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『ギリシア エーゲ海紀行』を読む

 『ギリシア エーゲ海紀行』はふつうの旅の紀行文ではなく、アテネのケラメイコス(陶工区だったところらしい墓地)や墓碑について触れているところが、他の紀行文とはひと味違う。アオイドス(古代の楽人)らしい人の姿が彫られている墓碑を見て、それを連れの考古学者に著者がたずねると「アイドス(彼はこう発音した)のことですね」と答える場面がある。このアイドスで連想するのは古代ギリシア語の「アイドース」という語だ。澤柳大五郎の『ヘゲソの鼻』のなかにこうある。

 「この少女の墓碑に細字16頁の解釈を献げたルートヴィッヒ クルツィウスは、アイドオスといふ現代欧語にも、まして日本語には到底訳しきれないギリシア語(恥、辱、羞、控へ目、丁寧、慇懃、礼譲、礼節、慎ましさ、鄭重、畏敬、等々、どれもぴたりとは行かないだらう)でこの少女の本性を頌してゐる。」(『ヘゲソの鼻』澤柳大五郎/みすず書房p89)

 考古学者はもしかしたら「アオイドス」ではなく、この「アイドース」のことを言っていたのかもしれない、などと想像してみた。

 さて、古代ギリシャの墓碑については、リルケの『ドゥイノの悲歌』に出てくる。リルケの詩は澤柳が引用している「アイドース」ということばに通うものがあるような気がする。

 「おんみらはアッティカの墓標に刻まれた人間の姿態のつつしみに/驚歎したことはなかったか。そこでは愛と別離とは、/わたしたちのばあいとは別の素材で出来ているように、/かるやかに夫婦(めお)二人の肩の上に載せられているではないか。想起したまえ、あの二人の手を。/いずれの体躯も力にみちたものでありながら、いかにその手は強圧のけはいなくそっとたがいの上におかれているかを。/自己を制御していたひとびとは、この姿態によって知っていたのだ、これがわれら人間のなしうる限度であることを、/そのようにそっと触れあうことそのことがわれら人間のさだめであることを。」(『ドゥイノの悲歌』第二の悲歌/手塚富雄/岩波文庫p21)

 

 ケラメイコスという場所を知ったのは、ついさいきんジャック・デリダの『留まれ、アテネ』(みすず書房)を立ち読みしてからだ(立ち読みしたのは値段が高いから。数年たって古本になってから買おうと思う)。この本に出てくるケラメイコスや墓標やアッタロスのストア(柱廊)の白黒写真などを見てなぜか「はっ」とした。いつかそこを訪れてみたいと思った。

 ところで『ギリシア エーゲ海紀行』は神話の風土やギリシャ悲劇にも触れていておもしろい。有名だが読んだことがないエウリピデスの悲劇の王女メディアとアルゴー船の神話(アルゴナウティカ)とがひと続きのものであることを知った。この本は一般的な旅行案内書ではなく、著者の関心のある分野で、さまざまな角度から古代と現代のギリシャを切り取っている。

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mojabieda * 読書 * 06:51 * comments(0) * trackbacks(0)

『深く「読む」技術』を読む

 『深く「読む」技術』(今野雅方/ちくま学芸文庫)を一気に読んでしまう。一気に読まないと頭がついてゆかない。というよりむしろ書いてあることの半分以上分からないがなぜかどんどん惹かれて読み進んでしまう。

 引用されている文章は内田樹、須賀敦子、色川大吉、竹内敏晴など。一語にこだわり、その解説だけで数十ページにも及ぶ。

 このような文章に出会ったことがない。読むことが「自分で考えること」であり、自分で考えなければ読んだことにはならない、というしごく当たり前なことを思い起こさせる。ぐいぐいと引き寄せられて読んでいくが、それはちょうど、推理小説でさまざまな展開に引き込まれていくような感じ。そうして推理小説なら、最後あたりに犯人を明らかにしてつじつまが合うように説明してくれるが、この本では犯人(答え)は、全部を読んで自分で考えなさいという感じ。

