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「自由な民主主義は市民の責任と連帯を必要とする」 2

 ドイツの元大統領ヴァイツゼッカーの、白バラ記念演説「自由な民主主義は市民の責任と連帯を必要とする」のなかで印象深いことばに出逢った。

 このテキストは同学社の『Die freiheitliche Demokratie bedarf der Verantwortung und Solidariät ihrer Bürger』(大澤峯雄編)。ここに詳しい注釈があってたいへんに助かる。その注釈を利用させていただいた。

◯「すべての暴力に抗い立つこと(Allen Gewarten zum Trutz sich erhalten)」──ハンス・ショルは死刑執行人に身をゆだねる前に、このように独房の壁に書いた、とヴァイツゼッカー元大統領は演説する。

 この引用はおそらくインゲ・ショルの『白バラは散らず』(『Die Weiße Rose』)からだろう。調べてみると── 

◯ そのあと黙って壁にむかい、ちょろまかした鉛筆で何やら白い壁に書いた。監房のなかはなんとみいえないほど静かだった。彼が鉛筆を手ばなしたとたん、錠ががちゃがちゃして扉があいた。警吏たちが彼に手錠をはめて、裁判へつれて行った。

 壁に書いてあった文句は、『なべての力にあらがい立ちて』(ゲーテ『リーラ』より)だった」『白バラは散らず』(インゲ・ショル著/内垣啓一訳/未来社)p104

Darauf drehtte er sich still der Wand zu und schrieb mit einem eingeschmuggelten Bleistift etwas an die weiße Gefängnismauer. Es war eine unbeschreibliche Stille in der Zelle. Kaum hatte er(Hans Scholl) den Bleistift aus der Hand gelegt. da rasseltm die Schlüssel und de Tür ging auf. Die Kommissare legten ihm Fesseln an und führten ihn zur Verhandlung. Die Worte, die er noch an die Wand geschrieben hatte. hießen: "Allen Gewalten zum Trotz sich erhalten."

 さらに調べると──

◯「父親がよく口にしていたゲーテの一句を、勤労奉仕をしていた数ヶ月の間に、ゾフィーはよく思い出していた。「すべての権力に立ち向かうべし!」父親はよく大声で「すべての!」としか言わなかったが、家族の者にはこれで充分だった。ゾフィーの場合これは、自分自身に対する厳しさと、まわりの心地良さを捨て、良心の選択に従うということを意味していた。」『白バラが紅く散るとき』(ヘルマン・フィンケ著/若林ひとみ訳/講談社文庫)p87,88。

Eine Zeile von Goethe, die der Vater häufig zitierte, kam Sophie Scholl während der Monate beim Reichsarbeitsdienst oft in den Sinn : "Allen Gewalten zum Trutz sich erhalten!" wobei der Vater manchmal nur laut "Allen!" sagte, und dann wusste die Familie Bescheid. In ihrem Fall hieß das: Härte gegen sich selbst, Entscheidungen gegen sich treffen. Immer wieder musste sie sich diese Härte abverlangen.

◯「フランスと同じように、ときどき私も降参したくなっちゃうのね。でも、いかなる暴力にみまわれようとも!」『白バラの声 ショル兄妹の手紙』(1940年6月17日のゾフィーの手紙から)(インゲ・イェンス編/山下公子訳/新曜社)p161上。

Auch mir ist manchmal danach zu Mute, die Waffen zu strecken. Aber, allen Gewalten zum Trotz!

これらを読むと、「すべての暴力に抗い立つこと(Allen Gewarten zum Trutz sich erhalten)」は父親の教育方針(家訓?)だったらしい。

もともとはゲーテの「Lila」という歌劇の詩句らしい。ネットで調べてみると──

Feiger Gedanken (臆病な考えや)
Bängliches Schwanken, (不安な迷い)
Weibisches Zagen(女々しいためらいや),
Ängstliches Klagen (びくびくした訴えは)
Wendet kein Elend, (悲惨を変えられない)
Macht dich nicht frei. (おまえを自由にはしない)

Allen Gewalten (すべての暴力に)
Zum Trutz sich erhalten, (抗い立つこと)
Nimmer sich beugen, (屈服しないこと)
Kräftig sich zeigen, (雄々しさを示すこと)
Rufet die Arme (神々の力を)
Der Götter herbei!(こちらへ呼び寄せろ!)

