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風琴と魚の町をあるく 5

 志賀直哉旧宅は坂道をさらに降り登りしてたどりつく。そこへいく途中にある坂道が大林宣彦の映画のロケ地になったところでなかなか趣がある。というか、尾道の坂道や階段そのものに趣がある。ここは千光寺新道というのだろうか。この旧宅は志賀が『暗夜行路』の草稿を執筆した場所らしい。景色のいい閑静なところだ。どうしたわけかここに『男たちの大和ロケ地』のパンフレットがあった。

 さらに下って宝土寺まで降りる。その宝土寺下の家に、尾道へたどりついた芙美子一家がはじめて借りた部屋があるというのを文学記念室の壁にかけられた年表で見た。この坂道は山陽本線の下をくぐる小路になっていて、国道2号線に出、そこを横切って、来た道であるアーケードの商店街にもどる。山の斜面に立つお寺があちこちに見える。東西をゆくアーケードが魚の背骨だとすれば、その肋骨にあたる北側の小路は、いずれもその先の山裾に違ったお寺が見える。反対の南側の小路の先はいずれも海。『風琴と魚の町』の魚とはもちろん漁師の獲った魚のことだが、なんとなく尾道の町の姿が魚の形をしているのではないか、と思った。

 商店街を西にもどり喫茶「芙美子」に入って一休みする。奥にある林芙美子旧宅の二階を観る。階段を上がるとそのまま四畳半ほどの部屋の中。天井は低い。足下に格子状の明かり取りのような窓とその上に普通の窓がある。それ以外には三方に壁があるのみ。喫茶店内には林芙美子の写真や芙美子にかかわる書物などが展示されている。ママさんに『風琴と魚の町』は「『ふうきんとさかなのまち』なの?『ふうきんとうおのまち』なの?」ときくと「ふうきんとさかなのまち」と答えた。店内にいた別の男性(はだれだろう?)は、「いやあ、わたしは『ふうきんとうおのまち』だとばかり思っていた」と言っていた。どちらだろうか。

 喫茶店を出ると道路工事が終わったので、うず潮橋を渡る。橋の向こうに階段があって、それを登っていくと土堂(つちどう)小学校がある。ここは芙美子が2年遅れで通った小学校である。『風琴』にはつぎのようにある、「ずいぶん、石段の多い小学校であった。父は石段の途中で何度も休んだ。学校の校庭は沙漠のように広かった・・・校舎の上には、山の背が見えた。振り返ると、海が霞んで、近くに島がいくつも見えた」。その石段の途中に、『風琴』のなかで最初に住んだ家のモデルが今もある。「この家の庭には、石榴の木が四五本あった。その石榴の木の下に、大きい囲いの浅い井戸があった」。

 石段を降りてうず潮橋にもどる。この陸橋の下を山陽本線が走る。『風琴』には尾道の小学校へ転入させる朝の父と娘の会話がある、「『これ(汽車)へ乗って行きゃア、東京まで、だまっちょっても行けるんぞ』『東京から、先の方は行けんか?』『夷(えびす)が住んどるけに、女子どもは行けぬ』『東京から先は海か?』『ハテ、お父さんも行ったこたなかよ』」。ほのぼのした感じで、宮澤賢治の『なめとこ山の熊』のなかの母子熊の会話を連想させる。実際に芙美子はここから志を抱いて上京するのだ。

 陸橋から商店街をまたいで、またうず潮小路を抜け、海岸通りに出る。そこから東御所通りという駅前旅館などが建つ通りを歩く。この辺り、おそらく『風琴』に出て来る駅前の旅館のモデルだろうか。そんなことを想像しながら、わたしの「風琴と魚の町」の探訪はここで終了した。

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mojabieda * * 19:19 * comments(1) * trackbacks(0)

風琴と魚の町をあるく 4

 さらに商店街を進み、薬師堂通りとの交差点を左折し、北へ進むと国道と山陽本線に出る。線路の下をくぐると、千光寺のロープウェイの上り口に出る。このロープウェイはいつも満員のようだ。ここから千光寺公園に出る。尾道の街が見渡せる。尾道水道は意外に狭い。尾道の向かいは向島、その向こうが因島らしい。瀬戸内海も左手はるか先に見える。右手の手前には子歌島(おかじま)という小さな島が見える。『風琴』には「浜には小さい船着き場がたくさんあった。河のようにぬめぬめした海の向こうには、柔らかい島があった。島の上には白い花を飛ばしたような木がたくさん見えた。その木の下を牛のようなものがのろのろ歩いていた」とあるのは子歌島(おかじま)のことのようだ。

