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高生研の春ゼミ









 3月21日(水)の春分の日は静岡市のアイセル21で高生研(静岡支部)の「春ゼミ」がありました。

 浜松の相談室の先生によるカウンセリングのワークショップと、単位制と学年制とがまぜごはんになった高校の担任はじめての先生の実践分科会がひらかれました。

 ワークショップでは、
 1 バースデーチェーン
 2 ペアーで肩たたき。はじめは黙って、次は叩かれる方が要求を出しての肩たたき
 3 自己紹介
 4 ジャンケンインタビュー
 5 他己紹介
 6 ほめる練習
 7 聞き方の演習
 8 ロールプレイ
 をやりました。

 1のバースデーチェーンとは、参加者が、無言のまま、ぐるっと輪になった椅子に、時計まわりに誕生日順に並びなおすというゲーム?です。この無言のまま、というのがおもしろいです。それでちょうど誕生日が8月15日の人が複数いて混乱しましたが、たとえば10を手で表すにしても、人それぞれいろいろなジェスチャーがあって、それを相手に理解させなければ(理解しなければ)ならない、というのはなかなかの苦労でした。

 2のペアーで肩たたきでは、初対面ではない相手でも、叩かれる方はなかなか気をつかいます。恥ずかしさや警戒するような気持ちがありました。さいしょは黙っていなければならず苦労しました。「痛い」とか「くすぐったい」とかいう声すら出すことができません。つぎに声を出して要求・お願いをしました。「もうちょっと軽く」とか。それでも気をつかいますが、さっきのような無言よりはましです。やがてなれてくると、いろいろ要求を出すようになります。ここからコミュニケーションがはじまるのだな、ということを思いました。

 6の「ほめる練習」では、なかなか人をほめるのに苦労しました。わたしはつくづく心にもないことを言うのは苦手で、お世辞などはぜんぜんダメ、しかも相手を批判的に見る傾向が強いことがよく分かりました。

 7の「聞き方の演習」では、二人でペアをつくり、話し手と聞き手とに分かれます。話し手は、じぶん(の誇るところ)をアピールしてもらい、聞き手はさいしょは心をこめて相づちをうったりときちんと聞きますが、コーディネーターからある合図を受けたあとは、わざと無視するような聞き方(聞かない方)をして、さいしょと後との印象の違いを、話し手に指摘してもらいました。じぶんの誇り、と言われて、改めて考えると何もないなあと思いながら話をしました。

 そのあと、聞き手はディロール(derole=役割を降りる)の宣言をしました。そうしないと、わざと無視したような聞き方をされて、話し手はそれが聞き手の「演技」であることを後から教えられても、感情的に反発してしまうからだそうです。

 わたしも相手の聞き手役にとつぜん「無視」されて、「あ〜ん?」とむかつきました。このように子どもの話を大人はまともに聞かないときがあるなあ、とつくづく思いました。

 8のロールプレイは、わたしが不登校の子ども、Sさんが母親、Nさんが父親、Iさんがカウンセラー役になり、それぞれの立場で演じました。

 わたしが両親につれられてカウンセリングに来るという設定です。父親は体面をつくろい、ひたすら怒るだけ。母親はほとんど不干渉で、じぶんを守ることに精一杯というか、かかわりたくないという感じが出ていました。カウンセラーの「これからどうしたいの?」という問いに対して「分からない」とわたしが答えると、「分からないと思うのは、真剣に悩んでいるからだ。それはいいことだよ。悩むことが一歩前へ歩むことになるんだ」というカウンセラー役のIさんのことばを聞いて、ただ否定されたり、怒られたりするのではなく、受容され、励まされ、評価されていると感じて、何か心が少し開くような気がしました。

 そのあと、「天使のねんど」というものを使い、それぞれの役の人の心をねんどで形に表現しました。ベタベタとつかない軽い、画期的な粘土です。わたしはいそぎんちゃくのような触手がいっぱい出ているグロテスクな形をつくりました。不定形でこの先どうなるか分からない不安定さと不安さを表現してみました。母親はひたすら丸い球。父親は恐竜。カウンセラーはお皿。父親の恐竜も背びれがするどくとがった恐竜で、これはつよがりを表しているように見えました。皿は受容しようという心を、球は自己完結でかかわりを持たない心を表現しているように見えました。