 訳はテーゲー(適当)。

 ここでヴァイツゼッカー元大統領はいう──

 「かれ(ハンス)とかれの仲間たちがまったき生の肯定をどこから確信していたのか?かれらがナチの不正の政治体制に従う義務はないという信念をどのようにして得たのか?悪の政治をなすがままに行わせることは臆病なことだという深い内面からの自信はどこから生まれたのか?ゾフィー・ショル(ハンスの妹)は手紙の中でこう書いている──「わたしたちは政治的に教育された」。この政治的教育というのは抵抗の教育を意味するのではない。精神の自由への教育、自立的判断への教育、意志への教育、必要とあらば抵抗へと自己決定する教育だ。」

 ここを読むといろいろと考えてしまう。まずは政治教育ではなく政治的教育の必要性。ハンスやゾフィーはさいしょは父親が反対するのもかえりみず、ヒトラーユーゲントなどのナチスの活動に積極的にとび込んでいく。

 ヴァイツゼッカーはさらにつづける──

 「かれらには責任ある自由を本気で考えていた両親と精神的な教師がいたのである。両親たちは、若者たちがすべてを根底から新しく造り直そうとする一方で、古い世代が既成のものへ若者たちを順応させようとする世代間によこたわる根本的な矛盾を理解していた。その理解と精神と愛とをもって、両親たち古い世代は、若い人々がじぶん自身で経験を重ね、じぶんの目と感情と価値とに信頼を寄せてもよいのだという自信を持たせることに成功した。ここから「すべての暴力に抗い立つこと」という内的な力と確信とが育ったのである。

 それにしても、それほどまでに若者たちを自由にさせ独立させ誠実にさせるために、どれほどの時間と、思いやりと、揺るぎない態度とを古い世代は必要としたことだろうか!今日の若者たちに、白バラの学生たちが指針として用いたような精神的な基準を求める者は、われわれの時代においてはまず両親たちや教育者たちの基準を問いたださなければならない。」(訳はテーゲー)

 多感なハンスやゾフィーはやがてナチスの活動に幻滅し、みずからの判断と信念とを苦しみながら培っていった。そうして大学生となり、白バラというナチに対する抵抗組織をつくっていく。こういう道筋を父親たちも見とおしてはいなかっただろう。子どもたちが「英雄」とされることも望んではいなかっただろう。しかしかれらは自らの道を選んだ。それぞれの自立的判断と意志と信念とによって。子どもたちは親の足もとから羽ばたいて行く。逆縁だったが、それもまた運命として受け容れなければならなかったのだろうか。いろいろ考えさせられる。教育は政治よりも猛なるもの[激烈なるもの]かもしれない。

 ヴァイツゼッカーは演説のはじめにこう述べる──

 「『君たちの心にまとう無関心の外套を脱ぎ捨てよ。遅くなる前に決断せよ』。「白バラ」抵抗運動の人々が逮捕と死刑の直前に5番目のビラでこう呼びかけてから50年が過ぎた。いつの時代でも、とくにわれわれの時代でも、自分なりのやり方で、この呼びかけの受け取り人である自分を認めてきた。われわれはじぶんの内面に、白バラの合図に答えるこだまを、常に新しく感じ取っている。」

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mojabieda * 白バラ * 10:16 * comments(0) * trackbacks(0)

われわれ一人一人の、おのが現在

 あるドイツ語の学習用教科書を読んでいた。その中に「ウンゼレ・アイゲネ・ゲーゲンヴァルト」ということばが出てきた。

 ドイツ語で「現在」はゲーゲンヴァルト(Gegemwart)だが、ウンゼレ・アイゲネ・ゲーゲンヴァルト(unsere eigene Gegenwart)というと「われわれ一人一人の、おのが現在」ということになる。

 ドイツ語ではこういう言い方をするのか、と思った。「現在」とは客観的、普遍的な「いま」という時間を表すものだと思っていたが、その考えが根底からくつがえされたような気がした。