 千光寺は朱塗りのお寺。『風琴』には「山の朱い寺の塔に灯がとぼった。島の背中から鰯雲が湧いて、私は唄をうたいながら、波止場の方へ歩いた」とある。

 お寺の境内でお守りなどが売られている。子どもにむかって「親の意見と茄子の花は千に一つもむだがない」と言いながら、そんな茄子のお守りを見せる。「むだ」を「あだ」とも言っていた。子どもがお守りの目出しダルマの目を引きだそうとするので、お店の人が止めた。

 境内の道を下へ降りていく途中、踊り場の床にふしぎな記号が彫られているのを見つけた。算用数字の8の字がいくつか。それから光跡のような図や古代文字のようなもの。よく分からない。

 この辺りの公園は桜の名所だったらしい。『風琴』に「夜になると、夜桜を見る人で山の上は群がった蛾のように賑わった。私たちは、駅に近い線路ぎわのはたごに落ちついて、汗ばんだまま腹這っていた」とある。

 ここから下る道を「文学の小道」というらしい。さまざまな文人の碑が建っている。岩の間をくぐりぬけると、林芙美子の『放浪記』の碑がある。例の「海が見えた。海が見える・・・」の碑だ。この碑の向こうに絵のような尾道の町と海と島々が見える。

 さらに下ると中村憲吉終焉の地となる旧居があり、この辺りを「おのみち文学の館」と呼ぶようだ。あと文学記念室と志賀直哉旧宅がある。風情のある坂道を降りたり登ったりしてたどりつく。渡部氏によると、文学記念室の売店には『尾道の林芙美子 今ひとつの視点』が売られていたという(『林』)。しかし現在は資料らしい資料は売られていない。それを気の毒がって、記念室の人が記念写真を撮ってくれた。

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mojabieda * * 06:41 * comments(0) * trackbacks(0)

風琴と魚の町をあるく 3

 うず潮小路にもどり、アーケードの商店街にもどって東へ行くと、すぐに右手に喫茶「芙美子」がある。この店の奥に「林芙美子旧宅跡」がある。ここは「芙美子の住んだ『元宗近家』の建物が移築されている。以前はもう少し東にあったものをここに移したという」(『林』)。この喫茶店には帰りに立ち寄った。ここのママさんは林芙美子の風体で着物姿。コーヒーに「風琴と魚の町」という名のコーヒーがあった。

 アーケードの商店街をどんどん東へ向かう。いろいろな昔風の店が多い。渡部氏によると喫茶店から約250メートル先の右手に「西日本相和銀行尾道支店がある。旧尾道警察署の跡である。『風琴と魚の町』で父が取り調べを受けたとき『私は、夕方町の中の警察署へ走って行った。唐草模様のついた鉄の扉に凭れて、父と母が出て来るのを待った』所だ」(『林』)とある。確かめてみると、そのような名の銀行はなかった。近くにあったのは三井住友銀行尾道支店。その近くにある商業会議所記念館という古い建物で聞いても分からなかった。この記念館は古い建物で、2、3階は赤い絨毯の、国会や市議会のような、豪勢な吹き抜けの議会場になっている。

 「西日本相和銀行」というのはよく分からない。もしかしたら「西日本相互銀行」かもしれない。現在の「西日本シティ銀行」が普通銀行になる前に「西日本相互銀行」というのがあり、そこに尾道支店があったらしい。しかし今はない。とはいえ昭和59年に西日本相互銀行から普通銀行になって西日本銀行に変わっているから、渡部氏が訪れたときには西日本相互銀行でもなかったかもしれない。このあたりはまったく不明。

 家に帰って『尾道』のなかに載っている古地図を見ると、例の商業会議所記念館の西隣りが旧尾道警察署で、その隣りが水上(すいじょう)警察署だった。で、そこはいまどうなっているかというと、空き地になっていた。たしか足元に「代官所跡」という碑が建っていたことを覚えている。