 文章の語句や一語に厳密に迫り、丹念にそれをたどっていくだけでなく、どこか読者には見えない「大伽藍」があって、そこから著者はことばを紡いでいるような感じで、どこからこのことばが出てくるのだろうという感想を持つばかりだ。もちろんじぶんが使っている一語にも厳密に迫り、定義づけしているから、大伽藍でいえばその窮隆(ヴォールト)部分から全体を眺め直して見るしかないのかもしれない。

 もともとは分厚かった文章を縮めたものらしい。だからことばが凝縮されていて、一回読むだけでは何がなんだかよく分からない。じっさい象をその足で評しているような感想しかかけない。大伽藍に入る手前の入口の文様に見とれているような感じ。もう1度じっくり読んでみたい。

 著者の評する須賀敦子の『トリエステの坂道』はわたしがさいしょに読んだ須賀敦子で印象が深い。その文章について記された箇所を読むだけでも十二分におもしろい。

 それから思ったのは、著者はじぶんのこの『深く「読む」技術』という文章を、じぶんで『深く「読む」』ということをしながら書いているのだろうということ。そうしてある作家の文章を深く読む著者の文章を、読者が著者のように深く読むことを想定しながら書いているのだろうということ。でもわたしをふくめてたいていの人は 読む「素人」なのではないだろうか。

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mojabieda * 読書 * 08:20 * comments(0) * trackbacks(0)

そらしゃ

 街の図書館へ行った。駐車場で上の子が「そらしゃだよ」という。はじめ何のことか分からなかった。「空車だよ」の意味だった。学校で「空」を「そら」と読むのをならったのだろう。雨の日はずいぶん込んでいて、電光掲示が「満」ばかりだったので、「空」を見つけて叫んだのだ。  

 「そらしゃ(正確にはくうしゃ)」が「駐車スペースあり」という意味だということを上の子は知っていた。今まで読み方を知らなくても駐車場の「空(車)」という字があらかじめ頭の中にインプットされていたのだろう。そうして学校で漢字の読み方を学んだ。ここで常日ごろの生活体験と学校の勉強とが合体した。読み方がちょっとちがったけれど。

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mojabieda * 子育て * 07:09 * comments(0) * trackbacks(0)

保育園の遠足

 保育園の子どもの遠足に付いていく。毎年秋に行われていた遠足を春に行うことになった。

 下の子も今年は年長なので、もうこの遠足に参加するのも最後となる。上の子のときにも、最後の遠足だけ付いて行った。親子遠足なので親が行くのはいいけれど、父親が付いていくのはあまり見かけない。

 こういう行事を通して親も保育園を「体験」するような気がする。そうでもないかぎり、なかなか子どもの保育園を「体験」する機会がない。体験といっても、じぶんの幼稚園のころの追体験ではなく、親としての体験、あるいは現在のじぶんの体験だ。

 まず子どもの体験がある。それを親として見守る体験がある。いわば子どもの体験を豊かなものにしようとリードしたり助言したりする体験。これをA1とする。A1は目的意識的、意図的な行為の体験。

 それからもう一つ体験がある。子どもとともにじぶんも遠足を楽しむという体験。これをB1とする。B1は無意識的な行動の体験。

 さらに今回はグループをつくって行動したので、子どもが年下の子たちのリーダーとなった。すると、しぜんにその家族のリーダーもわたしが務めなければならない。子どもたちは知り合い同士だが、家族ははじめて。さいしょに自己紹介すればよかったなあと後で思った。子どもたちが中心だから、親は後からくっついて行くだけだが、親同士の意図的な交流も体験すべきだった。こういう体験をA2とする。とはいえ、知らない親同士でも、子ども中心に、つかず離れずの関係でお互い楽しんだ。こういう体験をB2とする。

