詩人の思いがあるのではないか。「冬へ(傾く)」ではなく、いつまでも「秋へ」むかって歩いていってほしいという思いが題名となって現れているのではないか。しかもコスモスの花──  

 コスモスの花。コスモスは遠くギリシャのことばだ。この宇宙(世界)と秩序を現わすことば。世界には秩序がなければならない。現実はカオス(混沌)だが、天上世界のような、永遠不変の秩序と平和とを求める詩人の思いがコスモスの花に込められているのではないか。 
 
 この詩は昭和17年の『抒情飛行』に収録されたという。作品成立が前年の昭和16年だとすれば、中国戦線で傷ついた傷兵は、この年の冬、つまり12月8日に、日本が米英を相手に太平洋戦争に突入する以上、「冬へ傾く」、苛烈を極める太平洋の戦場へと駆り出されていく運命にあった。

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mojabieda * 詩歌 * 07:12 * comments(0) * trackbacks(0)

『ポー川のひかり』を観る

 

 久し振りに書庫の整理をした。床に山積みされていた本を、とりあえず本棚へ縦にも横にも詰め込む。もう物理的に無理、というぐらいに。現れ出た床を数年ぶりにぞうきんがけをした。せっかくきれいに整理・整頓しても大地震が来たらすべてお仕舞いだ。日常のそういうあやうさというか、脆さを、地震などの非常時ほど感じさせるものはない。  

 このまえ災害訓練に参加したときも、それを感じた。  

 たまたまエルマンノ・オルミの『ポー川のひかり』を岩波ホールで観ることができた。イタリアのポー川のほとりにたどりついた、一人の世の中を「降りた」男のドキュメンタリー風、かつ、キリスト寓話風な映画だった。主人公は大学(中世からつづくボローニャ大学らしい)の先生なのに、大学図書館の貴重な書物を床に散乱させ、一冊一冊釘を打ち込んで逃走する。中世から伝わるような羊皮紙の書籍の磔刑?原題は百本の釘だそうな。  

 地位も将来も高級車もケータイも捨てて(パソコンと現金とクレジット・カードは捨てない)、この世とあの世の端境のような川のほとりの廃屋に住みつく。風貌はキリストそっくり。しかもマグダラのマリア風女性(パン屋の田舎娘)や、使徒を思わせる、おなじように川のほとりに住みついた老人たちとの晩餐?風景もある。さらにキリストみたいに、その人たちにしんみりと寓話を語る。実際まわりから「キリストさん」と呼ばれる。しかもキリストのように「復活」?してレジェンドになる。ポー川のひかりとして・・・。あるいはポー川のひかりとは隣人たちが「復活」した?教授を招くために街道に灯したひかりだったのかもしれない。だれがどんな思いをこめて訳したのだろう。  

 それにしても貴重な本を数え切れないほど釘で磔のようにするとは。わたしなどぜったい出来ない。生きたことば、生きた記憶、生きた人との交流をこそ大事にすべきだ──ということなのだろうか。それにしても書物にそれほど重罰を科すほどの罪があるのかとも思う。これは象徴的な意味なのだろうか。

 あのキリストさん(『ポー川のひかり』の主人公)は、クレジット・カードも使ったが、それは隣人を救うためであった。パソコンを使うのも同じ。人を救うため以外のすべての「知識」(書物の知識)も道具も捨てる。  

 ポー川に巣くうのは外からやってきた大鯰(なまず)。エサにひっかかって暴れる姿を夜中にキリストさんが見る。何か忌まわしいもののようだ。昼は河川開発の測量技師たちがやってきて、隣人たち「不法占拠者」を追い払おうとする。外から平和をおびやかす力がやってくる。  

 夕闇。川面をゆく船上のダンスと歌。うたかたの夢のように美しい。岸辺で同じようにダンスをしていた教授と隣人たちは立ちつくす。曲はわすれな草。「私を忘れずにいておくれ/私の人生は君のもの/私の心の中には/君との愛の巣がある/忘れずにいておくれ/私のことを」。  

 あやうい日常を生きる。それはうたかたの夢のようだ。その中ではかないものを慈しみ、人と人とがむすびつき愛しあう。そこには書籍の知識も、虚構も虚栄もいらない。言い訳もいらない。それぞれがおのがままで、自然のなすがままに生きる。あるのは名も無き愛と信仰──そういう淡い詩のような映画だった。キリスト教にうといわたしには意味不明が多かったし、ちょっと非現実的だったけれど。  

 エルマンノ・オルミ自身がもう長編映画はつくらないといっている。だからこれが最後の長編映画となるらしい。ドキュメント風の『木靴の樹』から角張ったものをそぎ落としたような現代の寓話風なメルヘンだった。


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mojabieda * 映画 * 18:12 * comments(0) * trackbacks(0)

土肥信雄先生の講演を聴きました



 土肥信雄元都立三鷹高校長の講演会「学校から言論の自由がなくなる」が17日に教育会館で開かれました。  

 ざっくばらんな感じの先生で、スレンダーながら体育会系の熱血教師、という感じの先生です。たぶん授業のときのように演壇(教壇)から降りて、マイクなしで歩き回り、聴衆から意見を求めながら講演されました。緩急のある、飽きさせない話し方で、さすがと思いました。  

