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「子どもの本・九条の会 二周年の集い」のご案内

子どもの本・九条の会の二周年の集いがあります。
ぜひご参加ください。
お近くの方にもご紹介ください。 

◯ 日 時    5月1日(土) 14時〜16時30分 

◯ 会 場    国立オリンピック記念青少年センター 
                       大ホール 

◯ 参加費    おとな前売り1000円 当日1200円              子ども(中学生以下) 
                 前売り当日とも500円 

◯ 第1部    ひのき屋ライブ〜一本の木からはじまる物語〜 

◯ 第2部    アーサー・ビナード講演 

◯ ロビー開催  戦争と平和をめぐる子どもの本展                  「9ゾウくんげんきかるた」
                    (ポプラ社)原画展 

◯ 主 催    子どもの本・九条の会(代表団 小宮山量平  
         太田大八  神沢利子  松谷みよ子  松居直  
         古田足日 鳥越信  猪熊葉子  小澤俊夫  
         広瀬恒子  田畑精一  丘修三)

JUGEMテーマ:ニュース
mojabieda * 講演 * 08:42 * comments(4) * trackbacks(0)

広瀬隆講演会案内『浜岡原発の危険な話──プルサーマルと地震』

明日ですが以下の企画があります。 
ぜひご参加ください。
お近くの方にもご紹介ください。 
以下転送歓迎(との由です)。 

◯日 時  2010年4月25日(日曜) 14時から 
◯演 題  『浜岡原発の危険な話──プルサーマルと地震』 
◯講 師  広瀬隆さん 
◯会 場  ザザシティ中央館・パレットAB 
◯主 催  人権平和・浜松 
◯入場料  カンパ

JUGEMテーマ:地域/ローカル
mojabieda * 講演 * 07:46 * comments(0) * trackbacks(0)

『白バラ』を読む 1

 20世紀のヒトラー・ドイツのファシズム体制のミュンヘンで、反戦と反ヒトラーを呼びかけた学生たちがいたが、かれらははじめ「白バラ」というビラをつくって配付した。特にショル兄妹(ハンスとゾフィー)は有名で、その姉インゲ・ショルが戦後に著した『白バラ(Die Weisse Rose)』(邦題は『白バラは散らず』未来社)は、現在もドイツで発行されているおそらく隠れたベストセラーだろう。

 しかもこのショル兄妹たちは、現在のドイツのテレビ局の調査によると、もっとも偉大なドイツ人の第4位に位置するという英国のFrank McDonoughの指摘もある(『ゾフィー・ショル(Sophie Scholl)』の第五章)。この兄妹を描いた映画もすでに三作つくられた。現在のドイツではショル兄妹たちはいわば伝説となり神話となった感もある。

 この人気の背景にあるものが何かはよく分からない。ヒトラー時代にもこのように平和と自由のために命を賭けた若者たちがいたことを証拠にして、ヒトラー・ドイツがまったく「特別な=否定すべき」ドイツ(=本当のドイツではない)であったことを内外に示そうとしているのだろうか。

 現在未来社で出版されているのは、この『白バラ』の初期の版の訳であり、現在入手できる最新版(ドイツ語)は初期の版とかなり違っている。こういうことが出版界ではよくあることなのかどうか知らない。ドイツではとっくに絶版となった最初の版の訳が日本では現在も出版されているが、ドイツ本国では(何度も?)新しい版へと改訂されているようだ。なぜそのようにたびたび改訂する必要があったのだろう。

 また戦後はじめて出版されたこの「白バラ」グループの基本的な研究書『処刑台の上の学生たち(Studenten aufs Schafott)』も『白バラ抵抗運動の記録』(ペトリ/未来社)として邦訳され現在も日本では出版されている。この書を著したペトリはこの学生たちの抵抗運動を、現実を少しも変革できなかった「挫折」「誤り」「幻想」として批判的に捉えているようだ。基本的な文献なのに現在のドイツでは絶版になっているらしい。山下公子『ある若者たちの生と死』(雑誌の連載)によれば、ペトリの書の絶版にはどうやら『白バラ』を著したインゲ・ショルたち遺族の(絶版)運動が大きくかかわっているらしい。つまりインゲたちが絶版にさせたということだ。これだけではなく、カトリックとプロテスタントとの間の宗教がらみもあって、ドイツ本国には白バラをめぐってさまざまな思惑が渦巻いているように思う。

