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『荒れ野の40年』のCD


 岩波ブックレット『荒れ野の40年』


 その演説CD

 岩波ブックレットNO.55の『荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領演説全文』(永井清彦訳/440円)は発行されたのが86年だからもう20年以上になる。旧西ドイツ大統領ヴァイツゼッカーの1985年5月8日の演説である。

 原文と訳文は手に入るが、実際の演説を聴いてみたかった。カセットなどは昔あったようだが、CDがあるだろうかと永年探していたところ、アマゾンのUK(英国)で見つけた。ドイツをはじめ、米国、フランス、日本のアマゾンにもなかった。値段は送料込みで2000円ちょっと。CD2枚で、1989年5月24日の演説も付いている。「Die Reden」(演説)と銘打って、「1985年5月8日のドイツ降伏(Kapitulation)の40周年記念の大統領演説」と副題が(裏に)付いている。もちろんドイツでつくられたものだが、なぜかドイツのアマゾンでは見つからなかった(今日みたら見つかりました)。注文したのが10月9日だから、1ヶ月と1週間ぐらいかかった。

 一度聴いてみたかった声は、思ったとおりの、柔らかく、穏やかで、芯の通った声だった。

 見田宗介はこの演説について次のように言及している。

 「1985年8月29日・・・ナチス・ドイツの降伏からちょうど40年目にあたる今年の5月8日に、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領は・・・連邦議会で次のような記念演説をおこなっている。・・・この保守系の老政治家の追悼は、次のような人びとにまずささげられる。『ドイツの強制収容所で殺された600万のユダヤ人たち、戦争で苦しんだ諸国民、とくにソヴィエトやポーランドで生命を失なった無数の市民たち、ドイツ人としては・・・、(ナチスによって)殺害されたシンティやロマのジプシイたち、同じく殺害された同性愛者や精神病者たち、宗教的政治的信条のゆえに死ななければならなかった人たち、処刑された人質たち、我々によって占領されていたすべての国々で、レジスタンスの運動に参加したために犠牲となった人たち、ドイツ人でレジスタンスに参加して犠牲となった人たち、たとえば公務員や軍人や聖職者や労働者や労働組合員や、そして共産主義者たち・・・』

 くりかえすが、これは保守系の大統領の演説である。

 社会の中の弱い者、異質の者に向けられたあたたかいまなざしこそが、およそ自由民主主義とを名のる政治家の最低限の感性であるということを、それは語っているようでもある。

 そしてまた、謝罪すべき他民族への謝罪をきちんとおこなうことこそが、民族の誇りを国際社会の中で成り立たせてゆくための、最初の条件なのだという、国際感覚を示している。」(『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫/青い字は著者が原文で点を打って強調している箇所)

 色川大吉は次のように言及している。

 「ヴァイツゼッカー大統領は『5月8日は心に刻む日であります』として次の順序で追悼のことばを述べている。最初は『ドイツの強制収容所で命を奪われた600万のユダヤ人のことを思い浮かべます』と。

 日本の首相が(敗戦記念日の)8月15日の追悼演説で最初に口にすることは・・・250万人の日本人戦没者、その「英霊」のことであって、断じて南京やマニラの犠牲者、あるいは中国の2000万人の死者のことではなかった。

 西独大統領は驚くべきことに、強制収容所につづいて、『なかんずくソ連、ポーランドの無数の死者を思い浮かべます』と、『敵』であった人びとへの哀悼を述べ、とりわけロシア人への憎悪を強く戒めている。ドイツ人への犠牲者への言及はそのあとである。・・・ナチス・ドイツの兵士に抗して武器をとって戦った『すべての国のレジスタンスの犠牲者──ドイツ人のレジスタンス、共産主義者のレジスタンスにも敬意を表します』と述べているのである。」(『日本人の再発見』小学館/『わだつみの友へ』岩波書店・同時代ライブラリー164)

 わたしが『荒れ野の40年』を読んでまずびっくりしたのは、「まえがき」で訳者の永井清彦が「(ナチス・ドイツによって)殺されたユダヤ人は420万から485万人とも600万人ともいわれている」と述べているとおり、つまり600万人という数字は当時みつもられていた最大の被害者数ということで、その数字を西ドイツの大統領が国会で述べているその誠実さに驚いたのだった。

 というのは、加害者側に立つ国家権力者たちはたいてい、過去の自国の加害の誤魔化し、過小評価、無視、責任転嫁、居直りを決め込むからだ。そんなあざとい者たちがいる国は「カナダとメキシコに挟まれたある国」と「極東のある国」だけなのだろうか。


JUGEMテーマ:読書


mojabieda * 政治 * 21:24 * comments(0) * trackbacks(0)

ユーフェミズムというレトリック

 ユーフェミズム(Euphemism)について加藤周一氏がむかし何かに書いていた。それでちょっとまとめてみた。
 
 ユーフェミズムとは日本語にすれば婉曲表現というレトリック。

 露骨な表現を、わざとあいまいな表現にする。直接的な表現では露骨・不快・不吉・下品など差し障りのある物事について当り障りのない表現をすることでもあるが、おぼろげなカーテンにつつみ「事実」を明確には見せないで隠す(意識化させない)という表現だ。
 わざと意味がわかりにくいカタカナ語にする、アルファベットにする、外来語にする、難しい漢字にする、専門用語にするというのも同じ目くらましである。

