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夕食はいつも年越しそばではなく年越しラーメン。正月用のビールは風呂上がりにとっておく。正月用にかろうじて蟹は買ったけれど、イクラはとりやめ。いくらなんでも高すぎるので。
大掃除は風花舞う大晦日に終了。というか途中であきらめた。冷蔵庫の奥地とか雨樋の修理とかは、もういいにした。なまじ、徹底的に掃除をするから、目の前にほこりが見えたりすると気になったりする。
久し振りにトランプを取り出す。下の保育園児に二桁の数字を理解させて「ダウト」をした。1年生の上の子はさいしょから「ごまかす」ことに習熟している。というか、最初から最後までうれしがってデタラメなカードを出している。デタラメでも通用すること、人の目をごまかすことがおもしろいらしい。だからカードを出すごとに、「ダウト」と言ってやると、すべて当たる。バカだなあと思う。人の裏の裏をかくことまではまだ思い至らないみたい。
5歳の子のほうは、カードをひろげたり、後ろ向きになってコソコソしたりして、「(数字のカードが)ない・・・」と言いながら(どうしよう、という顔で)こちらを見ている。バレバレではないか。「でたらめな数字でもいいんだよ」と教えさとすと、ニヤニヤ照れ笑いしながらでたらめなカードを出す。「ダウト」と言ってやると、ひっくり返って泣いて怒る。ちょっといじわるかな。
しかしこういう単純な時代が人生でいちばん良かったのだろう、ちょっとした遊びにも夢中になれるから。
さて大晦日はとくに観るテレビ番組もないし、宝くじの当選番号を確認したらもう楽しみもなくなる。心残りはたくさんあるけれど、とりあえずビールがあればいいかな。
とりあえずよいお年を。
テレビで岡林信康を観た。60歳を過ぎ21世紀になって今がまた旬になっている。かつて時代の先端を走っていたが、めぐりめぐって、また先端にいるようだ。いいなあと思う。中高年の希望の星。声もますます艶がでてきたような気がする。繊細な声になった。すごいなあと思う。「神さま」が人界に降りてきて、時代をまたリードしている。
記憶にある「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」などの岡林信康は、若くしてひげもじゃもじゃの、ドロドロとしたエネルギーを発散する「教祖」のような風貌だった。その後のことはまったく知らない。いま、年を取った姿を見たらまったく別人のよう。穏やかな風貌の「普通」の人になっていた。フォークの神さまがスレンダーでしゃれたロマンスグレーの歌手に変貌していた。
いまも現役バリバリだ。「あの時代(ころ)」がそのまま現役という、そういう人がいるだけで元気が湧いてくる。
以前夜中に放送していた『宇宙戦艦ヤマト』の再放送の録画を子どもたちに観せて以来、子どもたちは『宇宙戦艦ヤマト』に魅せられてしまったらしい。
地元の映画館で『宇宙戦艦ヤマト 復活編』が上映されるという情報を子どもたちがどこかから得てしまったので観せに行かないわけにはゆかなくなった。
わたしの子どものころ、東映の映画館が家の近くにあったため、(子守りとして)小さなころから戦争映画ばかり観せられつづけてきた。まあ、いいかと思って初日の12日に観に行く。
その日、子どもたちは朝から宇宙戦艦ヤマトの歌を唄ってわくわくしていた。子どもたちは映画館にはじめて入る。宇宙戦艦ヤマトでも、かつてのイスカンダルをめざした松本零士の宇宙戦艦ヤマトではない。
じっさいに映画を観てまずびっくりしたことがいくつか。
一つは映画の冒頭のロゴ、一つは映画の最後のロゴ。
冒頭のは「原案 石原◯太郎」とあった。うわさには聞いていたが、ほんとうだったのか。観なきゃよかったと思った。
最後のは「・・・復活編 第1部」とあった。第2部があるのか!?小僧らがまた観に行きたがるぢゃないか、と思った。
さらにいろいろ思ったこと。星間国家連合をたばね、力で抑えている敵の専制国家(星)をSUSと称しているけれど、なんとなく現在の「国際社会」をたばねているUSAを連想させる。敵の連合のなかで、その星だけがなぜかSUSとアルファベットになっている。さらにヤマトに積むミサイルのようなものの腹に「乾坤一擲(けんこんいってき)」などと記してある。なんだかなあと思った。