 こういう確執がない遠い他国にいるわれわれの方が、もしかしたら白バラと白バラをめぐるドイツの状況とをより客観的に見れるかもしれない、と思うことがある。

 とはいえ実際にこの学生たちの運動を歴史的にはどう評価したらいいのか。現実をまったく変えられず、むしろ(非道な)現実を、結果的により悲惨な結果へとはからずも導いてしまい、多くの無益な命を落とさせてしまった若者たちの「若気の至り」だろうか。あるいは戦後(自らの罪を贖罪するため)ドイツ人がヒトラードイツと縁を切る「免罪符」として誉め称える格好の材料を提供したのだろうか。または戦後ドイツ人が国際社会へ復帰するための自信回復の拠り所となったのだろうか。あるいはこれらすべてなのか。

 あえて酷な言い方をすれば、ヒトラードイツ時代、数万人ともいわれる処刑された国家反逆者たちの中で、どうして「白バラ」だけが突出して現在人気があるのかは、かれらがただ戦後ドイツの(あるいは連合国の)政治的なプロパガンダに利用されたからだ、という見方もできるかもしれない。かれらは政治的にはおそらく「タブラ・ラサ」で、純粋な(しかも信仰心の篤い)若者たちであったし、古き良きドイツの教養ある市民層の出身だったようだ。そういう意味で「英雄」(=「犠牲」)として担ぎあげるにはちょうどいい「人材」であったのかもしれない。さいきん出版されたバーバラ・ライスナーの本(『Sophie Scholl und der Widerstand der Weissen Rose』)によると、白バラグループが作成した抵抗運動のビラが外国へもたらされ、外国でひろまり、戦時中のドイツへ逆輸入され、世界的にも知られるようになったことが、「白バラ」の突出の原因だという。

 こういう見方に対抗して、そうではない、かれらは英雄ではなく、ごく普通の若者たちであり、(政治的に利用されようとされまいと)ひたすら純粋に魂の自由を求めて生き、闘ったのだという見方もある。これこそ『白バラ』の著者インゲ・ショルの立場だろう。そういう立場をより鮮明にしていこうとしたために(つまり「白バラ」もみずからの著書『白バラ』も国家や政治勢力に利用されまいとして)『白バラ』改訂版を何度も?出していったのではないか、と思われるのだが、どうだろう。

 また、この『白バラ』を読んでまず感じたことは、姉インゲ・ショルは当時、同じ兄弟なのにみずからは「白バラ」の活動を知らなかったがために、(自己弁明をも含めた)かなり複雑な心情を負い続けているのではないか、ということだ。これが『白バラ』執筆のそもそもの動機の一つではないだろうか、と思われる。

 また歴史家でもなく作家でもない一般人の著者インゲの叙述は、ショル兄妹という家族を描く以上、とうぜん私情をまじえている(というか描く動機がすでに私情からだろう)。ゆえに、単なる史実を描くのではなくて複雑な叙述になっているはずだ。一見ドキュメンタリー風に見えながら、これは著者の想像ではないか、と思われる部分が多々ある。どこまで著者は現場に立ち会い、見、聞いていたのか。いつその情景に出会ったのか。インゲ・ショルの叙述は自分の見聞と想像と後で人から聞いた(知った)こととがまぜこぜになっているような部分がある。逆に、ただ史実のみを(あえて)記そうとしている部分もある。そういうところから、いわば「問わず語り」に、著者インゲの(本人は意識していないかもしれない)さまざまな思いや意図が読み取れるかもしれない。

 実際の文章をみてみる。

 まず『白バラ』の冒頭はインゲ・ショルの、当時のふとした見聞からはじまる。列車の中に居合わせたナチスらしい男たち二人のひそひそ話が聞こえてくるところから描かれている。二人は不安がっていた。ミュンヘンで反ヒトラーの落書きや抵抗を呼びかけるビラが出現した、これからわれわれはどうなるのか、戦争が終わったらもうわれわれはおしまいだという話(男たちがナチスとは記していないが、ピストルを所持しているらしい叙述からナチスであることを暗示しているようだ)。