 保育園ではB2を通しながらA2も図ったのだと思う。というより、A1を図る親としてはA2もとうぜん図るべきだったのだ。「A」よりも「B」を重んじ、「B」のなかでも「2」よりも「1」に走った。まあ、じぶんが楽しむことに終始してしまった。

 それはそれとして、子どもがどんどん大きくなり、保育園のアットホームな「ぬくもり」から出て、小学校という「大人社会(ゲゼルシャフト)」の入口へむかってしまうのは、なんともさびしい思いがする。子どもは母親よりも保母さんの方が好きだと言っては母親を怒らせている。1番目は◯◯せんせい、2番目は◯◯せんせい、3番目におかあちゃんとなる。子どもは「お別れ遠足」を無意識にもそういう形で表現しているのかもしれない。

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mojabieda * 子育て * 08:20 * comments(0) * trackbacks(0)

ビールが当たる

 ヱビスビールが当たった。特別限定醸造「120年記念 匠ビール」。アルコールは7%となっている。

 まだ飲んでいない。

 組合のクロスワードパズルでさえ、毎回正解のハガキを出しても一回も当たったためしはないのに・・・。

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mojabieda * 日記 * 18:37 * comments(0) * trackbacks(0)

明日は小満

 明日は小満。わたしがいちばん好きな季節はちょうどこの五月のころだ。ふだんはあまり意識したことはないが、改めて問われると、今がいちばんいい季節だと思う。

 田んぼに水が入り、田植えが終わった直後のころは、水田の水面にさまざまなものが鏡のように映る。気温はちょうど1年でいちばん気持ちのいい、寒くもなく暑くもないころだ。さらに草が香り、夏みかんの花が香り、初夏の花々が咲く。そして若葉がさわやかだ。

 そのころいちばん美しいと思うのは、家に帰るときに見る夕暮れの田んぼの色だ。藍色から群青色に変わる夕暮れの空に残る山際の光を、水郷地帯のようになった田んぼの水面がほのかに映し出すころがいちばん美しいと思う。やがて家々に灯りがともりはじめると、鏡のような水面にも灯りがともる。何か幻想的なまでに美しい夜景である。

 こうして考えると、水田は知らぬ間に人のこころへ爽やかな潤いをもたらしてきたのではなかったか。朝の青空や夕の茜空、夜の灯りを天へ投げ返す、この五月のころが最高の季節である。

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mojabieda * 日記 * 21:37 * comments(0) * trackbacks(0)

地中海の磯くさくない話

 地中海が磯くさくない、というのを何で読んだのか、必死になって探してみたら、見つかった。探すときに、いろいろ考えた。

 いつごろ読んだのか(さいきん。たぶん1ヶ月内外・・・結局4月11日読了だった)。著者は男か女か(なんとなく男のような気がした)。なんの本か(歴史解説か神話紀行か旅行記か──旅行記と見当をつけた)など。見つかったけれど、細かなところにひっかかってしまった。どうでもいいことなんだけれど。

◯ 地中海/磯くささがない  『エーゲ海の頂に立つ』(真保裕一/集英社文庫)