 かつてのナチスドイツのような全体主義国家や大日本帝国のような軍国主義国家、あるいは現在の独裁専制国家などでは、強大な政府の権力によって大衆をコントロールした。したがってマスメディアによる大衆操作も稚拙なものでも充分通用した(している)。「〜将軍、ばんざい!」などと喜ぶ大衆の姿を毎日テレビで放映させればいい。しかし「自由」と「民主主義」を看板にする民主主義国家では、そのような稚拙な操作では通用しない。主権を持つとされる国民をしらずしらずのうちに国家の思いどおりに動かすには政府やマスメディアによる高度なレトリックが必要だ。その一つがユーフェミズム。とりあげたらきりがないほどある。

○ テロ特措法──海上自衛隊派兵法
 テロ特措法では内容がまったく国民に見えてこない。この延長を強引に押し通そうとしたが無理だと見切り、AB首相はさきごろ「自爆」した。

○ マスコミ──マスメディア
 テレビ・ラジオ・新聞などは、みずからを「マスコミ」などと呼んでいるが、コミュニケーションならば、相互に情報のやりとり・交換がある。しかし実際は一方通行であって、つねに大衆へ情報が「流され」ている。そういう意味では、むしろ、テレビ・ラジオ・新聞などは大衆(マス)を操作する装置(メディア)としてとらえるべきだろう。

○ 不適切な関係──不倫関係
 政治家の不倫スキャンダルに対して使われる「不適切な」マスメディア用語。中身を分からなくさせる。スキャンダルをうすめるにはもってこいの表現。不倫というのもユーフェミズムか。

○ 政治献金──わいろ
 
○ アメリカ合衆国──アメリカ合州国(USA)
 州があつまってできた国を、あたかも民衆があつまってできた国のように思わせる表現。

○ 犠牲者──被害者
 生きている者が、死んだ者をじぶん勝手に「犠牲者」と名づけて祭り上げる。死んだ者はだれも(生きている者のための)「犠牲」になろうなどと考えたこともないだろう。死者に口があれば「おれは犠牲者ではない。被害者だ」と叫ぶだろう。被害・加害の関係を見えなくさせる表現。

○ リストラ──首切り
 使用者(経営者)による一方的な雇用者(従業員)解雇のことだが、経営者側の心理的うしろめたさを「リストラ」と言い換えることで軽減させるだけでなく、「経営者」側のものの見方・論理を無意識に大衆に押しつけ、「従業員」側の視点を見失わせることができる。

○ 日米協調──対米従属
 日本国政府は国民にむけては「日米協調」という表現をしているものの、その本質は対米従属。なにせ大家が店子に家賃を払っている前代未聞の関係だ。つまり日本国の国土を米軍に貸しているのに、その米軍に日本国民の税金が支払われている。

○ 自衛隊──軍隊
 これも「日米協調」と同じ。外国では自衛隊は「Force=軍隊」と訳される。自衛隊とは国内にだけ通用する国民むけの用語である。もちろん憲法9条によって日本では軍隊は認められていない。だから自衛隊。

○ 派遣──派兵
 サラリーマンを海外へ出張させる場合は「派遣」。武器を所持した軍事組織を海外へ送り出す場合は派兵。同じ軍事組織でもまるでサラリーマンの出張のように「罪のない」非戦争イメージにさせたい場合は「派遣」ということばを使う。

◯ 侵攻──侵略
 侵略には「殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす」残虐で罪深いイメージがあり、国内外の非難を呼び起こす可能性がある。したがって侵略する側の政府(とメディア)は「侵攻」というあいまいな表現をすることで国内外の非難を少しでもかわそうとしてきた。「侵攻」以上に漂白したことばに進出がある。これだと企業進出と同レベルの「罪のなさ」になる。

○ 戦い──戦争
 一般に「戦い」は規模の小さなものをいうのだろうが、戦争というべき大きな規模であっても「戦い」を使うことがある。なぜなら戦争では(女・子ども・老人などの非戦闘員をまきこむ)マイナスイメージがまとわりつくからだ。「戦い」なら目前の非道な敵に立ちむかう勇ましさがにじみ出てくる。だからいくら女・子どもなどの民間人を殺してもテロとの「戦い」と平然と使う。

◯ 武装勢力──抵抗組織[レジスタンス]
 「武装勢力」とは侵略と抵抗の構図を見えなくさせる表現。第二次大戦のときのナチスドイツによって占領された国(たとえばフランスなど)ではナチに反抗する市民組織を抵抗組織[レジスタンス]と呼んだ。その土地に住む者たちが「不当に侵略・占領する外国軍」に対して抵抗する、という構図ならば抵抗組織[レジスタンス]と呼ぶべきだ。抵抗という語を使えば、そのむこうに侵略が見えてくる。

◯ 終戦──敗戦
 戦争は「人為」であり、戦争を起こした責任者が存在する。台風のような「自然」現象ではない。しかし「終戦」だと、まるで台風が行き過ぎたかのように「戦争が終わって、よかった」という意味しかカバーしない。つまり、だれが起こし、だれが責任者なのか、という戦争の主体とその責任を見えなくさせる表現。
mojabieda * 政治 * 23:12 * comments(0) * trackbacks(0)
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