 ここでインゲが述べたかったことは、まず白バラグループの活動の影響の大きさ(ナチスへ与えた打撃の大きさ)であろう。それを実際に見聞した事実を冒頭にインゲはもってきた。もし(自分は当時知らなかった)弟妹たちの活動が軌道に乗っていたならば、おそらくドイツを大きく変えたかもしれないという可能性を浮かびあがらせようとしているかのようだ(だとしたらしかし、これははっきりいって過大評価かもしれない)。白バラのショル兄妹たちは逮捕され数日取り調べられ、裁判にかけられた日にギロチンによって処刑された。これはナチスによる見せしめの処刑でもあった。それを知らせる「燃えるような赤い掲示」にどれほど先のナチスの男たちが安心したことか、とインゲは記述する(逆にいえば、どれほど学生たちに同調する者たちを震え上がらせたことか、ということになるが、それについて著者は何も言及していない)。そういう(インゲ自身の)想像に言及することで、それほどまでに住民をなだめ、反乱の火の手を鎮静化させるためにナチスが躍起だったことと、その反乱の可能性の大きさとをインゲは暗示しているようである。

 しかし、ここで注目しなければならないことは、ショル兄妹(ハンスとゾフィー)の死刑判決と処刑とに、姉のインゲ本人とその家族がどれほどの衝撃を受け、その後どれほどの辛酸をなめたのかはまったく記されていない、ということである。私的な状況(じぶんを含めた残されたショル家の人々の衝撃やその後の生活)がまったく──不自然といってもいいくらいに──欠落している。これは何を意味しているか。

 さらに12ページ(『白バラ(Die Weisse Rose)』)にこうある──

 「おそらく、実際の英雄性は次の中にある、すなわち、ひたすらねばり強く日常的なもの、小さなもの、身近なものを守り抜くこと。そうしてその後になって、(世間は)その偉大さについて過剰に述べ(讃え)るのだ」。ここの叙述は、戦後のドイツの、ナチス統治の当時とはうって変わった世相──愛する弟妹を直接的・間接的に死地へ追いやった者たち、あるいはそれを黙って見ていた者たちが、手のひらを返したように、こぞって弟妹を讃える──世相を皮肉っているのかもしれない。

 さらにインゲの文章の中でときどき出てくる気になることばがある。それは「unterstuetzen」(支援)ということば。弟妹たちの抵抗運動を、当時知らなかった(しかしその可能性は感じ取っていたかもしれない)その心残りあるいは慚愧の思いが、この単語に見え隠れするように思える、というのは深読みだろうか。

 この『白バラ』で(長女の)インゲがとくに感情移入しているのは末の妹のゾフィーだ。じぶんも同じ状況に立ったならば、おそらくこう思ったはず、というじぶんの思いをゾフィーの内面に投影して生々しく描写しているようだ。たとえば、大学で見た白バラのビラの文句を兄ハンスが読んでいる本の中にゾフィーがぐうぜん見つける場面(おそらくこれはインゲの想像であろう。このようなことがあったかどうかは当事者がすべて殺されてしまっているから永久に分からないはず)。ドキュメント風に記述しようと出発しながら、途中で肉親としての思いをストレートに表してしまっているようにも思う。これらは「つくりもの」として「史的な資料」にはなりえないのだろうが、肉親としての「内的真実」として記さねばならないところだったのだろうと思う。

 さらにインゲが描こうとしているのは、弟妹の生の密度の濃さである。これについてはまた後ほど。

JUGEMテーマ:読書
mojabieda * 白バラ * 22:52 * comments(1) * trackbacks(0)

結婚式に出る

 久し振りに結婚式に出た。街中の結婚式場。式場に入るとエントランスでハープが演奏されている。チャペルがあり、カメラは撮り放題、新郎新婦はチャペルの外のテラスへ降りてくるところをみんなの祝福を受ける。途中の踊り場でいつものキス(しかも低い手すりはガラス張り)。劇場のような演出。

 披露宴の料理もいい。お酒類も上品。新郎新婦には特製のカクテルもある。会席者がテラスなどあちこちと会場を移動するたびに、ちょっとした飲み物などが出る。テラスでは手回しオルガンが演奏される。2人の似顔絵までイラストのようになっていて、上手できれいだ。最後はケーキやデザートがもりだくさん。

 式から披露宴まで、ずっとカメラが回っていたが、上手に編集されて最後に上映される。それがまたいい。いろいろなカット、いろいろなアングル、白黒とカラーの取り合わせ、ストップモーションなど、よくできていた。

 さいきんの結婚式は上品で、リッチで、しゃれていていいなあと思った。よっぱらう人もいないし、歌もない。音楽はハンドベルの演奏があった。きれいな音色だった。へんに肩が凝らない、さっぱりしていて気持ちよくて楽しい結婚式だった。