 海辺の道を歩いているのに、ちっとも潮の香りがしてこない。日本だと、磯くささが鼻を突く浜辺である。/「なぜだと思います」/田井さんに問われて、私は崖を背負った浜辺をあらためて見回した。/まず気づくのは、日本の海と違って浜辺の見た目が綺麗なことだ。ゴミや漂流物が見当たらないのではない。日本の浜辺には、まずおおかた打ち上げられた海草がそこかしこに落ちている。波打ち際の岩場にはフジツボや海草が付着している。それらが、まったく見当たらないのだ。/「そのとおり。つまり海草がないってことは?」/「石灰岩の地質が何か関係しているとか・・・」/自信なく口にしたが正解とは言えなかった。/その答えは、海中にプランクトンが少ないため、だという。/言われても、すぐには頷けなかった。確かにプランクトンが少なければ、海草やフジツボも育ちにくい。ということは、日本はたまたま黒潮と親潮という暖寒ふたつの潮流が近くを流れているため、恵まれた環境にあるのだろうか。/確かにクレタは石灰岩の地層なので、雨水とともに海へそそぐ土壌に栄養分が少なく、島の周囲はプランクトンの繁殖に適した環境とはいいにくい。/実はもう一点、大きな理由があるというのだ。/「世界地図を思い浮かべてください。地中海は閉じた海なんです」/言われて、あっと声を上げそうになった。/地中海は、文字どおり大地の中の海だった。スペインとモロッコにはさまれたジブラルタル海峡で、かろうじて大西洋とつなかってはいる。だが、北をヨーロッパ大陸、南をアフリカ大陸、そして東をアジアの大地によって囲まれているのだ。/世界の海はつながっている、という常識に縛られ、地中海という言葉の意味をすっかり失念していた。/四方を陸地に囲われた地中海では、大西洋との水の混ざり合いが少なく、塩分濃度がやや高くなっているのだという。/あらゆる生物の故郷は海である。人間の血液の塩分濃度は、海に近いと言われている。ほかの動物たちも同じで、海の塩分濃度と生物の営みは切っても切れない関係にある。/ところが、地中海はジブラルタルという極めて狭い海峡でのみ大西洋とつなかっているだけだ。閉ざされたような状況になってからの長い歳月によって、ほんのわずかながら大海との塩分濃度に差が出てきた。浸透圧によって塩分の影響を受けやすいプランクトンには、生きにくい環境とになっていたのである。/日本の浜辺で嗅ぎなれた磯くささは、プランクトンの死骸が発生源だという。クレタの海では、さらに地中海性気候もあって、最も水分の蒸発しやすい夏には乾いた天候が続き、ただでさえ薄い潮の香りも強くなりようがない。・・・・・このプランクトンの少なさは、海の色とも関係しているのだろうか。・・・・・打ち寄せる波の下に、海水を透かしてコバルト・グリーンに染まった岩々が見える。沖へ向かうにしたがい、その色が深みを帯びて藍色から群青色へと変わっていく。絵はがきにでも残しておきたいような色の海が広がっている。/プランクトンの少ない海は透明度が高いので、光の屈折率を鮮やかに操り、海を緑色に変える技を持っているのだとしか思えなかった。p160-163

 ということで、「なぜ磯くささがないのか・海草が少ないのか」の原因を著者が同行者から2点教えられる場面が出てくる。1点はプランクトンが少ないこと。2点は塩分濃度が大海よりやや高いこと。さらにこれら2つの点がつながっていることも同行者から示唆されたようだ。その塩分濃度の高さも地中海が「閉じた海」だから、ということを同行者から指摘される。

 とはいえ、わたしはまったく知識がないので思うのだが、「閉じた海」だと、どうして塩分濃度が高くなるのだろう。ちょっと調べるとおなじような「閉じた海」である黒海は逆に濃度がかなり薄いらしい。こんどはプランクトンが豊富でそのため「黒く」見えるのだという。おそらく魚介類も豊富なのだろう。おなじ「閉じた海」(出口が一箇所)なのに、どうして地中海と黒海では違いが生まれるのか。そのあたりを少し調べてみると、黒海はもともと「湖」だったらしい。さらに、エーゲ海の海水が「湖」だった黒海へ「決壊」して押し寄せたのが「ノアの洪水」伝説などに残っている、という話もあるようだ。

 それはそれとしても、もと「湖」らしい濃度の薄い黒海と海水を出入りさせているのだから地中海は大海よりも濃度が薄くなるのではないだろうか、など、いろいろなことを考えたりする。

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mojabieda * 読書 * 18:27 * comments(0) * trackbacks(0)

雑学

 どうしても思い出せない。ある本にこんなことが書かれていたように記憶する。

 地中海はわれわれの知っている海とは印象が違うらしい。まず海が澄んでいるし磯臭さがないという。岸に打ち寄せられる海草も少ないらしい。そのことに気づいた筆者が、ふと、地中海が外の海からずいぶん離れ閉ざされていることから、たぶん塩分濃度が違うのだろうと推測する。実際塩分は濃いらしい。それでプランクトンが少なく、海草も少なくなるという。磯臭さの発生源はプランクトンの死骸の由。そんな話だった。