 こんなふうにそれぞれの心を形に表現するというのはおもしろい試みだと思いました。

 この「天使のねんど」は子どもたちのお土産にもらい家に持って帰りました。

 この項つづく予定です(予定は予告なく変更される場合があります)。

 写真は「天使のねんど」とわたしの「心」


mojabieda * 教育 * 06:38 * comments(0) * trackbacks(0)

東海ブロックゼミのあれこれ




 写真は日本福祉大学付属高校

■ 柴田先生の講演
 3月10、11日にひらかれた東海ブロックゼミの開会集会では、はじめに会場となっている日本福祉大学付属高校の柴田順三先生の講演が行われた。愛知の高生研の重鎮である。

 講演の題は『高生研と私──36年半の高校教師生活を振り返って』。恩師・飯島久二先生からさまざまなことを教わったという。「霜を踏んで堅氷に至る」(から問題が取り返しつかなくなる前にその予兆をつかめ)、「下駄は手にも履くものだ」(ちょっとこの比喩分かりません。少しのことでもさまざまなところへ影響を与えるということか。あるいはどんなことが起こるか分からないから準備万端しなさいということか)、「One-set Over」(物事は一対になって進むから、厳しい指導とともにフォローを忘れない)など。

 さらに、教育活動とは民主的な主権者を育てることであり、竹内常一氏が39歳のときの著書『生活指導の理論』にたいへんなインパクトを受けたという。また「教師の指導性とは何か」「要求とは何か」「生徒をまるごとつかむ」という話をされた。

 先生の退官記念も兼ね、多数の同校の先生方も参加され、最後に卒業生から花束を贈呈された。


■ K氏分科会
 10、11日にひらかれた分科会2は静岡のK氏の『M子とクラスと私』。機関誌『高校生活指導』171号所収。この題名からもK氏の指導のありようがうかがわれる。あくまでまん中に「クラス(の生徒)」があり、「クラス」を通したかかわり、指導ということだ。

 K実践の「対話づくり」には3種類ある。担任としてLHRで生徒へ「相談」するという形で一人の問題生徒との関わり方をクラスに要求するやり方と、さらにLHRや授業という時間を使って「しゃべり場」という、机を後ろへ持ってゆき椅子だけ持って丸い形にした生徒主体の討論会をするというやり方がある。さらに、喫茶店をつかっての有志の「愚痴をこぼす会」(ここではK氏は「お客さん」という形)。これはフォーマルな形ではないが、テーマはすべてクラスの(公共の)紛争という一人の生徒にかかわることをざっくばらんに「対話する」以上は、表面的には「共同性」を開いていく実践に近いが、あくまで「公共性」を開いていく実践であるように思われる。

 あくまでクラスという枠組みの中で、その枠を通して立ち上がってくる(公共の)紛争を解決するための「対話」づくりだからである。

 K氏がつくってきたものは共同ではなく公共の場づくりだったのではないか。氏が一人の生徒のことでクラス全体に語りかけ働きかけられるのは、あくまで公共性を開いていくためだからだろうし、一人の生徒の人格ではなく行為・行動のみを窓口にするからだろう。

 討論の中で浮かび上がってきたのは、問題生徒のM子じしんのことばが浮かび上がって来ないことだった。かの女のことばを引き出せなかったことがK実践のネックになっていたかもしれない。


■ その他
 おみやげは岩のりの佃煮を買う。

 静岡勢は帰りに昼食のために浜通りに出て、灯台とかなんとかいうレストランに入る。混んでいた。わたしは名古屋定食を頼む。980円。みそかつとエビフライときしめん。N氏はどてめし定食(ホルモンの味噌煮みたいなもの)を食べたが、甘くてダメだったという。

 ここで食事をしながら歓談。5月に結婚する若き活動家の事務局長T氏から子細をみんなが聞き出し、T氏のことばを引きだす。というより、自分から話したがっていた?