 「現在」という時間でさえ、一人一人がおのれの「現在」を持っているのだとしたら、「世界」だってそうだろうし、もちろん「現実」も「真実」もそうだ。それぞれがおのれの「世界」「現実」「真実」を持っているはず。そう考えることで、忘れていた何かを取り戻したような気がした。

 時間も空間も現実も真実も、すべて「向こう側」にあるような思い込みを、無意識にでもして来たのではないか。というか、時間も空間も現実も真実も「向こう側」によって無意識のうちに搾取されて来たのかもしれない。

 じぶんが世界と向き合っている現在、この「現在」はわたしのものだ。そういう思いは意志に通じているように思う。世界に一人立つというような個(孤)の意志。「ウンゼレ・アイゲネ・ゲーゲンヴァルト」ということばに、ヨーロッパ人の精神に流れるダイナミックな意志を感じる。

 ちなみに何の教科書かというと、ドイツのリヒャルト・ヴァイツゼッカー元大統領が1993年2月15日にミュンヘン大学で行った「自由な民主主義は市民の責任と連帯を必要とする」という小さな演説集。50年前にここミュンヘンを舞台にした「白バラ」の抵抗運動の記念演説。

 第2章のさいしょのあたり。訳すと「われわれは当時の出来事を思い起こすために今日ここに集まっている。この催しは、公開の回想や結束の儀式であってはならないし、それではあり得ない。およそ思い起こしというものは『われわれ一人一人のおのれの現在』の行為である。」

 「われわれ一人一人のおのれの現在」の行為であって、現在の「われわれ一人一人のおのれの行為」ではない。日本語があいまいだから、人も国もあいまいになってしまうのだろうか。核密約など、なにをいまさらとUSAなどは思っているにちがいない。

 原文は「Jedes Gedenken ist ein Akt unserer eigenen Gegenwart.」

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mojabieda * 白バラ * 22:24 * comments(0) * trackbacks(0)

『輝け!いのちの授業』の前半を読む

 ■ 『輝け!いのちの授業』(大瀬敏昭)の前半を読む。

 「指導内容や方法など、いわゆる目に見えるカリキュラムより、見に見えない、さりげない優しさや信頼関係など、いわゆる目に見えないカリキュラム(ヒドゥンカリキュラム)のほうが、どちらかというと大事であると考える。

 そのための取り組みの一つとして『明るく元気を標榜しない』ということがある。

 浜之郷小学校では、『明るく元気』な子どもを求めない。子どもたちは本来、元気でたくましく未来に向かって伸びていくものである。しかし、現実の子どもたちの中に、『明るく元気』に耐えられる子どもたちが何人いるだろうか。ほとんどの子どもたちが何らかの「傷」を抱えて学校に来ている。そういう状況の中で、あまりに『明るく元気』を求めすぎると、その陰の部分が生じてしまい、そこに入ってしまう子どもたちをつくってしまうことになりかねない。それよりも、『しっとり』とした環境の中で『さりげない優しさ』をもった子どもたちを育てたいと願っている。」(p23)

 ここを読んでいろいろ考えた。一つは「さりげない優しさ」と「しっとり」感ということば。これが「ヒドゥン・カリキュラム」につながっている。この「しっとり」感とはなんだろう?さりげない優しさとはなんだろう?ヒドゥン・カリキュラムということは、意識的にそれを求め、目的化してはいないということだろう。むしろ付加的に、あるいは結果的についてくるもの。しかし、カリキュラムという以上、どこかで、あるいは何かをすることで、結果するものであり、その方法・過程(あるいは遠い目標)を意識しているということだろう。ここのあたりがひどく微妙だ。

 ヒドゥン・カリキュラムということば自体が二律背反ではないのだろうかとさえ思う。神のみがすべてお見通し。おろかな人間は先が見えない。していることがどのような意味を持ち、何を結果するか、(前もっていくら想定し、展望し、意志し、謀っても)ほんとうのところは見えないままだ。

 意図していたことと、まったく相反することが結果することなど、世の中にザラだ。意志ははじめから矛盾している。何かある目的を意識・意志することで、逆に目的が果たされなくなることがある。

