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年度が替わると事務仕事の引き継ぎをしなければならない。
いつも思うのは、一太郎やワードの書類は基本的にそのアプリケーションがないと開けない。すると前年度の書類も使用できなくなる。なんという不便なことだろう。民間会社のつくったソフトを購入しないと、一般的な事務仕事に必須な書類さえ利用できないとは。ワードなど、さらにひどくて新しい書類は古いソフトでは開けなくなる。同じワードなのに、さらにお金を出してアップグレードしなければならない。
デジタルのテキストデータなど、空気みたいにその利用は人類共通の財産みたいなものだ。いつでも・どこでも・だれでも無料で利用できなければならない。それをいわばさまざまな民間会社が囲い込み、縄張りをつくって占有している。その書類を使用するためにはそれに対応したソフトを購入する金を払わなければならない。みみっちいしバカらしいし(ひろさちやではないが)狂っている。
企業にはもっと違う儲け方があるように思う。グーグルなど、たいへん便利な検索エンジンで、その使用は無料でありつつも、膨大な儲け方をしているではないか。
ほんとうに情けないが、大嫌いな(使いずらい)ワードも一太郎も仕方なく使っている。それらが普及しているからだ。良いものが普及しているのではなく、普及しているから仕方なく使っているにすぎない。
ちなみにMacのPagesというソフトはpdf書類にもワード書類にも簡単に書き出せるたいへん便利なソフトだ。
保存はテキストデータとしてしっかり保存している。それをどのように「加工」するかはさまざまなワードプロセッサーに任せればいいからだ。人に渡すときにはテキストデータ、ワード書類、一太郎書類、pdf書類にして渡せばいちばんいい。しかし面倒なことだ。
ユーザーにとってたいへん便利なソフト、かつ企業ももうかるソフトを、なぜつくらないのだろう。できるだけ互換性のある、どんなユーザーにも使えるソフト。そういう便利なワードプロセッサーをつくることで、どれほど儲かることだろう。便利であれば必ずじわじわと広く普及するはずだ。それによって徐々に儲かっていく。その儲けは恐竜の頭ではなくわずかな尻尾ぐらいの儲けだが、それが膨大に集まる、そういう戦略に立つ企業はないのだろうか。
『保護者と仲よくする5つの秘訣』(高文研/今関和子)を、土曜日の今日講演会があるので、その前に読了。
生きにくい社会と学校は大人も子どもも同じだろうと思った。秘訣編と実践編と二部に分かれているが、一人の子どものかかえる状況は複雑で、それを解きほぐすために二部に分けて記述しているようだ。秘訣編はいわば理論・方法論(まさに秘訣)を語り、実践編は実践レポートを通して一人一人の生徒への関わりの事実を記している。
描かれているのは、小学校の現場の生きにくさや、ちいさな生徒たちが抱えている生きにくさ。さらに保護者の生きにくさ。そのなかで生徒や保護者の屈折した心のひだを丹念に解きほぐすかのような丁寧で適切な指導やアドバイス、保護者や校長まで「登場」させる実践、保護者と保護者をつなげる実践、さらに個の問題を集団へと投げ返し、集団の力を引きだす実践などなど、たいへんにすぐれた実践が、さまざまな局面に対応して記されている。
教師も保護者も、(お互いのことを知るためにも)ここから学ぶものがたくさんあるだろうと思った。とくに気になった(印象に残った)箇所をそのまま(文脈から切り離されているが)記してみる。
◯子どもの生きづらさも大人の生きづらさも、本当は別のところに大きな原因があるのにも拘わらず、弱いもの同士が頭をぶつけ合い、いがみ合うことになっているのではないかと思うと、とても心配になります。/「ちょっと待って! それは違うのよ。問題にしなければいけないことはもっと深いところに、そして別のところにあるのに、私たち弱者同士が、頭をぶつけ合うことはない!」と、私は大きな声で言いたくなります。p2