 相手の看護師さんは年上の女性。わたしは何度も出逢っているから知っているがきれいでやさしくて知的な人だ。「年上女房は楽だろう?」とみんながはやし立てる。

 「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ」ということわざがある。金の草鞋ならどんなに遠くまで行っても、どんなに歩き回ってもすり減らない。そんな草鞋を履いて、全国津々浦々探し回ってでも見つけなさい、そのくらいの価値があるよ、という意味だろう。目端のきく、ありがたい女房ということか。

 プロポーズはどちらから?ときくと、「わたし(から)です」とうれしそうに言う。だれかが「泣き落としか?」と言っていたが、本人はただ黙って笑っていた。

 写真は「浜への小路」「浜近くの朝の通り」「屋根が低い家」「赤と黒」








mojabieda * 教育 * 20:36 * comments(2) * trackbacks(0)

東海ブロックゼミ報告















 写真は南知多郡の美浜の小路

 3月10、11日と、高生研・東海ブロックゼミに参加しました。会場は南知多の日本福祉大学付属高校です。

 02年にも同じ場所でしたので、日本福祉大学がどんな場所にあるのか、よく分かっているつもりでしたが、いざ車で行くと、どこまで行っても人家がないので不安になってきました。カーナビではここが目的地となっていてすでに着いているはずなのに、人影どころか、建物すら見えなくて、さいしょ戸惑いました。

 しかし電車の駅はあるし、すぐ先に行けば比較的にぎやかな(?)浜通りがあり、信号もコンビニも食堂もあります(当たり前か)。

 この付属高校では、昔から班・核・討議づくりという高生研の「集団づくり」の生活指導の伝統がまだ多少生き残っている(?)ような印象を受けました。

 また、高校ではたいへん親切な歓待を受け、1日目のゼミの終了後(といっても、名にし負う『高生研』なので、ホテルに帰っても夜も勉強会があります)、体育館で『楽鼓』とよばれる和太鼓部の演奏を聴きました。

 地元の和太鼓の伝統を受け継ぐ部ということでした。

 さいしょに顧問の先生のお話をうかがったのですが、この大規模な太鼓の集団は私費で創設したようで、この和太鼓部について話す先生のことばには、まるでじぶんの子どものことを話すような慈愛が籠もっていることをひしひしと感じました。

 人にはどうしてもこれだけは絶対に守らなければならないものがある、というのを感じました。

 生徒たちの演奏の高さ・迫力にも感動しましたが、表情が生き生き、きびきびとしていて、見ているだけでも心が洗われました。

 そのあと、夜は基調発題として「討論空間づくり」を三重の岡村氏がレポートしてくれました。集団づくりの伝統が色濃く残るこの地で、その集団づくりを乗り越えようという「討論空間づくり」を発題するというのも、奇妙な縁だと思いました。

 翌朝、わたしはホテルから歩いて外を散歩しました。浜へ通じる小路には黒い板壁の家がみえます。こういう小路を歩くのが昔から好きです。浜から吹いてくる風はもの凄く、飛ばされるかと思うような強さでした。夏場は海水浴場になりますが、今は海苔の養殖場になっているようです。波の荒い海辺には人っ子一人いません。だれも乗っていない小舟が揺れていました。

 写真は美浜の海岸。はるか向こうは名古屋港か。


mojabieda * 教育 * 06:21 * comments(0) * trackbacks(0)

神戸で学んだ総合選抜制と格差社会





 写真は神戸の元町商店街と中華街

 組合の学習会のために神戸に行きました。

 兵庫県中央労働センターというところへ晩に行きましたが、主催者側のパンフの地図を当てにしていたのがそもそものまちがいで、はじめて来たわたしは元町で迷いに迷いました。ネットで下調べをしておけばよかったなあと思いました。で、元町の駅北の官庁街をさまよっていると、いくつか教会が見えました。ちょっと風変わりな風景でした。静岡ではありえないような街のたたずまい。