 人間の意志を重んじるヨーロッパ文明。それだから論理的・理性的に思考する力を鍛えたのではなかったか。意志だけでどうにでもなるものではないから。近代ヨーロッパの二元論。肉と霊。物質と精神。自然と人間。この二つのものの違いはどこにあるのか?(自然ではない)人間の定義とは?それは意志を持つ生き物ということだ。意志こそ人間の本質。これがヨーロッパの文化・文明の基調にあるのではないか。意志を重んじるからこそ、それとバランスをとるために客観的、普遍的な法則を捉えなければならなかった。

 もう一つは「明るく元気を標榜しない」という取り組み。ここも先のヒドゥン・カリキュラムに通じる。標榜するということは表のカリキュラムになる。結果として明るく元気になればいい。標榜してそれを求めることで、逆に暗く不元気になってしまう。そんな矛盾もいっぱいある。

 では何をめざしているのか・何を意図しているのか、というと「『学び』をとおして「ケアと癒し」を含み込んだ営みを行う場として学校を再構成すること」が必要であるとの由。さらにいうと「これまでの健康に立脚した強さを求める学校ではなく、弱さを自覚した子どもたちと自分の無力さを自覚した教師とが、『ケアと癒し』を含み込んだ応答的な営みを行う場として、さらにはその応答的な営みをとおして子どもたちと共に生きると同時に、大人自らも育つ場として学校を再構成する必要がある」と述べている。このような取り組みから結果として必然的に生まれてくるのが、先ほどの「さりげない優しさ」であり「しっとり」感なのだろうと思う。

 大瀬氏は6時間にも及ぶ手術のあと、目覚めた集中治療室でサザンの『バラッド』を聞く。ナースたちの動きや声もてきぱきとして明るい。それで考える。「『最大の弱者状態』の患者のみが入るICU(集中治療室)が、『暗く』、流される音楽も『滅入る』ようなものでは病気の快復のためにもよくない」と。

 このナースたちの動きは果たして意図してできたものか、それとも自然にそうなったのか。わたしは状況と対面し続けるうちになされる必然の動きだろうと考える。患者のケアというより、医療従事者みずからの「癒し」だろう。必然的に「癒し」の明るい曲になってしまうのだろう。

 「ケアと癒し」を目指すのではない。「学び」を通してそれを自然に含み込んだ営みをしようということだ。したがってその「学び」は必然的に応答的なものにならざるをえないだろう。「学び」を通しながら共に生きているのだから。そうして結果として大人みずからも育ち、学ぶ。ここから「しっとり」とした環境が生まれてくるのだろう。そこから「さりげない優しさ」も生まれてくるのだろう。あからさまな、おおげさな、これみよがしではない優しさ。

 相手が「さりげない優しさ」を表そうと意図するのではない。こちらが「さりげない優しさ」を感じるだけだ。相手はごく自然にふるまう。その自然な振るまいが「さりげない優しさ」としてこちらに感じ取れるほど、「しっとり」とした関係をつくるということだろうか。

 発する者と受け取る者との調和が「しっとり」ということばで表される。非常に東洋的というか日本的だ。

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mojabieda * 読書 * 07:48 * comments(0) * trackbacks(0)

少しの秋

 少し秋らしくなってきた。

 はす向かいの家のコスモスが一輪咲いた。この前の町内の広場の掃除は落ち葉集め。半袖で朝はすずしい。

 こういう日にはMilli Vernonの「Introducing」などを聴くのがいい。まったりとしたJazzの女性ヴォーカル。このCD、ある時期に日本で注目をあびた。録音は1956年。古いレコードやCDはオークションで高値を呼んだらしい。いまでは奇跡的に簡単に手に入る。

 今日もまた現実逃避。『ビザンチン・ロシア 思索の旅』(川又一英/山川出版社)を読むと、イオニア海にパルガという港があるらしい。川又が「イオニア海の真珠」と呼んでいる(p306)。「まさにここを手に入れるためには、悪魔に魂を売り渡してもいいと思われるほどの魅力あふれる港」だという。この港を手に入れたために、「イオアニナのライオン」アリ・パシャはオスマン帝国に睨まれてほろぼされる。

 世の中はぐるぐる回りすぎてめまいを起こしそうだが、そんな町を想像しながら少し秋らしい日を過ごす。

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mojabieda * 日記 * 06:45 * comments(0) * trackbacks(0)