 土肥氏は意見を言うのは自由だ、という信念を持っています。その信念をねじまげられるようなことが起き、さすがに「仏の顔(の先生)も三度」ということで、現場の言論統制にまっしぐらに進む都の教育行政に「NO!」をつきつけたのでしょう。  

 さて、お話の内容ですが、お話そのままではなく、記憶をたどった記述なので、その点はご了承ください。  

 1998年に東京都は職員会議を補助機関化しました。それまで学校の最高議決機関は職員会議でしたが、決定権は校長に、ということになりました。これまで都教委が学校の「正常化」として謀ってきた最大の課題が「解決」し、校長のリーダーシップ(権限と責任の強化)が確立した・・・というわけです。これで充分だったと土肥氏は言います。  

 ところが2006年にさらに「挙手や採決などの方法で教職員の意思を確認してはいけない」という通知を都教委が出します。これを名づけていわば「平成挙手・採決の禁」とでもいうのでしょうか。じっさいに教職員が校長の言うことを聞かないので困っているわけでもなく、校長会が要求したわけでもないのに、「死体」に鞭打つがごとく、徹底して教職員の「口」をふさごうとしました。  

 なぜそんなことを、と土肥氏は言います。都教委は最終的には職員会議そのものをなくすことを謀っているようですが、教職員から意見を言う場を奪い、その言論を封殺することで校長がリーダーシップを発揮できるはずがありません。リーダーシップを発揮するためには充分なフォロアーシップが必要です。  

 都教委は校長のリーダーシップの確立をいいながら、都教委からの上意下達「指導」の徹底をはかっていると土肥氏は看破します。都教委による校長のロボット化です。都教委が通知した「平成挙手・採決の禁」を、土肥校長はきちんと職場で実施しました。しかし、意見としてその不当性を都教委に訴えました。職務としてやることはきちんとやる。が、不当なことは不当だと意見表明したわけです。それに対して都教委の反応は無視あるいは法的な脅し、さらにはいやがらせ・見せしめという手段をとって、さまざまな形で土肥氏の口をふさごうと謀りました。  

 現場では喧々囂々(けんけんごうごう)の議論を戦わせたほうがよりよい結論と決意とにつながってゆきます。それが民主主義というものでしょう。反対者や意見の合わない者の口をふさぐとか「採決なし」など、民主主義の根幹を知らない者の発想だ、と土肥氏から言われると、静岡県の公立学校ではすでにとっくに職員会議に採決などがありませんから、われわれは民主主義を基から知らないのかもしれない、という不安にかられました。教師が真の民主主義を知らないのだから、生徒に民主主義を教えようもないのかもしれない、などと。  

 とはいえ、たとえ採決なしの職員会議であっても、ベテラン教員も新人もそれぞれ率直に互いの教育論を戦わせる、これが職員会議の醍醐味でしょう。若い教員は現場での教育実践とともに、そのような教育討論を通じて自己(の教師としての)形成をはかってきました。ベテラン教員と語り合う教育論にどれほど啓発されてきたことか。また若い教員は若い教員なりの新鮮でエネルギッシュな教育論があり、ベテランにはベテランなりの経験と実績があり、互いに触発されながらよりよい教育をめざしてきた、というのが実情でしょう。教える者の最大の仕事は学ぶことだ、と聞いたことがあります。  

 さて土肥氏は都教委の言論統制を3つに分けます。自分(校長)に対する言論統制、教職員に対する言論統制、そして生徒に対する言論統制です。  

 ある校長会で都教委がある学校の文化祭の展示物(これは生徒の意見表明の一部です)に対して内容が偏っていると一都民が言っているので「充分注意していただきたい」と発言したそうです。そしてこの「注意していただきたい」というのは、暗にその展示物をはずせという「指導」であり、「脅し」でした。その「注意」に対して挙手をして発言したのは土肥氏のみでした、「それは検閲に当たりませんか」。都教委は一都民の声だけで生徒の意見表明を封殺しようとしたわけです。もちろん間違った意見や人を傷つけるような意見は許されません。しかしさまざまな意見が現実にあるなかで、その一つを表明することさえ許されないとしたらおそるべき言論弾圧でしょう。こうした不当な言論弾圧に対して、学校の「最高権力者」である校長でさえ「それはおかしいのではないか」という声を挙げることが現実にはなかなかできない、そういう怖ろしい風潮が生まれているそうです。  

 さらにこの風潮を強めているのが都の職制と業績評価(教職員評価制度)です。都の職制とは統括校長─校長─副校長─主幹教諭─主任教諭─教諭というヒエラルキーのことです。かつての教員組織は校長─教頭─教諭でしたが、現在はさらに組織が細かく分断されて、ものが言いにくくなっています。さらにそこへ業績評価が加わり、賃金と昇進とを「人質」にされて、教員がロボット化されつつあります。  