 ようやく中央労働センターの茶色い建物を見つけ、その入口あたりを見ますと、なんと「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)」の碑文がありました。ここ神戸にも住んでいたんだと改めて思いました。松江から熊本、それから神戸に二年いて、そのあと東京へ移り住んだようです。東京に住んでいたときに、ときどき夏を過ごしに焼津へ来たといいます。
 
 神戸から東京への汽車の窓に焼津の港を見たとき、一目で八雲は焼津が気に入ったようです。二歳で離れた生まれ故郷のギリシアの島のまぼろしを見たのでしょうか。ハーン(八雲)はその焼津の夜の海のふしぎな風情と、そこを泳いだふしぎな体験とを記していますが、ハーンのように泳ぐのが好きだった小川国夫は、大井川の河口あたりの夜の海をよく泳いだそうです。そういう小説を書いています。そしてハーンの文章をよく読んでいたといいます。

 さて、神戸の夜の学習会では明石の「総合選抜制度」という高校入試の制度について知りました。兵庫県では学区によって高校入試の仕方が違うというのも驚きでした。県によってずいぶん違いがあるものです。

 総合選抜制度とは、明石市にある普通高校六校を、学力が均等になるように入学させる制度です。そういう地区がまだ日本にもあったんだとびっくりしました。

 この総合選抜制度のもとで、明石の高校生たちはのびのびと学校生活を送っているらしく、進学の成績もよいし、中退者も少ないといいます。また地元で暮らしている人たちが制服で高校生を判断するような「制服格差」がないことも大きな利点でしょう。

 「機会の平等」と「結果の平等」とは違う、ということがさいきんよく言われます。機会の平等は尊重すべきだが、結果の平等は時代遅れだと。しかしこの言説を入試制度に当てはめるのはペテンのような言説です。

 現在の成績トップの者の利益をはかるためのような高校選抜入試制度。そもそも競争社会とは、トップの者がトップの地位を得るにふさわしいシステムの社会、つまり格差社会ということでしょう。トップ以外についてはほとんど考えていない、どうにでも〜という「自己責任の社会」でしょう。それなのに、どうしてこの競争社会(格差社会)を肯定する声が多いのでしょうか。ほんの一部の者の利益をはかるために、全体のシステムを変えてしまう。

 人が生まれたとき、すでに学びの「格差」が生じています。というのは現在、一般に親の高収入が子の高学歴を保障しているわけですから。現実的に学びの平等に「機会と結果の区別」など意味ありません。機会も結果もともに「不平等」であり、それを認めるか、認めないかということだけです。

 格差を認める社会はどう展望できるのでしょうか。わたしは映画『ソイレント・グリーン』を思い浮かべてしまいます。2022年のニューヨーク。人口増加と環境汚染の社会で深刻な食糧危機にみまわれ、社会は「持てる者」と「持たざる者」という、明確な「格差社会」をつくりあげています。そうして、一部のエリートのために、まさしく多数の「非エリート」たちがことばの正確な意味で「犠牲」になる社会。ある日殺人事件が起こり、捜査をつづける内に、おそるべき事実が判明してきます。そういうアンチ・ユートピアを描いた映画です。人が人を「食う」社会というのは事実か寓話か、魯迅の小説も連想してしまいます。

 大多数の「食われる側」の人が、ごく少数の「食う側」に自分もいるかのような幻想を抱かせられるように、あらゆるメッセージがあらゆるメディアを通じて発せられているのが現代社会です。「囚人」なのにあたかも自由であるかのようなメッセージがいたるところで発せられる社会、そこを抜けだそうとすると、すべてが組織的に管理され、抜け出せないことが暴露される社会、しかしそれが巧妙に隠されている社会を描くイギリスの昔のTVスパイドラマ『プリズナーNo.6』(ちょっとカルトかな)も、ついでに思い浮かべてしまいます。
mojabieda * 教育 * 19:06 * comments(0) * trackbacks(0)