国家反逆者の名誉回復

 悪法も法である、という。しかし悪法はやはり悪法だ。ドイツでは戦後64年たって、ようやくナチス司法によって「国家反逆罪」を宣告された兵士たちが一括して名誉を回復した。  

 ナチスドイツは第二次大戦時、利敵行為や国家を害する行為をしたという理由をつけ、反逆罪で二万人を処刑したという。しかしこの反逆罪じたい、どこかの極東の国の「治安維持法」のように、政治的に気に入らない者たちを恣意的に「処分」するために利用された道具にすぎなかったのではないか。  

 個別審議を経ないで「一括」というところがすごい。ナチスドイツとドイツ軍に弓をひいた「逆賊」、しかも当のドイツ軍兵士の「反逆」。かれらに対する「反逆罪」判決を一括破棄し、名誉を回復させた。この64年は長かった。しかしそれでもドイツはなしとげた。永く引きずっていた「第二次大戦」の影からようやくきっちり足を洗い、決別しようとしている。  

 さて、では日本はどうか?横浜事件は?(兵士ではなく)一般市民でさえも、個別的でさえも、名誉回復をなしえた例はあるのだろうか。  

 このニュース、日本の大マス・メディアは報道したのだろうか。わずかに「die rote Fahne」が9月10日に伝えている。  

 極東もドイツも一度クニが滅んだ。しかし極東でもドイツでもクニを滅ぼしたのは決して国家反逆者でもヒコクミンでも不良少年でもなかった。 

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mojabieda * 時事 * 20:57 * comments(0) * trackbacks(0)

池田香代子講演会・映画「NAKBA」・広河隆一写真展

  池田香代子さんの講演会と映画「パレスチナ 1948・NAKBA」と広河隆一さんの写真展がひらかれます。









mojabieda * 講演 * 19:06 * comments(0) * trackbacks(0)

高校生クイズと古典

 高校生クイズの決勝戦をテレビで観た。

 わたしが分かったのは醍醐味とパノプティコンと論語の漢文だけで、後はちんぷんかんぷん。数学オリンピックの問題やらメンサとよばれるIQ140以上の集団から出された問題やら。ここまでくる高校生たちは最難関の大学も合格するくらいの人たちなのだろうと思う。しかし決勝の最後の最後の問題で、拍子抜けした。

 雌雄を決した最後の問題が孟浩然(もうこうねん)の漢詩「春暁」(しゅんぎょう)の承句(第二句)を(ひらがなでもいいので)書き下せという問題だった。で、ここまで勝ち抜いてきた優勝候補筆頭のチームが敗れた。何か異様な感じだった。

 この違和感は二つある。しかもつながっているところが困る。

 1 「春暁」は中学校レベルの漢詩。実業高校の教科書にも載っているし、漢詩の中では入門中の入門みたいな唐詩の代表、人口に膾炙したもの。これが分からないということは、昔の日本人が小さなころから学んできたような古典教養を、今の「エリート」高校生たちがどれほど身につけて来ていないのか、ということを浮き彫りにさせた。

 2 「春暁」は(漢詩という)日本の伝統的、入門的な古典だった。それをあえてこの場面で出題した。出題者の意図は、日本の古来からの「伝統」文化をいかに現在の高校生たちが身につけて来ていないのかを浮き彫りにさせ、かつその「伝統」文化を学校教育でどれほど教える必要性があるのかをアピールすることではなかったか。

 新しいガクシュウシドウヨウリョウには「神話」を教えろとまで明文化されている。テンソンコウリンもふくまれるのだなあ思った。

 神話からカミカゼまではあと一歩

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mojabieda * 教育 * 06:56 * comments(0) * trackbacks(0)

二大政党制は民主主義の墓場

 アーサー・ビナードさんがある新聞の7月28日の「シリーズ現代の視点」で「二大政党制は民主主義の墓場だ」と述べている。「二大政党制になってしまうと、なかなかそこから抜けられない。多くの米国民は、共和党と民主党以外の政治勢力、市民の真の味方になる政党が欲しい、欲しいと思いながら、毎回、どっちもどっちの『ハンバーガー』か『チーズバーガー』かの選択を迫られて」いるという。さらに「オバマの登場は、その閉塞感を打ち破りたいという国民の願いの表れでもあったと思います」。