 昔も今も変わらないのは上司の祝辞のときの会社の宣伝ぐらいか。

JUGEMテーマ:日記・一般
mojabieda * 日記 * 22:53 * comments(0) * trackbacks(0)

昔の独楽と今のベイブレード

 子どもたちがベイブレードという独楽をほしがる。

 おもちゃ屋に行ってもほとんど手に入らない。いま流行っているのだろうか。

 わたしがネットで買い物をしている情報をどこからか仕入れた子どもたちが、「アマゾン」で買って、とねだるようになった。

 それでたちまち5つのベイブレードを子どもたちに買うはめになった。その上さらにほしいという。ネットでみるとさまざまな種類があるようだ。困ったことに。

 昔の独楽のことを思う。わたしのころは鉄の独楽だった。それを薬の瓶の金属蓋などの上に上手に乗せて回し、回っている間、鬼ごっこをした。うまく乗らないと鬼に追いつかれた。鬼もまたうまく乗せないと追いかけられない。したがって嫌が応にも独楽をうまく回せなければ子ども世界では生きてゆけなかった。しかも、いきがって、われこそは、と小さな蓋の上に乗せることを競った。

 昔の独楽の遊びでは回す人間の技量のみが競われた。技量を鍛えることを楽しんだのだ。独楽そのものの違いはほとんどない。

 それに対して今のベイブレードでは回す技量はランチャーという道具によってほとんど競われることなく違いはいらないようだ。その代わり、一つの独楽が5種類のさまざまな部品に分かれ、それぞれにさまざまな種類があって、その組み合わせで多様な独楽ができ、違いが生まれる。つまり独楽そのものの差異が競われる。

 したがって、さまざまな独楽を手に入れ、部品を入れ替えることが競われる。子どもたちは夢中になって、強さを競いあうから、そのためにはたくさんの独楽を手に入れなければならなくなる。

 昔の鉄の独楽は安価で一つあればよかったが、いまの独楽(ベイブレード)は一つでさえも高い。近所の子どもたちもみんなベイブレードを持っているので、互いに競い合うように手に入れようとする。この相乗効果。しかもテレビでアニメも放送され、ベイブレードの戦いそのものがストーリーとなり番組になっている。つまり番組そのものが宣伝になり、その番組に子どもたちが釘付けになっている。こんなぼろい商売はないだろうな、と思った。メディアが需要を生み出す時代とはよく聞くが、これもその典型かと思った。

JUGEMテーマ:育児
mojabieda * 子育て * 08:55 * comments(0) * trackbacks(0)

『エーゲ海の頂に立つ』を読む

 写真は下が静岡空港付近、上二つが東京・四ッ谷の桜

 会議のため東京へ。電車の中で『エーゲ海の頂に立つ』(真保裕一/集英社文庫)読了。

 この本はエーゲ海に浮かぶ名だたる古代文明の島・クレタ島の山々をトレッキングした紀行文。それと素朴でゆったりとしたクレタ島の人々の暮らしにも触れている。

 古代文明ともトレッキングともほとんど関係のない以下の2ヶ所が気になった。

◯イラクリオンの裏町を歩いて気づいたのは、建設中の家や建物が多かったことだ。一階は完成ずみで住人がすでに生活している。二階にはコンクリートの柱だけが立っていたり、壁が作りかけのまま放置されていたりする。・・・この国では、時間の流れ方がゆるやかなのだという。・・・家は自分たちの世代だけのものではない。いつか子供たちが二階を整え、孫が壁を塗り直し、そのまた子供たちが庭を飾っていってくれればいい。自分は未来につながる土壌を踏み固めるだけでも、役割を果たしたことになる。p38-p40

 対照的なのが日本。

◯採算を明らかに無視した日本の公共事業は、世界の非常識以外の何ものでもない。/先進七カ国の中で、日本の公共事業費は他の六カ国の総合計より30パーセント近くも多い、という統計すらある。国土面積で比較すると、その金額は六カ国の平均値の、驚くなかれ80倍にもなる。p156

 この辺を読むと、クレタ島のトレッキングの話もふっとぶ。

 この前富士山静岡空港を見に行った。茶畑や林が切り開かれていちめんのハゲ山のようになっていた。もう未来永劫に元の姿にはもどれないだろうな、と思った。

 東京からの帰り道、四ッ谷で花見をしながら散歩した。桜ももう散ってしまう。

JUGEMテーマ:読書
mojabieda * 読書 * 20:49 * comments(0) * trackbacks(0)