未履修問題の元凶

 未履修問題発生には、政府・文科省などの教育にかかわる行政機関がこれまで導入してきた二つの教育政策にその元凶を求めるべきである。

 一つは「新自由主義」教育政策、つまり世界規模の弱肉強食経済=グローバル経済という競争のなかで生き残るための超エリートの創出をはかるいわば「富国」のための教育政策である。

 もう一つは「新保守主義」教育政策、つまりグローバル経済のなかで米国のように国際的に日本を軍事力をもって拡張させようとするいわば「強兵」のための教育政策である。

 これら二つの政策はいずれも戦後の平和と民主主義とを支えてきた「教育基本法」(および日本国憲法)を空洞化・有名無実化させてきた政策であり、その教基法が先の国会で、平和的な市民づくりのためではなく富国強兵づくりの教育をめざした「やらせ教基法」へと改変され、名実ともに「国家のための教育」への法制化がはかられてきている。

 習熟度別クラス編成、中高一貫高などの高校の多様化、入試における小学区の廃止などの受験競争の激化を促進させる「新自由主義」(=富国)教育政策、また一方で、学習内容まで(生徒の心の中まで)国家・政府が規定しようとする学習指導要領の法的拘束力の強化、文科省から県教委、県教委から各学校への一方的な上意下達の「指導」、教育委員会の任命制という政府行政機関化、などという「新保守主義」(=強兵)教育政策、これらの押しつけられた教育政策によって、ほんらいの教育基本法の第1条にある「人格の完成」「平和的な国家及び社会の形成者」をめざすべき学校教育がさまざまにゆがめられてきた。

 政府による一方的な、硬直した「新保守主義」(=強兵)教育政策が個々の学校現場の教職員の自主性や創意・工夫をいちじるしく阻害し、現場を混乱に陥れてきたのとは裏腹に、現場では生徒個々の、保護者個々の、あるいは地域の進学要求に応えようという教職員の自主的・個別的な努力がなされていた。しかし個々の進学要求に応えていこうとする教職員の個々の努力は、公的・集団的な指導体制ではなく、あくまで私的・個別的な指導にとどまり、個々の教師の負担を増すだけであった。そのため、現場の教師たちの一部は、いわば「必要悪」として、押しつけ学習指導要領を逸脱する、より受験シフト化された「自主的な」カリキュラムを学校に導入せざるを得ないと考えるに至ったのである。このとき、もう一方にある政府の、受験シフトを促進させようとする押しつけ「新自由主義」(=富国)教育政策が、このような「未履修」カリキュラムを公然の秘密のごとく「黙認」させているかのように、いわば「お墨付き」を与えられているかのように県教委にも各高等学校にも錯覚させてきたのである。

 つまり真正の教育基本法(および日本国憲法)を空洞化させてきた、これら政府の教育政策が、「未履修問題」を発生させてきた元凶なのである。

 これらの政府の政策のありようや矛盾にメスを入れることなしに、この未履修問題の元凶は解決されえない。対処療法的に県教委や校長の処分を行うだけでは、とかげのしっぽ切りと同じで事件の真相をうやむやにしてけりをつけるだけである。

 いまこそ教育基本法(および日本国憲法)を空洞化させてきた政府の責任を厳しく問わなくてはならない。

 また一方、後期中等教育(=高校教育)とは何かを根本的に問い直すという作業なしには、この問題の根源は解決されえないだろう。ここには国民の多くの議論が必要である。すくなくとも政府がすすめる「富国強兵」のための教育ではない。世界と連帯し、世界と共生する、平和的な国家及び社会の形成者として市民を育てるなかで、個々の人格の完成をめざすというのが本来の後期中等教育の目的のはずである。
mojabieda * 教育 * 14:17 * comments(0) * trackbacks(1)

