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『クレスコ』7月号のなかの渡辺治の政治学入門を読んでいて、なるほどと思った。
──鳩山の個性は、岡田克也や菅直人らと比べても、支配階級としての自覚が薄い点にあります。だから鳩山は、国民の期待に応えようと、さしたる自覚もないままに保守政党の枠──すなわち構造改革と日米同盟の枠を踏み破り、民主党への熱狂を生んだのです」「こうした反構造改革への期待を受けて、民主党政権が誕生しました。これに焦った財界やアメリカは猛烈な圧力をかけてきました。もし首相が岡田や菅であればおそらくかんたんに普天間基地の「国外移転」は放棄され、早々に「辺野古で仕方なし」に戻っていたことは間違いない。ところが、ここでも鳩山の個性が発揮されました。・・・・・こうした鳩山だったからこそ、普天間をここまで引きずり、福祉関係マニフェストはここまで実現したのです」「今後の民主党の首相は、鳩山のように、一時的にせよ保守の枠を逸脱することは許されない、いっそう忠実に構造改革と日米同盟の枠の中から出られない首相になることは間違いありません。──
という。渡辺治がこれを書いた時点ではまだ菅政権は成立していなかったようだ。が、鳩山に代わった菅首相が辺野古案をそのまま踏襲し、消費税増税に言及したことを考えると、きっちり「鳩山後」を予見している。
それにしてもこれが政界なのだろうか、「支配階級」出の鳩山が、(さしたる自覚もないまま──渡辺)できるだけ庶民の期待に応えようとしたことと対照的に、「庶民」出のはずの菅が、(就任早々)沖縄の民衆の期待をかんたんに無視し、法人税の増税や累進課税ではなく、いきなり庶民を苦しめる消費税10%という大増税に言及した。
「豆殻で豆を煮る」というのは支配のための常套手段だろうか。豆たちは、「同じ豆殻だから・・・」と思い込んでいるうちに、知らぬまに煮られてしまうのだろうか。
7年ほど前に玄関先に植えたくちなし。そのままほっとかれて、今年も花が咲く。4年前、くちなしのつぼみが咲きそうなときもワールドカップだった。あのときは日本が初戦でオーストラリアに負けたような気がする。今年はくちなしの花はもうほとんど枯れてしまったが、決勝トーナメントに残っている。今日はその試合があって、いまワールドカップで沸き立っている。
俺の言葉に泣いた奴が一人 俺を恨んでいる奴が一人 それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人 俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人 みんな併せてたった一人・・・宅島徳光『くちなしの花──ある戦没学生の手記──』(旺文社文庫)のなかの詩。この本が書庫にあった。この詩は『第二集 きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)にも掲載されている。
抽象的なモノのために命を捧げることなどとてもできそうもない。たった一人のためなら、もしかしたら、それが可能かもしれない。この世の何を信じているのか、がそのとき問われるが、社会や92などの抽象的なモノを本気で信じている者がはたしてどのくらいいるだろう。(ワールドカップに人々が沸き立つのも、己れの願望の投影であったり、日ごろの鬱積のはけ口であったり、にすぎないのかもしれない)。人はただおのれの過去や理想や願望を信じているだけではないだろうか。せめてたった一人でも信じられる相手──Duと呼ぶ相手──(神ではなく生きている、生身の人間)がいれば幸いである。くちなしの花はその「一人」を想起させる香り──だろうか。
とうとうベイブレードが13個になってしまった。今のベイブレードは五つのパーツから成り立つ独楽だが、軸の底辺となるパーツの一つの「ボトム」が「きも」になるようだ。あとは「トラック」と呼ばれる軸の部分で独楽の高さが決まる。「ボトム」の形状と「トラック」の高さと金属ウィールの形状とによって、ほとんどの勝負の趨勢が決定されるように思う。
金属のウィールが新品だとピカピカだが、使っていくうちにすぐに色が鈍くなる。そうしてボトムも使っていくうちにすり減ってしまう。すり減ってしまうと、バランスが悪くなる。バランスが悪くなると結局負ける。つまり強いベイとはボトムがまだすり減っていない「真新しいボトムのベイ」ということになる。だとすれば、いちばん新しい買ったばかりのベイが、ボトムがまだすり減っていない分、比較的強いということになる。
そういうことをだんだんと知ってしまった子どもたちが求めるのは、常にピカピカの「真新しいベイ」だ。こうして購買意欲が常に更新され、つぎつぎと新しいベイを求めてゆくことになる。メーカーはちょっとずつ形状の違う「新しいベイ」を生産してゆけばいい。
とはいえ、ボトムの形状など新しいアイデアはもうほとんど出し尽くしてしまったのではないか、と思われるのだが。
手元にヘッセの詩集がある。一冊は青春時代に買った文庫本、高橋健二訳(新潮文庫)。一冊はめぐりめぐって手に入れた図書館廃棄本の植村敏夫訳(旺文社文庫)。一冊は図書館(たぶん)廃棄本(昭和41年の印がある)のハードカバーの片山敏彦訳(みすず書房)。高橋健二・植村敏夫・片山敏彦という三者三様の訳。訳を比較するとずいぶん雰囲気が違う。
訳の比較ではなく、本の比較で、現在でも出版されていて安価で手に入れやすいのは高橋健二訳。あとのものは古本屋で探すしかない。
図書館廃棄本の植村訳だが、詩の一つ一つに訳者の注釈があり、詩についてより知ることができるのはありがたい。たとえば「春」という詩。注釈に「この詩はリヒアルト・シュトラウスによって作曲されている」とある。聞いてみたいと思った。そういう本だから貴重なのだが、なんと図書館廃棄ということで、本に押したいくつかの図書館の印や番号の一つ一つを赤いマジックで塗りつぶしてある。その数は6カ所あった。中には大きく×をつけているところもあり裏側ににじんでいる。しかし見逃した印や番号はまだ2ヶ所あった。図書館から除籍された本ではあっても、そのまま「ゴミ」箱に入れられて焼却されるわけではないだろう。逆にそのまま焼却される本なら、そのような作業は必要ない。除籍された本が人手に渡っていくから、わざわざ印を消して除籍したことを記したのだろう。
しかし赤いマジックはどうだろう。それよりも「除籍」という印をつくって、どこか一カ所にうてばよかったのではないか。ある市の除籍本などは表紙にシールが貼っているだけだ(はがそうと思えば剥がれる)。その方が労力が省かれるし、それで充分ではないか、と思う。
ある人にとって、その除籍本が宝になるかもしれない。
『うわの空──ドイツその日暮らし』(上野千鶴子/朝日文庫)読了。
電車の中で読んでしまった。ちょっと昔の、東西ドイツ統一のころの話だが、いつもの小気味のよい「ウエノ節」。東西統一のころの、過渡期の時代のドイツに飛び込み、時代の証言者となりながら、生きた時代のドイツをいつもの切り口で斬り、返す刀で当時の日本も斬る。
心に残るのは、ここだけ他の文章とは異質な「ひとつの『治癒』」の章。他の文章はまあいつものダイナミックな調子なのに対して、ここだけ違う印象。霜山徳爾が出てくる。ちょっと引用すると──
「霜山さんの謐(しず)かな〈叡智〉が照らす灯りが遠くの闇のなかに見えるので(彼はそれを自灯明と呼ぶ)、かれと同じ道は歩けないけれど、わたしもまた闇の波頭をただよっていられる、と日本を遠く離れた地で、かれはわたしにひとつの「治癒」をもたらしたのだった。」(p153)
昨年亡くなった霜山徳爾の『素足の心理療法』が言及されているけれど、未見。いずれじっくり読んでみたいと思う。