お花見とバーベキュー













 きのうはひさしぶりのお天気にめぐまれ、お花見とバーベキュー(ほんとうはエバーグリーンのまとめの会議)に行きました。桜はまだきれいに咲いていて、温かい1日で春を満喫。

mojabieda * 日記 * 06:22 * comments(0) * trackbacks(0)

『「狂い」のすすめ』を読む

 ひろさちやの『「狂い」のすすめ』読了。たぶん著者の念頭にあるのは福沢諭吉の『学問のすすめ』ではないかと思う。それをパロって『狂いのすすめ』だろうか。首尾一貫しているのは仏教者としての「出世間」。出世とは正反対の出「世間」。あるいは脱人生というか。

 まず印象的なのは「弱者の自覚」を持てというところ。◯以下は引用。

◯ 強者にとっては世の中が味方になってくれます(から)・・・。

◯ 世間は弱者の味方はしてくれません。

◯ 強者に対しては、世間のほうが遠慮してくれます。強者を叩くなんてことはしない。/考えてみれば世間を維持しているのが強者です。いや、世間の甘い汁を吸って生きているのが強者であって、その甘い汁を吸っている連中の集合体を名づけて「世間」と読んでいるわけですから、世間イコール強者なんです。だから、世間は強者を叩かない。/叩かれるのは弱者です。そして、弱者は甘い汁を吸われる。

◯弱者は自分の思想・哲学を持っていません。持っていないのではなしに、正確にいえば持ってはいけないとされているのです。持つことを禁じられています。弱者が独自の思想・哲学を持てば、強者は甘い汁を吸えなくなり、利益が激減するから困るのです。・・・・一見、弱者が思想を持っているかのように思えることがあります。でも、それは思想ではありません。それは─常識─なんです。・・・赤提灯で得々として語っているサラリーマンおやじ・・・・・「まともな意見」に逆らう奴を、「なんて非常識な奴なんだ、おまえは・・・!?」と、蔑みの目で見ます。じつは、その人は奴隷でしかないのですよ。世間の奴隷、常識の奴隷になっているのです。/困るんです。この奴隷になった連中が。奴隷は、自分が弱者のくせに、ちっとも弱者と思っていません。権力者の太鼓持ちのくせに、自分が権力の一端を握っていると考えている。虎の威を借る狐です。・・・自分を弱者だと自覚した人は、まず第一に世間を信用しなくなります。世間に踊らされることはなくなるのです。

◯ともかく、世間を信用してはいけません。世間の常識は、世間そのものにとって都合のいいものを一般大衆に押し付けているだけのことです。

◯「自由」という言葉、いろんな意味に使われますが、ここでは「自分に由る」という意味です。・・・自由人は世間に楯突いている人間です。

 さらに「狂者の自覚」を述べる。

◯「狂っているのは世間のほうですよ。世の中が狂っているのです。その狂った世の中にあって、わたしが『狂者の自覚』を持てば、わたしはまともになるのです。

 また「人生は無意味」とも。

◯わたし自身が「人生の危機」といった言葉で、病気をしたり、会社を首になったり、大学受験に失敗したり、破産をするといったようなことを考えたのです。たぶん、ほとんどの人がそう考えるでしょう。でも、それらは「生活の危機」であって、「人生の危機」ではありません。

◯世の中の役に立つ人間になろうとする、その卑屈な意識がいけません。・・・わたしたちが「生き甲斐」を持とうとしたとき、わたしたちは世間の奴隷にされてしまうのです。・・・世間のほうからいえば、おまえたちは世の中で生かしてもらっているのだから、世の中に恩返しをしないといけない。そのために「生き甲斐」を持って生きなさい──と命令口調で言います。つまり、世間はわたしたちに「生き甲斐」を押し付けます。それに騙されてはいけません。

◯われわれはちゃんと税金を払っています。税金を払うことによって、共同体からの恩恵に対する個人の義務は完了しています。税金をまともに払っているわれわれが、脱税ばかりしている政治家にとやかく言われることはありません。わたしたちは世間、世の中の役に立つ人間になる必要はありません。いや、わざわざわれわれが世の中の役に立つ人間になろうとしないでも、人間は生きているだけで世の中の役に立っているのです。たとえば、われわれが病気をします。すると医師や薬剤師が儲かる。・・・