◯子どもが理解できないときはしばらくそっとして様子を見るのもいいことだと思います。/しかし一般には、「一斉授業の枠に入らない子はヘンな子だ「」という思いが教師の中にあるように思います。最近はその上、教員評価まで加わってきていますから、「ちゃんと座らせないのは教師の指導力の問題だ!」と管理職から指摘されることにまでなります。これでは、教師が子どもたちを理解しようとする意欲をそぐようなものです。子どもを教育する現場で大問題が起きているのです。p27
◯教師は学び続けなければ、教師であり続けることは難しい。p30
◯子どもは未発達だから子どもなのです。だから学ぶために学校に来ているのに、「問題のある子」になってしまうのは悲しいことです。子どもは発達するために問題=発達課題を持っていて当然なのです。解決し、発達を保証するのが教師の仕事です。子どもや保護者の子育ての問題としてだけ考えたら、極端な話ですが、教師はいらないのです。p30
◯同じ言葉であってもその言葉の中にある「心」が伝わっていきます。p42
◯「娘の個性を信じることが娘を伸ばすヒケツです。私は芯からそう思いますよ!」と書きました。p47
◯大変なクラスを持ったときも同じです。貧乏くじを引いたなどという発想にならずに、逆に教師としてのやりがいを感じるのです。p69
◯今、身を粉にしてめいっぱい働いて・・・そんな人がとても増えています。とりわけ低賃金で・・・働く・・・シングルマザーの子どもたちは・・・父子家庭の場合も深刻です。・・・それでも文科省は「子育ての第一の責任は家庭である」と言っています。この国の家庭はぐずぐずに崩れ出しているのに、です。p51
◯何でも受け入れてしまう親しさは信頼とは違います。距離感というのは、教師自身の人権感覚の問題だと思うのです。保護者のトラブルに対して保護者の人権を尊重すると共に、自分の人権も尊重することを同時に考え主張していくこと、人権感覚を研ぎ澄ましていくことが、保護者と共に教育をつくり出していく上で、とても大切です。p96
◯[今関さんは父母でも保護者でもなく]養育者[という言い方をする]p98
◯私は子どもたちを男の子も女の子も「◯◯さん」と呼びます[その理由を3つ述べているが省略。これも今関さんの人権意識・感覚から来ている。子どもを子供などと記したら、大目玉を食いそうな感じ]。p98
◯「今が順調なのがいいかどうかはわからないでしょ。」p104
3月18日の新聞によると、牧之原の坂部にある空港(富士山なんとか空港)の赤字は3億5400万円。それに搭乗率保証で日航へ支払うべき支援金が1億円ほど(まともに支払えば──県は支払わない腹だ)。当初想定された赤字よりも膨らんでいるという。それにしても「御祝儀相場」の開港1年目ですでに予想を上回る赤字だから、この不況のご時世、しかもエコと緊縮家計の世の中、あとは推して知るべしだろう。
いっぽう、空港用地取得で未買収地を強制収用した件を違法とした訴訟の判決が18日に出た。原告敗訴だ。
オキナワも、オキナワでもなくニホンでもないモノのための人身御供になっている。ニホン政府は外国グンと自国Bauunternehmerに牛耳られているのだろうか。あるいはすでにベイコクと「密約」ができているのかも。
「インゲン豆とうなぎ」が出てくる講話を聴いた。
インゲン豆のつるは右巻きに伸びるのだそうな。それを無理して左巻きにさせて育てると収穫量が2倍になる由。さらにうなぎの稚魚をカナダから空輸させると8割がた死んでしまうが、そのなかに天敵のなまずを入れてやると、2割は食べられてしまうが、残りの8割はいきいきとして日本に届く由。
それでその人は何を言いたかったのかというと、人間もストレスや逆境があってこそ強くたくましく生き延びるということらしい。宗教家とか学校の先生がいかにも好きそうな話だった。
わたしはまずこの話の発信源に興味をもった。
このインゲン豆の話の出典をたどってゆくと、名古屋大学大学院の手塚修文(人間情報学研究科環境情報論講座教授)氏の研究によるものらしく、2001年の8月8日のY新聞の朝刊にその記事が載っているらしい。