真理がわれらを自由にする

 先日、国会前の座り込みに出かけた。いま参議院で審議されている教育基本法「改悪」案に反対するために。

 ついでに国立国会図書館にも行った。

 ところで、ここの本館の目録ホールにつぎの碑文が記されているという。

 真理がわれらを自由にする

 国立国会図書館法の前文には「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」と記されている。

 「前文」のある法律はめずらしく、『日本国憲法』『教育基本法』そして『国立国会図書館法』ぐらいといわれる。その『憲法』も『教基法』も今やあやうい時代となった。

 国立国会図書館法案が議決された昭和23年2月4日の衆・参両議院本会議での説明のなかに、「従来の政治が真理に基づかなかった結果悲惨な状況に至った。日本国憲法の下で国会が国民の安全と幸福のため任務を果たしていくためには調査機関を完備しなければならない」(羽仁五郎参議院図書館運営委員長)という設立の趣旨が述べられているという。

 そのために、首都のどまんなかに、しかもまだ戦後の食糧難の時代に、国会から法案を出させるためのブレーン機関として日本最高の図書館を設立することによって、悪しき過去と決別し、新しい民主国家日本の出発を誓ったのだった。

 歴史学者・羽仁五郎は「図書館は、教育と同じく、今日のためにあるのではなく、明日のためにこそある」と語っているというが、そのような崇高な精神が『日本国憲法』『教育基本法』『国立国会図書館法』の前文にも表現されているのだろう。

 この「真理がわれらを自由にする」という言葉は、法案の起草に参画した羽仁議員がドイツ留学中に見た大学の銘文に由来し、その銘文は、新約聖書の「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース ヨハネによる福音書8:32)に由来するという。

 実際に、南西ドイツのフライブルク大学の壁には「DIE WAHRHEIT WIRD EUCH FREI MACHEN」(真理は汝等を自由にする)と刻んであるという。

 とはいえ、ナチスドイツ時代のフライブルク大学総長ハイデガーは、この「真理」を「労働」に置きかえてナチスに協力してしまった。すなわち「労働が汝らを自由にする」。そうしてこの文句が悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所の門を飾ることになる。「ARBEIT MACHT FREI(アルバイト マハト フライ)」。

 はたして歴史は繰り返されるのだろうか。
 
 ふたたび「真理」が「公共の精神」や「我が国と郷土を愛する心」に置きかえられる日が来るのだろうか。「アイコクシンが汝らを自由にする」と校門に掲げられる日が・・・




mojabieda * 教育 * 23:40 * comments(0) * trackbacks(2)

志願者数の減

 高校で174名、小・中学校で150名の減。

 これは静岡県の教員採用試験の志願者の数が昨年よりも減ったという数字です。その原因として考えられるのは、

 1、もともと採用人数が少なく、かなりの倍率になるため
 2、好景気になって民間企業の需要が増えたため
 3、学校教育に夢を持てないため

 という三点の原因が考えられます。

 1については、たとえば高校の国語では志願者が142名のうち、合格者が8名。倍率は17.75倍。昨年は167名のうち、3名で倍率は55.67倍でした。

 現場には常勤講師・非常勤講師がどの学校にも勤めています。すでに何年も現場に勤めているベテランの人にはぜひ本採用になってほしいと思うのですが、現実にはひどく狭い門になっています。

 2について、現在の景気が好景気であることははっきりしています。官民格差をなくすといいながら、しかし、公務員の賃金はどんどん抑えられています。それならば民間へと思う人が多くいても当然でしょう。

 3について、これは深刻な問題で、夢や理想を持つ人が現場にいなくなれば、豊かな教育は成り立たなくなります。しかし、新保守主義(国粋的な帝国主義)・新自由主義(グローバル化した市場主義)の政界・官界・財界の圧力と介入、さらに成果主義導入の危険によって、現在の学校教育は風前の灯火のようになっています。「人格の完成」「平和的な国家及び社会の形成者」を育成する教育ということばよりも、「受験サービス」あるいは「調教」といったことばのほうがふさわしいのかもしれません。

 このような(深刻な)状況を数字的にはっきりと示したものが志願者数の減だと思います。
mojabieda * 教育 * 06:19 * comments(0) * trackbacks(0)