◯大部分の人間は、世間から押し付けられた「生き甲斐」を後生大事に守っています。その結果、会社人間になり、仕事人間になり、奴隷根性丸出しで生きています。そして挙句の果ては世間に裏切られて、会社をリストラされ、あるいは病気になって働けなくなり、それを「人生の危機」だと言っては騒いでいます。おかしいですよ。それは奴隷が遭遇する「生活の危機」でしかないのです。本当の「人生の危機」は、あなたが世間から「生き甲斐」を押し付けられたときなんです。

◯そして、わたしたちはついでに生きているのです。/意味のない人生だからこそ、わたしたちは生まれてきたついでにのんびりと自由に生きられる。

 世の中の役立つ人間になろうとするな、生き甲斐を持とうとするな、という「逆説」的な教えはカゲキだ。さらに「希望や理想を持つな」「未来を願うな」、病気になれば病気のまま生きればいいと。ここまでいくと悟りみたいな達観になるのかもしれない。病気と闘うな、未来を決める権利は人にはない、病気と仲よく生きるだけだ、老・病・死を敵視ししない、自分と仲よくするためには老・病・死とも仲よくしなければならないと。

 このような達観とともにあるのは何かというと「孤独」に対する向き合い方があるようだ。「孤独に生きる」のではなく「孤独を生きなければならない」と述べる。しかし人間の精神の存在が本質的に孤独であっても肉体的には孤独では生きられない。それで「ご縁」の世界をつくっているという。

 ここでうなぎの稚魚の話が出てくる。空輸して運ばれるとき生き残るのは1、2割。そこへ稚魚を餌として生きるナマズを稚魚の中へ入れてやると、2割はそれに食べられてしまうが、8割は生き残るという。敵がいるおかげで長生きできるというのが「ご縁」の世界ということ。ここを牽強付会に引用して人間にはストレスや逆境が必要だと説教する人々もいるが、ひろさちやはそういうことを言おうとしているわけではない。

 あえて言えば、8割生き残った「勝者」のうなぎも結局食用として人に食べられるだけなのだ。さらにナマズに食われて息絶える2割の「弱者」の稚魚がじぶんかもしれない。

 うなぎの稚魚の話でひろさちやが言いたいのは、じぶんが「迷惑だ」と思う相手を否定・排斥するな、という教えだ。「迷惑だ」と思うものも受け容れなければならない。しかしそれはストレスになる。それでこれを述べる前に「人を裁くな」と述べる。

 「縁もゆかりもない人間に向かって正しいことを言えば、ぶん殴られる危険」がある。「縁もゆかりもある人間に向かって正しいことを言えば、あなたは憎まれる危険」がある。「正しいことは言わずにおきましょう」という。ひろさちやはここで「正しい」という判断はどこから来るのかということを問題にしているのだろう。相手をこちらが勝手に判断している危険があるということだ(相手もこちらから言われなくても分かっているとも)。人は(手前勝手な)「ゴム紐のものさし」で他者を測っているという。伸びたり縮んだりするものさし。だから「目盛りのないものさし」を持て、という。つまり人を裁くなということだろう。もちろんここには「世間のものさし」などに騙されるなということも含まれる。

 人はたまたまこの世にやってきた「客」にすぎない。他者も「相客」にすぎない。相身互い。あるいは世界劇場で神からシナリオを与えられた役者にすぎない。劇の意味は人にははじめから分からない。そういう意味では人も犬も猫も、アリもたんぼぼも同じということだろうか。与えられた役を演じる(つまり与えられた命を生きる)ということが「遊び(プレイ)」であって、まじめに力をこめて演技するのではなく、力まず、のびのびと「遊ぶ」のだという。この「遊び」の境地に達するのは容易なことではないだろう。

 なるほどと思うところもある。こんなふうになかなか簡単には割り切れないが、読んでいると、肩の力が抜けていくのを感じる。『老子』には「報恨以徳」とか、聖書には『左の頬も差し出せ』とかあるが、そういうことにも通じるものを感じる。ささやかな人間関係づくりのハウツー的なものと、おそろしく深い世界観とがまぜごはんになっているところがおもしろい。

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mojabieda * 読書 * 19:41 * comments(0) * trackbacks(0)