さらになまずの話はたどってゆくと、その発信源はひろちさや氏の本や講演にあるらしい。さらなる源があるのかもしれない。
2001年8月8日のY新聞には<インゲンのツル、逆巻きにしたら緊張感で収穫2倍> という記事が、2004年9月10日のY新聞にはひろさちや氏の講演のなかのうなぎとなまずの話が朝刊に載っているという。いずれも大新聞のY紙。いかにもという話。
この2つの話を1つにセットにした話もお寺さんのホームページでみかける。このセットにもどこかに発信源があるのだろうか。
それはともかく、うなぎと人間は同類ではない。ましてや、人間とインゲンとを同列に扱うことはできない。似ているところは「ニンゲン」と「インゲン」とが脚韻を踏んでいるところぐらいか。それにつる性の植物はインゲン豆だけではない。少なくとも科学的・論理的な話ではない。
しかし、このような講話がなんとなく説得力をもってしまうのはなぜだろう。「スピーチとスカートは短いほどよい」みたいなレトリックの力によるものなのだろうか。それともその場の雰囲気や話の前後の文脈によるものなのだろうか。
今日はエバーグリーン講演会がひらかれました。百人ぐらいの聴衆が四ノ宮浩監督の話を聴きました。
四ノ宮監督はフィリピンのゴミ捨て場の「山」に暮らす人々や子どもたちをドキュメント映画にしています。監督はまさにこの世の「地獄」と呼んでいましたが、DVDの映像を観せてもらい、そのとおりの状況だと思いました。とくに乳幼児が亡くなっていくのは、救いようのない悲惨な情景でした。
とはいえ、あとの(実行委員会の)座談会の話を聴きながら思ったことは、それでもこの子たちにとって、たとえゴミの山であろうと、そこで生まれ、そこで家族とともに過ごし、貧乏のなかでも強い愛情で家族がむすばれていた以上、そこに生きられたアドレッセンスがあったのではないか、ということでした。
監督の話で一つ記憶にあるのは、そこに住むようになった人が、(さまざまな不運を)「人のせい」にすることがなくなった、ということ。これはパブリック・イシュー(公に論ずべき問題)をプライベート・トラブル(すべてを自分のせいにして個人の問題として一人で苦しむこと)に回収して押しとどめる、ということではなく、おそらく従容として「いま・ここ」をあるがままに受け容れる生き方をするようになった、ということを意味するのではないかと思いました。
しかしながら、ここには政府の最低のセーフティネット(命綱)さえないようです。いわばその国の(あるいは、その国にかかわる世界の)矛盾やしわ寄せを一身に背負った人々や子どもが暮らしているようです。排除され排斥された無道な「地図にない村」。
見田宗介の『現代社会の理論』(岩波新書)の中に次のような叙述があります──南アメリカのドミニカでは、先進資本主義国による世界最大級の砂糖工場と砂糖キビ農園があるが、その契約地の農民は土地の全部に砂糖キビを作付けすることを義務づけられ、その結果、自分たちの食料を作る土地は無くなっている。飢えた農民が土地の一部に自分たちの食料となるものを作付けした時は、軍隊が動員されて、作物は根こそぎ引き抜かれてしまった──
このような無道な「つくられた貧困」はおそらくフィリピンにもあてはまるように思います。フィリピンですぐに連想するのは、スーパーにあるフィリピン産のバナナ。バナナだけではありませんが、これらはフィリピンではなく先進資本主義国の大企業(多国籍企業)の「生産品」。その多国籍企業がフィリピンの土地と農民とを利用するだけ利用して生産し、先進資本主義国へ輸出したもの。いわば先進資本主義国の、先進資本主義国による、先進資本主義国のための農作物でしょう(土地と労働力だけ現地調達して搾取するだけ搾取するようです)。詳細は岩波新書『バナナと日本人』(1982)にありますが、あとに残されるものは疲弊し使い捨てられたフィリピンの貧しい土地と農民・・・でしょうか、あたかも「ゴミ」のごとくに?・・・
そうしてみると、ゴミ捨て場から見えてくるものはフィリピンの国情だけではないようです。
ともかく、エバーグリーンの若者たち、講演会の準備と運営と片付け、おつかれさまでした。
