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下の子のことば 11

 6歳になった下の子のことばはヒットするものが少なくなった。以下ぐらいしかない。

◯ マノネーズ(マヨネーズのこと)

◯ マーボーボーフ(マーボー豆腐のこと。しかし「とうふ」ということばが頭にあるらしく、すぐに訂正して)

◯ マードードーフ

 たべものついでに、7月26日(月曜日)は土用の丑の日で、前の日にスーパーのうなぎを買ってあった。

 夕飯の食卓へ子どもたちを呼ぶときに「今日は年に一度のうなぎだよ。土用のうなぎの日だよ」と叫ぶ。あとでへんだなあと思う。「うなぎの日」ではなく「丑(うし)の日」だった。おとなも間違う。

 もちろん子どもたちには「うなぎの日」で間に合う。「土用」が「月曜」でもいっこう構わない。地元浜名湖産ではないが、いちおう国産うなぎ、らしい。黙々と、あっという間に、丼をたいらげてしまった──美味しくてやがて哀しきうなぎかな。

JUGEMテーマ:育児
mojabieda * 子育て * 19:55 * comments(0) * trackbacks(0)

東京とんぼがえり

 猛暑のなかを東京へ行って日帰りでもどる。

 東京で少し時間があったので、丸の内北口を出た丸善に立ち寄る。昔の丸ビルにゲーテ書房というのがあったけれど、いまはよく分からない。日比谷にもメクレンブルク商会という書店もあったが、もうずっと昔の話。丸善の4階には松岡正剛氏のつくった店舗があって、その本棚を観る。すごいなあという感じ。カテゴリー別になっていて、眼がくらくらするような多様さ。狭い井戸の底を通って大海へ出たいような衝動にかられる。

 4階は洋書もあって、ドイツ語の棚を眺める。なんとなく音楽関係の本がちょっとだけ目立つような気がした。古今の文学書のほかは、その手の需要しか、もうドイツ語にかかわる需要はないのかな、と思った。文学書もじぶんの学生時代のそれとはかなり変わっているような気がした。

 帰りは10時の新幹線に乗らなければその日じゅうには家に帰れないので、まず駅まで走る。それから池袋駅から「湘南新宿ライナー」とよばれる電車に乗れば品川に出る大崎まで4駅で最短だ(ネットで調べた)。その電車はきっと山手線と線路を共有しているにちがいないと踏んで、山手線のホームへ駆け上る。しかし違っていた。隣りの埼京線だったようだ。目の前をそれらしい電車が通り過ぎた。しかたなく山手線の各駅停車で品川駅までいく。それでもギリギリに新幹線に間に合ってよかった。

 ネットで仕入れた知識を現実で展開し、失敗してまたネットで確認する。ネットの操作は手軽で慣れているが、心身を動かして現実に対応するのはいつも慣れないで試行錯誤だ(年をとると、どんどん現実に対応するのが困難になる)。現実はつねに変化していくし、ネットの操作と現実の対応の落差もどんどん広がっていくような気がする。しかしながら、ネットがなければ、さらに現実に対応するのも困難になるから、むしろ中高年にはネットはありがたいものかもしれない。

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mojabieda * 人生 * 07:35 * comments(0) * trackbacks(0)

タコの予言は「お墨つき」

 ドイツの水族館にパウルと呼ばれるタコがいて、ワールドカップのドイツとその対戦国との勝敗をことごとく当てているらしい。で、この前の準決勝のスペイン戦でもドイツの敗北を的中させた。しかもこの予想のシーンがテレビで中継されたので、極東にいるわたしも観ることができた。すごい。グループリーグの三戦から的中。決勝トーナメント三戦と合わせて六戦全勝。おそるべしタコ予言。あるニュースの見出しには「お墨つき」とあった。ほんとうにお墨つきなら世界のヘッジファンドが黙ってはいないかも。

 さて、この連続的中の確率やいかに?ということで数学の大先生方にうかがうと2の6乗分の1とのたまう。つまり64分の1。

 だけど、そうかなあ?と直観的に疑問に思う。一つの試合の勝敗を当てる確率は2分の1。当ててしまった後は、前の試合のことはすっかり忘れ、「いま」次の試合の勝敗を予言する。その予言が当たる確率は2分の1。するとやはり当たった。これが6回つづいた。それだけのこと?

 そのつど当たる確率は2分の1だった。だから「いつも」2分の1の確率で当たっていたのだから、それらが連続していたとしても、それらを「まとめて」一つの事象と捉え、6回連続して当たる確率を64分の1とすることに実際的な意味があるのか?と思ってしまう。

 これとは逆に、もう一つ思うことがある。ものごとの「連続」に意味を与えしまうのは人の世に棲んでいるからだろうということ。世の中にはたてつづけにクジに当たる人もいるし、いつまで経っても当たらない人もいる。数学的な(神の視点のような)視点からすれば、「たまたまそうなっただけ」にすぎない確率の問題だろう。しかし生身の人間には簡単には割り切れないものが残る。わたしなどは、朝、小さな不運がつづくとホッとする。なぜなら、そのあと1日は少なくとも大きな不幸はやってこないはずだからと勝手に信じてしまうからだ。頭の片隅で「ばかげている」と思う。しかしタコのパウルに占いをさせる人間の心理からして、数学の確率では割りきれない「意味」を人々が求めているような気がする。