 二大政党制──ハンバーガーかチーズバーガーか。いわば満腹して餓死する「ジャンクフード」を選ばされるわけだ。

 この「二大政党制は民主主義の墓場だ」ということばの出典を調べているが、ネットによれば5年ほど前に小森陽一さんが語っているようだ。

 小選挙区制から生まれる膨大な「死票」。ほんらいの得票率からすれば、さまざまな政党の多様な勢力図が生まれるはず。それを小選挙区制にして現実的な選択肢が二つしかないというのは国民の多様性を認めない少数圧殺の制度。しかもどちらを選んでもペプシコーラかコカコーラほどにも違わない双子の保守政党。政権が変わることで政治が根本から変わったようにみせかけ、国民の目をたばかっているだけではないのか。どうやら国民が望んでいた、というより財界が(永年)望んでいた通りのシナリオになったようだ。

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mojabieda * 政治 * 20:27 * comments(0) * trackbacks(0)

新エネルギーの話

 先日「日本におけるエネルギー消費の現状と新エネルギーへの期待」という講演を聴きました。講師は河島義郎氏。NPO法人しずおか環境教育研究会理事長、NPO法人静岡森林エネルギー研究会監事です。

 日本におけるエネルギー消費の現状と新エネルギーのお話でした。

 1日の食事は一人2500キロカロリーほどでこれは石油では0.3リットルのエネルギーだそうです。つまり車なら3キロくらい走るだけ。ときいて人間はエネルギー効率がいいんだなあと思いました。玄米1キロの生産も同じくらいのエネルギーを使い、紳士服のジャケット1枚は7リットル、1800㏄の車一台の生産には1442リットルなど。つまりエネルギーはさまざまな物の生産に使われているということです。

 その日本のエネルギーの半分弱が石油から生まれています。70年代には7割で、政情不安定な中東依存から脱しようという国家的な動きがあり、今は半分弱だそうです。エネルギー消費は1965年から2006年までの40年間、産業部門ではほとんど変わらなくて、少し上がっているだけ。それだけ企業は省エネの努力をしてきたようです。しかし民生部門の消費が2.5倍に増えました。運輸部門も2.1倍に。

 発電に関しては2007年の25%が原子力。天然ガスや石炭も同じくらいでトップスリー。10%が石油です。石油の率は少ないけれど、石炭が安いので使われ、いちばんCO2が出るようです。

 日本のエネルギー自給率は4%。あぶない状況です。食糧自給率は40%といわれます。政府は資源エネルギー庁をつくり、新エネルギー10種類をあげています。ここには原子力はありません。原子力はCO2を発生させませんが、すでに実用化されているということで新エネルギーにはあげていません(深読みすると、やがて新エネルギーにとってかわるべきもの、と考えられているのかな、と思いました)。

 新エネルギーとはまず太陽光。パネル生産は世界一だがいまに追い越されるといわれます。一位はドイツのある企業だそうです。二位はアメリカ企業。三位が中国、日本は四位でシャープが入ります。そのほか京セラ、サンヨー、三菱などがいるので合計でトップにすぎないということです。太陽光発電量のトップはだんとつでドイツ。各家庭で余った電気を売っていますがドイツは日本の三倍の値段だそうです。日本も今の値段を二倍にするそうですが。

 太陽光エネルギーの単位はエクサジュール。10の18乗のことを「エクサ」というそうです。世界で年間400エクサジュールのエネルギーを消費するようですが、太陽光はその7000倍だといいます。膨大なエネルギーです。サハラ砂漠をすべてパネルで覆えば世界のエネルギーは大丈夫。実際にそういう計画あるそうです。富士宮市なら2.4%の敷地利用のパネルで年間の市内の(家庭や工場の)電力がまかなえるそうです。しかしその費用に6480億円かかるといいます。

 風力はコストが低く夜間でもよく、エネルギー変換率が高いそうです。40%を発電エネルギーに出来るようです。太陽光の効率は12.3%。風力発電のトップはやはりドイツ。日本は低くて13位。平地が少ないためだそうです。また毎秒6メートルの風速がないと採算がとれないといいます。静岡県は2、3年のうちに日本でトップになる地域だそうです。

