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思考停止ではないこれからの生き方

 5月3日の夜の9時に◯HKのニュース・ウォッチ9という番組が目に入る。作家・高村薫との原発事故に関するインタヴュー。「政府」放送協会にしては画期的な?「新しいエネルギーを考えるべき」脱原発方向の内容の話を伝えた。せっかく昔つくった被曝労働者の実態やチェルノブイリの実態のドキュメンタリー番組も、この際ぜひ報道すべき。

 高村氏は「想定すべきことを想定せず」と批判していた。ここで、わたしが思ったのは「だれがなにを想定すべきだったのか」ということ。

 まず「だれが」の主語は政府。「なにを」の目的語は「なんらかの原因による原発事故」。ドイツはもう20年ほどまえに政府が「死の地帯」という原発事故想定のドキュメンタリー映像をつくっている。3万年に1度の確率で起こるかもしれないと想定されるという大規模な事故(メルトダウン)によってドイツがどれほどの被害に遭うのかを正直に想定している。いわばその「3万年に1度」ほどの確率の危険が「明日くるかもしれない」と想定して、ドイツ政府は原子炉全廃の方向にむかったともいえる。ドキュメンタリー映像では、(生命の尊さという抽象論ではなく)人的被害・物的被害の金額高まで算出しているのは(多少皮肉の意味で)「科学的」だ。どこかの国の「安全・安心」という「迷信」よりは少なくとも科学的である。

 それにしても、3万年の1度という確率で起こるかもしれない大事故を想定してドキュメンタリー番組までつくるドイツ政府と、「安全・安心」という迷信を振りまいてきただけの日本政府。しかも、ドイツでは地震による大事故ではなく、なにかの原因で起こってしまう大事故まで「想定」しているのに、地震大国日本の政府は、その地震による大事故を「想定外」としているこの落差。

 この「想定すべきことを想定せず」ということを「思考停止」という。危機管理に対するこの「思考停止」こそ日本政府のトップの役人や大企業のトップの役員の体質かもしれない。少なくともこのままの思考停止では「日出づる国」ではなく「日沈む国」に早晩なってしまうにちがいない。

 高村氏は「(フクシマ後も)このままの生活で行くことはできない」という趣旨の発言をしていた。「新しいエネルギー」や「脱原発」には不確実性やデメリットやリスクやさまざまな障害があるにちがいないが、一人一人の「生き方」を問うほどの時代の大きな転換点が「いま」来ていることを、きちんと伝えていた。そういう意味で、勇気を与えられる発言だった。「がんばれニッポン」のかけ声の意味を、この方向へ転換したい。

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mojabieda * 時事 * 08:43 * comments(3) * trackbacks(0)
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