未履修の問題──メールの往還から

 ごくろうしゃんです。

 未履修の件、執行委員会で話し合ったと思いたまへ。

 で、わっちの意見だけ、異端で。

 というのは、メディアに乗せられて騒ぐのはあまり得策ではない、いうたのぢゃ。

 というのは以下の二点から。

 一点めは、政府・与党がこの機会を狙って、政府・与党からの直接的な教育現場の教育への介入をはかっていること(教基法の「実質的」改悪)。すごいところは、政府・与党の「救済案」が、個々の学校にホットラインのようにつながるという点。政治がモロに教育現場に介入している。
 
 二点めは、あまり騒ぐと「学習指導要領」の法的拘束力の補完を教職員組合がすることになるということ。「法」でもなんでもないものを押しつけて、現場に圧力をかける上意下達方式が、どんなに現場にそぐわず、現場を混乱させてきたのか。こんどはその「学習指導要領」を教基法の改悪案の中に盛り込んで、いわば立派に「法」にしてしまおうということで、その「そぐわない」「混乱」が固定化・恒久化することになるわけで、結局、その「法」への後押しを右の方、左の方、みんなでしていることになるよと。

 こういう主旨を述べたけど、ふんふんと聞きながら、みんな政府・与党に「翼賛」化しちゃった。わっちだけアナキストなのね。

 では、よい終末を!

> ◯◯地区のみなさま、コンニチハ。
> 教育基本法の情宣の件ですが、11月◯日18:00から◯◯が◯◯駅で行います。便乗できるところはお願いします。
> 1日に教育長団交にいってきました。未履修問題はさておき、給料については有利なものはなく、これから悪いことを提案します、と言っていた。
> 公文書への不実記載という刑法犯のくせに困った教育長である。
> では、よい週末を!
mojabieda * 教育 * 05:30 * comments(0) * trackbacks(0)

いじめ問題と文科省

 いじめによる生徒の自殺がニュースにたびたび出てくる。そして非難はいじめと自殺の因果関係を認めない学校の姿勢に集中する。で、学校側がいじめの事実と因果関係とを認めてメディアに校長などが謝罪すると、まるでいじめ問題が解決したかのような雰囲気にさえなる。

 しかし問題は、だれがなぜいじめをし、いじめを助長し、いじめを傍観していたのか、という生徒たちの陰湿な仲間関係の問題だ。この問題が解決しないかぎり、いじめはなくならないだろう。

 いや、人間関係を結ぶ社会のなかで、いじめが存在しない社会などはないだろう。特に人間関係の密度が濃くなればなるほど、いじめは不可避的に発生するだろう。

 しかし、そのいじめが単なる通過儀礼的ないじめではなく、人を死へと追いやる集団的で陰湿な、存在の全面否定や迫害や脅迫に変わるとき、そこには、なんらかの集団的な原因があるにちがいないと思う。その解決のためには社会や集団の質を変えなければならないだろう。社会や集団の力関係を変えなければならないだろう。

 社会がバラバラな個人の「群れ」になり、弱肉強食のみが社会を成立させる基盤となるとすれば、いじめというよりも「迫害」(もしくは「生き残り」)の問題が引き起こるのは必定だ。自分が生き残るためには、他人は「犠牲」になってもらわねばならぬという論理だ。だから、強者による弱者の差別や迫害や全面否定があっても、我が身の生き残りのためには、見て見ぬふりをし、傍観し、見ざる言わざる聞かざるにならねばならぬ。パワー・ハラスメントやセクシャル・ハラスメントはこうして起きる。

 大人がもしこういう社会や集団を現実につくっているのならば、子どもたちの世界にだけ「愛と正義と共同」の世界を夢見ようとしても、それは甘い考えだ。

 履修不足の問題で自殺した高校の校長がいる。県教委はおそらく履修不足の問題に対して、前からうすうす知ってはいても見て見ぬふりをしてきたに違いない。県下の高校の雰囲気も、履修不足の問題について、受験競争を「生き残る」ためには仕方のない必要悪だということは暗黙の了解だったにちがいない。どの受験校もトップになろう、トップに追いつこうと必死だったろうから、まずいことだとは分かっていても文科省の「掟」から逸脱せざるをえなかった(ある意味で、下からの「新自由主義」と上からの「新保守主義」との間にはさまれて、下に従ったのかもしれない)。