 つぎはバイオマス発電。バイオマス熱利用。  家畜の糞尿、薪などを使います。薪を燃やせばCO2が出ますがが、「カーボンニュートラル」つまりもともとあったCO2を植物が吸収したものをまた大気中へ出しただけになるそうです。

 それから水力発電。とくに中小規模の水力発電(水車なども)。1000キロワット以下のものです。富士宮には10箇所そのような水力発電があるそうです。

 さらに地熱発電。蒸気と熱水。静岡県にはないそうです。全国で数十箇所の由。

 また太陽熱発電。お湯をわかす。家庭では1月だけお風呂のお湯をまかなえないだけだそうですが、昭和が最盛で、今はじり貧の由。復活すべきでしょう。

 そして雪氷熱利用(氷室など)と温度差熱利用(温排水利用)とバイオマス燃料(ペレットボイラー)と燃料電池で10種類。

 バイオマス燃料とはトウモロコシからエタノールをつくり車の燃料にするものです。バイオディーゼルなど。菜種油や天ぷら油も車の燃料になります。

 さいごの燃料電池は今年から実用化。水素をどこからもってくるかが問題だそうです。電気自動車は三菱などで今年から本格的に発売。電池はニッケル水素電池で74%のシェアは日本だそうです。ニッケルカドミウム電池生産の半分が日本。これから発展するリチウムイオン電池の生産も日本が半分だそうです。

 以上さまざまな新エネルギーのお話でした。
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mojabieda * 講演 * 06:44 * comments(0) * trackbacks(0)

夏の思い出





 写真はロッジからの展望と展望図。左端中央のこんもりした杜に伊雑宮がある。

 この夏の唯一の旅行はお伊勢まいり。旅をしながら『伊勢神宮』(千田稔/中公新書)を読む。  

 志摩のスペイン村で子どもたちと1日遊んで、泊まったところがスペイン村のそばの伊勢志摩ロッジという昔の国民宿舎。この伊勢志摩ロッジの立地場所がおもしろい。

 ロッジのすぐ横に「おうむ岩」という、巨大で奇妙な岩がある。どういういわれの場所か分からないが、一見して「聖地」の雰囲気がある。写真を撮ったが、撮ることじたいが罰当たりという感じで、おそれ多くて公開できない。

 このロッジは山の中腹にあり、ここから伊勢神宮の別宮である伊雑宮(いぞうぐう)の杜が眼下に眺められる。伊勢神宮参詣の前に、まずこの伊雑宮へお参りをする。

 志摩の地にある伊雑宮はみるからに由緒ありそうな神社。門前の街道の家々もなんとなく由緒ありそうな雰囲気。家々の門口に小さな注連飾りが掲げられ「笑門」と記された木札が付いている。なにこれ?と思う。「蘇民将来(そみんしょうらい)」という民間信仰とかかわるものらしい。この蘇民将来という伝承もおもしろくて奥が深そうだ。

 境内はうっそうと茂る梢高い杉の林。伊雑宮のつくりは伊勢神宮にあった別宮と同じつくり。閑静な神社だった。ちょっと気兼ねしながらも写真を撮らせてもらう。

 『伊勢神宮』にもこの伊雑宮が出てくる。この神社の神事に「太一」という文字が掲げられるらしい。後漢以来廃れてしまった「太一」(北極星の意味らしい)という中国の道教とかかわりがあるという文字が、この地に残っている。『伊勢神宮』によれば、「天皇という語は道教の最高神天皇大帝(てんこうたいてい)に由来するという」という。道教では北極星が最高神を象徴するらしいが、そのような「星の宗教」が、アマテラスという「日の神」、つまり太陽の宗教と「同一化されるという宗教的習合がなされた」という。このアマテラスの信仰は対馬の天道信仰に関係するという。このあたりはミステリアスだ。

 さて、そのあとお伊勢まいり。お伊勢さんの周辺は年々にぎやかになっている。赤福も繁盛していた。帰り道で神都麦酒というのを買う。風変わりなお米のビール。しかしなかなかいい。

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mojabieda * * 18:30 * comments(0) * trackbacks(0)
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