DVDを焼く

 このまえわたしが撮った講演会のビデオ映像で、その準備から講演後の交流会までを撮ったものを、ひさしぶりにMacのiMovieで編集してiDVDで焼いた。やり方を忘れてしまって、かなり適当にやったが、それなりにDVDが完成。マニュアルがなくてもできてしまう。ただ、iMovieで編集したものをiDVDへ書き出して、また編集しなおした。どこかでやり方をまちがえたかもしれない。iDVDではBGMが出なかった。

 とりあえず完成品をパソコンでコピーしようとするとブンブンうなるのでやめた。で、ブルーレイ・レコーダーでコピー。簡単で、すぐにできた。

 とはいえ、iDVDで焼くとき、エンコードするのにかなり時間がかかった。まずデジタル・ビデオ・テープに二本分あった映像を、iMovieで編集するのに外付けハードディスクを使って読み込む。つぎの晩に編集作業をはじめて、iDVDへ書き出し、再編集して焼く。あとはパソコンにまかせ、翌朝目が覚めると完成していた。こんなふうにど素人にもてきとうに動画を編集してDVDに焼けるというのはすごい。

 ビデオを観て思ったこと。撮っている本人は出てこないから、あまり記念にはならない。しかし映っている人たちには記念になるだろう。そのとき、撮っている者の「視線=意識」のありようが「問わず語りに」映像そのものに表れてバレバレになるようだ。

 これはテレビ映像でもいえる。天気予報で街角の様子を映しても、きれいな若い女性をフォーカスしていることがよくあるみたい。野球中継でスタンドを映すときも。

 きっとテレビのカメラマンは男性なのだろう。観ている人へのサービスかもしれない。が、観ているのは男性ばかりではないはず。もし天気予報で街行くイケメンばかりが映っていたら、男性が観たら違和感があるにちがいない。わたしの撮ったビデオ映像も似たり寄ったりかな。

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mojabieda * デジタルライフ * 06:54 * comments(0) * trackbacks(0)

横須賀旅行

 写真は下から戦艦三笠、観音崎の砲台跡、温水プール

 横須賀へ旅行しました。

 どうして横須賀かというと、戦艦三笠が観覧できるからです。子どもたちが三笠を観たいというので高速道路を使って行きましたが、ずいぶんと簡単に行けました。

 三笠は日露戦争のときの海軍の旗艦。かなり数奇な運命を担ってきたようです。戦前の軍艦で唯一残っているのは三笠だけのようです。

 敗戦後、荒廃しきった記念艦・三笠の艦上には、なんと(占領軍の)ダンスホールと水族館があったといいます。その荒廃ぶりを見かねて私財をかけて復興の手助けをしたのは「トーゴー」を尊敬する占領軍・米国のニミッツ提督の由。

 その三笠は今はきれいに復興して再建されています。記念艦となったときに、洋上ではなく陸上に、コンクリートに塗り固められたようです。

 それにしても、世界に知られた日本海海戦で大勝利を収めた記念艦・三笠の目の前には、テニスコートや照明つきの野球グランドも備えているらしい広大な米軍基地があります。グーグルで見るとサッカーグランドは二つほど、野球のグランドは四つほど見えました。どの建物の周りにも広い駐車場があります。対照的なのは横須賀の街。坂の多い狭い街で、車の駐車場もあまり多くないのか路上駐車が目立ちました。広大な米軍基地の南にもうしわけ程度の公園がくっついていて、そこに戦艦三笠があります。

 お昼は街の横須賀海軍カレー本舗でカレーを食べました。

 明治のころ脚気になる兵が多かったらしく、この脚気の予防に関して、文豪にして軍医の森鴎外と、もう一人の軍医の高木兼寛の確執が有名です。対立する二人の説は病原菌説と食糧説で、森は終生あやまった病原菌説をとり、そのため多くの死亡者(戦死者)を出しました。しかもその誤りを終生認めなかったそうです。未見ですが吉村昭の『白い航跡』という小説はその高木を主人公にしているようです。

 海軍は西洋食を取り入れて、白米中心の陸軍よりは脚気患者が少なかったようですが、その西洋食の一つがカレーでした。

 泊まったところは横須賀と葉山の境。子どもたちははじめてベッドに寝るので、はしゃいでいました。夕食はわたしたち1組だけ、朝食は3組ほど、朝は温水プールに入りましたが、わたしの家族だけでずっと独占しました。シーズンオフなのか、泊まり客が少なく静かでよかったです。

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mojabieda * * 20:23 * comments(0) * trackbacks(0)
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