 その文科省たるや、やれ、ゆとりの教育だの、やれ、少子化対策だの、やれ、総合学習だのと、さまざまな上意下達の教育行政によって(高校)現場を統括し、苦しめてきた。そのひずみの一つが履修不足という問題にはね返ってきたのだ。いわば文科省のおのれの蒔いた種なのだ、この問題は。

 上が腐れば下が腐る。大人社会が腐れば子ども社会が腐るのは当然だ。

 にもかかわらず、文科省は責任を県教委に求め、県教委は現場の校長に責任を求めて圧力をかける。これはまったくいじめ(というより迫害)の構図そのものだ。

 この迫害と校長の自殺との因果関係は明確だ。校長を自殺に追い込んだ県教委は謝罪したのかもしれないが、真犯人は謝罪するどころか、おのれが蒔いた問題を「ネタ」に、(教育基本)法を思いどおりに変え、動かし、ますます肥え太り、ますますその悪辣な権力を固めようとしている。これをこれ「盗人(ぬすっと)猛々しい」という。
mojabieda * 教育 * 20:23 * comments(0) * trackbacks(1)

力を以て人を服するものは心服に非ざるなり

 9.21の東京地裁の「君が代・日の丸」強制に対する違憲判決。

 日本の象徴とされる天皇が、「(君が代・日の丸の)強制はよくない」と(米長とかいう)東京都の教育関係の責任者に直接口頭できっちりと述べているのにもかかわらず、強制して従わない教師を罰して来た東京都。

 政府や東京都が大事にしてきたのは、血の通った生きている天皇ではなく、天皇制である。政府や東京都は天皇を道具にし「君が代・日の丸」を道具にしてきただけにすぎない。

 その天皇制と「君が代・日の丸」を道具にして、庶民を、自発的・盲目的に政府に、そして政・官・財の上層部に従わせようとしてきた。これは明治政府以来、今に至るまでの日本の国家政策である。

 尊敬や敬意は自発的なものであり、強制はできない。『論語』にいう「匹夫(ひっぷ)も志を奪うべからざるなり」である。つまり「平凡な男でも、その本心を強制的に奪い取ることはできない」。

 尊敬や敬意の念を育てるということの前提に、その対象が果たして尊敬や敬意の対象となっているのかという問題がある。

 ナイフを突き付けられて、「おれを尊敬しろ。おれに従え」と言われても、ほんとうに心から尊敬の念を持って従うものはいない。もし従うのだとしたら、相手よりもこちらに力が足りないからだけである。

 『孟子』にいう「力を以(もっ)て人を服する者は、心服に非(あら)ざるなり。力贍(た)らざればなり」である。つまり「権力や暴力でもって人を服従させても、それは心から従うことにはならない。(表面上従っているように見えても)それはじぶんの方に力が足りないから(従っているだけ)である」。

 教育とは、力ではなく、まさに人徳・人柄で自然に子どもたちに教えることだろう。このことをいちばんよく分かっているのは現場の教師である。「強制の非」が体験的に最もよく分かっているのが教師である。だからこそ、都の「君が代・日の丸」の強制に異を唱えるのである。

 もちろん力ではなく人徳・人柄で、というのは孟子以来の理想である。現実には力を用いざるをえない場合もあるだろう。しかしこれは実に悲しい結末である。だからこの力を原則として是認肯定するわけにはいかない。

 力で強制する教育、学校、都政、国政はいつか破綻する。それはすでに60年以上も前に日本国民が体験したことではないか。

 じぶんの家の子どもたちを見てもわかる。腕力で従わせることはできる。しかし一時的なものだ。いつもいつも反抗的で、いつもいつも叱っていなければならない。まさに「心服に非ざるなり」。叱るたびに自己嫌悪に陥らない親はいない。
 
 04年10月28日園遊会。
 東京都教育委員の米長邦雄が天皇に「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」。
 天皇「やはり、強制になるということではないことが望ましい」。
mojabieda * 教育 * 07:51 * comments(0) * trackbacks(0)
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