内容は、ちょっとストーリーのつくりが雑なように感じたが・・・。敵はデスラーのような(同じニンゲンという古いタイプの)敵ではなかった。妖怪みたいなキッカイな敵。
そのあと、あろうことか、わたしはプラモデルの宇宙戦艦ヤマトを買ってしまった。後日、接着剤などを購入して家で数時間かけて造った。プラモデルを作るのは小学校以来だった。子どもたちはその後、完全に「ヤマト症候群」に襲われて、(テレビで宣伝している)エンディングの曲を口ずさんだりしている。以前テレビで放映したのを録画した映画『男たちの大和』(DVDにしてある)をなんどもなんども観ている。戦争映画ばかり観せていいのだろうかと思う。
といいながら、子どものころによく行ったプラモデル屋まで子どもたちと行って、戦艦大和のプラモデルまで買ってしまった。小学生のころ戦車のプラモデルばかり造っていたわたしは、思わずいっしょに1/48スケールのドイツ戦車のタイガー鵯初期生産型を買ってしまった。プラモデル屋に行くと、うちの保育園の小僧が、(外国の戦闘機なのに)「あっ、ゼロ戦がある!」とか、別の軍艦なのに「大和だ!」とか、「(日露戦争のときの旗艦だった)三笠はないの?」とか言う。「三笠」のプラモデルなどあろうはずがない(とはいえ、さいきんの司馬遼太郎原作のNHK番組の影響でまた有名になるかも)。こいつら数十年前のわたしのころの子どもみたいだ、と思った。いまはこういうプラモデルははやらないだろうな、と思った。
それにしても、子どものころにあった戦車や戦艦のプラモデルなどいつでもどこでもあるものだと思っていた。しかし世の中はすっかり変わってしまったらしい。わたしが子どものころよく造ったドイツ戦車のプラモデルなどもうとっくに生産中止になってもいいような時代なのだろう。いまの子どもたちには売れそうもない。あのころの戦車は電池で動いた。壊れるまで遊んだ。いまは飾るだけみたい。
いつでも変わらずにあるものだ、という思いが、年をとると、どんどん覆されていくのに気づかされる。ひどく大げさにいうと桑田変じて蒼海となる、というような思い。
今日は行きつけのラーメン屋でワンタンメンを食べる。580円。
左右はスポーツ新聞やマンガを読んでいる。わたしもちらちら横からのぞくが、みずから手に取って読もうとまで思わない。
しんぶんもテレビも見なくなった。
さいきん思うのは「テレビを見る」のではなく、「ある私企業の、あるいはレギールングのテレビ局が特定の意図にもとづいて編集し発信した番組を見せられている」のだということ。たとえばわたしが何かじぶんが作りたい番組をつくって全国津々浦々の茶の間に届けたいと思っても、それはできない。それができる、ということがどれほど異常なことなのかということ、どうして限られたいくつかの系列テレビ局にそんな権利があるのかということ、をふとワンタンを食べながら思ってしまう。
ものすごい特権。じんだいな影響力だ。たいがいは1回ぽっきりの放送で終わってしまうから脳みそからかき消えてしまうが、ニュースなどは毎日あって、毎日毎日繰り返されると怖ろしいことになるはず。あるテレビ局のニュースでは毎日毎日アレにかかわることはどんな小さなことでも針小棒大に報道する方針だ、とする。そのアレは必ず万人の脳みその奥へ(本人は自覚しなくても)刻まれていくだろう。そうしてアレ問題が個々人の無意識の領域で力を発揮し「コクボー」の必要性を説く「ハーメルンの笛」にウマウマと追随してしまう。ということになる。
さて、このワンタンメンにはチャーシューも海苔も、なるとまでも入っている。値段も安くてなかなかいい。しかし毎日毎日同じメニューを食べていれば必ず飽きてしまうにちがいない。ニュースだって同じことを(ウソでもホントでも)毎日毎日繰り返したら飽きてしまうはずなのに、じっさいはそうでもないみたい。それほど主体的に「味わおう」としているわけではなく、ただ受動的に「眺めている」だけだからだろうか。