 静岡県でも今年新しい職制と教職員評価制度とが本格導入されました。  

 土肥氏は今年の3月で退職。4月から非常勤の教員として現場にもどろうとしたところ、都教委から不合格処分を受けました。これは都教委からの報復措置であり他の現役校長へのみせしめでした。このようにして現場の校長の口をふさぐのです。  

 土肥氏は裁判を起こしました。これは裁判という形で「公開討論」の場を設定しようとした由。閉鎖的に陰湿に「報復」などせず、じぶんが正しいと思えば公の場で正々堂々と意見表明し討論しましょうというのが土肥氏の考え方です。  

 土肥さんは離任式のときに卒業生全クラスから色紙をもらったそうです。氏を応援する「卒業証書」も。土肥さんにはなによりの励ましになったことでしょう。いま都を相手に裁判を起こしていますが、支援する会の代表も卒業生だそうです。教師にとって何よりも力強く、何よりもありがたいのは卒業生たちの応援かもしれません。がんばれ!土肥先生!思わずそう叫びたくなります。  

 講演会は3時30分ごろ終了しましたが、夜の交流会(二次会)が終了するまでおつきあいいただきました。たいへん気さくで情熱的な先生でした。



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mojabieda * 講演 * 06:58 * comments(2) * trackbacks(0)

『舞い降りた天皇』を読む

 『舞い降りた天皇』上下を読了した。ノンフィクション仕立てのフィクションとなっている。この前の著書も明治天皇の出自がテーマだったから、もしも著者の身に何か危険が起きたら、フィクションではないことを証明することになるという「保険」を、わざわざ小説のあらすじに仕立てている。これらの「小説」は菊のタブーに触れている。本書は古代の天皇の出自(ルーツ)をテーマにしている。  

 いろいろなことを考えた。  

 現在のトルコのアナトリア半島の沿岸にも古代ギリシャの都市国家がひろがっていたように、古代の朝鮮半島の沿岸にも古代の「倭」国がひろがっていたという説はおもしろい。古代ギリシャ人はもともとどこか別の土地から現在のギリシャの土地に移り住み、地中海沿岸へ大きく飛躍・発展した民族だ。古代ローマも同じ。  

 もともとは朝鮮半島から対馬・壱岐をとおって北九州へ波状的に移り住んだ大陸の「先進」民族が、日本海や瀬戸内海、太平洋沿岸部にひろがって現在の日本を形成したのではないか、というだれもが考え得る古代日本の形成を、フィクション仕立てでうまくまとめている。かなりあやしい部分もあるけれど。  

 アメリカ大陸の「発見」ではないが、南北米大陸を波状的に侵略し、移り住んだ西洋人が先住民を騙し、殺戮し、追い払い、大陸を制覇し、あたかも無人の土地を「発見」したかのごとく先住民たちの歴史をかき消したように、日本列島を波状的に侵略し、大陸から移り住んだ「先進」民族が、やがて完全に日本列島を制覇し、先住民たちの歴史をかき消したのだろうとは、世界の歴史をみれば、なんとなくわかる。

 西洋人が南北米大陸やオセアニアなどに移り住んだとき、先住民たちはどうなったか。あるいは全滅し、あるいは混血になり、あるいは孤立して先住民の生活を守りながら現在も周辺の土地にほそぼそと暮らしているようだ。宗教や文化はほとんど西洋文明に席巻されてしまう。そうして西洋のキリスト教が大陸全土にひろがる。  

 日本列島の先住民たちの運命もきっと同じだったろうと推測できる。北海道や沖縄をふくめると、この日本列島制覇には古代から近現代まで二千年余をかけている。もし第二次大戦に日本が勝利をしていたら、日本の制覇は大陸、半島、台湾、太平洋の諸島にまで及んでいただろう。そうしてその地の「先住民」たちは、政治的・文化的に日本に席巻され、日本人にまじり、やがては「日本人」となって生きざるをえなかっただろう。そういう「想像」と、今どうなのかという「現実」とを対比してみれば、どこかからやってきた「先進」民族によってかき消されてしまったであろう日本列島の先住民たちの本来あったはずの「暮らし」と「運命」とが浮き彫りにされてくるのではないか。本書と『伊勢神宮──東アジアのアマテラス』(千田稔/中公新書)とをあわせ読むとおもしろい。  

 神道にも2種類あるというのを『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』(植島啓司/集英社新書ヴィジュアル版)で読んだ。折口信夫(おりくち・しのぶ)を引用している。GHQが名づけたという国家神道という宮廷神道とはちがう、民間神道、つまり八百万(やおろず)の神々、アニミズムやシャーマニズムの神々、身近な土地に息づいた神々がもともと日本にはいたらしい。これは先住民たちの宗教だったのだろう。その土着の神々を上手に取り込んで、民衆支配のための国家の宗教に仕立てたのがアマテラスを中心とする宮廷神道。これが国家神道になる。GHQがはじめてそれを「国家神道」と名づけたというのは意味深い。民間の信仰が完全に国家神道に取り込まれて渾然一体化してしまっていたために(民衆には)一般に対象化できなかった、ということだろうか。政治と宗教との一体化はまだまだ日本に存在している。

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mojabieda * 読書 * 09:35 * comments(0) * trackbacks(0)
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