 『風琴』には「裏側の水上署でカラカラ鈴の鳴る音が聞こえる。/私は裏側へ回って、水色のペンキ塗りの歪んだ窓へよじ登って下をのぞいてみた」とある。戦前の尾道には水上(警察)署があった。全国でもすでに水上署は少なくなっているようだ。

 さらに商店街を進み、渡し場通りとの交差点の西南と東北に尾道帆布の店がある。尾道は帆布で有名なのだろう、『風琴』にも「尾道の町はずれに吉和という村があった。帆布工場もあって」とある。吉和(よしわ)は尾道駅より西にある地区。

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mojabieda * * 06:40 * comments(0) * trackbacks(0)

風琴と魚の町をあるく 2

 尾道駅から歩いて山陽本線と平行する国道2号線の道路の歩道をゆく。左手に踏み切りを見ながら、先に歩道橋のあるアーケードの本通り商店街に出る。ここに林芙美子の銅像がある。向かいは伊予銀行尾道支店。雨水が少したまっている波打つような石の台座の上に、若い着物姿の芙美子は籐の鞄を脇に置き、座り込んで頬杖をつきそうなそぶり。台座の前には「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい」と『放浪記』の一節が彫ってある。その横に座り込んで同じポーズをして写真を撮る。さらに帰りに通ったときも、自転車で通りかかった地元のおばさんが写真を撮ってくれた。地元ではずっと林芙美子が愛されているようだ。帰りにも近くの道を通ったが、そこでも道端に涼んでいたおばさんがニコニコして見知らぬ観光客に一揖してくれる。

 さて、銅像から線路沿いの国道2号線とアーケードの本通り商店街に分かれるので商店街に入る。入るとすぐに左に「陸橋」がある。『風琴』の中では「小学校へ行く途中、神武天皇を祭った神社があった。その神社の裏には陸橋があって、下を汽車が走っていた」とある陸橋。いまは横断歩道橋で、上はひろびろとしてベンチも置いてある。しかし橋の手前を道路工事していたので登れなかった。橋のたもとにあったという神武天皇を祭った神社はない。あるのは商店街の一角で、ブティックのような店(シャッターが降りていたのでよく分からない)。この橋は「うず潮橋」と命名されている。この橋の上で芙美子は初恋の人岡野軍一と出会ったのではないか、と清水英子氏は『尾道』のなかで推測している。

 商店街をはさんでその陸橋の反対側が「うず潮小路」。狭い小路。うず潮小路と呼ばれるのは、1964年(昭和39年)のNHKの朝の連続テレビ小説の題名が「うず潮」(林芙美子の原作)で、このあたりが林芙美子に縁が深かったため名づけられたらしい。小路のまん中あたりに室田自転車店があった。ネットで見かけ、たいへん参考になった渡部芳紀氏のHP『林芙美子文学散歩』(以下『林』)によれば、ここは「芙美子が大正7年11月より8年2月まで住んだ村上岡松米店にあたる」そうだ。地元の人たちがよく通る。小路を抜けて海岸通りに出る。小路の左手の角は赤い庇の鮮魚を扱う魚屋「魚春」さん。右手の角は緑の庇のパン屋のある4階建てのビル「広島船舶装備ビル」。「パンのなる木」というパン屋さんが1階にある。ここには以前「尾道東御所郵便局」があったという(『林』)。今は赤い小さなポストが店の前に立っているだけだ。この建物は「大正8年4月から10年7月まで芙美子一家がその2階に住んだ藤原ヨシ煙草店の跡」(『林』)という。このパン屋の角に林芙美子の碑がある。碑には「林芙美子が多感な青春時代を過ごし林文学の芽生えをはぐくんだ家の跡です」と彫ってある。渡部氏によると「道路の南は尾道水道の海沿いに一皮魚を扱う家が続いているだけでほとんど海に面した家と表現していいところである。昔は魚市場に続く通りとして賑わっていたことであろう」(『林』)と記しているが、いまはそれらの家は一切なく、海岸通りが広がってその向こうは尾道水道があるばかりだ。

 あとで行くことになる喫茶「芙美子」の裏の旧宅の一階に、一昔前のその辺りの写真が展示されている。そこには昔ながらの家並が「雁木」の上にずっと続いている。なお渡部氏の文章は1994年(平成6年)発行の『尾道の林芙美子 今ひとつの視点』が言及されているため、それ以降の文章のようだ。