 その本がどうしても思い出せない。メモしておけばよかった。

 とはいえ、どうでもいい雑学はメモしている。

◯ ジーンズ/ジェノバ(須賀敦子『霧のむこうに住みたい』(ジェノワという町)──近年、海運がむかしほどさかんでなくなって、すこしさびれたという人もあるけれど、ブルージーンズは、ジェノワのフランス語読み、ジェーヌが語源で、「ジェノワ綿布」を意味し、むかし、ジェノワからアメリカに輸出された木綿地だった・・・p81。

◯ レスビアン/レスボス島(楠見千鶴子『ギリシャ神話の旅』)──レスボス島は、今日ウーマン・リヴの島として西欧世界ではよく知られている。現に真夏、8月の満月の夜に、島の古城では世界中から集まった女たちが大会を開く。それはおそらく、紀元前7世紀の女流詩人、サッポーが島に残した伝統によるものではないだろうか。偉大な抒情詩人であったばかりでなく、彼女自身一女の母でもあり、島の子女を集めてその教育に身を捧げた。女性の地位が極めて低かった古代ギリシァで、サッポーゆえにこの島は画期的、先進的な島となった。半面、熱心さの度がすぎ、その情熱は「レスビアン」の名の起こりを島にもたらした・・・。p54-55

◯ 名人(囲碁)/織田信長 『野垂れ死に』(藤沢秀行) ──「名人」という名称は、そもそも信長に由来する、とされていることをご存知だろうか。戦国時代末期、京都・寂光寺の塔頭の一つ「本因坊」に、日海という僧侶が住んでいた。この人が、とんでもなく強い打ち手で、「これからお前を名人と呼ぶことにする」という信長の鶴の一声によって、名人と言われた。これが碁界の「名人」の始まりなのである。p116-117

◯ タオルミナ/「太陽がいっぱい」で金持ち青年が行こうとするところ(辻 邦生『美しい夏の行方』) ──ルネ・クレマンの名作『太陽がいっぱい』の1シーン──郵便局で大金をおろしたモーリス・ロネの演じる金持の青年が、「どこに行くのですか」という郵便局員アラン・ドロンの質問に「タオルミナ!」と叫ぶ・・・。p186-187。

◯ キャンディ/クレタ島(『迷宮に死者は住む』(ヴンダーリヒ/新潮社))──ローマ法皇がカンディア(クレタ島のイラクリオン)司教区の(トルコによる)喪失を大いに嘆いたことが報告されている。重要な通商関係の喪失は、ヴェネチアにとって、それにも劣らず嘆かわしいことであったろう。クレタ島は古代にもう、ぶどう酒、オリーブ油、蜂蜜の産出で知られていたのである。クレタに産する他の甘味とともに、カンディス砂糖すなわち氷砂糖は、さとうきび、ないしはビート糖が普及するまで、ヨーロッパでは大いに珍重され、カンディス、キャンディという名前は今日なおカンディアという町と島の名(イタリア語ではクレタをカンディアという)を思い出させるほどである。p24。

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mojabieda * 読書 * 21:11 * comments(0) * trackbacks(0)

あれどもあらず

 ダグラス・ラミスの『影の学問、窓の学問』の冒頭にある話を頭に浮かべながら、5月の緑の間を抜けるバイパスをドライブしていたときのこと、たいへん奇妙な感覚におそわれた。なんと呼んでいいのか分からないので、「あれどもあらず」の感覚と呼んでおく。

 じぶんを失いそうな感覚。いま・ここのじぶんは本当のじぶんではない、あるいは閉ざされた世界にじぶんが押し込められ、息苦しくなるような感覚。それを自覚すればするほど、ますます泥沼のような、蟻地獄のようなものにはまりそうな感覚。