 「また運命の神様もご多忙であろうのに、かくのごとき微々たる片隅の生存まで、いちいち点検して与うべきものを与え、もしくはあればかりの猫の額から、もとあった物をことごとく取り除いて、かぼちゃの花などを咲かせようとなされる。だから誤解の癖ある人々がこれを評して、不当に、運命のいたずらなどと言うのである。」(柳田国男『清光館哀史』)

 ここでの柳田は冷徹に確率的な視点で見ようとしているのかもしれない。大災害の絶えない地域に住む人々の不幸を不運ではなく峻厳な確率の問題として。

 ところで、このタコはドイツ国中から「このタコめ!」と酷評され八つ当たりされているらしいが、八本の足ではね返してほしい。ドイツが負けたのはタコのせいではないし、タコは二つのうちの一つを選んでたまたま当たりつづけているだけなのだから。それにしても、日本で受験生が「置くとパス(Oktopus)」するというタコの霊験が、ますますあらたかになったかもしれない。

 さて、タコのパウルは今度はワールドカップ決勝の勝者を予言したという。スペインとオランダの決勝はスペインの勝ちだという。ドイツに勝ったとき、スペイン首相は「パウルに護衛をつけろ」と言ったというがほんとうだろうか。そんなことがニュースになって世界中に広がっているのもおもしろい。さて、予言はまた当たるだろうか。

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mojabieda * 人生 * 20:19 * comments(0) * trackbacks(0)

マネーゲームと紅の豚と

 保育園の七夕の短冊に子どもたちが書いた願いは、上の子は「ベイブレードのペルセウスが買えますように」、下の子は「ベイが100コほしい」だと。ペルセウスはおもちゃ屋を回っても手に入らなかった。子どもたちを車でお迎えに行っての帰り道、明日は七夕だし、ベイブレードのペルセウスをネットで買ってあげるよ、と子どもたちに約束してしまった。

 家に着いて、さっそくベイブレードのペルセウスをネットで検索すると1800円台。しかも送料別だ。きのう見たら送料込みで1600円台だったのに。なんなんだ、と思った。またあとでネットを見ると2300円台に跳ね上がっていた。マネーゲームだ。

 ギリシャの国債にかかって一国を滅ぼすマネーゲームと基本的に変わりない。一国の浮沈と一コマの浮沈と。子どもの世界も大人の世界も変わりなく資本主義がグローバルに人の世を覆っている。とうぶん買えそうにない。こどもたちにとんだ資本主義のからくりを説明する。「世の中には金もうけのためにものを安く買い、高く売る『悪い』人たちがいる。その人たちがたくさん買い占めてしまったから、本当にほしい人たちの手に入らないんだよ」。

 それにしても、テレビで見たのだが、どこかの国でこの資本主義に反対する人たちのなかに、赤と黒の2色の旗をかかげていたデモがあった。赤はコミュニズム、黒はアナーキズム、両者が一緒になった古い旗だ。それに緑がまじるといいかもしれないと思った。ちょうど加藤登紀子の『美しき五月のパリ』を聴く。世の中はあそこからどこまで遠く来てしまったか。

 思うたびに暗くなるので、同じ加藤登紀子の『時には昔の話を』を聴く。この歌はジブリの『紅の豚』のエンディングの曲だ。

 この前、テレビでアニメの『紅の豚』を観た。いままで何度も観ているが、すべて「途中」まで。今回もぜんぶは観ていないが、観終わったとき、心が癒されるようだった。

 なぜか、ジブリのアニメの中でいちばん気に入ってしまった。中年男性が主人公で、アドリア海を舞台にし、加藤登紀子の歌がしゃれているからだろうか。大人のメルヘンという感じだった。あの街はドブロブニクらしい。蒼いアドリア海とオレンジ屋根の古い街並。それに加藤の歌う「さくらんぼの実る頃」はパリコミューンにかかわるフランスのシャンソンらしい。ホテル・アドリアーナの庭など、リルケの悲歌で有名な、同じアドリア海に面した、トリエステ近くのドゥイノ城を連想させる。映画に出てくる飛行艇などもプラモデルで現在も発売されている(おもちゃ屋で見たけれど、さすがに買わなかった)。

 主人公には孤独になれるアジトがあり、蒼い海と空があり、自由があり、生き甲斐の飛行艇があり、古い恋人があり、若い女性にももてる。「ありえない」世界だが、中年男の理想の世界。

 安部公房の小説の「赤い繭」では主人公の「おれ」は赤い繭になってしまう。同じように人間ではなくなったとしても、「赤い繭」と「紅の豚」とは真逆のような気がする。が、宮崎の脳裏にはこの「赤い繭」があったかもしれない。「赤い繭」にはふしぎな乾いた抒情があり、「紅の豚」にはウェットな抒情がある。ふたつともに共通するのはノスタルジーか。

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mojabieda * 世情 * 08:04 * comments(0) * trackbacks(0)
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