会場にかわいい赤ちゃんがいて、おもわず写してしまいました。
DVDレコーダがとつぜんお釈迦になったので、しかたなくブルーレイ・レコーダーにした。一つ型が古い少しでも安いものを。SOかPAか迷ったが、なんとなくSOにしてしまう。で、実際にDVD-RとBD-Rとに録画してみた。DVDで録画するとその番組の放送時間分くらいの時間がかかる。これはあまり実用的ではない。しかもDVDの画像はかなり荒い。これも実用的ではない。
しかしブルーレイにダビングすると、ダビング時間はぐんと短くなり、LR、SR、DRの録画形式の差もあまりないほどのハイビジョンで録画される。容量も24ギガあるから、かなり入る。さすがだなあと思う。これではとてもDVD-Rにはもどれない。あとはディスク1枚の値段が下がればいい。
とはいえ、アナログ放送だったら、DVD-Rで充分にたくさん録画できる。わざわざデジタルもブルーレイも必要ないのに、と思う。デジタルの方がきれいだが、たかが電気紙芝居(=テレビ)、アナログ放送で充分だと思う。
それからダビングテンというのが気になった。録画したものをメディアにダビングするのに10回しかできないという。10回もダビングしないからいいけれど、1回プレイリストをつくると、ダビングしていないのに、残り9回となってしまう。だとすると、何回も編集しなおしてプレイリストばかりつくっていると、残り回数はどんどん減ってしまうのだろうか。10回も編集することはないけれど、なんだかなあと思う。
(これだけではないが)ダビングテンとか、こういうのを「せこい」とか「みみっちい」とか「了見が狭い」とかいうのだろう。発想がまず統制的。こういう発想で政府やメーカーがコトを決め、モノを造っているようではニホンはダメになるばかりではないだろうか。
藤枝市郷土博物館・文学館に軽便鉄道と小川国夫の文学の展示を観に行く。日曜日でも雨だったので訪れる人はあまり多くない。
小川国夫の作品と地元藤枝の軽便鉄道とをつなげた展示はおもしろいと思った。でもじっくり観て歩く時間はなかった。小川作品の背景にときどき軽便が出てくるけれど、作品の内容にどのようにかかわっていたのだろう。
この郷土博物館と文学館はつながっていて、いつまで観ていてもあきなかった。内容が濃い。また小川国夫を読みたくなった。藤枝市郷土博物館が発行している『軽便鉄道』も購入した。チラシの、青空のもと白い服の子どもたちが、やってきた軽便に向かって走っている写真がいい。この写真に惹かれて雨の中をここまでやってきてしまった。
軽便は日本一長かったという。ジオラマの大手駅などもある。昭和30年代ころの藤枝の「田舎」の田畑を走る軽便の写真にはなんだかたまらなく郷愁を感じる。
確定申告。例年ネットで申告書を作成している(それを税務署に出している)。しかし今年はネット作成の仕方が例年と変わった(ように思う)。わたしの場合は2ヶ所から給与支払いを受けている。そういう人は「申告書選択」ページで今年から(だと思うのだが)「左のいずれにも該当しない方」をクリックしなければならない。ここが入口で、ここで間違えると永久に申告書は作成できないから深刻だ。だから「シンコク」書というのだろう。入口さえ間違えなければ、あとは大丈夫(と思う)。
去年までは「所得の申告書A」をふつうに選択してすぐに作成できたように思う。
今年は2ヶ所から給与支払いを受けている人は「左のいずれにも該当しない方」に入るのだということで、このことはマニュアルにしか記していない。マニュアルを見てはじめて知った。だからまずマニュアルを読まなければならなかったし、マニュアルの存在があることを知らなければならない(しかも20ページある。わたしはちらっと見て入口を確かめただけ。入口さえ分かればもういい)。
こうして申告書の作成の入口にたどり着くまでに、いろいろと試行錯誤をつづけ、けっきょく自宅でこの申告書を印刷するのに、夜9時からネットをはじめて夜中の1時までかかってしまった。なんという時間の浪費。
■ マニュアル(手引き 20ページ)の手に入れ方
◯1「国税庁」のホームページを開く、