 これはたぶんラミスの本の影響だと思う。冒頭にあるのは宇宙船で宇宙へ移住する話。たしかこんな話だった、何世代もすでに宇宙空間をロケットで飛んでいる。ロケットのなかで生まれ、死ぬ世代・・・若者たちは「なんのために?」と反乱を起こす。それを鎮圧した為政者たちは宇宙船の窓という窓をふさぎ、宇宙船に関する知識を封印した。やがて時代が過ぎ、すべての知識、学問、政治、教育、宗教を動員して為政者は人々に宇宙船の中を全世界だと思わせることに成功した。ところがある一人の若者が秘密の部屋に入り、閉ざされていた窓の外を見てしまった。そこから暗黒の宇宙が垣間見えた・・・。そうしてじぶんが宇宙船の中にいる事実を知る。その若者はすぐに人々にそれを知らせる。しかし人々は信じない。その若者は邪教をひろめた者として処刑される。

 もう一つは洞窟の話。一度も洞窟の外へ出たことがない人間たちは洞窟の中が全世界だと思っている。火に照らし出されて洞窟の壁に浮かぶ「モノの影」が、この世のすべての事象だと思う。ところがある一人の若者が洞窟の奥へと進んでゆき、遙かな先に一条の光をみとめ、ついに洞窟の入口へ辿り着き、その外へ一歩出た。まばゆい光にようやく慣れると、外の世界がはじめて見えてきた。そこには野原があり空があり太陽があり、ほんとうの「光」と「世界」とがあった。

 車のなかで思ったことは、もし人が宇宙船の窓の外をはじめて見たら、あるいは洞窟の外の世界をはじめて見たら、たぶん発狂してしまうのではないか、ということ。影しか知らない者が、光や「真実」の姿に堪えられるだろうか。

 そうして、いま、わたしが5月のバイパスを走っていると思っているこの世界は、ほんとうはただの「モノの影」かもしれない。わたしはいま緑あふれる「閉ざされた洞窟」にいるのかもしれない。そう思っているこの「わたし」の姿もたぶん「モノの影」かもしれない。そういう、何か無限の深淵でものぞき見るような感覚におそわれた。

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mojabieda * オカルト * 18:24 * comments(0) * trackbacks(0)

捨てることが苦手

 子どもたちが自転車に乗りに近くの公園へ行く。近所のオヤジさんが見かねて、サドルを高くしてくれた。わたしはまったく気づかなかったが、それぞれ二人の自転車のサドルがかなり低くなっていたらしい。子どもたちがどんどん大きくなっていることに、毎日顔を合わせていると気づかない。上の子にはもう新しい自転車が必要だし、下の子はいま上の子が乗っている自転車がちょうどいい。小二の上の子を大人用の自転車に無理やり乗せてみた。するとなんとか走ることができた。停まれなくて転んでしまうが。

 さいきんはその公園へ、友だちと遊びに行くようになった。いまはまだ親といっしょにいろいろ遊んでくれるが、そのうちに子どもたちだけの世界へ大人は入れなくなるのだろう。

 パソコンのなかにたまった画像をかなり捨てた。さいきんのデジカメは性能がよくて、パソコンに格納した写真がひどく重くなっていた。それを今日ある程度「処分」した。

 新しいパソコンなどを買うと、ハードの容量の大きさに、まるで無限に余裕があるかのようにいつも感じていた。それがいつのまにかあっというまに少なくなってしまう。ああ、人生もこんなものかなあ、と思う。捨てることを覚えなければならない。

 子どもたちや若者は新しいものをどんどん手に入れてゆくだろう。反対に、年を取ったら古いものをどんどん捨てなければならないのだろう。しかし捨てることが苦手で困る。なんでもかんでもいつまでも取っておきたがる。とはいえ、思い切って捨ててしまえば、きっと肩の荷がおりたように楽になるんだろうな、と思う。

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mojabieda * 人生 * 21:49 * comments(0) * trackbacks(0)
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