 それらの家並みは今はないが、いまも海岸通りと海との間に「雁木」がある。雁木とは船着き場にある幅の広い階段。潮の干満に関わらず荷役が可能で近代以前に多くあったという。『風琴』には「雁木の上の露店で、プチプチ章魚の足を揚げている、揚物屋の婆さんの手元を見ていた」とある。

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mojabieda * * 18:10 * comments(0) * trackbacks(0)

風琴と魚の町をあるく 1

 この夏、尾道を探訪した。前日は呉に宿をとる。

 尾道に作家・林芙美子の青春時代の軌跡をたずねるため、かの女の『風琴と魚の町』の舞台となった町をあるく。また呉から尾道へ向かう途中、はからずも、さまざまな見聞をした。

 呉から尾道へ行く途中のJR呉線は、この前の大雨の土砂崩れのためところどころ不通となり、安浦から竹原の間は代行バスが運行されていた。そのバスに乗っていると、土地のおば(あ)さんたちが乗り込みいろいろな話をしていたので、聞くともなく聞いていた。広島の原爆の話、黒い雨の話、呉での戦艦大和建造の話など、書物でしか読んだことのない話を「わが家の話」として話しているのを聞いた。そのおば(あ)ちゃん、「式典にはじめて出る」という。何の式典なのかはたとえば地元の中国新聞では「8、6式典」などと見出しがあるけれど、毎年8月6日に開かれる広島市の平和記念式典だ。

 バスは海沿い・山沿いの道を走っていたが、駅員から「原爆反対のデモ行進があって道路は渋滞するかもしれない」と前もって注意を受けていた。が、見ると、20数人くらいの行列で、「原爆反対のデモ」ではなく「平和行進」だった。もし原水協なら北は北海道から南は沖縄まで全国から各地で交替しながらバトンリレーのように8月の広島へと歩いてめざす。わたしには原水禁なのか原水協なのか区別がつかなかった。みな汗びっしょりだった。バスの中のおば(あ)ちゃんたちは手を振っていた。原爆と平和とは日常の生活の延長線上にあって、いつも毎日の生活とむすびついているのかもしれない、と思った。このおば(あ)ちゃんの祖父(?)は呉で戦艦大和を作っていたという。しかし当時は極秘事項だったらしく、じぶんたちが何を作っているのかは知らなかったらしい。

 江戸後期の文人で『日本外史』を著し尊皇攘夷運動に影響を与えたという頼山陽に深い縁のある安芸の小京都とよばれる竹原市から、戦火をほとんど受けず古い町並みやお寺が残っているという西の小京都と呼ばれる尾道までは山陽本線に乗る。

 わたしは上り電車で尾道市に入った。芙美子の『風琴と魚の町』(以下『風琴』)には「私たちは長い間、汽車に揺られて退屈していた。・・・延々とした渚を汽車ははっている。動かない海と、屹立した雲の景色は十四歳の私の眼に壁のように照り輝いて映った」とある。旅行後に古本で手に入れ、たいへんに参考になった『尾道の林芙美子 今ひとつの視点──尾道市立図書館 創立八十周年記念』(尾道市立図書館発行・平成6年』(以下『尾道』)によると、芙美子一家は岡山から下りの汽車で尾道に入ったのではないかという。『風琴』には「こりゃ、まあ、面白かところじゃ、汽車で見たりゃ、寺がおそろしく多かったが」と父が言う箇所がある。寺がたくさん見えるとしたら下りで尾道駅へ入ったはずだという。たしかに上り電車からわたしは尾道駅に降り立ったが、電車の中からは町の様子はよく分からなかった。

 尾道の駅はこじんまりとして小さかった。駅北はもう山が迫り、山の斜面に張りつくように家々やお寺が見える。見るからに風光明媚なところ。駅南にはホテルやマンションや商店街があって人通りが多かった。旅行が終わって家に帰ったあと、NPO法人尾道空き屋再生プロジェクトを立ち上げた豊田雅子さんのドキュメントをテレビ録画で観たが、この人は尾道に帰ってくる前、イタリアのアマルフィにいたのではないか、と思った。歴史のある商都・尾道も、海と山に囲まれた山裾の街アマルフィも、どこか似た雰囲気や人情がありそうに思った。

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mojabieda * * 07:00 * comments(0) * trackbacks(0)
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